第11話 守るということ
夕暮れ。
西の空は、ゆっくりと茜色へ染まり始めていた。
昼の熱をわずかに残した風が、街外れの細い道を静かに撫でていく。遠くの通りでは荷車の音と商人達の呼び声がまだかすかに聞こえていたが、この場所まで来ると、それらはもう別の世界の音のように遠かった。
ひだまりのゆりかご保育園の周囲には、昼間とは違う穏やかな静けさが降りていた。
庭の隅に積まれた木材。
土の上に残る小さな靴の跡。
簡素な柵の向こうで揺れる草。
窓辺に吊るされた布が、風を受けてふわりと揺れる。
派手さはない。
けれど、確かに“人が過ごした場所”の気配があった。
その保育園の前に立ったエルナは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
胸の奥に、今日一日の疲労がずしりと沈んでいる。
指先は重い。
肩は固まり、
背中はずっと強張ったままだ。
呼吸は浅く、
喉の奥には、工房の乾いた空気と金属の匂いがまだ残っている気がした。
それでも。
ここへ来ると決めた自分を、少しだけ誇らしく思えた。
工房からここまで歩いてくる道のりは、決して軽くなかった。
頭も痛い。
足も重い。
それでも、倒れずに来られた。
来たいと思ったから、来られた。
その事実が、エルナには小さな救いのように思えた。
扉に手をかける。
木の感触は、外気を吸って少し冷たい。
けれど。
その向こうは違うと、もう知っている。
工房の扉の冷たさとは違う。
家の扉を開ける時の不安とも違う。
ここには、誰かがいる。
それを知っているだけで、指先の震えがほんの少しだけましになる。
――ぎぃ。
扉を開けた瞬間。
温かい空気が、静かに流れ込んできた。
木の香り。
薄いスープの残り香。
乾いた布の匂い。
陽の落ちかけた部屋の、柔らかなぬくもり。
それだけで、張りつめていた胸の奥が少しゆるむ。
「……まま!」
小さな声が、まっすぐ飛び込んでくる。
ミルフィだった。
床の上に座っていたはずなのに、気づけばもう立ち上がっている。小さな両手を少し広げて、そのままよちよちとした足取りで駆け寄ってくる。
その姿が、どうしようもなく愛おしくて。
同時に、泣きたくなるほどほっとした。
「……おかえり」
その言葉が、胸の奥に深く落ちた。
エルナはしゃがみ込む。
「……ただいま」
声が、少しだけ震える。
ミルフィを抱きしめる。
温かい。
軽い。
柔らかい。
ちゃんと生きている。
ちゃんとここにいる。
それだけで、今日一日ずっと身体の奥に張りついていた何かが、少しずつほどけていく。
(……戻ってこれた)
その思いが、胸に広がる。
(ちゃんと、迎えに来られた)
(今日は、それが出来た)
(途中で崩れなかった)
(最後まで、立っていられた)
昨日は、途中で崩れた。
何も出来なくなって、
逃げるように帰って、
泣いて、
自分が壊れていくのが分かった。
でも今日は違う。
きつかった。
苦しかった。
何度も手が止まりそうになった。
呼吸が浅くなって、視界が揺れそうになった。
それでも。
(最後まで、やれた)
その事実が、ほんの少しだけ自分を支えていた。
今日も一日、終わった。
その実感が、ようやく身体に染み込んでくる。
少し遅れて、グレイがこちらへ歩いてくる。
「おかえりなさい」
変わらない声。
静かで、落ち着いていて、必要以上に優しすぎない声。
それだけで、また少しだけ呼吸が整う。
「……はい」
エルナは立ち上がる。
けれど、すぐにはミルフィの手を離さなかった。
離したくなかったし、離さなくてもいいと思えた。
グレイはその様子を見て、何も言わずに一度だけ頷く。
“それでいい”とでも言うように。
「本日の様子を、簡単にお伝えしてもよろしいですか」
「……お願いします」
エルナは少し背筋を伸ばした。
疲れていても、今この瞬間だけは、母親としてちゃんと聞きたい。
その意識が、自然に戻ってくる。
「今日は午前中、少し泣きましたが」
その一言に、エルナの指がわずかに強くなる。
胸の奥がきゅっと縮む。
泣いた。
やっぱり泣いたのだ。
