第15話 銀の女騎士と、追跡の夜
夜。
リトルベルの街は、昼間の喧騒をゆっくりと沈め、まるで別の顔を見せるように静けさへと移ろっていた。
石畳は月光を受けて淡く白く光り、昼の賑わいが嘘のように、人影はまばらになっている。
遠くでかすかに聞こえるのは、酒場の笑い声と、遅くまで働く職人の金属音。
それらも、この広い夜の中ではすぐに溶けていく。
だが――
完全な静寂ではない。
夜には夜の営みがあり、夜にしか動かない者たちがいる。
その一人が、今――屋根の上を滑るように移動していた。
セラフィーナ・ルクシオン。
銀の髪は月光を受けて淡く輝き、だがその存在は、影の中に溶け込むように希薄だった。
外套は風を切らない。
足音は一切立たない。
呼吸は極限まで抑えられている。
その動きは、ただの軽業ではない。
戦場で培われた、実戦の技術。
“見つからないこと”を前提とした、存在の消し方。
(……気配は問題ない)
屋根の端に一瞬だけ足をかけ、次の建物へと飛ぶ。
着地の音は、ほぼ無音。
膝の衝撃を逃がし、重心をずらし、次の動きへと繋げる。
(まずは情報)
思考は無駄がない。
目的は一つ。
グレイ・アークロード。
あの男の正体。
ただの保育園の園長ではない。
それはもう、疑いではない。
確信に近い。
だが――
(問題は……何者なのか)
それが分からない。
それが、気持ち悪い。
分からないものは危険だ。
だが同時に、分からないまま放置することもまた危険だった。
(……あのまま見過ごすわけにはいかない)
あの男は、確かに子供を守っていた。
母親を救っていた。
それは事実だ。
だが――
(それだけで済む存在ではない)
あの一撃。
あの踏み込み。
あの“迷いのなさ”。
あれは、日常にいる人間のものではない。
セラフィーナは視線を前へ向ける。
次の目的地は、すでに決まっていた。
---
冒険者ギルド。
夜でも灯りが消えない、数少ない場所。
扉を押し開けた瞬間、空気が変わる。
酒の匂い。
煙。
汗。
人の熱が、そのまま空気に溶け込んでいる。
低い笑い声。
乱雑な足音。
杯がぶつかる音。
昼とは違う、荒い活気。
その中を、セラフィーナは迷いなく進む。
視線は集まる。
銀髪。
整った顔立ち。
そして隠しきれない“強者の気配”。
だが、誰も声をかけない。
関わってはいけないと、本能が理解しているからだ。
カウンターの奥。
帳簿をめくっていた中年の男が、顔を上げる。
「……おや」
わずかに目を細める。
「これは、随分と珍しい顔だな」
「久しぶりだな、ガルド」
セラフィーナは足を止める。
声は低く、無駄がない。
男――ガルドは、にやりと笑った。
「王都の騎士様が、こんな辺境までわざわざ来るとはな」
「しかも夜に、単独で」
軽口のようでいて、探りが混じっている。
「観光にしては、物騒すぎる時間だが?」
「世間話をしに来たわけじゃない」
セラフィーナは一歩近づく。
距離を詰める。
圧をかける。
「調べたい人物がいる」
ガルドの目が、ほんのわずかに鋭くなる。
「名前は?」
間。
ほんの一拍。
だが迷いはない。
「グレイ・アークロード」
その名前が落ちた瞬間。
空気が、ほんのわずかに変わる。
ガルドの指が止まる。
帳簿をめくる手が、わずかに遅れる。
ほんの些細な変化。
だが――
見逃すほど、セラフィーナは甘くない。
「……知らんな」
視線を戻し、何事もなかったように言う。
だが、その“間”がすべてを物語っていた。
「今のは、“知らない”の反応じゃないな」
即座に返す。
間を与えない。
「気のせいだ」
「嘘だ」
短く、断言する。
逃がさない。
ガルドは、はぁ、とため息をついた。
「……相変わらず面倒な奴だ」
声を少し落とす。
「名前だけは、聞いたことがある」
「どこで?」
「記録に残らない場所だ」
セラフィーナの目が細くなる。
「曖昧な言い方はやめろ」
「具体的に言え」
声が、ほんのわずかに鋭くなる。
ガルドは肩をすくめた。
「依頼があったのに記録が残ってない」
「達成報告がないのに、対象だけが消えている」
「そういう“空白”がある」
言葉を選びながら続ける。
「その空白の中に、たまに出てくる名前がある」
