第3話 ひだまりの食卓と、壊せない約束
翌日、昼時。
辺境の街リトルベルの空はよく晴れていた。
朝から昇っていた日差しはすっかり強さを増し、崩れかけだった保育施設の屋根を明るく照らしている。昨日まで灰色に沈んで見えた建物は、まだ古びてはいるものの、今は確かに「建て直されつつある場所」の顔をしていた。
新しく組み直された梁。
きちんと並べ直された瓦。
板で塞がれていた窓枠は取り外され、風が通るようになった。
雑草だらけだった庭も半分以上が片付き、土の色が見えている。
完璧ではない。
それでも、八割ほどは修復できていた。
ただの廃墟だったものが、少しずつ“子供たちの居場所”に変わっていく。
その変化は、見ている者の心を妙に落ち着かなくさせるだけの力があった。
「……ひとまず、こんなところでしょうか」
屋根の上から周囲を見渡し、グレイは静かに息をついた。
半日、いや実質一日と少しでここまで直したのだ。
本来ならあり得ない速度だった。
だが、彼にとってはまだ遅いくらいだった。
(本当なら、今日中に全部仕上げたいところですが)
(焦って雑になるのは良くありませんね)
(ここは戦場ではない。急ぐより、丁寧に、確実に……です)
その考え方そのものが、かつての魔王らしくもあり、今の園長らしくもあった。
肩の上で、ピノがぷるんと揺れる。
「ぷる」
「ええ。お腹も空きましたね」
グレイがそう言うと、地上で雑草を束ねていたノエルが顔を上げた。
「……おなか、すいた」
小さな声。
だが、かなり真剣な響きだった。
それを聞いたグレイは、ふっと笑う。
「そうですね。ちょうどお昼です」
屋根から軽やかに飛び降りる。
細身の体が音もなく地面に着地した瞬間、近くで木材を運んでいたリリアが思わず目を丸くした。
(やっぱり、この人……身体能力がおかしい)
(昨日からずっと思ってたけど、普通じゃない)
(でも……)
彼女はグレイを見る。
汗をかいて、埃まみれになりながら、それでも穏やかに笑う男。
高圧的でもなければ、偉ぶりもしない。
ただ黙々と、子供のために場所を作っている。
その姿は、リリアの胸の奥にある“昔の願い”を何度も刺激していた。
セラフィーナは運び終えた板材を地面に置き、腕を組んで建物を見る。
(この速度は異常だ)
(工具の扱いも、力の入れ方も、まるで長年の熟練職人……いや、それ以上)
(なのに、戦いの気配も消せている)
(なんだ、この男は)
元聖騎士としての直感が警鐘を鳴らしていた。
危険だ。
底が見えない。
ただ優しいだけの男ではない。
だが同時に、セラフィーナはもうひとつ理解し始めていた。
この男は、少なくとも子供に害をなす側ではない。
それどころか――。
「皆さん」
グレイが手を軽く叩いた。
「お昼にしましょう」
ノエルがぴくっと反応する。
「……ごはん?」
「ええ。働いた後のごはんは大事です」
リリアが少し驚いた顔になる。
「もう作るんですか?」
「こんな状態なのに……?」
グレイは当然のように頷く。
「こんな状態だからこそ、です」
「空腹では良い作業は出来ませんし、子供を待たせるわけにもいきません」
ノエルがこくこくと強く頷いた。
「……おなかすいた」
セラフィーナが、ほんのわずかに口元を緩める。
「素直だな」
「……おなかすいた」
「二回言ったな」
「大事なことですから」
グレイが真顔で言って、リリアが思わず小さく吹き出した。
ついさっきまで黙々と修復作業をしていた空気が、そこで少しやわらいだ。
グレイは施設の中へ入り、昨日掃除したばかりの仮設キッチンへ向かう。
本来はとてもキッチンと呼べる状態ではなかった。
古びた調理台。
ひび割れた流し。
煤けたかまど。
それでもグレイは、朝のうちに最低限使えるように整えていた。
