第1話 辺境の街リトルベル
辺境の街リトルベルは、王国の中心都市から馬車で十日ほど離れた場所にあった。
街の北には深い森が広がり、南には荒れた街道が延びている。決して豊かな土地ではない。魔物の被害も珍しくなく、冬になれば冷たい風が石畳の隙間を吹き抜ける。王都のような華やかさとは無縁の、小さな辺境の街だ。
だが、だからこそだろうか。
ここには、確かに人の暮らしがあった。
朝の市場では、農夫が泥付きの根菜を並べ、露店の女主人が焼きたてのパンを籠いっぱいに積んでいる。井戸端では主婦たちが声を潜めることもなく世間話を交わし、石畳の上では子供たちが裸足同然で駆け回っていた。荷馬車の車輪がきしむ音、犬の吠える声、鍛冶場から聞こえる鉄を打つ音。派手ではないが、街はちゃんと息をしていた。
その通りを、一人の男がゆっくりと歩いていた。
黒髪。
膝まで届く長い髪は後ろでひとつに束ねられている。
丸眼鏡。
華奢に見える細身の体。
顔立ちは整っているが、全体としてはどこか頼りなく、風が吹けば倒れてしまいそうな印象さえある。
男の名は、グレイ・アークロード。
――もちろん、偽名だ。
その正体は、かつて魔界を統一し、七十二の魔族国家を跪かせ、三代の勇者を葬り去った最凶の暴虐魔王。
ルシフェル・ヴァルディア。
今の彼は、人間の姿に扮していた。
本来は膝まで届く漆黒の髪も、灰白色の肌も、深紅の魔眼も、底の知れない低い声も、すべて魔法と魔道具で偽装してある。丸眼鏡に仕込まれた隠蔽術式と、己の身に纏わせた特殊遮断結界【アビス・ヴェール】が、魔力も気配も種族情報も完璧に覆い隠していた。
鑑定スキル程度では、まず見抜けない。
「……静かな街ですね」
穏やかな声で呟くと、肩の上の黒いスライムが、ぷるりと揺れた。
「ピノもそう思いますか?」
スライムは、嬉しそうにもう一度震える。
ピノ。
世界誕生以前から存在する原初スライムにして、ルシフェル最古の従魔。
その実力は四天王すら上回る規格外だが、今の見た目は手のひらに乗る程度の、愛嬌しかない黒いぷにぷにでしかない。
市場の子供がちらりとこちらを見て、母親の袖を引っ張った。
「おかあさん、みて。くろいスライム」
「指さしちゃだめよ。でも……かわいいわねぇ」
グレイは少しだけ目を細めた。
戦場にはない光景だった。
血の匂いも、怒号も、崩れ落ちる城壁もない。
ただ、人が生きている。
「さて……」
グレイは街の奥へと歩き出した。
通りすがる人々はちらりと彼を見る。
見慣れぬ旅人、くらいの反応だった。
誰も気づかない。
目の前を歩いている男が、つい数年前まで世界を恐怖で支配していた魔王だということに。
「ここで少し、暮らしてみましょうか」
その言葉に、ピノが賛同するように小さく跳ねた。
街をしばらく歩くうちに、石畳は少しずつ荒れ、店の数も減り、人通りもまばらになっていった。どうやら街の外れに近づいているらしい。
そこに並んでいたのは、使われなくなった建物ばかりだった。
崩れかけた石壁。
扉の外れた倉庫。
窓を板で打ち付けられた古い工房。
人の気配は薄く、どこか取り残されたような空気が漂っている。
その中で、グレイの足が止まった。
「……これは」
視線の先には、ひときわ痛みの激しい木造の建物があった。
二階建てだが、屋根は大きく歪み、何枚もの瓦が落ちている。外壁は雨風に晒されて板がめくれ、窓ガラスは半分以上が割れたままだ。入口の扉も片方が斜めに沈み、今にも蝶番ごと外れそうだった。正面の木柵は崩れて傾き、庭は雑草が伸び放題で、足首まで埋まりそうな有様である。
まさしく、廃墟。
少し強い風が吹けば、それだけで悲鳴のような軋みが建物全体から響いた。
だが、グレイはその場から動かなかった。
建物の脇に、傾いた古い看板が立っている。
半分剥げ落ち、雨に打たれた木の板には、かすれた文字が辛うじて残っていた。
――保育施設
グレイはゆっくり、その文字を見上げた。
「……なるほど」
中へ視線を向ける。
割れた窓から覗く室内には、小さな机と低い椅子がまだ残っていた。角の丸い棚、散らばった積み木、色褪せた布の人形、端の破れた絵本。埃は分厚く積もっているが、そこには確かに“子供たちがいた場所”の名残があった。
「ここは、元々そういう場所だったのですね」
グレイは静かに周囲を見回した。
庭は広い。
大きな木が一本あり、夏には十分な木陰になるだろう。
街の中心から少し離れているぶん、騒がしすぎない。
子供たちが走り回るには悪くない立地だ。
そして何より――。
ここには、失われた居場所の匂いがした。
肩の上で、ピノがぷるぷると弾む。
「気に入りましたか?」
グレイが微笑むと、ピノはいつもより大きく揺れた。
