第8話 見習い先生のはじめてのおしごと
翌朝。
空は高く、雲は薄かった。
朝の光はやわらかいのに、空気はまだ少しだけ冷たい。街外れにあるひだまりのゆりかご保育園の前には、朝露を含んだ草の匂いと、土の湿った匂いが静かに漂っていた。
昨日の昼間には、あれほど人の気配があったこの場所も、今はひどく静かだ。
聞こえるのは、小鳥のさえずりと、遠くの通りを行く荷車の軋む音だけ。
けれど、その静けさの中で、一人の女性の呼吸だけがひどく落ち着かなかった。
エルナ・ベルナール。
栗色の髪を後ろでまとめ、少し擦り切れた外套を羽織っている。服は清潔だが、肩口や袖には何度も繕った跡があった。寝不足なのだろう、目の下の薄い隈は昨日よりも少し濃く見える。
その右手には、小さな手。
ミルフィが、母親の指をきゅっと握っていた。
昨日は“見学”だった。
今日は違う。
本当に、預ける日だった。
たったそれだけの違いなのに、エルナには昨日よりずっとこの扉が重く感じられた。
(……本当に、大丈夫?)
看板を見上げる。
ひだまりのゆりかご保育園。
昨日も見た文字。
昨日も、この前で立ち止まった。
でも今日は、その意味がまるで違う。
(ここに、この子を置いていく)
(私のいない時間を、この子がここで過ごす)
その現実が胸に重く落ちて、足が止まる。
(ちゃんと見てもらえる?)
(泣いたら?)
(寂しくなったら?)
(怖くなったら?)
(私を呼んだのに、そこにいなかったら……?)
考えたくないのに、考えてしまう。
母親としての不安。
それと同じくらい強い、別の不安もあった。
(……私が、もう少しまともなら)
(こんなふうに、預けるしかない、なんてならなかったのに)
胸の奥に沈んだ、自責の感情。
夫が亡くなってから、ずっと一人だった。
一人で働いて、
一人で家計を回して、
一人で泣くのをやめて、
一人で母親をやってきた。
そうしなければいけなかったから。
けれど最近は、時々どうしても駄目な日がある。
朝、起き上がれない。
針を持つ手が震える。
何もしていないのに息が詰まる。
ミルフィの笑顔さえ、眩しすぎてつらい時がある。
そんな自分が、何より怖い。
だからこそ、ここへ来た。
なのに。
(……怖い)
結局、その感情だけは消えてくれなかった。
無意識に、ミルフィの手を強く握ってしまう。
「……まま?」
小さな声で呼ばれ、エルナははっとした。
「……ご、ごめんね」
「痛くなかった?」
しゃがみ込み、慌ててその手をさする。
ミルフィは首を横に振った。
「……だいじょうぶ」
「ままのほうが、だいじょうぶ?」
その一言が、胸の奥へ鋭く刺さる。
この子は、昨日からずっとそうだった。
自分が不安なのに、先に母親の顔色を見る。
泣きたいくせに、母親が疲れていないかを気にする。
四歳の子供がする顔ではない。
(この子にまで、気を遣わせてる……)
ぎゅっと胸が痛む。
それでも、立ち止まってはいられない。
エルナは静かに息を吸い、保育園の扉を叩いた。
こんこん、と控えめな音。
数秒後、内側から落ち着いた声が返る。
「はい」
扉が開く。
そこに立っていたのは、グレイだった。
黒髪を後ろで束ね、丸眼鏡をかけた細身の男。見た目だけなら頼りなく見えるのに、その立ち姿には妙な落ち着きがある。
「おはようございます」
低すぎず、高すぎず、静かな声。
それだけで、ほんの少しだけ呼吸が整う。
「……おはようございます」
「その……今日から、お願いします」
声がわずかに揺れた。
それを自分でも隠しきれない。
だがグレイは、それに触れなかった。
ただ穏やかに一歩横へ退いて、道を開ける。
「どうぞ」
それだけ。
“安心してください”とも、“任せてください”とも言わない。
押しつけない、その距離感が、かえってありがたかった。
エルナはミルフィの手を引いて中へ入る。
木の床が、かすかにきしむ。
窓から朝の光が差し込み、食堂兼保育室の奥までやわらかく照らしている。
昨日と同じ部屋。
小さな机。
低い椅子。
磨かれた床。
壁際の棚。
窓辺の花瓶。
何も変わっていないはずなのに、今日は全部が違って見えた。
今日は“置いていく場所”として、ここを見ているからだ。
「……みるふぃ」
奥から、ノエルが顔を出した。
銀色の髪を揺らしながら、小さく立っている。
ミルフィは少しだけ母親の陰から前に出る。
昨日より、ほんの少しだけ。
「……おはよ」
「……おはよ」
小さく交わされる挨拶。
それだけのことなのに、エルナの胸は妙に苦しくなった。
(もう少しずつ、ここに馴染み始めてる)
(私がいなくても……?)