桶の水を替え、まな板を削って平らにし、包丁の刃も研いである。
準備だけなら、すでに完璧だった。
「ノエル、お手伝いできますか?」
ノエルは一瞬だけ目をぱちぱちさせたあと、小さく胸を張る。
「……できる」
「頼もしいですね」
グレイはしゃがんで、ノエルと目線を合わせた。
「では、野菜を洗ってもらえますか?」
「ここに水があります。落とさなくていい、ゆっくりで大丈夫です」
ノエルは真剣な顔で、両手いっぱいに根菜を抱える。
少しよろける。
ピノが慌てて横から支えた。
「ぷるっ!」
「……ありがと、ぴの」
その姿に、リリアの胸がじわっと熱くなった。
(こんな小さい子が)
(手伝おうとしてる)
(守られるだけじゃなくて、自分もここを作ろうとしてるんだ)
グレイは鍋を火にかけながら、手早く食材を刻んでいく。
玉ねぎ。
芋。
豆。
干し肉。
少しの香草。
包丁の音が小気味よく響く。
トントントントン、と一定の速さで刻まれる野菜は、どれも大きさが揃っている。迷いのない刃筋。食材の硬さに合わせた角度。火の通りまで考えられた厚み。
リリアは思わず呟いた。
「……料理まで上手いんですか」
グレイは振り向かずに答える。
「生きるために必要なことは、だいたい出来るようにしてきました」
「“だいたい”の範囲が広すぎませんか……?」
鍋に油を引き、玉ねぎを炒める。
香りが立つ。
そこへ野菜と干し肉を加え、水と塩、香草を入れる。
ぐつぐつ、と優しい音が響き始めた。
それだけで、場の空気が変わる。
リリアの腹が、きゅっと小さく鳴った。
「……あ」
思わず赤くなる。
セラフィーナが視線を逸らしながら言った。
「気にするな。私も鳴りそうだ」
「言わなくていいです!」
ノエルは真剣な顔で野菜を洗いながら、そっとグレイに聞いた。
「……せんせい」
「はい」
「なにつくってるの?」
「野菜のスープです」
「まだ道具も食材も足りませんから、今日は簡単なものですが……温かい方が良いでしょう?」
「……あったかいの、すき」
その一言に、グレイの手がわずかに止まる。
ほんの短い言葉。
だが、それだけで十分だった。
「そうですか」
彼は、少しだけ優しく笑った。
「では、美味しく作らないといけませんね」
昼食は、修復途中の建物の中で食べることになった。
まだ壁の板は一部剥き出しで、窓も全部は直っていない。
それでも、昨日よりはずっと“部屋”らしくなっている。
板を渡しただけの簡易机。
古い椅子。
それでも、温かいスープと焼いたパンが並ぶと、不思議と見られる光景になった。
「どうぞ」
グレイが器を差し出す。
ノエルは両手で受け取り、そっと匂いを嗅いだ。
「……いいにおい」
「熱いですから、ゆっくりですよ」
リリアもスープを一口飲んで、目を見開いた。
「……美味しい」
「すごく優しい味……」
セラフィーナも静かに口に運ぶ。
そして無言になる。
「お口に合いませんでしたか?」
グレイが尋ねると、セラフィーナは少しだけ間を置いて答えた。
「いや」
「……美味い」
それだけ言って、もう一口飲む。
ノエルは猫舌なのか、ふーふーと一生懸命息を吹きかけていた。
その様子を見て、グレイが少し首を傾げる。
「貸してください」
「少し冷ましましょう」
器を受け取って、手のひらの上でほんのわずかに冷気を流す。
誰にも気づかれない程度の、小さな魔法。
「はい。これなら大丈夫です」
ノエルは一口飲んで、目を丸くした。
「……おいしい」
「それは良かった」
短いやり取りなのに、その空気は妙にあたたかかった。
しばらくして、自然と会話が生まれる。
最初に口を開いたのはリリアだった。
「……ちゃんと自己紹介、まだでしたね」
彼女は器を置き、少しだけ背筋を伸ばした。
「私はリリア・エヴァレットです」
