第4話 保育園説明会と、領主の呼び出し
翌朝。
リトルベルの空は雲ひとつない青に染まり、朝のやわらかな陽射しが街外れの小さな施設を照らしていた。
つい昨日まで廃墟同然だった建物は、今では見違えるほど整っている。
新しく組み直された屋根。
歪みを矯正された柱。
板を張り直した壁。
割れていた窓は仮の木枠で塞がれ、危険だった床もほとんど補修が終わっていた。
もちろん、まだ完璧ではない。
外壁の塗装はまだらで、古い木材もところどころ残っている。庭の隅には片付け切れていない瓦礫が積まれ、雑草も完全には抜き切れていなかった。
それでも。
もうここは“崩れかけた廃墟”ではなかった。
子供が過ごせる場所。
そう呼ぶには十分な形を、すでに取り戻しつつあった。
建物の入口には、簡素な木の看板が立てかけられている。
ひだまりのゆりかご保育園
素朴な字だった。
だが、その文字には妙にあたたかな響きがあった。
看板の前で、グレイ・アークロードはそれを静かに見上げていた。
黒髪を後ろで束ね、丸眼鏡をかけた、少し頼りなさそうな細身の男。
肩の上では、黒いスライムのピノがぷるんと嬉しそうに揺れている。
「……悪くありませんね」
そう呟くと、足元で雑巾を絞っていたノエルが顔を上げた。
「……ぐれいせんせい」
「はい」
「きょう、ひとくる?」
その問いに、グレイはノエルへ視線を向ける。
「ええ。来ますよ」
「今日は説明会ですから」
ノエルはまだ難しい言葉が分からないのか、小さく首を傾げた。
「……せつめいかい?」
「この保育園がどういう場所なのか、街の人達にきちんとお話しする時間です」
「お父さんやお母さん、それから子供達のことを気にかけている人達に、“ここは安心できる場所ですよ”と伝えなくてはいけません」
ノエルは少し考えてから聞く。
「……なんで?」
グレイは一瞬だけ目を細めた。
子供らしい、まっすぐな問いだった。
「人は、知らないものを怖がるからです」
「新しい場所も、知らない人も、何をするのか分からないと不安になるでしょう?」
ノエルは小さく自分の胸元を握る。
たぶん、分かるのだろう。
知らない場所が怖いこと。
行く先が分からないことが、どれほど不安か。
「……じゃあ」
「こわくないって、いうの?」
「ええ」
「そう伝えるんです」
グレイが微笑むと、ノエルはこくりと頷いた。
「……わたしもいう」
「おや」
「ここ……いいとこって」
その小さな言葉に、グレイの胸の奥がわずかに熱くなる。
「ありがとうございます」
「それは、とても心強いですね」
その時、敷地の外から足音が聞こえてきた。
グレイが視線を向けると、そこには二人の女性が立っていた。
リリア・エヴァレット。
セラフィーナ・クロイス。
昨日、施設の修復を手伝ってくれた二人だ。
リリアはどこか遠慮がちに手を上げる。
「お、おはようございます」
「おはようございます、グレイさん」
セラフィーナは無言で軽く頷いた。
グレイは穏やかに一礼する。
「おはようございます」
「昨日は助かりました」
リリアは少し気まずそうに笑う。
「い、いえ……昨日はその……勢いで手伝っちゃっただけなので」
その言い方に、セラフィーナが横から淡々と付け足した。
「今日は手伝いに来たわけじゃない」
「説明会があると聞いたから、様子を見に来ただけだ」
「せ、セラフィーナ」
「事実だろう」
グレイはそれでも表情を変えず、静かに頷く。
「それでも、来てくださってありがとうございます」
リリアは少しだけ目を瞬かせた。
もっと馴れ馴れしく接してくるか、あるいは“昨日手伝ったのだから当然味方だろう”という顔をされると思っていたのだ。
だがグレイは違った。
きちんと線を引き、無理に踏み込んでこない。
(この人……)
(本当に変な人)
