第12話 工房主任と、静かな交渉
翌朝。
空はよく晴れていた。
昨日まで薄くかかっていた雲はどこかへ流れ、青は高く、光はまっすぐ街へ降りている。石畳は朝露を乾かし始め、屋根の上では小鳥が忙しなく跳ねていた。
けれど、エルナ・ベルナールの胸の中にあるものは、空のように晴れてはいなかった。
朝の支度を終え、ミルフィの髪を結い、小さな外套を着せてやりながらも、頭の中では昨夜の会話が何度も繰り返されていた。
――やり方を変えましょう。
グレイの静かな声。
あまりにも落ち着いていて、あまりにも簡単そうに聞こえたその言葉は、けれどエルナにとっては、人生そのものを揺らすほど大きかった。
変える。
そんなこと、考えたこともなかった。
今の仕事を続けるしかない。
しがみつくしかない。
耐えるしかない。
そう思っていた。
だからこそ、昨夜からずっと胸が落ち着かない。
もし、変えられるのなら。
もし、本当に少しでも楽になるのなら。
もし、ミルフィと一緒にいられる時間を増やせるのなら。
その“もし”は、希望であると同時に恐怖でもあった。
期待して、駄目だったらどうするのか。
工房主任のバザールが、そんな提案を認めるはずがない。
認めないどころか、鼻で笑って終わるかもしれない。
最悪の場合、次から来なくていいと言われるかもしれない。
そうなれば、生活はどうなる。
(……でも)
エルナは、ミルフィの襟元を整えながら小さく息を吐いた。
(もう、昨日までと同じようには戻れない)
一度知ってしまったのだ。
工房と家以外にも、息をしていい場所があることを。
そしてもう一つ。
(……あの人は、“思いつきで言っているわけじゃない”)
昨夜の会話の中で、グレイは一度も曖昧な言い方をしなかった。
出来るかもしれない、ではなく。
出来る、と言った。
その根拠が何なのかは分からない。
だが、あの目は――
(……何かを知っている目だった)
ミルフィが見上げてくる。
淡い琥珀色の瞳が、今日もまっすぐだ。
「どうしたの?」
「くつ、へん?」
エルナははっとして、慌てて首を振る。
「ううん、大丈夫」
「少し考えごとしてただけ」
「……おしごとのこと?」
その一言に、エルナは苦く笑った。
この子には、もう隠しきれないのだろう。
「……そうかも」
ミルフィは少しだけ考えてから、小さく言う。
「……きょうも、ほいくえんいく?」
「うん。行くよ」
「……ノエル、いる?」
「いると思う」
「グレイ先生も、リリアも」
ミルフィの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
その変化を見るたびに、エルナの胸は痛くて、そして嬉しい。
(……この子のために)
(私は、今日を選ぶ)
――省略(中盤はそのまま維持)
その先にいたのは、工房主任バザールだった。
痩せた頬。
神経質そうな目。
人を値札付きの道具みたいに見る男。
彼はエルナと、その後ろに並ぶグレイたちを見て、露骨に眉をひそめた。
「……何だこれは」
第一声から嫌悪が滲んでいる。
「工房は見世物小屋じゃないぞ、エルナ」
その言葉に、エルナの肩がこわばる。
だがその前に、グレイが一歩だけ前へ出た。
「初めまして」
「グレイ・アークロードと申します」
礼儀正しく頭を下げる。
だが、へりくだりはない。
「私は、エルナさんとお子さんがお世話になっている保育園の園長です」
「園長?」
バザールは露骨に怪訝な顔をした。
「保育園の男が、何の用だ」
「少し、働き方についてご相談に来ました」
――中略(論破パートそのまま)
「断る」
即答だった。
空気がまた冷える。
エルナの胸がひゅっと縮む。
だが、グレイは変わらない。
「そうですか」
一拍置く。
ほんのわずかな間。
その“間”に、何か別の意味が混じる。
「では、確認だけしておきます」
バザールの眉が動く。
「……何だ」
「現在の作業時間管理、賃金記録、素材使用の申請状況」
エルナが息を呑む。
リリアもわずかに顔を上げる。
「問題はありませんか」
空気が、変わる。
ほんの僅か。
だが確実に。
バザールの目が、わずかに細くなる。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味です」
グレイの声は変わらない。
だが、先程までとは違う“重さ”があった。
「記録と実態に齟齬がなければ、問題ありません」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
バザールの視線が、奥の帳簿棚へ流れた。
それを、グレイは見逃さない。
「……くだらん」
バザールはすぐに視線を戻し、吐き捨てる。
「そんなもの、問題があるわけがないだろう」
「そうですか」
グレイはそれ以上追及しなかった。
ただ一言だけ。
「それなら、安心しました」
それだけ。
それだけなのに。
工房の空気に、説明のつかない違和感が残る。
シェラが、無意識に手を止めていた。
バザールは苛立ちを隠すように舌打ちした。
「……好きにしろ、と言いたいところだが」
――以降の許可パートはそのまま
――外に出た後
街道へ出て、エルナはようやく息を吐き出した。
「……本当に」
「本当に、あれで……」
「始まりました」
グレイが静かに言う。
「まだ解決ではありません」
一瞬、言葉を区切る。
「……いくつか、確認すべき点があります」
エルナが顔を上げる。
「確認、ですか……?」
「はい」
グレイは空を見上げる。
「問題がなければ、それでいい」
「ですが――」
その先は言わない。
だが、その“言わなかった部分”が、はっきりと残る。
リリアは、少しだけ震えた。
(……この人、もう動いてる)
セラフィーナは無言のまま、目を細める。
(……やはりな)
エルナは、その意味を完全には理解出来なかった。
だが。
ただ一つだけ、分かった。
(……この人は、まだ終わらせていない)
今日の出来事は、終わりではない。
始まりだ。
それでも。
それでも、確かに。
昨日よりも前に進んでいる。
それだけで、十分だった。
「……帰りましょうか」
エルナがそう言うと、グレイは頷いた。
夕方の風が、やわらかく頬を撫でる。
ミルフィの待つ場所へ。
エルナは、昨日よりも確かに軽い足取りで歩き出した。




