第5話 領主の調査と、園長先生の試験
説明会の場に落ちたざわめきは、しばらく消えなかった。
領主アルヴェイン・リトルベルの言葉は、それだけ重かった。
「ならば、正式に調査します」
「この施設と、あなた自身を」
その宣言が響いた瞬間、住民達は一斉に顔を見合わせた。
「正式にって……」
「やっぱりただじゃ済まないのか」
「そりゃそうだろ。昨日あんな騒ぎがあったんだし」
「でも、ここまで直したのに……」
不安。
興味。
疑い。
期待。
様々な感情が入り混じった視線が、一人の男へと集まる。
グレイ・アークロード。
黒髪を後ろで束ね、丸眼鏡をかけた、どこか頼りなさそうな細身の男。
その肩の上では、黒いスライムのピノがぷるりと小さく揺れていた。
ノエルはグレイの袖をぎゅっと握っている。
子供なりに、場の空気が悪いことは分かるのだろう。
その小さな指先には、ほんの少しだけ力がこもっていた。
リリアは息を詰めていた。
(どうするの……?)
(ここまで来て、閉めろって言われたら……)
(ノエルちゃんは)
(この場所は……)
セラフィーナは無言のまま、アルヴェインとグレイの間に流れる緊張を見つめていた。
(ここでどう出る)
(言い訳をするのか)
(黙るのか)
(それとも――)
そして。
グレイは、いつもの穏やかな顔のまま口を開いた。
「構いません」
一瞬、場が止まった。
アルヴェインの青い瞳がわずかに細くなる。
副官カインも、文官ミレーネも、予想外だったのか眉を動かした。
「むしろ好都合です」
グレイは続ける。
「疑問や不安があるのなら、今ここで全部見てください」
「書類も、建物も、考え方も」
「嘘偽りなく、お見せします」
住民達の間にざわめきが広がる。
「今ここで?」
「隠さないってことか?」
「そんな簡単に言うか、普通……」
リリアが目を見開いた。
(逃げない)
(誤魔化さない)
(全部見せるって言った……?)
セラフィーナも内心で小さく息を吐く。
(度胸か)
(それとも、本当に隠すものがないのか)
アルヴェインはしばらくグレイを見ていた。
見透かそうとするような視線。
だがグレイは、その視線を正面から静かに受け止めている。
やがて領主は短く頷いた。
「いいでしょう」
「ならば、この場で確認します」
その言葉に、グレイは丁寧に一礼した。
「ありがとうございます」
その仕草の端正さに、アルヴェインは内心でわずかに違和感を覚える。
(礼の仕方に無駄がない)
(どこで身につけた?)
(辺境を流れてきた男の所作には見えん)
だが今は、それを口には出さない。
代わりに、アルヴェインは後ろの二人へ視線を送った。
「ミレーネ」
「まずは書類から」
「承知しました、領主様」
前へ出たのは、薄青の髪をきっちりまとめた若い文官だった。
ミレーネ・クロア。
理性的で、無駄を嫌う女だ。
手にした革表紙の帳面を開き、グレイへ向き直る。
「では確認します」
「施設名称」
「ひだまりのゆりかご保育園です」
「責任者名」
「グレイ・アークロード」
「施設の目的」
「子供達の保育、保護、生活支援」
「特に、家庭の事情で預け先がない子供や、行き場のない子供の受け入れを想定しています」
ミレーネの筆が止まらない。
「想定年齢は?」
「二歳から十歳前後まで」
「ただし、個別事情がある場合は柔軟に対応するつもりです」
「定員」
「現段階では八名」
「施設の修繕状況と職員数を考えれば、それ以上は無責任になります」
その答えに、ミレーネの眉がわずかに動く。
(定員を少なく言った)
(普通なら“たくさん預かれます”と見栄を張る場面)
(この男、無理をしないのか)
「食事はどうします?」
「一日何回、どう用意する?」
「朝、昼、夕の三食」
「ただし通園の子は基本的に昼食が中心になります」
「食材はできる限りこの街で調達し、温かいものを出します」
「子供は空腹だと機嫌も体調も崩しやすいですから」
住民の中から、小さなざわめき。
「ちゃんと考えてるんだな……」
「食事まで決めてるのか」
ミレーネはさらに畳みかける。
「病気や怪我の対応は?」
「軽傷なら応急処置を行います」
「重い場合は、すぐに街の医師か教会へ」
「保護者への連絡手段も確保します」
「保護者がいない子は?」
「状況を確認し、領主館や教会とも連携が必要になるでしょう」
「独断で抱え込むつもりはありません」
アルヴェインの目がわずかに揺れた。
(領主館との連携を、自分から口にするのか)
(勝手な理想家なら、ここで行政を嫌うはずだ)
ミレーネはさらに問う。
「火の管理は?」
「夜間の防犯は?」
「不審者が来た場合は?」
「保育方針は?」
「保護者が料金を払えない場合は?」
質問は細かく、容赦がない。
周囲の住民達の中には、途中から「そんなに聞くのか」と顔をしかめる者もいた。
だがグレイは一つひとつ、間を置いて丁寧に答えた。