(優しいのに、押しつけがましくない)
セラフィーナはそんなやり取りを黙って見ていた。
(こちらの立場を勝手に決めない、か)
(妙な男だ)
(だが……嫌いではない)
ノエルは二人を見ると、小さく手を振った。
「……りりあ」
「……せら」
昨日の短いやり取りだけで、どうやら名前は覚えていたらしい。
リリアの表情がふっと緩む。
「おはよう、ノエルちゃん」
セラフィーナも短く答えた。
「……おはよう」
その様子に、グレイは内心で少し驚いていた。
(ノエルが、自分から声をかけるとは)
(思っていたより、この子は人を見る目があるのかもしれませんね)
午前のうち、グレイは一人で説明会の準備を進めた。
机を動かし、椅子を並べ、紅茶を淹れるための湯を沸かす。
ノエルはその横で、昨日と同じように雑巾で机の脚を一生懸命に磨いていた。ピノが横でぷるぷると揺れながら、それを手伝っている。
「……ここ、まだよごれてる」
「ぷる」
「ぴの、こっち」
「ぷるる」
リリアは少し離れたところから、その様子を見ていた。
昨日は、ただ放っておけなかったから手を貸した。
それだけのはずだった。
なのに今、こうして朝からまた来てしまっている。
(なんで来ちゃったんだろ)
(いや、気になるからに決まってる)
(この保育園のことも)
(この子のことも)
(……この男のことも)
セラフィーナは腕を組み、施設全体を観察していた。
昨日、自分も手を貸したとはいえ、ここまで整った最大の理由は明らかにグレイ一人の異常な手際にある。
屋根の補修。
柱の交換。
床板の補強。
あれは職人の仕事だ。
しかも、ただの職人ではない。
戦場で兵站や築城を指揮する側の知識すら感じる。
(ただの流れ者ではない)
(かといって、盗賊や傭兵の匂いでもない)
(……何者だ)
グレイ本人は、そんな視線にも気づいていないふりをして、淡々と準備を進めていた。
(さて)
(来るなら、そろそろでしょう)
(どこまで理解を得られるか)
(あるいは、どこまで拒絶されるか)
そして、正午が近づく頃。
最初の住民が現れた。
子供を連れた若い母親。
腕を組んだ年配の男。
近所の主婦たち。
ただ噂を聞きつけて様子を見に来ただけの野次馬。
最初はまばらだった人影が、少しずつ庭先へ集まり始める。
「本当に保育園にするつもりなのか?」
「ここ、昨日まで廃墟だっただろ」
「子供を預けるには危なくないか?」
「っていうか、あの男誰だよ」
ひそひそ声が飛び交う。
グレイは入口の前に立ち、深く一礼した。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
「このたび、こちらの施設を“ひだまりのゆりかご保育園”として開くため、簡単な説明をさせていただきます」
声は落ち着いていて、よく通った。
大きすぎず、だが不思議と全員の耳に届く声だった。
ざわついていた人々が、少しずつ静かになる。
「ここは元々、子供達のための施設だった場所だと伺っています」
「長く使われずにいましたが、このたび私が購入し、子供の居場所としてもう一度整えることにしました」
すぐに手が上がった。
四十代ほどの女性だ。
「ちょっと待って。あんた、街の人じゃないよね?」
「どこの誰なの?」
グレイは頷く。
「おっしゃる通りです。私は他所から来た者です」
「名はグレイ・アークロード」
「この保育園の園長を務めます」
「園長?」
別の男が眉をひそめる。
「そんな簡単に名乗っていいもんなのか?」
「そもそも、子供の面倒なんか見られるのかよ」
「見ます」
グレイは静かに答えた。
「そのためにここに来ました」
断言だった。
だが、それだけでは足りない。
住民達の表情はまだ硬い。
グレイは少しだけ間を置き、続ける。
「私は、立派なことを言える人間ではありません」