「このリトルベルの出身で……昔、この街の孤児院にいたことがあります」
そこで一瞬だけ言葉が止まる。
脳裏に浮かぶのは、寒い冬の夜、泣いていた子供たちの顔。
連れて行かれる小さな背中。
何も出来なかった、自分の手。
「子供の居場所を作りたいって、ずっと思っていました」
「だから……ここを直してるのを見た時、放っておけなかったんです」
グレイは静かに頷いた。
「そうでしたか」
「変ですよね」
「初対面の相手なのに、勝手に手伝うなんて」
「いいえ」
「むしろ、とてもありがたいです」
その言葉に、リリアは少しだけ救われたように笑った。
次にセラフィーナが短く名乗る。
「セラフィーナ・クロイス」
「元は王国側の……まあ、騎士のようなものだった」
「“ようなもの”ですか?」
グレイが聞くと、セラフィーナは口元を少しだけ歪める。
「今はただの流れ者だ」
「剣の腕と、多少の雑務が出来るだけだ」
「多少、ではないでしょう」
リリアがぼそっと言う。
「さっき重い木材を一人で持ってたじゃない」
「お前も人のことは言えないだろう」
少しだけ軽口が交わされる。
そんな二人を見て、ノエルがグレイの袖を引っ張った。
「……せんせい」
「はい」
「せんせいも」
「私ですか?」
「おなまえ」
グレイは一瞬だけ目を細める。
偽名。
仮の姿。
子供の前に出している優しい顔。
だが今、この場に必要なのはそれで良かった。
「グレイ・アークロードです」
「ぐれい……」
「ええ。グレイ先生、と呼んでください」
ノエルは少し考えてから、こくりと頷いた。
「……ぐれいせんせい」
初めてそう呼ばれた瞬間だった。
その響きに、グレイは心の奥がほんの少し揺れるのを感じた。
(……悪くありませんね)
「ノエルも、もう一度お願いできますか?」
ノエルは器を抱えたまま、小さな声で言った。
「……ノエル」
「ノエルさん」
「……うん」
昼休憩は、短いながらも穏やかだった。
その時間の裏で、建物の外からじっとこちらを見ている男が一人いる。
バルト・グランディス。
悪徳不動産屋。
彼は少し離れた木陰に立ち、腕を組んでこちらを見ていた。
(なんなんだ、あいつら……)
昨日、自分はこの旅人に圧倒された。
泡を吹いて倒れるほどの恐怖を味わった。
それなのに今、あの男は子供と一緒に飯を食っている。
しかも、笑っている。
優しそうな顔で。
まるで、最初からそういう男だったみたいに。
理解できなかった。
(人間じゃねぇ)
(絶対に普通じゃねぇ)
(なのに……なんであんな顔してやがる)
その胸の中にあるのは恐怖だけではない。
戸惑い。
居心地の悪さ。
そして、ごく小さな罪悪感。
この建物は、自分にとっては古くて厄介な“物件”でしかなかった。
だが、あの女――リリアの顔を見ていると、それだけでは済まないものだったのだと思い知らされる。
(……面倒なことになりやがった)
昼食を終え、休憩が終わる。
再び作業が始まった。
グレイはすぐに全体の段取りを組み直した。
「リリアさんは窓枠の掃除をお願いします」
「セラフィーナさんは裏手の危険な瓦礫を片付けてください」
「ノエルは……」
ノエルがじっと見上げる。
「……わたしもやる」
「もちろんです」
「では、ピノと一緒に釘を分けてもらえますか?」
ノエルの顔が少し誇らしげになる。
「……できる」
「頼もしいですね」
グレイは微笑んだ。
そして自分は、正面の柱へ向かう。
古く黒ずんだ柱に手を当て、わずかに力を加える。
ぐらりと傾く感触。
中はほとんど腐っている。
「……これは交換ですね」
グレイは腰を落とし、一息で柱を引き抜いた。
普通の人間ならあり得ない力だった。
リリアが息を呑む。
「え……?」
セラフィーナの目が鋭く細まる。
(やはり)
(細い体で、あの柱を素手で……?)