「それが、“グレイ・アークロード”だ」
セラフィーナの思考が、一気に組み上がる。
(……消す側)
追う側ではない。
追われる側でもない。
記録に残る側ですらない。
“記録そのものを消す側”。
それは、冒険者の領域ではない。
もっと――
(裏の……それも、かなり上の層)
「時期は?」
「バラバラだ」
「だがここ数年、確実に何度か動いている」
ガルドは視線を上げる。
その目には、軽さがない。
「一つ、忠告しておく」
「……何だ」
「深追いするな」
静かな声だった。
だが、重い。
「お前の腕は知ってる」
「それでもな、“踏み込んでいい場所”と“戻れなくなる場所”がある」
セラフィーナは、ほんのわずかに口元を歪める。
「忠告としては、ありがたく受け取っておく」
だが――
引く理由にはならない。
「だが、止まる理由にもならない」
視線を逸らさない。
ガルドは、やれやれと肩をすくめた。
「……好きにしろ」
「ただし、何があっても俺は知らん」
「最初から期待していない」
短く返し、その場を離れる。
だがその背中には、確かな緊張があった。
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次に向かったのは、領主直轄の古文書管理庫。
夜は警備が緩む。
普通なら。
裏手から侵入。
鍵を外す。
わずかな音も立てない。
中へ入ると、空気が変わる。
乾いた紙の匂い。
静止した時間。
積み上げられた記録。
(……ここなら)
記録は、嘘をつかない。
そう思われている。
だが実際は違う。
(記録は、消せる)
そして――
(消した跡は残る)
それが普通だ。
名簿を開く。
登録を辿る。
雇用履歴を確認する。
移住記録を追う。
“グレイ・アークロード”を探す。
だが――
「……ない」
もう一度確認する。
それでも――ない。
(消されている……?)
いや。
違う。
セラフィーナは気づく。
(……違う)
これは、“消された跡”ではない。
消されたなら、歪みが残る。
不自然な空白が出来る。
だがこれは――
(最初から、存在していない)
完全な“無”。
初めから、この世界の記録に存在していないかのような状態。
背筋に、冷たいものが走る。
(……あり得るのか、こんなことが)
国家権限でも難しい。
それ以上となれば――
(……何だ)
思考が止まる。
結論に踏み込むには、まだ材料が足りない。
セラフィーナは静かに本を閉じた。
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外へ出る。
夜風が頬を撫でる。
冷たい。
だが、その冷たさが逆に思考を整える。
(分からない)
分からない。
だが、それでいい。
少なくとも一つだけは確定した。
(あの男は、普通じゃない)
それだけで十分だ。
そして――
(……それでも)
思い出す。
保育園の光景。
子供たちの笑顔。
母親の安堵。
あの穏やかな空気。
あれは、嘘ではない。
(……人を救っている)
それもまた事実。
矛盾している。
だからこそ、確かめなければならない。
セラフィーナは夜空を見上げる。
雲の隙間から、月が覗く。
「……もう少しだけ、見てやる」
小さく呟く。
それは監視か。
それとも――
まだ、自分でも分からない。
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一方、その頃。
ひだまりのゆりかご保育園。
灯りは落ち、静寂が満ちている。
子供たちは眠りにつき、穏やかな寝息が空気に溶けている。
その中で――
グレイ・アークロードは、窓辺に立っていた。
夜を見ている。
何も見えないはずの、その先を。
「……動きましたか」
静かな声。
独り言のようでいて、確信がある。
肩の上で、ピノが小さく揺れる。
「ぷる?」
「問題ありません」
グレイは、わずかに目を細める。
「予定通りです」
その声音には、焦りはない。
驚きもない。
ただ――
理解している者の静けさがあった。
「さて」
小さく息を吐く。
「どこまで見ますか」
夜は、まだ深い。
そして――
物語もまた、まだ始まったばかりだった。