「この街の出身でもなければ、皆さんの暮らしを昔から知っているわけでもない」
「ですが、子供に居場所が必要だということだけは分かります」
その言葉に、ざわめきが少しだけ弱まった。
「子供は大人よりもずっと小さく、ずっと弱い」
「行く場所がなくても、自分ではどうにも出来ません」
「泣いても、助けを求めても、届かないことがあります」
「だからこそ、大人が場所を作らなければいけない」
リリアが息を呑む。
その言葉は、まるで彼女自身の過去に触れてくるようだった。
「ここは豪華な施設にはなりません」
「最初は古く、足りないものも多いでしょう」
「それでも、泣いている子が“ここにいていい”と思える場所にはしたい」
「預ける親御さんが“ここなら任せられる”と、少しずつでも思える場所にしたい」
「私は、そのためにこの保育園を開きます」
強い口調ではない。
だが、ひどく真っ直ぐな言葉だった。
リリアの胸の奥が、じわりと熱を持つ。
(この人……)
(綺麗ごとじゃなくて)
(本気で言ってる)
セラフィーナは横で、黙ってグレイを見つめていた。
(言葉に淀みがない)
(嘘ではないな)
(少なくとも、この瞬間は)
そこでリリアが、思わず一歩前へ出そうになる。
だが、踏みとどまった。
まだ自分は関係者ではない。
勝手にしゃしゃり出る立場ではない。
それでも、胸の中は揺れていた。
そこへ、庭の隅で腕を組んでいたバルトが、気まずそうに咳払いをした。
「……その建物は、俺が売った」
全員の視線がそちらへ向く。
バルト・グランディス。
昨日まで悪徳不動産屋として陰口を叩かれていた男だ。
「元々、面倒な物件だったのは事実だ」
「だが、こいつ……いや、このグレイって男は、本気で直しやがった」
「それは、まあ……認める」
かなり苦そうな声だった。
グレイが微笑む。
「ありがとうございます、バルトさん」
「礼を言われる筋合いはねぇ!」
だが以前ほどの棘はない。
住民達も、その変化を感じ取っていた。
その時だった。
庭先の空気が、ぴんと張った。
ざわめきが止む。
住民達が一斉に道を開けた。
馬の蹄の音。
整然とした足音。
やってきたのは、数名の護衛を伴った一団だった。
先頭に立つ男は、銀灰色の髪を風に揺らし、青い瞳でまっすぐこちらを見据えている。
軍服を思わせる領主服。
無駄のない細身の体。
しかしその佇まいからは、ただの貴族ではない緊張感があった。
アルヴェイン・リトルベル。
この辺境領を治める若き領主だった。
その半歩後ろには、副官カイン・ラウドと文官ミレーネ・クロアの姿もある。
アルヴェインが立った瞬間、庭にいた住民達の空気が明らかに変わった。
「領主様……」
「どうしてここに」
「やっぱり騒ぎになったんだ」
リリアの顔が強張る。
セラフィーナは反射的に一歩だけ前へ出て、ノエルとの位置関係を確認した。
(強い)
(この男……元騎士か)
アルヴェインは周囲を見渡し、最後にグレイへ視線を止めた。
「あなたがグレイ・アークロードですか」
「はい」
「私はアルヴェイン・リトルベル。この地の領主です」
「お会いできて光栄です、領主様」
グレイは丁寧に頭を下げた。
アルヴェインはその所作を冷静に見ていた。
(落ち着いている)
(この状況で怯みもしないか)
(噂だけの怪しい男なら、もっと慌てるはずだ)
だからこそ、余計に警戒が強まる。
「本題に入りましょう」
アルヴェインの声は静かだった。
「昨日、この施設の修復を巡って騒動があったと聞いています」
「大工頭ガンズとその部下数名が負傷した。事実ですか」
庭の空気が一気に冷えた。
リリアが息を呑む。
バルトは顔をしかめ、セラフィーナは目を細めた。
ノエルは状況がよく分からないまま、グレイの服をそっと掴む。
グレイは視線を逸らさない。
