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第6話 園長先生のおしごと


 翌朝。


 ひだまりのゆりかご保育園の窓から差し込む朝日が、まだ新しい木の香りを残した床をやわらかく照らしていた。


 外では小鳥が鳴き、庭先に残った朝露が光っている。昨日まで人々の視線と領主の厳しい言葉に晒されていた場所とは思えないほど、朝の空気は静かだった。


 だが、その静けさの中にも、今日はいつもとは違う張りつめたものがある。


 試される日。


 保育園として。

 そして園長として。


 グレイ・アークロードは、まだ他の誰も起きていない時間から一人で動いていた。


 食堂兼保育室の窓を少しだけ開け、朝の空気を入れる。

 床を見回し、夜のうちに落ちた木屑がないかを確認する。

 角の丸めた机を一つずつ触って、ぐらつきがないかを見る。

 水桶の位置を直し、転倒しないよう足元へ滑り止めの布を敷く。

 かまどの灰を捨て、薪の量を見て、火の入り方を確かめる。


 ひとつ、ひとつ。


 どれも地味な作業だった。

 だが、子供を預かる場所では、その地味さこそが大切だとグレイは知っている。


(床に小さな欠け)

(あとで削っておきましょう)

(窓際の木枠も、もう少し丸く)

(子供はどこで頭をぶつけるか分かりませんからね)


 彼の動きに迷いはなかった。


 力でねじ伏せるのは簡単だ。

 魔法で一瞬で片付けることも出来る。

 だがそれでは駄目だ。


 ここは戦場ではない。


 ここは、子供が転び、泣き、笑い、眠る場所になるのだから。


 肩の上で、ピノがぷるりと震える。


「ぷる」


「ええ。今日は大事な日です」


 グレイは小さく笑う。


「領主様も来ますし、住民の皆さんも見に来るでしょう」

「気を引き締めなければいけません」


 ピノが、どこか誇らしげに膨らんだ。


 その時、部屋の奥の毛布が小さく動いた。


「……ぐれいせんせい」


 まだ寝起きの、少し掠れた小さな声。


 ノエルだった。


 銀色の髪は寝癖で少し跳ね、青い瞳もまだ眠気を残している。毛布を抱えたまま上体を起こした彼女は、少しだけ不安そうに周囲を見回し、それからグレイを見つけてほっとしたように肩の力を抜いた。


 グレイはすぐにそちらへ歩いていく。


「おはようございます、ノエル」


「……おはよ」


「眠れましたか?」


 ノエルは小さく頷いた。


「……うん」


 それから、毛布をぎゅっと握りしめたまま聞く。


「……きょう、ほんとにくる?」


「ええ。たくさんではないと思いますが、来ますよ」


「……りょうしゅさまも?」


「来るでしょうね」


 ノエルの表情が少し曇る。


 昨日の説明会の空気を、全部理解しているわけではないだろう。

 それでも、“厳しい人が来て、この場所がなくなるかもしれない”という雰囲気だけは感じ取っていた。


 グレイはその小さな頭をそっと撫でた。


「大丈夫です」


「……ほんと?」


「ええ。本当です」

「今日は、ノエルがここで安心して過ごせることを見てもらう日でもありますから」


 ノエルはしばらくグレイの顔を見つめていたが、やがてこくりと頷いた。


「……じゃあ、がんばる」


「おや」


「……わたしも、おしごとする」


 その言葉に、グレイはわずかに目を見開き、それから柔らかく笑った。


「頼もしいですね」

「では、まず顔を洗って、手をきれいにしましょう」


「……うん」


 ノエルは毛布を畳もうとして、うまくいかずに少し苦戦した。


 端を合わせても、次の瞬間には別の端がずれてしまう。

 小さな眉がきゅっと寄る。


「……できない」


「半分で大丈夫ですよ」

「こうして、端を合わせて――」


 グレイが隣でゆっくり見せる。

 ノエルも真似をする。

 少し曲がったが、それでも毛布はきちんとまとまった。


「……できた」


「ええ、出来ました」

「立派ですよ」


 ノエルの口元が、ほんの少しだけ緩む。


 それを見たグレイは、心の中で小さく息をついた。


(昨日より、少し表情が柔らかい)

(この場所に慣れてきているのでしょうか)

