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第7話 はじめての入園希望者


 保育園が正式に認められた翌朝。


 ひだまりのゆりかご保育園には、昨日までとはまた違う静けさがあった。


 嵐が通り過ぎたあとのような、妙に澄んだ空気だった。


 窓から差し込む朝日が、磨かれた床板の上に細長い光を落としている。新しく打ち直した木材の匂いと、まだ建物の奥に残る古びた木の乾いた匂いが混ざり合い、この場所が“古いけれど、確かに息を吹き返した建物”なのだと感じさせた。


 外では、小鳥が枝の上で鳴いている。


 庭に残った朝露は陽の光を受けてきらきらと光り、昨日まで雑草に埋もれていた土の色が、今はちゃんと見えていた。壊れた遊具は片付けられ、その代わりに簡単な木箱と丸太の椅子が置かれている。立派とは言えない。だが、子供が座って笑うには十分な場所だった。


 その朝。


 グレイ・アークロードは、いつも通り静かに動いていた。


 床を掃き、窓を開け、机の配置を見直し、水桶を取り替える。昨日、領主から正式に認められたからといって、今日から何もかもが楽になるわけではない。むしろ、本当に大事なのはここからだった。


(認められた、だけでは足りません)

(ここがちゃんと子供を預けられる場所だと、少しずつ示していかなければ)


 保育園は、建てるだけでは終わらない。


 続けること。

 守ること。

 育てること。


 そのすべてが必要だ。


 肩の上で、ピノがぷるりと揺れた。


「ぷる」


「ええ。今日は、本当の意味で最初の日になるかもしれません」


 そう言って、グレイは食堂兼保育室の机を軽く撫でた。


 その時だった。


 部屋の奥から、小さな足音が聞こえた。


「……ぐれいせんせい」


 振り向くと、ノエルがまだ少し眠たそうな顔で立っていた。


 銀色の髪はところどころ跳ね、青い瞳には朝の柔らかさが残っている。だが、その表情は以前よりずっと落ち着いていた。ここで目を覚ますことに、少しずつ慣れてきたのだろう。


「おはようございます、ノエル」


「……おはよ」


「よく眠れましたか?」


 ノエルはこくりと頷く。


「……うん」


 それから、少しだけ間を置いて聞いた。


「……きょう、こどもくる?」


 グレイはその問いに、ほんの少しだけ笑った。


「来るかもしれませんね」


「……ほんと?」


「ええ」

「昨日、領主様が認めてくださいましたから」

「見学したい方や、預けてみたいと思う方が来ても不思議ではありません」


 ノエルはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を丸くした。


 新しい子供が来る。


 自分以外の園児が、来るかもしれない。


 そのことを理解した瞬間、小さな胸の中に、説明のつかないざわざわが広がった。


 嬉しいのか。

 不安なのか。

 それとも、そのどちらもなのか。


「……どんなこ?」


「まだ分かりません」

「でも、もし来たら仲良くなれたらいいですね」


 ノエルは少し考え込んだあと、小さく聞く。


「……なかよく、できるかな」


 グレイはしゃがみ込み、目線を合わせた。


「無理にすぐ仲良くしなくても大丈夫ですよ」

「最初は“おはよう”が言えれば十分です」

「同じ場所にいて、同じごはんを食べて、少しずつ覚えていけばいいんです」


 ノエルはしばらくグレイの顔を見つめていた。


 それから、小さく頷く。


「……おはよう、いう」


「ええ。それで十分です」


 そのやり取りのあと、ノエルはいつものように雑巾を持って、机の脚を拭き始めた。ピノも横でぷるぷると揺れながら手伝っている。


「……ここ、ぴかぴかにする」


「頼もしいですね」


「……わたし、おしごとする」


 その言葉に、グレイはまた少しだけ目を細めた。


(この子の中で、“ここにいる”から“ここを作る”に変わってきている)

(いい傾向ですね)