「調理中は子供を近づけません」
「夜間は戸締まりを徹底し、必要なら簡易見回りを行います」
「不審者については、まず子供を隔離して安全確保」
「保育方針としては、叱るよりもまず理由を聞くことを重視します」
「料金については一律にせず、家庭事情に応じて段階を設けるべきでしょう」
ミレーネの筆が止まる。
書きながら、彼女は心の中で小さく息を吐いた。
(……想定以上)
(曖昧な返答が一つもない)
(しかも、理想論だけじゃなく現実的)
(この人、本当に準備している)
そこでグレイは少しだけ言葉を足した。
「私は、保育園は建物だけでは成り立たないと思っています」
「食事、衛生、睡眠、安全、連絡、責任」
「どれか一つでも曖昧なら、子供は守れません」
その一言は、ざわついていた住民達を少しだけ静かにした。
リリアは、胸の前で両手を強く握っていた。
(ちゃんと考えてる)
(思いつきなんかじゃない)
(この人……本当に、本気なんだ)
ミレーネは帳面を閉じた。
「書類上の受け答えに関しては、大きな破綻はありません」
「むしろ、かなり具体的です」
カインが少し眉を上げる。
「褒めてるのか?」
「事実を言っているだけです」
短いやりとりの後、アルヴェインが頷いた。
「次は建物を見ます」
「カイン」
「はっ」
副官カイン・ラウドが前へ出る。
軍人上がりらしい鋭い目つきで、施設を眺めた。
「案内を」
「こちらへ」
グレイは先頭に立って、建物の中へ住民達を案内した。
修復したばかりの玄関。
踏み込んだ床板はしっかりしていて、きしみは最小限に抑えられている。
古い木の匂いに混じって、削ったばかりの新しい木材の香りがした。
「まず、ここが保育室です」
最初の部屋は広めに取られていた。
壁はまだ塗装途中だが、危険なささくれは削られ、角は丸く処理されている。床板には新しい部分が多く、子供が転んでも大きな怪我をしないよう、硬さにも配慮されていた。
カインはしゃがみ込み、床を叩く。
「……強度は十分か」
「一部は板を二重にしています」
「子供はよく跳ねますから」
「角が丸いな」
「頭をぶつけても裂傷になりにくいです」
「窓の高さは?」
「外が見えますが、乗り越えられない高さに」
「ただし閉塞感が出ないよう、採光は確保しています」
カインは無言になる。
(本当に子供目線だ)
(偶然じゃない)
(ここまで考えて作るか、普通)
住民の一人がぼそっと呟いた。
「……昨日まで廃墟だったのに」
別の母親が、窓際へ近づいて言う。
「日当たり、悪くないわね」
グレイは頷いた。
「午前中はここが一番暖かいんです」
「昼寝の部屋も、できれば南側に寄せたいと思っています」
「昼寝もさせるの?」
「子供は眠るのも仕事ですから」
その答えに、年配の主婦がふっと笑った。
「それはそうだ」
次に案内されたのは簡易食堂と台所だった。
古びたかまど。
磨かれた鍋。
整然と並ぶ食器。
限られた道具しかないのに、不思議と散らかった印象がない。
ミレーネが棚を開け、食材の保存状態を見る。
乾物、根菜、塩、香草。
少ないが整理されていた。
「衛生管理はどうするのです?」
「毎朝、調理前に清掃を」
「布巾とまな板は分けます」
「食器は煮沸できるよう準備しています」
「誰が?」
「今は私が」
あっさり言われて、ミレーネは一瞬だけ目を瞬かせた。
「園長自ら?」
「ええ。今は職員が私一人ですので」
その一言に、リリアがわずかに俯く。
まだ自分はここに入っていない。
手伝いたい気持ちはある。
だがまだ、踏み出せていない。
セラフィーナはそれを横目で見ながら、自分の胸の内にも似た揺れがあることに気づいていた。
(この男、本当に一人でやるつもりだったのか)
(無茶だ)
(だが……だからこそ放っておけない)
案内は続く。
階段。
職員用の小部屋。
仮眠室。
裏手の水場。
庭への出入口。
どこにも派手さはない。
だが、どこにも手抜きもない。
最後に庭へ出た時、住民達の空気は少しずつ変わっていた。
「思ってたより、ちゃんとしてる」
「危ない場所、意外とないな」
「こんな短期間で……?」
その時だった。
ノエルが、庭の端で小さく躓いた。
「あっ」
住民達が息を呑む。
だが、転ぶ前にグレイが自然に腕を差し出していた。
ふわり、と。
まるで最初からそこに落ちてくると分かっていたように、彼はノエルを抱きとめる。
「大丈夫ですか?」
ノエルはびっくりした顔のまま、こくりと頷いた。
「……うん」
「足元、まだ少し unevenですね」
「後でここは削りましょう」
そう言って、しゃがみ込んで地面の石を確認する。
転びそうになったことを怒るでもなく、ただ危険箇所として処理する。
それがあまりに自然だった。
アルヴェインはその様子をじっと見ていた。
(反応が早い)
(子供の怪我を最優先に見ている)
(……慣れている?)