(それなら……よかった)


 朝の支度はゆっくり進んだ。


 顔を洗い、手を洗い、髪を整える。

 ノエルは途中で何度もグレイの顔を見上げ、「これでいいの?」と目で尋ねた。グレイはそのたびに頷き、少しずつ一人で出来るよう手を貸しすぎないように気をつける。


 その加減は絶妙だった。


 全部やってしまえば早い。

 だがそれでは“自分で出来た”にはならない。


「袖、濡れてますね」


「……あ」


「大丈夫。今日は替えがあります」


「……せんせい、なんでもある」


「何でもではありませんよ」

「必要なものを用意しているだけです」


 そう言って新しい布服を差し出すグレイに、ノエルは少しだけ目を丸くした。


 朝食の準備も始まった。


 鍋に火を入れる。

 薪は細いものから順に組み、火力が安定してから太い薪を足していく。

 スープ用の鍋に水を張り、刻んだ野菜と豆、少しの塩を入れる。

 別の鉄板ではパンを軽く温める。

 卵は低めの火でゆっくり火を通す。


 料理の匂いが部屋に広がると、ノエルのお腹が小さく鳴った。


「……あ」


 彼女は恥ずかしそうに口元を押さえる。


 グレイは笑った。


「良いことです」

「お腹が空くのは、ちゃんと生きている証拠ですから」


「……ぐれいせんせいのおなかは?」


「私も空いていますよ」


「……ほんと?」


「ええ。本当です」


 ノエルは少しだけ安心したように、こくりと頷いた。


 その頃、保育園の外ではまた少しずつ人の気配が増え始めていた。


 昨日の説明会を聞いていた住民たち。

 ただの野次馬。

 小さな子供を連れた母親。

 そして、バルト・グランディス。


 彼は敷地の外から腕を組んで建物を見ていた。


(……朝からちゃんとやってやがる)


 正直、半分は見届けに来たようなものだった。

 昨日の勢いだけで、今日には投げ出しているかもしれないと思っていた。

 領主に調査されると分かって、逃げ出すかもしれないとも思っていた。


 だが、違った。


 朝から窓を開け、掃除をし、飯を作り、子供の世話をしている。


 まるで最初から本当に“園長”だったみたいに。


 その事実が、妙に落ち着かない。


(なんなんだよ、あいつ)

(本当に、保育園なんてやるつもりなのか)


 そこへ、さらに整った足音が近づいた。


 アルヴェイン・リトルベル。

 副官カイン・ラウド。

 文官ミレーネ・クロア。


 昨日と同じ一団だった。

 だが今日は護衛の数が少ない。公的な威圧よりも、純粋な確認の意図が強いのだろう。


 アルヴェインは建物を見上げ、昨日と比べて明らかに生活の気配が増していることに気づいた。


 窓が開いている。

 湯気が立っている。

 食事の匂いがする。

 そして何より、“人が暮らしている場所”の空気がある。


(見せかけだけではない、か)


 カインは庭の土の踏み固め具合を見ていた。

 何度も人が歩いた跡がある。

 偶然整えたのではなく、実際に使う前提で動いている痕跡だ。


 ミレーネは手元の帳面を開きながら言う。


「昨日の言葉だけでなく、今日は実際を確認するということでよろしいですね、領主様」


「ああ」


 そうして一行が庭へ入った時、ちょうどグレイはノエルへ朝食をよそっているところだった。


「どうぞ」


「……あったかい」


「熱いので、ゆっくりですよ」


 ノエルは器を両手で持ち、ふーふーと息を吹きかける。

 その仕草は幼く、そして自然だった。


 アルヴェイン達の気配に気づくと、グレイは立ち上がって一礼する。


「おはようございます、領主様」


「おはよう」

「予定通り来た」


「ええ。お待ちしていました」


 アルヴェインは短く頷き、昨日よりも近い距離からグレイを観察する。


 声色は落ち着いている。

 視線も揺れない。

 だが、柔らかい。


 昨日の大工頭を一撃で吹き飛ばした男と、今朝子供に食事をよそっている男が、同じ人物だと頭では分かっていても感覚が追いつかない。


「始めてもらおう」

「今日は普段通りに」


「承知しました」


 普段通り、と言われてグレイはほんの少しだけ内心で苦笑する。


(まだ開園もしていないので、“普段通り”と言えるほどのものはありませんが)