 朝の仕事を一通り終えた頃だった。


 控えめなノックの音が、入口の扉を叩いた。


 グレイが顔を上げる。


「はい」


 扉を開けると、そこには一人の女性が立っていた。


 二十代後半ほどの女性だった。


 栗色の髪を雑に結び、目の下には薄い隈がある。服はきちんと洗われているが何度も繕った跡があり、袖口から覗く指先は荒れていた。働き詰めなのだろう。姿勢はしゃんとしているのに、どこか疲れが滲んでいる。


 だが、それだけではなかった。


 その目には、ただ寝不足というだけではない、深く沈んだ影があった。


 張りつめているようで、どこか危うい。

 立っているだけなのに、今にも何かが切れてしまいそうな、不安定さが見える。


 そして、その陰に半分隠れるようにして、小さな女の子がいた。


 四歳くらいだろうか。


 ふわふわしたミルクティー色の髪が肩の辺りでやわらかく跳ね、淡い琥珀色の瞳が不安そうに周囲を見ている。母親の服の裾をぎゅっと握っていて、その指先に力がこもっていた。


 小さくて、可愛らしい。


 だがグレイは、その子の瞳の奥にもまた、年齢に似つかわしくない“気遣い”の色があることに気づく。


 ただ怖がっているだけではない。


 母親の様子を見ている目だった。


 女性は緊張した面持ちで頭を下げる。


「あ、あの……」

「ここ、本当に……保育園なんでしょうか」


 声には明らかなためらいがあった。


 来るまでに何度も迷ったのだろう。

 引き返そうとしたかもしれない。

 それでも来たのは、そうするしかなかったからだ。


 グレイはすぐに一礼した。


「はい。ひだまりのゆりかご保育園です」

「見学でしょうか?」


 女性は戸惑いながらも頷いた。


「昨日、領主様が認めたって聞いて……」

「でも、その……まだ少し、信じきれなくて」


 正直な言葉だった。


 無理もない、とグレイは思う。


 昨日まで廃墟だった場所だ。

 園長は他所から来た正体不明の男。

 噂も良いものばかりではない。


 子供を預けるとなれば、不安があるのは当然だった。


 それに加えて――この女性は今、かなり追い詰められている。


 その背景を、グレイはまだ知らない。

 だが、少なくとも“普通の不安”以上のものを抱えていることは分かった。


「それで構いません」

「信じるために来てくださったのなら、むしろありがたいです」


 女性は一瞬だけ目を瞬かせる。


 もっと愛想よく、強く勧められると思っていたのだろう。

 だが、グレイはただ穏やかに微笑んでいた。


「どうぞ、中へ」

「お子さんのお名前を伺っても?」


 女性は少しだけ女の子の背を押した。


「ミルフィ……ほら、ご挨拶して」


 女の子は母親の後ろに隠れたまま、ほんの少しだけ顔を出す。


「……みるふぃ」


「ミルフィちゃんですね」

「私はグレイです。園長をしています」


「……えんちょう?」


「そうです」


 ミルフィはじっとグレイを見つめる。


 怖い。

 でも、怒ってはいなさそう。

 優しい、かもしれない。

 でもまだ分からない。


 そんな、子供らしい慎重さがその瞳にはあった。


 ノエルも少し離れたところから、じっとその様子を見ていた。


 新しい子供。

 しかも、女の子。


 本当に来た。


 胸がまた、ざわざわする。


 グレイは二人を交互に見て、静かに言った。


「ノエル」


 呼ばれて、ノエルがぴくっと肩を震わせる。


「……はい」


「おはよう、言えますか?」


 ノエルは少しだけ唇を結んだ。


 言うと決めていた。

 朝、ちゃんと“おはよう”を言うと。


 でも、いざ目の前に知らない子が立つと、喉が少しだけきゅっと締まる。


 それでも。


「……お、おはよう」


 小さな声だった。


 けれど、ちゃんと届いた。


 ミルフィは目をぱちぱちさせて、それから母親を見上げ、もう一度ノエルを見る。


「……お、おはよう」


 返事は小さくて、少し遅かった。


 だが、それで十分だった。


 グレイは満足そうに頷いた。


「二人とも、よく出来ました」


 ノエルは少しだけ頬を赤くする。

 ミルフィは褒められたことに戸惑ったのか、母親の服をさらに強く握った。


 その時、保育園の外から見慣れた声がした。