嬉しいはずなのに、寂しさが混じる。
その時、奥の方からぱたぱたと足音が聞こえた。
「お、おはようございます!」
金髪を後ろで束ねたリリアが、少し緊張した顔でやってくる。
「リリア・エヴァレットです」
「今日から、見習いとしてお手伝いさせていただきます」
まだぎこちなさがある。
でも目は真っ直ぐだった。
エルナはその言葉に、わずかに肩をこわばらせる。
見習い。
昨日も聞いた。
頭では分かっている。
でも、“預ける”となると話は別だ。
(優しそうだけど……)
(本当に大丈夫?)
(私、こんな余裕のない状態で、ちゃんと判断できてる?)
そんな不安を、グレイが静かに拾う。
「最初は短い時間からで構いません」
「無理に長く離れる必要はありませんよ」
エルナは少し目を見開いた。
「……いいんですか?」
「ええ」
「むしろ、その方が自然です」
即答だった。
見栄も、営業のような押しもない。
「子供にも、お母さんにも、慣れる時間は必要です」
「今日は“預ける日”というより、“慣れ始める日”くらいに考えていただいて構いません」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の固いものが少しだけほどけた。
無理しなくていいと言われた気がした。
「……私、その……」
「この子と、ほとんど離れたことがなくて」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「夫が亡くなってから……ずっと、一緒で」
「一緒じゃなきゃいけなかったし、一緒にいたかったし……」
「でも、最近は……」
そこで言葉が止まる。
“最近は自分がちゃんとしていられない日がある”とは、さすがにすぐには言えなかった。
グレイは、続きを急かさなかった。
「そうでしたか」
ただ、それだけを受け止める。
「では、今日は午前中だけにしましょう」
「迎えの時間はあとで相談すれば大丈夫です」
リリアも慌ててうなずく。
「は、はい」
「その日のご都合とか、体調とか、無理のない方で……」
ぎこちない。
けれど、一生懸命だ。
「私、まだ見習いで……その、分からないことも多いんですけど」
「でも、ちゃんと学びたいです」
「ミルフィちゃんにも、エルナさんにも、安心してもらえるように頑張ります」
その言葉に、エルナは少しだけリリアの顔を見つめる。
見習いであることを隠さない。
出来ないことがあるかもしれないと分かった上で、それでもやると言っている。
不思議と、それが誠実に思えた。
「……じゃあ」
「午前中だけ、お願いできますか」
「承知しました」
グレイが静かに答える。
その返事は軽くなかった。
ちゃんと重さを受け取った返事だった。
エルナはしゃがみ込んで、ミルフィと目を合わせる。
「ミルフィ」
ミルフィの小さな手が、外套の裾を握る。
「今日はここで、少し遊ぼうね」
「ママ、お仕事に行くけど……ちゃんと迎えに来るから」
ミルフィの瞳が揺れた。
「……まま、いくの?」
その一言だけで、胸が締めつけられる。
「……うん」
「でも、すぐ迎えに来るから」
ミルフィは母親の顔をじっと見つめる。
そして、ぽつりと聞いた。
「……まま、つかれた?」
エルナの呼吸が止まりそうになる。
やっぱり、この子は分かっている。
母親が無理をしていることを。
笑っていても、時々どこか遠くを見ることを。
夜、黙って泣いていた日があったことを。
全部、見ている。
「……ううん」
「大丈夫、だから」
答えた声は、少しだけ弱かった。
ミルフィはそれを聞いて、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「……いいこにする」
その言葉が深く刺さる。
この子なりの励まし。
この子なりの我慢。
(この子まで、頑張らせてる)
胸の奥が、きしむように痛む。
それでも――手を離すしかない。
離さなければ、前に進めない。
「……すぐ迎えに来るからね」
「ほんとに、すぐだから」
ゆっくり立ち上がる。
振り返らない。
振り返ったら、戻ってしまう。
扉へ向かう。
背中に、ミルフィの視線を感じる。
「……まま」
小さな声が、背中に落ちる。
それでも、エルナは足を止めなかった。
止めたら、何もかも崩れる気がしたからだ。
扉が閉まる。
かたん、と静かな音。
その瞬間、ミルフィの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……っ」
声は出ない。
でも、確かに泣いている。
リリアの心臓が強く鳴る。
(どうしよう)
(泣いちゃった)
(何か言わなきゃ)
(でも、何を?)