その時だった。
「おい、あんた」
ねっとりとした声が後ろから飛んできた。
振り返ると、太った男がこちらへ歩いてくるところだった。
年の頃は五十代後半。
背は低めだが腹だけが不自然に突き出し、短い灰色の髪は油で撫でつけられている。鼻の下には短い髭。くたびれた上着の上からでも、何本もはめた派手な指輪が目立った。目つきは妙に粘つき、笑っているのに少しも愛想がない。
「その建物、気になるのか?」
口調は初対面から喧嘩腰だった。
「ええ。少し」
グレイが穏やかに答えると、男は鼻で笑った。
「だったら運がいい。そいつは俺の物件だ」
男は親指で少し離れた場所を示した。
そこには、小さな木造の店舗がある。軒先の看板には乱暴な文字でこう書かれていた。
グランディス不動産
「俺はバルト・グランディス。このリトルベルで土地も空き家もまとめて見てる。要するに、不動産屋だ」
そう名乗った男は、胸を反らせるように立った。
なるほど、とグレイは思う。
この街で唯一の不動産屋なら、他所から来た者に強く出る理由も分かる。
「こちらはグレイ・アークロードです」
「そんなもん聞いてねぇよ。で? 買うのか、買わねぇのか」
無礼な男だった。
だが、グレイは気分を害した様子もなく建物を振り返った。
「もし売りに出されているなら、値段を伺っても?」
バルトはにやりと笑う。
その笑みを見て、グレイはほぼ確信した。
この男は、相場を言う気がない。
「金貨五百枚だ」
あっさり告げられた額に、近くの井戸端にいた老婆たちがぎょっとしてこちらを見た。
金貨五百枚。
この街なら、そこそこの屋敷が買える金額だ。
しかも目の前の建物は、まともに住める状態ですらない。
どう考えても、法外だった。
「……なるほど」
グレイは眼鏡の位置を軽く直した。
「嫌なら別にいいぜ?」
バルトは鼻を鳴らした。
「だがな、旅人。リトルベルで空き物件を買うなら、俺を通さないと始まらねぇ。街の外れの土地も、潰れた倉庫も、そういう厄介な建物はだいたい俺が押さえてる。つまり、ここが欲しいなら言い値で買うしかねぇってわけだ」
勝ち誇ったような顔だった。
グレイはしばし黙ったまま、建物とバルトを交互に見た。
「一つ、確認してもよろしいですか?」
「あ?」
「この建物は、いつから放置されているんです?」
「さあな。十年か、もっと前か。そんなこと気にしてどうする」
「屋根は半壊。外壁は腐食。窓は全損に近い。庭の手入れもされていない。基礎も少し沈んでいますね」
淡々と指摘され、バルトの眉がひくりと動く。
「だからなんだよ」
「中の家具は辛うじて残っていますが、そのまま使えるものはごく一部でしょう。修繕費は相当かかる。仮に保育施設として再利用するなら、安全基準から見ても全面補修が必要です」
「……おい、てめぇ」
「それなのに金貨五百枚」
グレイは穏やかに微笑んだ。
「少し高すぎませんか?」
井戸端の老婆たちが、今度ははっきりとこちらへ耳をそばだてた。
バルトの顔がみるみる赤くなる。
「相場だと言ってるだろうが!」
「いいえ」
グレイはきっぱりと言った。
「相場ではありません」
「なっ――」
「旅人相手だからといって、あまりに足元を見ています」
声は静かだった。
怒鳴りもしない。威圧的でもない。
だが、それがかえってバルトの癇に障った。
「うるせぇな! じゃあ買うな! 金がないなら王都にでも帰れ! この街で商売するなら、俺みたいな地元の人間に頭を下げるもんだろうが!」
周囲の空気が悪くなる。
通りすがりの男が小さく眉をひそめ、老婆の一人が「ああ、また始まったよ」と呟いた。
どうやら、この男の悪評は街の中でも有名らしい。
グレイは少しだけ困ったように笑った。
「では、こちらから提案します」
「は?」
「この建物は金貨十枚が妥当です」
一瞬、静寂。
次の瞬間、バルトは唾を飛ばして怒鳴った。
「安すぎるだろうが!! 馬鹿にしてんのか!?」
「いいえ。むしろ修繕費を考えると高いくらいです」
「てめぇ……!」
「それとも」
グレイは一歩、バルトへ近づいた。
「本当に、この価格に見合う価値があるとお思いで?」
その瞬間だった。
空気が、変わった。
ほんのわずか。
ほんの一瞬だけ。
グレイの笑みは消えていない。
声も変わっていない。
だが、目の前に立つ“何か”が、自分の理解の外にあると本能が叫んだ。
冷たい。
暗い。
深い。
まるで底の見えない闇を、すぐ目の前に突きつけられたような感覚だった。
バルトの背筋を、氷の針が何本も走る。
「ひ……っ」
喉が鳴った。
足が後ずさろうとする。
だが動かない。
肩が震える。
汗が噴き出す。