「……来てるみたいですね」


 リリアだった。


 その後ろには、腕を組んだセラフィーナもいる。


 二人は昨日の時点では、まだ正式な職員ではない。

 ただ、気になってまた来てしまったのだ。


 リリアは中の様子を見て、目を少し大きくした。


「もう見学の方が?」


「ええ」

 グレイは頷く。

「どうやら、本当の意味で最初のお客様のようです」


 女性――エルナは二人を見て少し戸惑った顔をする。


「こちらは……?」


 リリアは慌てて答えた。


「あ、えっと、私は……」

「まだ、その、ここの人ってわけじゃなくて……」


 言い淀む。


 “まだここの人ではない”。


 それを口にした瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。


 グレイは助け舟を出すように穏やかに言った。


「昨日、修復を手伝ってくださった方々です」

「今は見学に来てくださっています」


 リリアは小さく頭を下げた。


「リリア・エヴァレットです」


 セラフィーナも短く名乗る。


「セラフィーナ・クロイス」


 エルナはわずかに視線を泳がせた。


 男の園長一人、という状況よりは安心だ。

 だが、その安心がそのまま信頼になるわけではない。


 特に、リリアのことが気になった。


 若い。

 優しそうではある。

 けれど“見習い”なら、本当に子供を任せて大丈夫なのか。


 それに――自分自身のことを見透かされそうで、少し怖かった。


 エルナの胸には、そんな現実的な不安がまだしっかりと残っていた。


(この人達がいても)

(結局、ちゃんと面倒を見られるの?)

(私、預けたいんじゃない)

(でも、預けなきゃ働けない)

(……私が、もっとしっかりしていれば)


 罪悪感と不安が、胸の奥で何度もぶつかっていた。


「……その、少し見させてもらっても?」


 エルナは慎重にそう言った。


「もちろんです」


 グレイはすぐに答えた。


「今日はちょうど普段の朝の流れをしていたところです」

「よければ、そのままご覧ください」


 彼はミルフィに向き直る。


「ミルフィちゃん、積み木は好きですか?」


 ミルフィは母親の後ろに半分隠れたまま、小さく頷いた。


「……すき」


「では、あちらで遊べますよ」


 グレイが示した先には、床に広げられた木の積み木があった。

 まだ数は少ない。

 形も不揃いだ。

 だが、子供の手に馴染むよう、角は丸く削られている。


 ミルフィはちらりと積み木を見て、また母親を見上げる。


 エルナはその視線を受け、苦しそうに微笑んだ。


「行っておいで」

「大丈夫だから」


 “本当に大丈夫かどうか分からないくせに”。


 エルナの心の奥で、そんな声がした。


 それでも言うしかなかった。

 母親として、そう背中を押すしかなかった。


 すると、ミルフィは母親の服を握ったまま、ぽつりと聞いた。


「……まま、だいじょうぶ?」


 その一言に、エルナの呼吸が止まる。


 グレイも、リリアも、その言葉に微かに目を動かした。


 子供が母を見ている。


 それも、“離れたくない”より先に、“大丈夫か”を気にしている。


 それが意味するものを、三人とも理解していた。


 エルナは慌てて微笑む。


「だ、大丈夫よ」

「ママは大丈夫だから、ミルフィは遊んでおいで」


 だが、その笑みはどこか薄く、声も少しだけ上ずっていた。


 ミルフィはほんの少しだけ迷ってから、おずおずと歩いていき、積み木の前に座った。


 ノエルは少し離れたところで、じっと見ている。


 ふわふわした髪。

 小さな手。

 母親を見上げる、あの目。


 可愛い子だと思った。

 でも、どう話しかけていいかは分からなかった。


 グレイは無理に二人を近づけようとしなかった。


「ノエルも描きものにしますか?」

「それとも今日は積み木の気分ですか?」


 ノエルは迷った末、ぽつりと言った。


「……つみき」


「分かりました」


 グレイはノエル用に少し別の積み木を置く。


 だが、完全には離さない。

 ミルフィの近く、けれどぶつからない距離。

 子供同士が意識はできるが、緊張しすぎない位置。


 リリアはその配置を見て、思わず息を呑んだ。


(近すぎない)