(変なこと言ったら、もっと不安になるかも……)
足が出ない。
その時、グレイが静かに声を落とした。
「大丈夫です」
ミルフィではなく、リリアへ向けた言葉だった。
「泣いてもいいんですよ」
「泣くのは、駄目なことではありませんから」
その声に、ミルフィの肩が小さく震える。
ノエルが、そっとミルフィの前に座る。
「……だいじょうぶ」
少しだけ間を置いて。
「……いっしょ、いる」
短い言葉だった。
でも、その一言がミルフィを繋ぎ止めた。
涙は止まらない。
でも、崩れきらない。
隣に、誰かがいるから。
グレイは静かにうなずいた。
(これでいい)
(最初は、これでいいんです)
無理に泣き止ませなくていい。
無理に笑わせなくていい。
ちゃんと寂しがって、
ちゃんと不安がって、
それでも少しずつ、この場所に慣れていけばいい。
「リリアさん」
「……は、はい」
「今のが、最初の仕事です」
リリアはきょとんとする。
「え……?」
「私、何も……」
「何もしていないように見えても、違います」
「子供が泣ける空気を壊さずにいること」
「お母さんを無理に追い詰めないこと」
「そういう“見守る”のも、大切な仕事です」
リリアは、息を呑んだ。
自分は何も出来なかったと思っていた。
情けないとさえ思った。
でも違うのだと、初めて気づく。
「……はい」
少しだけ、肩の力が抜けた。
セラフィーナはその様子を離れた位置から見ていた。
(やはりおかしい)
(状況を読んで、人を動かすのが上手すぎる)
(子供だけじゃない、母親の呼吸まで見ている)
(普通の人間にしては出来すぎている)
疑念は、むしろ濃くなる。
(優しい)
(それは認める)
(だが、それと信用するかは別だ)
(何を隠している、グレイ・アークロード)
しばらくして、ミルフィは涙をこぼしながらも、積み木へ手を伸ばした。
ノエルが隣にいる。
それだけで、崩れずにいられた。
グレイはその光景を静かに見守る。
(この子は、この子なりに前へ進もうとしている)
(……お母さんも同じですね)
午前の時間は、思っていたよりも静かに過ぎていった。
ミルフィは何度か扉の方を見た。
そのたびにノエルが積み木を少し寄せたり、ピノがぷるんと揺れたりして、彼女の視線を今ここへ引き戻した。
リリアはその隣で、出来ることを探し続けた。
お茶を用意する。
布を畳む。
椅子の位置を直す。
泣きそうな時にすぐ動けるよう、少し離れたところで見守る。
どれも小さなことだった。
だがその小さなことの積み重ねが、この場所を支えているのだと、ようやく実感し始めていた。
そして、昼の鐘が遠くで鳴り始めた頃。
保育園の扉が、再び静かに叩かれた。
こんこん。
その音に、ミルフィの肩がぴくりと跳ねる。
顔が上がる。
目が、扉へ向く。
グレイが立ち上がって扉を開くと、そこにはエルナが立っていた。
朝よりも少しだけ乱れた髪。
息はわずかに上がっている。
急いで来たのだろう。
目の下の隈は消えていない。
けれど、その目は朝よりもはっきりと娘を探していた。
「……ミルフィ」
名前を呼ぶ声が、かすかに震える。
「……まま!」
ミルフィは椅子から立ち上がると、小さな足で駆け出した。
まだ完全には泣き止んでいなかったのか、目元は少し赤い。
けれど、その顔には朝とは違う熱があった。
エルナはしゃがみ込み、娘を抱きとめる。
「ごめんね」
「遅くなってない?」
「怖くなかった?」
「泣いた?」
「……大丈夫だった?」
質問が一度に溢れ出す。
それだけ、自分も不安だったのだ。
ミルフィは母親の胸に顔を埋め、それから少しだけ離れて、小さく頷いた。
「……ちょっと、ないた」
エルナの顔が曇る。
だが、その続きは予想と違った。
「でも」
「……ノエルが、いっしょにいた」
「え……?」
「……せんせいも、いた」
「……リリアも、いた」
たどたどしい言葉。
でも、ちゃんと自分の気持ちを伝えようとしている。
エルナは娘の顔を見つめた。
泣いていた。
でも、壊れてはいない。
むしろ、朝より少しだけ表情が柔らかい。
それに気づいた瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に緩んだ。
「……そっか」
その一言が、ひどく頼りなく漏れる。