目の前の痩せた旅人が、急に自分より何百倍も大きな怪物に見えた。
逆らうな。
本能が、それだけを絶叫していた。
グレイは穏やかな口調のまま言う。
「建物の価値は、きちんと見極めるべきです」
「売る側にも、買う側にも」
「そして何より、次にそこを使う者のことを考えなければならない」
バルトの膝ががくがくと震えた。
「い、いや……その……」
「金貨十枚」
グレイは静かに告げた。
「適正価格です」
その一言で限界だった。
バルトは白目を剥き、ぶくぶくと泡を吹きながらその場に崩れ落ちた。
「ぶべっ」
ドサッ、と鈍い音が響く。
井戸端の老婆たちが一斉に立ち上がる。
「ちょ、ちょっと!」
「バルト!?」
「また何やらかしたんだい、あんた!」
グレイは小さく瞬きし、肩の上のピノを見た。
「……少し、やりすぎましたかね」
ピノは、ぷるんと一回だけ揺れた。
近くの住民たちが慌てて水を持ってきて、バルトの顔へばしゃりとかける。
数秒後、男は咳き込みながら意識を取り戻した。
「げほっ、ごほっ……!」
視界に入ったのは、相変わらず穏やかに微笑んでいるグレイの顔だった。
「ひっ!?」
バルトは這うように後ずさる。
「お、俺が悪かった!! 十枚でいい! いや、五枚でも――」
「いえ、十枚で結構です」
「じゅ、十枚で売ります!! 今すぐ売ります!! 書類も出します!!」
涙目だった。
さっきまでの尊大さは、どこにも残っていない。
周囲の住民たちは呆れ顔でそれを見ている。
「……珍しいねぇ。あのバルトがあんなに素直なの」
「よっぽど怖かったんだろうさ」
十分後。
グランディス不動産の小さな店内で、バルトはぶるぶる震える手で売買契約書を書いていた。
店の中は狭かった。
棚には古い権利書や地図が詰め込まれ、机の上には計算盤と空になった酒瓶が雑に転がっている。看板こそ立派だったが、店の規模はほぼ個人商店だ。バルト一人で切り盛りしているらしい。
グレイは契約内容に一通り目を通し、金貨十枚を机に置いた。
「確かに」
バルトは必要以上に首を縦に振る。
「は、はい! 確かに受け取りました! 建物と敷地、全部あんた……いえ、グレイさんのもんです!」
「ありがとうございます」
「いえいえいえ!! こちらこそ!!」
もはや別人だった。
グレイは書類を受け取り、静かに店を出る。
背後では、バルトが椅子に座り込んだまま荒い息をついていた。
「……なんなんだ、あの男……」
気づいてしまったのだろう。
自分がとんでもない存在に喧嘩を売っていたことに。
だが、正体までは分からない。
分からないからこそ、余計に恐ろしかった。
店を出たグレイは、再び例の建物の前へ立った。
傾いた看板。
崩れかけた屋根。
草に埋もれた庭。
それでも今はもう、ここは彼の場所だった。
「……ここにしましょう」
肩の上のピノが、嬉しそうに大きく揺れる。
「少しずつ、直していけばいい」
「屋根を直して、床を張り替えて、壁を塗って……子供たちが安心できる場所にするんです」
グレイの声音は穏やかだった。
かつて国家を滅ぼした魔王とは、とても思えないほどに。
「保育園を作りましょう」
その言葉が、静かな庭に溶けた。
その時だった。
「……ひっく」
小さな泣き声。
建物の影に、うずくまるようにして座っている小さな影があった。
銀色の髪。
年の頃は三歳ほど。
頬は少し汚れ、目元は赤い。
ひとりだった。
「どうしました?」
グレイはしゃがみ込み、目線を合わせるようにそっと近づいた。
少女はじっとグレイを見上げた。
澄んだ青い瞳。
その奥に、子供らしからぬ強い光が、ほんのかすかに宿っている。
「……おなか、すいた」
グレイは一瞬だけ、その気配に目を細めた。
普通の子供ではない。
魔力の質が違う。
いや、もっと別種の――強い加護のようなものを感じる。
だが、それは今どうでもよかった。
大事なのは、この子が空腹で、泣いていたことだ。
「そうですか」
グレイは優しく微笑んだ。
「ちょうど良かった。先生も今からご飯を作るところでした」
少女が小さく首を傾げる。
「……せんせい?」
「ええ」
グレイは、傾いた建物を振り返った。
「ここはこれから、保育園になるんです」
「君は、その最初の園児ですよ」
少女はしばらく、まばたきもせずグレイを見つめていた。
やがて、小さく口を開く。
「……ノエル」
それが、少女の名前だった。
グレイはその名を静かに繰り返す。
「ノエル。いい名前ですね」
そして、まだ誰も知らない。
この小さな少女が。
かつて魔王と戦った勇者の血を引く、たった一人の娘であることを。
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