(ですが、見せるべきことは分かっています)


「では、どうぞご自由にご覧ください」

「隠すことは何もありません」


 リトルベルの住民達も少し離れてそれを見守っていた。

 昨日よりも明らかに人数は多い。


 その中に、リリアとセラフィーナの姿もある。


 二人はまだ職員ではない。

 今日も“見る側”として来ているだけだ。


 けれど、心は静かに揺れていた。


 グレイはまず、ノエルの朝食を優先した。


「ノエル、急がなくて大丈夫です」

「ちゃんと噛んでくださいね」


「……うん」


「スープ、熱すぎませんか?」


「……だいじょうぶ」


「本当ですか?」


 ノエルは少し考えてから、小さく言い直す。


「……ちょっと、あつい」


「正直でよろしいです」


 グレイは器を受け取り、ふっと息を吹きかけてから返す。


 ほんの少しだけ冷気を流して温度を下げる。

 誰にも分からないほど、自然な魔法。


「これならどうでしょう」


 ノエルは一口飲んで、ほっとしたように頷く。


「……いい」


 そのやり取りを見ていた母親の一人が、隣の主婦へ小声で言った。


「ちゃんと見てるわね」

「子供の様子」


「ええ……思ってたよりずっと」


 ミレーネはその声を聞きながら、帳面に何かを書き留める。


 観察すべきは建物だけではない。

 実際の接し方。

 子供への配慮。

 日常の中の判断。


「食事の量は、その子に合わせて変えているのですか?」


 ミレーネが問いかける。


「はい」

「年齢と食欲、体調によって調整します」

「無理に食べさせれば、食事そのものが苦痛になりますから」


「残した場合は?」


「叱りません」

「ただ、なぜ食べられないのかを見ます」

「眠いのか、緊張しているのか、味が合わないのか、体調が悪いのか」

「原因によって対応は変わります」


 ミレーネの手が少し止まる。


(具体的)

(しかも、現場を前提にしている)

(机上の空論ではない)


 カインは別の角度から見ていた。


 調理中の火。

 刃物の位置。

 熱い鍋への距離。

 出入口の確保。


 グレイは火を使う間、ノエルが近づきすぎない位置に机を置いている。包丁は使い終わるたびに高い棚へ戻され、鍋の柄は子供の手が届かない方向へ向けられていた。


「細かいな」


 思わず口から漏れた言葉に、グレイが答える。


「子供は、大人が思いつかない動きをします」

「だから先回りして潰しておくんです」


「経験があるような言い方だな」


「失敗はしたくありませんから」


 その答えに、カインは眉をひそめた。


(かわしたな)

(だが、嘘ではない)


 朝食を終えると、グレイはノエルの口元を布で拭いてやる。


「ごちそうさまでした、は?」


 ノエルは一瞬だけ考え、


「……ごちそうさまでした」


「よく出来ました」


 その瞬間、ノエルがほんの少しだけ誇らしそうに胸を張った。


 リリアはその姿を見て、息が詰まる。


(昨日より、表情が増えてる)

(この子、ちゃんと安心してる)

(この人と一緒にいると……)


 彼女の胸の奥に、ずっと前から欲しかった景色が広がっていく。


 次は遊びの時間だった。


「ノエル、今日は何をしますか?」

「積み木にしますか。それとも絵を描きますか?」


「……えをかく」


「では、こちらへ」


 グレイは小さな机へ紙と色鉛筆を運ぶ。

 古いが、昨日のうちに使えるものだけを選り分けてあった。


「赤はこれ、青はこれ」

「ただ、口には入れないでくださいね」


「……いれない」


「素晴らしい」


 ノエルは紙に向かって、小さな手で一生懸命に線を引く。

 最初は恐る恐るだったが、グレイが横に座って静かに見守っているうちに、少しずつ筆圧が強くなる。


「……みて」


「はい」


「……これ、ぴの」


 丸い黒い塊に、二つの目がついている。


 ピノが肩の上でぷるぷると得意そうに震えた。


「よく描けていますね」


「……ほんと?」


「ええ。ちゃんとピノです」


「ぷる!」


 その会話を見ていた住民達の間に、自然と柔らかい空気が流れる。


「あの子……笑った?」

「昨日まで泣いてたって話じゃなかった?」

「ほんとに懐いてるんだな」


 アルヴェインは黙ってその光景を見ていた。


(子供の扱いに無理がない)