グレイは何事もないように新しい木材を担ぎ、寸分違わぬ位置へはめ込んでいく。水平も垂直も、測るまでもなく頭に入っている。支え木を入れ、打ち込み、補強し、最後に全体の歪みを見る。
無駄がない。
あまりに完成されすぎている。
そこへ、騒がしい足音が近づいてきた。
「おいおいおい、なんだこれはよ!!」
乱暴な声だった。
現れたのは、がっしりした体格の男を先頭にした数人の集団。
腕まくりした作業着。
工具箱。
木槌。
鋸。
見るからに職人だ。
先頭の男は四十代半ばほど。
日に焼けた顔に太い腕、いかにも現場を仕切る男という風格がある。
リトルベルの大工頭、ガンズだった。
「勝手に何やってやがる!」
怒鳴り声が庭に響く。
野次馬たちがざわついた。
「ガンズの旦那だ」
「噂聞いて来たんだろうな」
「そりゃ怒るわ」
ガンズは修復されつつある施設を見て、ますます顔を歪めた。
「この街の建物いじるなら、まず俺んとこに話通すのが筋だろうが!」
「よそ者が勝手に仕事奪ってんじゃねぇ!」
その背後の部下たちも口々に怒鳴る。
「そうだそうだ!」
「俺らを舐めてんのか!」
「素人細工で壊したらどうすんだ!」
グレイは正面の柱から手を離し、静かに振り返った。
「仕事を奪うつもりはありません」
「だったら何だってんだ!」
「すぐに使える場所が必要だったんです」
「それに、修復出来る範囲は自分たちでやろうと」
ガンズは鼻で笑う。
「自分たちぃ?」
「ガキと女連れて、何が自分たちだ」
「ふざけるのも大概にしろ!」
リリアの表情が曇る。
セラフィーナの手がぴくりと動く。
だがグレイは穏やかなままだった。
「怒るのは分かります」
「ですが、こちらにも事情があります」
「話し合いで――」
「うるせぇ!」
ガンズが一歩前へ出る。
「話で済むかよ!」
「こっちはこの街で食ってんだ!」
「勝手な真似されて、はいそうですかで済むか!」
部下の一人が苛立ちのまま、手近な木材を蹴り飛ばした。
もう一人は直したばかりの柵へ手をかける。
「壊しちまえ!」
「こんなもん更地にした方が早ぇ!」
その瞬間。
バルトが青ざめて飛び出した。
「や、やめろ!」
全員が一瞬そちらを見る。
自分でも驚くほど大きな声だった。
バルトは息を荒くしながら叫ぶ。
「そいつを壊すんじゃねぇ!」
「い、いや……壊したら、その……面倒なことになる!」
ガンズが怪訝そうに顔をしかめる。
「なんだお前」
「昨日まで誰も欲しがらなかったボロ小屋だろうが」
「そ、それは……!」
言えない。
“あの男を怒らせたらまずい”とは、とても言えない。
セラフィーナはすでに一歩前へ出ていた。
近くにあった工具――長めの木槌の柄を手に取る。
その立ち姿が一瞬で変わる。
空気が張り詰めた。
元聖騎士の構え。
無駄のない重心。
獲物との間合いを見切る目。
部下の一人が突っ込んできた瞬間、セラフィーナの腕が閃いた。
鈍い音。
「がっ!?」
胸打ち一発。
男は息を詰まらせてその場に崩れ落ちる。
もう一人が怒鳴って飛びかかる。
セラフィーナは半歩だけずれ、柄の先端で鳩尾を打ち抜いた。
「ぐぇっ!」
ただの大工が勝てる相手ではなかった。
その捌きは、聖騎士長級。
剣ではなく木槌の柄を持っていても、なお圧倒的だった。
グレイは眉を下げる。
「できれば穏便に済ませたいのですが……」
「穏便!?」
ガンズは怒りで顔を真っ赤にする。
「こっちは女に部下をやられてんだぞ!!」
「舐めてんのか!!」
怒号と同時に、ガンズ本人がグレイへ突っ込んだ。
ノエルがびくっと肩を震わせる。
「や、やめて……!」
小さな体で、それでも止めようとして前へ出る。
だが。
「どけ、ガキ!」
ガンズの手が乱暴に振られた。
ノエルの小さな体が押し飛ばされる。
地面に倒れ、肘を石に擦る。
赤い線が走った。
一瞬、ほんの一瞬だった。
だが、それは決定的だった。
グレイの顔から、表情が消える。