(遠すぎない)

(ちゃんと考えてる……)


 そして、その横顔を見た瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ騒ぐ。


(どうして、この人のしてることを見てると、こんなに安心するんだろう)

(……変なの)

(でも、嫌じゃない)


 自分でも説明のつかない熱が、ほんの少しだけ頬にのぼる。


 セラフィーナはそんなリリアを横目で見たあと、改めてグレイへ視線を戻した。


(子供の扱いが自然すぎる)

(距離の取り方、声の落とし方、危険への目配り)

(……慣れているなんてものじゃない)

(この男、本当に何者だ)

(優しさが本物であればあるほど、逆に気味が悪い)


 疑念は、むしろ深まっていた。


 しばらくの間、部屋の中には積み木の触れ合う軽い音だけが響いた。


 ミルフィは小さな椅子のような形を作ろうとしていた。

 ノエルは横で、小さな家のようなものを作っている。


 時々ちらりと互いを見る。

 でもまだ言葉はない。


 それでいい、とグレイは思った。


(最初から仲良くなる必要はありません)

(同じ場所にいて、同じ空気を吸う)

(それだけでも十分な始まりです)


 ところが、その静かな時間は長くは続かなかった。


 ミルフィが少し背伸びをして、高い塔を作ろうとした時だった。


 ぐらり。


 積み木が揺れる。


「あ」


 次の瞬間、塔は崩れて、ミルフィの手に軽く当たった。


 大したことはない。

 痛みもほとんどない。


 だが、驚いたのだろう。


 ミルフィの顔がみるみる歪み、目に涙が溜まる。


「……っ、……うぅ」


 エルナが反射的に一歩出る。


「ミルフィ!」


 その声には、必要以上に張りつめた響きがあった。


 ただ子供が驚いた、それだけのことに、自分でも抑えきれないほど過敏に反応してしまう。


 エルナはそこで、はっとしたように口元を押さえた。


 だが、その前にグレイが静かにしゃがみ込んでいた。


「大丈夫です」

「痛かったですか?」


 ミルフィは涙をこぼしながら、首を横に振って、それでも小さく言った。


「……びっくりした」


「ええ」

 グレイは静かに頷く。

「びっくりしましたね」


 彼はまず手を確認する。

 赤くなっていないか。

 指は動くか。

 驚きだけか、本当の怪我か。


「手は大丈夫そうです」

「少し、心がびっくりしたんですね」


 優しい声だった。


 泣くことを責めない。

 “大丈夫でしょう”と決めつけない。


 ただ、今の気持ちに名前をつけてやる。


 それだけで、ミルフィの涙の勢いが少しだけ弱くなった。


「……うん」


「では、びっくりした分だけ少し休みましょうか」

「塔はまた作れますから」


 そのやり取りを見ていたノエルが、そわそわと指を動かした。


 何か言いたい。

 でも言葉が出ない。


 昨日、グレイに自分がしてもらったように。

 大丈夫だと言ってもらったように。


 ミルフィにも何か言いたい。


 しばらく迷ってから、ノエルは小さく口を開いた。


「……だいじょうぶ」


 ミルフィが涙で濡れた顔のまま、そちらを見る。


「……また、つくれる」


 それだけだった。


 長い言葉ではない。

 上手な慰めでもない。


 でも、それはノエルが自分で選んだ、初めての“誰かへの言葉”だった。


 グレイは一瞬だけ目を見開いた。


 リリアは思わず胸元を押さえる。


(ノエルちゃんが……)

(自分から声をかけた)


 エルナもまた、目を見張っていた。


 この保育園は大丈夫なのか。

 この人達に預けて平気なのか。

 そんな不安ばかりでここへ来たのに。


 今、目の前では、知らないはずの子供同士が小さな言葉を交わしている。


 それは、働きに出るための“託児先”ではなく、

 ちゃんと“子供の場所”に見えた。


 そして同時に、エルナは思う。


(……ここは)