当たり前だ。
まだ小さい。
預けられて、寂しくならないはずがない。
そう思いながらも、どこかで“泣かなかったらいいのに”と願っていた自分がいたことに気づいて、また小さな罪悪感が胸を刺した。
(泣かないでほしい、なんて……)
(この子の気持ちより、自分の安心を優先してる)
その事実が、じわりと痛む。
「そのあと、ノエルと一緒に積み木をしていました」
「……そう、ですか」
声は小さい。
けれど、その一言の中には安堵が滲んでいた。
「一度、積み木が崩れて驚いたのですが」
グレイはゆっくりと言葉を選ぶ。
「“また作れる”と、自分で言葉にしていました」
エルナは目を見開いた。
「……自分で?」
「はい」
その一言だけで、十分だった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(この子が……)
昨日まで、不安そうに自分の後ろに隠れていた子が。
母親の顔色ばかり見ていた子が。
小さなことで涙ぐんで、それを必死に我慢しようとしていた子が。
少しずつ、自分の足で立とうとしている。
その事実が、痛いほど嬉しかった。
そして同時に、少しだけ寂しかった。
(……この子は、私がいなくても)
(ちゃんと、前に進めるようになるのかもしれない)
それは、喜ばしいはずなのに。
胸の奥に、ほんの少しだけ空白のようなものを生んだ。
その時。
「……エルナさん」
リリアが少し遠慮がちに声をかけてきた。
金髪を結んだ若い女性。
まだ見習いで、動きにはところどころぎこちなさがある。
けれど、今日は昨日よりも少しだけ目がしっかりしていた。
「お仕事、お疲れさまでした」
その一言に、エルナは少しだけ驚いた顔をする。
工房では、そんな言葉はまずかけられない。
“お疲れさま”ではなく、
“まだ終わってない”
“遅れてる”
“余計なことをするな”
そういう言葉ばかりが飛んでくる。
だから、ただ“疲れたでしょう”と認めてもらえる一言が、こんなにも胸に沁みるとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
その言葉を返すだけで、少しだけ胸が軽くなる。
(……こんなことで)
(こんな一言で、こんなに楽になるなんて)
今までどれだけ、自分が追い詰められていたのかを思い知らされる。
セラフィーナはその様子を少し離れたところから見ていた。
腕を組んだまま、じっと。
窓から差し込む夕暮れの光が、銀髪の輪郭を薄く染めている。
(……空気が違う)
この場所は、明らかに異質だった。
子供が泣いても責められない。
母親が弱音を見せても追い詰められない。
見習いが失敗しても、即座に切り捨てられない。
そんな場所が、本当に存在すること自体が、セラフィーナにはどこか現実味がなかった。
だがそれが“悪い”とは、もう言い切れない。
それでも。
(信用はしない)
その一線は、まだ越えていなかった。
優しさはある。
だが、その優しさが自然すぎる。
人の心の弱い場所に触れるのが上手すぎる。
それが、逆に不気味だった。
エルナはミルフィの頭を撫でながら、小さく息を吐く。
「……あの」
グレイに向き直る。
「今日、少しだけ……いいですか」
「はい」
「その……少しだけ、お話を」
グレイは静かに頷いた。
「では、こちらへ」
部屋の隅。
壁際に、小さな机と椅子が置かれている場所。
夕日の光が少しだけ届いて、周囲よりもやわらかい色をしていた。
エルナはそこに座る。
椅子に体重を預けた瞬間、自分が思っていた以上に疲れていることに気づく。
足の裏がじんじんする。
膝が少し笑いそうになる。
肩は鉛みたいに重い。
首筋はずっと張りつめていて、わずかに動かすだけでも違和感がある。
手を膝の上に置くと、指先がかすかに震えていた。
(……こんなに)
(こんなに、疲れてたんだ)
自覚した瞬間、少しだけ力が抜けそうになる。
ミルフィはノエルの隣へ戻り、また積み木を手に取った。
その様子を一瞬だけ見てから、エルナは視線を落とす。
「……今日も、工房で働いてきました」