(いや、違う)
(“慣れ”というより、最初からそういう目をしている)
ノエルはグレイの首元を少しだけ掴んで、小さな声で言った。
「……びっくりした」
「そうですね」
「でも、痛くなかったでしょう?」
「……うん」
「では良かった」
グレイはそのままノエルの靴についた土を払ってやる。
その仕草はあまりにも自然で、見ていた母親達の目の色が少し変わった。
若い母親の一人が、隣の女性に小さく言う。
「……あの人、ちゃんと子供見てる」
「そうね」
「少なくとも、怖がらせる感じではないわ」
リリアはその言葉を聞いて、胸の奥がじわりと熱くなる。
(よかった)
(ちゃんと見てもらえた)
(この人のことも、この場所のことも)
セラフィーナは無言のまま、グレイを見つめていた。
(剣ではない)
(この男が本当に強いのは、たぶんそこじゃない)
一通り見学が終わると、アルヴェインは庭の中央で足を止めた。
住民達も半円を描くように集まる。
「……なるほど」
若き領主は静かにそう言った。
「施設の安全性に関しては、現時点でも大きな問題は見当たりません」
「最低限の基準は満たしていると見ていいでしょう」
その言葉に、住民達がざわめく。
「領主様がそう言うなら……」
「本当に大丈夫なのか?」
だが、アルヴェインは続けた。
「ただし」
空気が再び引き締まる。
「保育園は建物だけで成立するものではありません」
「責任者の継続的な運営能力」
「保育の実務」
「信頼」
「それらが伴わなければ、子供を預ける場所として認めることは出来ない」
グレイは黙って聞いていた。
予想通りだった。
むしろ、ここで終わる方が不自然だ。
「グレイ・アークロード」
「はい」
「明日、もう一度来ます」
アルヴェインははっきりと言った。
「次は実際に、子供を預ける前提で見せてもらう」
「園長としてのあなたを」
住民達の間にざわめきが走る。
「本当に試す気か」
「明日?」
「そこまでやるのか……」
ノエルは意味が分からないまま、グレイの手を握った。
「……ぐれいせんせい」
グレイはその小さな手を、そっと握り返す。
「大丈夫ですよ」
「……ほんと?」
「ええ」
「先生ですから」
その言葉に、ノエルは少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
リリアはそのやり取りを見て、胸の奥が強く揺れる。
(明日)
(本当に一人でやるつもりなの?)
(この人……どこまで背負うつもりなの)
セラフィーナもまた、静かに目を細めた。
(試されるのは保育園だけじゃない)
(この男の覚悟そのものだ)
バルトは腕を組んだまま、苦い顔で舌打ちする。
「……面倒なことになりやがった」
けれど、その視線はもう、昨日のような嘲りではなかった。
アルヴェインは最後にもう一度だけグレイを見た。
「明日、答えを見せてもらいます」
「承知しました」
その返答にも、迷いはない。
説明会は終わった。
だが、保育園を開くための本当の試練は、むしろここから始まるのだと、そこにいる全員が感じていた。
住民達が少しずつ帰り始める。
ざわめきはまだ消えない。
それでも、最初の時とは明らかに質が違っていた。
疑いだけではない。
少しの期待。
少しの関心。
少しの希望。
グレイは、それらを背中で感じながら、静かに空を見上げた。
(さて)
(本当の意味で“園長先生”として試されるわけですね)
そして、その口元には。
ほんのわずかに、静かな笑みが浮かんでいた。