(見せるために優しくしているのではない)

(……自然だ)


 そして、ノエルが椅子から降りようとして少し足を滑らせた瞬間、グレイの手がさっと伸びた。


「危ない」


 支える。

 叱らない。

 まず怪我がないかを見る。


「大丈夫ですか?」


「……うん」


「椅子は最後までちゃんと座りましょう」

「立つ時は、机に手をついてからです」


「……うん」


 声は厳しくない。

 だが、曖昧でもない。


 ただ甘やかすのではなく、ちゃんと教える。


 その姿に、セラフィーナの目が静かに細まる。


(守るだけじゃない)

(育てようとしている)

(……なるほどな)


 しばらくして、アルヴェインが口を開いた。


「十分だ」


 その一言に、周囲の空気が止まる。


 住民達が一斉に領主を見る。

 リリアも、セラフィーナも、バルトも息を呑んだ。


 アルヴェインはグレイへ向き直る。


「建物は安全面で問題なし」

「運営方針も現実的」

「子供への接し方も、少なくとも今見た限りでは適切だ」


 短い沈黙。


 そして彼は、はっきりと言った。


「この施設を、保育園として認めます」


 ざわめきが大きく広がった。


「認めた……?」

「本当に?」

「じゃあ、ここは正式に?」


 リリアの目が大きく見開かれる。


 胸の奥から、じわじわと熱いものが込み上げてきた。


(認められた)

(この場所が)

(本当に、保育園として)


 ノエルはよく分かっていない顔でグレイを見上げた。


「……ぐれいせんせい」


「はい」


「これ、いいの?」


 グレイはしゃがみ、目線を合わせて答える。


「ええ。良いんです」

「今日からここは、ちゃんとした保育園です」


 ノエルの青い瞳が、大きく揺れた。


「……ほんとに?」


「本当に」


「……じゃあ」

「ここ、いていい?」


 その問いに、グレイは一瞬も迷わなかった。


「もちろんです」


 ノエルの口元が、ゆっくりと緩む。


 それは本当に小さな笑顔だった。

 でも確かに、そこにあった。


 リリアは思わず両手で口元を押さえる。


(あ……)

(この子、笑った)

(ちゃんと、安心した顔で……)


 セラフィーナは静かに息を吐く。


(この男なら)

(少なくとも、この場所は守れる)


 バルトは腕を組んだまま、わざとらしく鼻を鳴らした。


「……ちっ」

「やりやがったな、本当に」


 だが、その顔には昨日までの嘲りはなかった。


 アルヴェインは最後に一歩前へ出る。


「ただし」

「正式に認める以上、領地の規則は守ってもらう」

「必要書類はミレーネが整える。後日提出しろ」

「問題を起こした場合は即座に再調査する」


「承知しました」


 グレイは静かに頭を下げた。


 その返答の迷いのなさに、アルヴェインは小さく頷く。


(少なくとも)

(この男は、口先だけではない)


 そして、ふとノエルを見る。


 銀の髪の少女は、今もグレイの服を握っていた。

 だが最初に見た時の怯えは、もうそこにはない。


「……なるほど」


 領主は、小さくそう呟いた。


 試験は終わった。


 保育園は認められた。


 ひだまりのゆりかご保育園は、この日ようやく本当の意味で生まれたのだ。


 住民達が少しずつ帰り始める。


「うちの子も、今度見学させようかしら」

「悪くなかったな」

「ちゃんと飯も出るなら助かる」


 そんな声が、ぽつりぽつりと混ざり始める。


 信頼はまだ全部ではない。

 でも、確かな最初の一歩だった。


 グレイはその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。


(ひとまず、でしょうか)


 その時、ノエルが袖を引く。


「……ぐれいせんせい」


「はい」


「せんせい、すごい」


 まっすぐな言葉だった。


 グレイは少しだけ目を細める。


「いえ」


 そして、静かに微笑んだ。


「これが、園長先生のおしごとです」

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