(子供だけじゃなくて)

(もしかしたら、親まで見てくれる場所なのかもしれない)


 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなって、怖くなった。


 そんな場所が本当にあるのなら。

 そんなふうに誰かに寄りかかってしまったら。


 自分はきっと、泣いてしまう。


 セラフィーナは静かに目を細めた。


(変わってきているな、ノエルは)

(この場所で)

(……だが、それでもまだ信用はしない)

(優しさと正体不明は別だ)

(こいつの“優しさ”は出来すぎている)


 ミルフィは涙を拭いながら、小さく頷いた。


「……うん」


「じゃあ」

 ノエルは少しだけ積み木を寄せた。

「……いっしょ、つくる?」


 ミルフィは少しだけ迷った。

 けれど、ノエルの顔を見て、こくりと頷く。


「……つくる」


 グレイはそのやり取りを見て、静かに微笑んだ。


(十分です)

(もう、それで十分)


 昼が近づく頃には、二人は同じ積み木の前に座っていた。


 まだ会話は少ない。

 でも、完全に別々ではない。


 ひとつの塔を、二人で少しずつ高くしている。


 ノエルが積み木を一つ置き、

 ミルフィがその上にもう一つ重ねる。


 不格好だった塔は、

 それでもさっきまで一人で作っていた時より、少しだけ高く、少しだけしっかりして見えた。


 エルナは、その様子を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……こんなに早く、落ち着くなんて思いませんでした」


 その声には、驚きと、安堵と、そして濃い罪悪感が混じっていた。


「私……本当は、こんな小さな子を預けるのが怖かったんです」

「でも、仕事に行かないと暮らせないし……」

「家に一人で置いておく方が、もっと怖くて……」

「それに……その……」

「最近、少し、ちゃんとしていられない日もあって……」


 言ってから、自分で口をつぐむ。


 そこまで言うつもりはなかったのだろう。

 だが、一度こぼれた弱音は、簡単には止まらない。


 リリアはその隣で、そっと言った。


「それは、逃げじゃないと思います」


 エルナが顔を上げる。


 リリアは少し緊張したように息を整えた。


「預けるのが平気だから来たんじゃなくて」

「怖いのに、それでも来たんですよね」

「それって、ちゃんとミルフィちゃんのことを考えてるからだと思います」

「一人で抱えたまま無理をするより、誰かを頼る方が、ずっと難しいことだと思います」


 エルナは少しだけ目を見開いた。


 その言葉に救われたのか、それとも余計に泣きそうになったのか、自分でも分からないような顔だった。


 だが次の瞬間、彼女の視線はリリアへ移る。


 優しそうだ。

 言葉もやわらかい。


 けれど、“保育士見習い”なのだとさっき聞いたばかりだ。


「あなたは……」

「ここで働くんですか?」


 不安が、滲んでいた。


 リリアはその視線を正面から受け止める。


 怖かった。

 まだ正式に決まってもいない。

 自分に何が出来るか、全部分かっているわけでもない。


 それでも。


 ここで言わなければ、きっとまた“見ているだけ”になる。


 リリアは胸の前で手を握り、ゆっくりと前へ出た。


「……グレイさん」


「はい」


 グレイが振り向く。


 その静かな目に見つめられた瞬間、胸が少しだけどきりと鳴った。


(どうして……)

(この人に見られると、ちゃんと話したくなるんだろう)

(……こんな時なのに)