当たり前のこと。
でも、その一言が重い。
それは単なる事実の報告ではなく、“今日はなんとか行って、なんとか帰ってきた”という、自分なりの精一杯の証明でもあった。
「昨日よりは……少しだけ、ましでした」
「そうでしたか」
グレイは短く答える。
評価しない。
否定しない。
無理に褒めない。
ただ受け止める。
それが今のエルナには心地よかった。
「でも……」
言葉が詰まる。
何から言えばいいのか分からない。
どこまで言っていいのかも分からない。
でも、止めたくない。
ここで止めたら、また全部飲み込んでしまう気がした。
「……やっぱり、きついです」
その一言は、小さかった。
けれど確かだった。
口にした瞬間、胸の奥にあった重みが少しだけ形を持った気がした。
「子供がいるからって、理由にはならないって言われて」
「迷惑だって」
「どっちかにしろって」
ぽつり、ぽつりと落ちる言葉。
「昨日、途中で帰ったことも……ちゃんと覚えられてて」
「今日も、ずっと……視線があって」
「少しでも手が止まると、すぐに分かるような空気で」
呼吸が浅くなる。
でも、続ける。
「頑張ってるつもりでも、“足りない”って言われて」
「出来てる部分は見てもらえなくて」
「出来てないところだけ、ずっと言われて」
唇が震える。
「……分かってるんです」
「私がちゃんと出来てないのも」
「仕事も、育児も、どっちも中途半端で」
「だから、言われても仕方ないって……そう思おうとしてるんです」
そこまで言って、エルナは口を閉ざした。
“そう思おうとしてる”。
その言葉が、自分の中に引っかかる。
違う。
どこかで、違うと思っている。
「……でも」
エルナはゆっくりと顔を上げた。
目の奥には疲れがある。
けれど、その奥に小さく、確かに残っているものがあった。
「それでも、やらないと生きていけないんです」
「働かないと、暮らしていけない」
「でも働けば働くほど、この子と離れる時間が増えて」
「離れてる間に何かあったらって、ずっと頭の中で考えてしまって」
「工房では工房で、遅れるな、休むな、迷惑だって言われて」
声が震える。
「私、何を守ろうとしてるのか、分からなくなる時があるんです」
「仕事を守ってるのか」
「生活を守ってるのか」
「母親としての自分を守ろうとしてるのか」
「……全部、こぼしてる気がして」
視界が少し揺れる。
泣くつもりはない。
でも、限界は近い。
グレイはその目を、まっすぐ見返した。
そして、静かに言った。
「では」
「“やり方”を変えましょう」
エルナは息を呑む。
「……え?」
「仕事をやめる必要はありません」
「ですが、その働き方が適切でない可能性はあります」
エルナの頭が追いつかない。
でも、その言葉は確かに届いていた。
「……変える、って」
「そんなこと……出来るんですか」
その問いは、半分は否定で、半分は祈りだった。
グレイは、静かに頷く。
「可能です」
その一言が、強く響く。
「……どうやって」
「いくつか方法はあります」
そして、グレイは静かに続けた。
その提案は、今までのエルナの世界には存在しなかったものだった。
仕事と育児を分けるのではなく、
“両方を成立させる形を作る”
という発想。
話が終わる頃には、
エルナの胸の中にあった“詰まり”は、完全ではないが、確かに動いていた。
「……少しだけ」
「考えても、いいですか」
「もちろんです」
グレイはそう答えた。
急がせない。
押し付けない。
ただ、道を置くだけ。
エルナは立ち上がる。
ミルフィを見る。
ノエルと並んで、積み木を積んでいる。
崩れても、また積んでいる。
(……私も)
(崩れても、いいのかもしれない)
(また、やり直せばいいのかもしれない)
「……ミルフィ」
「かえるよ」
「……うん!」
手を握る。
今度は、優しく。
支えるように。
扉の前で振り返る。
「……ありがとうございます」
その言葉は、本物だった。
外へ出る。
夕焼けの中。
エルナは、小さく呟いた。
「……変えられる、かもしれない」
そして、ほんの少しだけ前を向いて歩き出した。