「事実です」
ざわめきが走る。
だが彼は続けた。
「ただし、こちらから仕掛けたものではありません」
「修復を妨害され、施設を破壊しようとしたため、止めました」
「止めた?」
副官カインが一歩前へ出る。
「壁に叩き込むことを“止めた”と?」
その声音には棘があった。
グレイは答える。
「子供が突き飛ばされ、怪我をしました」
「それ以上は、許容できませんでした」
その一言で、ノエルを掴む手が少しだけ震えた。
アルヴェインの目がノエルへ移る。
小さな少女。
銀の髪。
傷はもうないが、怯えるようにグレイの服を握っている。
領主としての理性と、騎士だった頃の感覚が、そこで一瞬ぶつかった。
(子供を守った、か)
(……それ自体は間違っていない)
(だが、だからといって無制限の暴力を許せるわけでもない)
ミレーネが手元の書類に視線を落としながら、事務的に口を開く。
「施設運営の許可申請は未提出です」
「責任者の身元証明も不足しています」
「さらに、昨日の件に関する正式な報告もありません」
「現状、この施設はかなり問題があります」
リリアの顔が青ざめた。
「そ、それは……」
「急ぎすぎて、そこまでまだ……」
グレイはリリアの方を見なかった。
彼女を庇うでもなく、責めるでもなく、ただ正面を見たまま立っていた。
その背中が、逆にリリアの胸を強く打つ。
(この人……)
(私達を巻き込まないようにしてる)
(“自分の問題だ”って、一人で立ってる)
セラフィーナもまた、グレイを見ていた。
(逃げない)
(言い訳もしない)
(自分一人で受けるつもりか)
アルヴェインが静かに言う。
「分かっています」
「だからこそ、私が直接来た」
その視線は、まっすぐグレイへ向く。
「あなたが何者で、何を目的にここを開こうとしているのか。私は確かめなければならない」
「この街の子供達を預ける場所なら、なおさらです」
緊張が張り詰める。
セラフィーナはわずかに重心を落とした。
グレイは穏やかな顔を崩さない。
そして、静かに答えた。
「私は、子供達の居場所を作りたいだけです」
アルヴェインの眉が、ほんの僅かに動く。
「それだけですか」
「ええ。それだけです」
「信じろと?」
「信じるかどうかは、領主様が決めることです」
「ですが、この場所が必要だということだけは、嘘ではありません」
風が吹いた。
看板が小さく揺れる。
ノエルがグレイの袖を握ったまま、小さな声で言う。
「……ぐれいせんせい」
その声に、アルヴェインの視線がまた彼女へ落ちる。
グレイはちらりとノエルを見てから、改めて領主へ向き直った。
「ただの保育園の先生です」
それは、偽りだった。
だが同時に、今の彼にとっては一番本当の言葉でもあった。
アルヴェインはしばらく何も言わなかった。
住民達も、息を潜めて次の言葉を待っている。
やがて領主は、静かに告げた。
「ならば、正式に調査します」
「この施設と、あなた自身を」
その宣言に、庭の空気が再びざわめいた。
リリアの心臓が大きく跳ねる。
(調査……)
(それって、認可されないかもしれないってこと?)
(せっかくここまで直したのに)
(せっかく、ノエルちゃんが……)
セラフィーナは静かに目を細めた。
(ここからが本番、ということか)
(この男がどう動くのか、見せてもらう)
バルトは苦い顔で舌打ちする。
「……面倒なことになりやがった」
ノエルだけが状況を完全には理解できず、それでも不安そうにグレイの手を握っていた。
グレイは、その小さな手をそっと握り返す。
説明会は、思っていたよりずっと重い形で終わりを迎えようとしていた。
だが。
グレイ・アークロードは、まだ一度も視線を逸らしていなかった。
その姿は、まるで。
これから始まる本当の戦いを、静かに受け入れているように見えた。