空気が変わった。
重い。
圧倒的に重い。
さっきまでの穏やかさが嘘のように、その場の温度が下がる。
野次馬たちが息を呑む。
バルトの顔から血の気が引く。
(あ、まずい)
(やめろ)
(それだけはダメだ)
グレイはノエルを見た。
小さな肘に滲んだ赤。
驚きと痛みに揺れる青い瞳。
その光景を見た瞬間、彼の中で何かが切れた。
「……この子に」
低い声。
魔王の声だった。
「何をする?」
ガンズが一瞬だけたじろぐ。
だが遅い。
次の瞬間、グレイはもう目の前にいた。
細いはずの腕が、ガンズの懐深くへ潜り込む。
鈍く、重い一撃。
ただ殴っただけではない。
力の芯を一点に集め、骨も臓腑も壊しすぎないよう制御した、恐ろしく精密な打撃だった。
「が――ッ!!」
ガンズの体が吹き飛ぶ。
隣の建物の壁へ叩きつけられ、そのままめり込んだ。
土煙が舞う。
誰も声を出せない。
死んではいない。
だが、生きているのが不思議なほどの威力だった。
グレイはゆっくりとノエルのもとへ歩み寄り、しゃがみ込む。
「見せてください」
ノエルはびっくりした顔で肘を差し出す。
「……いたい」
「ええ。すぐに治します」
グレイの指先から、ほんのわずかな癒やしの光がこぼれる。
傷は浅い。
すぐに血が止まり、痛みも引いた。
「もう大丈夫です」
ノエルは涙をこらえながら、こくりと頷く。
「……うん」
グレイはその小さな頭を、そっと撫でた。
「怖い思いをさせました」
「すみません」
その姿を見て、リリアは胸が締めつけられるような気持ちになった。
(怒った……)
(この人、あんなに静かなのに)
(子供が傷ついた瞬間だけ、顔が変わった)
セラフィーナもまた、黙ってグレイを見る。
(今の一撃……)
(殺さず、だが完全に無力化した)
(なんという制御だ)
(やはり、この男は――)
バルトは、へなへなとその場に座り込んでいた。
(やっぱりだ)
(やっぱり人間じゃねぇ)
(でも……)
視線の先で、グレイはノエルの傷を確かめながら優しく微笑んでいる。
怖い。
とてつもなく怖い。
なのに、その怖さの向く先が“子供を傷つける相手”だけだと、もう分かってしまった。
残された大工たちは完全に青ざめていた。
「に、兄貴……」
「む、無理だ……」
「帰ろう……!」
誰もグレイへ近づけない。
ガンズは壁にもたれたまま気絶している。
結局、その騒動はそれで終わった。
トラブルはあった。
だが。
もう誰も、この場所を壊そうとはしなかった。
午後の作業は、むしろ奇妙な静けさの中で進んだ。
グレイは再び屋根へ上がり、最後の瓦を整えた。
セラフィーナは割れた板を運び、危険な箇所を片付ける。
リリアは窓枠を磨き、部屋の中を掃除する。
ノエルはピノと一緒に釘を分け、小さな木片を集める。
バルトは文句も言わず、裏の倉庫から使えそうな資材を持ってきた。
夕方、傾きかけた陽が建物を赤く染める頃。
ボロいながらも、保育園は“保育園の形”を取り戻していた。
新しい屋根。
補強された柱。
掃除された部屋。
片付いた庭。
まだ粗削りだ。
だが、もう廃墟ではない。
グレイは一歩下がって、建物全体を見上げた。
「……完成、ですね」
ノエルがその隣で、同じように見上げる。
「……ほいくえん」
「ええ」
グレイは微笑んだ。
「ボロいですけどね」
リリアが少し笑う。
「でも、ちゃんとあったかいです」
セラフィーナが短く言う。
「少なくとも、昨日よりはずっと“守れる場所”だ」
バルトは腕を組みながら、わざとらしく鼻を鳴らした。
「……まあ、悪くねぇんじゃねぇか」
その声は小さかった。
だが、確かに昨日までとは違っていた。
こうして。
トラブルはあったものの。
辺境の街リトルベルの片隅に、ひとつのボロい保育園が完成した。
それはまだ立派とは言えない。
けれど。
泣いている子供に「ここにいていい」と言えるだけの形には、なっていた。