「……そっか」
「頑張ったんだね」
「一人じゃなかったんだね」
声が震える。
視界が熱くなる。
エルナは慌てて顔を伏せた。
泣いてはいけないと思った。
娘の前で、これ以上弱い顔を見せたくなかった。
けれど、駄目だった。
安心したら、逆に涙が出る。
頑張っていたのは、自分だけじゃなかったのだと知ってしまったから。
「……すみません」
小さく漏れた声は、誰に向けたものだったのか、自分でも分からなかった。
リリアが一歩だけ近づく。
だが無理に触れない。
「エルナさん」
その呼びかけは、とても静かだった。
「今日は、ちゃんとミルフィちゃん、頑張ってました」
「泣いたけど、泣いたままで終わらなかったです」
「ノエルちゃんと一緒に、また積み木を触れました」
エルナは顔を上げられないまま聞いている。
リリアは続けた。
「だから……」
「少しだけでも、安心していいと思います」
その言葉に、エルナの肩が小さく震えた。
「……安心、なんて」
「そんな、簡単に……」
そこまで言って、口をつぐむ。
だがグレイは、責めなかった。
「簡単ではありません」
静かな声で、そう言う。
「ですから、少しずつで構いません」
「今日、一時間安心できたなら、明日は二時間かもしれません」
「そうやって増やしていければ十分です」
エルナは、ゆっくりと顔を上げた。
泣いた跡を隠せていない目で、グレイを見る。
「……そんなふうに、してもいいんですか」
「ええ」
即答だった。
「お母さんも、いきなり完璧である必要はありません」
「ミルフィちゃんが少しずつ慣れるのと同じように、エルナさんも少しずつでいいんです」
その言葉は、子供に向けるものと同じくらい丁寧だった。
エルナの胸の奥が、また熱くなる。
“母親だからしっかりしなきゃいけない”としか思えなかった場所に、
“少しずつでいい”という言葉が差し込む。
それが、どうしようもなく眩しかった。
リリアはそのやり取りを見ていた。
胸の奥が静かに熱くなる。
(やっぱり、この人はすごい)
(子供だけじゃない)
(お母さんまで、ちゃんと見てる)
同時に、自分もそうなりたいと思う。
まだ何も出来ない見習いだ。
けれど、今日、ここで初めて分かった。
保育園は、子供を預かる場所である前に、
子供と親の両方が少しだけ息をつける場所なのだと。
セラフィーナはその一部始終を壁際から見ていた。
(……やはり危うい)
(この男、優しすぎる)
(人の心に入り込むのが自然すぎる)
(だからこそ信用ならない)
だが、ミルフィとエルナが救われているのも事実だった。
そこが気持ち悪い。
否定したいのに、否定しきれない。
その矛盾が、セラフィーナの胸の内で静かにくすぶっていた。
エルナは、まだ涙の痕を残したまま、ミルフィの頭を撫でる。
「……ありがとう」
「頑張ったね」
ミルフィは母親の服を握りながら、でも保育園の方も振り返って言う。
「……また、くる」
ノエルが小さく頷いた。
「……うん」
「……また、つみきする」
「……する」
その短いやり取りだけで十分だった。
それは、今日がただの“お試し”で終わらなかった証だったからだ。
エルナは娘の頭を抱き寄せたまま、もう一度頭を下げる。
「……明日も、お願いしていいですか」
朝とは違う声だった。
不安は消えていない。
でも、確かにそこには信頼の芽があった。
「承知しました」
グレイは静かに答える。
それ以上は言わない。
軽々しく“大丈夫です”と断言しない代わりに、
ここで受け止めるという姿勢だけをはっきり示す。
それが今のエルナには、何よりありがたかった。
外では、昼の風がやわらかく吹いていた。
窓辺の小さな花が揺れ、古い窓枠がかたんと鳴る。
グレイは、母親に抱かれながらも保育園の方を振り返るミルフィと、
その背を見送るノエル、
そして少しだけ背筋を伸ばしたリリア、
相変わらず険しい顔でこちらを見ているセラフィーナを順に見た。
(……少しずつ、ですね)
一人で始めたはずの場所だった。
だが今はもう違う。
子供が増え、
見守る大人が増え、
そして、弱さを見せることすら出来なかった母親が、
ほんの少しだけこの場所に涙を落とした。
それだけで十分だった。
ひだまりのゆりかご保育園は――
今日、また一つ、誰かの居場所になったのだから。