 頬が少し熱い。

 けれど今は、それよりも言うべきことがある。


「私……ここで働かせてください」


 空気が静かに止まる。


 ノエルが顔を上げる。

 ミルフィも、きょとんとした顔で見ている。

 バルトが「お?」と眉を上げた。

 セラフィーナだけが、静かにリリアを見ていた。


 リリアは続ける。


「昨日から、ずっと考えてました」

「この場所が必要だって分かってたのに、私は見てるだけで」

「でも……今日、ノエルちゃんとミルフィちゃんを見て、もうそれじゃ駄目だと思ったんです」

「子供が安心できる場所を作るって、きっと子供だけを見ていればいいわけじゃない」

「ここに来るお母さん達も、きっといっぱいいっぱいで……」

「だから、私は……」

「子供と、お母さんの両方に寄り添える人になりたいです」


 少しだけ声が震える。


 けれど、言葉は止まらなかった。


「ここは、まだ小さくて、何もかも足りない場所です」

「でも、だからこそ必要だと思うんです」

「まだ見習いですし、不安もあります」

「でも、ちゃんと学んで、ちゃんと役に立てるようになります」


 エルナはその言葉を、真剣な顔で聞いていた。


 加入したばかりの見習い。

 その不安は、やはりある。


 だが、不安があることを隠さず、それでもやると言うのなら。

 少なくとも、その誠実さは信じたいと思えた。


 グレイはしばらくリリアを見つめていた。


 その視線は静かで、やわらかくて、逃げ場がないくらいまっすぐだった。


 やがて、グレイは小さく頭を下げる。


「こちらこそ、お願いします」


 その返答を聞いた瞬間、

 リリアの胸の奥に張り詰めていたものが、ふっとほどけた。


「……はい」


 その声は、今までで一番やわらかかった。


 セラフィーナは、その様子を見て短く息を吐く。


「先を越されたな」


 グレイが視線を向ける。


「セラフィーナさん?」


「私はまだ雇われるつもりはない」

「だが……」


 彼女は保育園の中を見回した。


 出入口。

 窓。

 庭。

 街外れという立地。

 そして、正体不明の園長。


「護衛は必要だ」

「ここは街の外れだし、昨日みたいな連中が二度と来ない保証もない」

「少なくとも、落ち着くまでは手を貸す」


 ぶっきらぼうな言い方だった。


 だが、それだけではない。


(監視も兼ねる)

(お前を、まだ私は信用していない)

(子供の前では優しい)

(だが、その裏に何を隠している)

(この場所に害をなすなら、私が止める)


 その目は、まだ鋭かった。


 リリアが少しだけ笑う。


「それ、ほとんど残るって意味じゃない?」


「違う」

「必要な間だけだ」


「はいはい」


 グレイはそんな二人を見て、静かに目を細めた。


 昨日まで。


 この保育園には、自分とノエルしかいなかった。


 手伝ってくれる者も、

 一緒に悩む者も、

 一緒に笑う者もいなかった。


 けれど今は違う。


 小さくても。

 不完全でも。


 確かに、この場所に人が集まり始めていた。


 エルナは深く頭を下げる。


「それじゃあ……」

「明日から、うちの子をお願いします」


 その言葉には、まだ少し震えが残っていた。

 完全に安心したわけではない。

 不安が消えたわけでもない。


 それでも、預けると決めた。


 それがどれほどの決意か、グレイには分かった。


「承知しました」


 彼は静かに答える。

 それ以上、軽いことは言わない。


 預かる以上、その重さを受け止めるべきだと分かっているからだ。


 ミルフィは少し照れくさそうに、でもちゃんとノエルを見た。


「……また、くる」


 ノエルは少しだけ間を置いてから、小さく頷く。


「……うん」


「……また、つみきする」


「……する」


 その短いやり取りだけで十分だった。


 それは、保育園がただの建物ではなく、

 “明日また来る場所”になった証だったからだ。


 外では、やわらかな昼の風が吹いていた。


 古い窓枠が、かたんと小さく鳴る。


 グレイは、積み木の前に並んだ二人の小さな背中と、

 その後ろに立つリリアとセラフィーナを見つめた。


(……少しずつ、ですね)


 一人で始めたはずの場所だった。


 だがもう、ここは一人で抱える場所ではなくなりつつある。


 泣いていた子供が、

 知らない子に「だいじょうぶ」と言えるようになり。


 見ているだけだった大人が、

 「ここで働きたい」と口にするようになった。


 そして――

 助けを求めることに怯えていた母親が、

 ほんの少しだけ、この場所に弱さを見せてくれた。


 それだけで十分だった。


 ひだまりのゆりかご保育園は、

 今日、またひとつ前に進んだのだ。

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