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第10話 働くということ


 翌朝。


 空は薄い雲に覆われていた。


 昨日のような澄み切った青ではない。けれど雨が降るほど暗くもなく、ただ淡い灰色の膜が世界全体に静かにかかっているような朝だった。


 エルナ・ベルナールは、目を開けてしばらくの間、天井を見つめていた。


 低い天井。

 何度も補修した跡のある壁。

 窓の隙間から入り込む、少し冷たい朝の空気。


 いつもの部屋。

 いつもの朝。


 なのに今日は、昨日までとは少しだけ違っていた。


 胸の奥に、重たい石のように沈んでいたものが、ほんのわずかだけ軽い。


 消えたわけではない。

 楽になったとも言えない。

 相変わらず朝は苦しいし、起き上がる前から「今日も一日が始まる」と思うだけで喉の奥が詰まる。


 それでも。


 昨日、自分は確かに泣いた。


 人前で。

 娘の前で。

 どうしようもなく崩れてしまった。


 それなのに、拒絶されなかった。


 責められなかった。

 呆れられなかった。

 「母親なんだからしっかりしろ」とも言われなかった。


 その事実が、まだ信じられないくらいだった。


(……変な感じ)


 そう思う。


(泣いたのに)

(情けないところを見せたのに)

(それでも、終わらなかった)


 いつもなら、自分の弱さはそのまま“失格”に繋がると思っていた。


 弱音を吐いたら駄目。

 止まったら駄目。

 崩れたら終わり。


 そう思っていたのに。


 昨日は違った。


 あの保育園では、泣いたあとも時間が続いていた。


 ミルフィは帰ってきたし、

 ノエルは小さく「また、つみきする」と言ったし、

 リリアは真剣な顔でこちらを見ていたし、

 グレイは何も急かさなかった。


 それが、今のエルナには妙に不思議で、そして少しだけ怖いほど優しかった。


「……まま」


 小さな声で呼ばれて、エルナは顔を横に向ける。


 ミルフィが、寝台の上で毛布を抱えたままこちらを見ていた。


 寝起きで頬がまだ少し赤い。

 髪はふわふわと跳ねている。

 でも、目だけはちゃんと母親を見ていた。


「おはよう、ミルフィ」


「……おはよ」


 ミルフィはしばらくエルナの顔を見つめ、それから少しだけ首を傾げた。


「……きょう、まま、ちょっとちがう」


 エルナは目を瞬く。


「違う?」


「……きのうより、こわいかお、すくない」


 その言葉に、エルナはしばらく何も返せなかった。


 子供は、やっぱり見ている。

 そして、見ていたものをちゃんと覚えている。


 自分では必死に隠していたつもりだった。

 でも、ミルフィにはずっと伝わっていたのだろう。


「……そっか」


 そう言って、エルナは小さく笑った。


 ちゃんと笑えたのかは分からない。

 でも昨日みたいな、口元だけを動かす無理な笑いではなかった。


「きのう、いっぱいないたから、ちょっとだけ軽くなったのかも」


 ミルフィはその答えを聞いて、少し考えるような顔をしたあと、小さくうなずいた。


「……じゃあ、よかった」


 その“よかった”が、胸にしみた。


 朝食は昨日より少しだけ静かだった。


 静かだが、苦しい静けさではない。


 スープの湯気。

 木の器に触れるスプーンの音。

 窓の外を通る風の音。


 そういう小さなものが、今日はちゃんと耳に入ってくる。


 昨日までは、自分の頭の中のざわめきがうるさすぎて、そういう音さえほとんど感じられなかったのだと、今になって気づいた。


 けれど、現実が消えたわけではない。


 机の端には、今日の工房へ持っていく布袋。

 中には刻印用の細手袋と、昼にかじるための干しパンがひとつ。

 その横には、昨日のうちに片付けきれなかった針仕事の布。


 生活は待ってくれない。


 娘の髪を梳かし、外套を着せ、荷物を持たせる。

 その一つひとつの動作をしながら、エルナは自分の胸の中にある二つの感情を感じていた。


 保育園へ行けば、少しだけ息がつけるかもしれない。

 けれどそのあとには、工房が待っている。


 昨日、自分は途中で崩れた。

 バザールはあのあともきっと苛立っていただろう。

 今日、何も言われないはずがない。


 怖い。


 でも行かないわけにはいかない。


 ひだまりのゆりかご保育園へ着く頃には、空の灰色は少しだけ薄くなっていた。


 保育園の周りには、昨日と同じように朝露を含んだ草の匂いが漂っている。木の柵はまだ新しく、簡素だが丁寧に直された外壁には朝の光がやわらかく当たっていた。


 扉を開けると、温かい空気が迎えてくれる。


 中ではグレイが窓を開けていて、ノエルが小さな布を持って机の脚を拭いていた。ピノはその隣でぷるぷる揺れている。


「おはようございます」


 グレイの声は、今日も変わらず静かだった。


 その変わらなさに、エルナは少しだけ救われる。


「……おはようございます」

「今日も、お願いします」


「はい。お待ちしていました」


 ミルフィはもう、昨日ほど強く母親の服を握らなかった。


 もちろん不安が消えたわけではない。

 だが、扉の内側にいるノエルを見つけた途端、表情がほんの少しだけ和らぐ。


「……ノエル」


「……みるふぃ」


 小さな挨拶。


 それだけで、今日は昨日より一歩進んでいるのだと分かる。


 リリアも奥から顔を出した。


「お、おはようございます、エルナさん」

「ミルフィちゃんも、おはよう」


 まだ少し緊張している。

 けれど昨日より声が震えていない。


 そのことに、エルナは気づいた。


 この人も昨日、自分と同じように“初めて”の緊張を抱えていたのだろう。

 そう思うと、不思議と少しだけ親近感が湧く。


 セラフィーナは相変わらず部屋の端にいて、腕を組んだままこちらを見ていた。

 その目にはまだ警戒が残っている。

 けれど昨日のような露骨な冷たさだけではなく、何かを測っているような静かな視線だった。


 ミルフィは今日は自分からノエルの近くへ歩いて行った。


 歩幅は小さい。

 途中で一度だけ振り返る。


 エルナはそこに笑って手を振った。


「大丈夫」

「ママ、ちゃんと迎えに来るから」


 昨日と同じ言葉なのに、今日は少しだけ揺れが少ない。


 ミルフィはその声を聞いて、こくりと頷いた。


 そして、ノエルの隣へ座る。


「……つみき、する?」


 ノエルが言う。


「……する」


 ミルフィが答える。


 それだけで、胸の奥がじわっと熱くなった。


(大丈夫)

(少なくとも、この時間だけは)


 だが、いつまでもここにはいられない。


 工房へ行く時間が近づいていた。


「……じゃあ、お願いします」


 エルナが頭を下げると、グレイは静かにうなずく。


「はい。いってらっしゃい」


 その“いってらっしゃい”が、妙に胸に残った。


 家を出る時に誰かからそう言われることなんて、もうほとんどなかったから。


 街の東区画へ向かう道は、朝のうちから騒がしかった。


 行商人の声。

 荷車の音。

 店を開ける準備の金属音。

 朝の市場から流れてくる野菜と土の匂い。


 けれどエルナの足取りは重い。


 工房に近づくにつれ、胸の奥に沈んでいた重さがまた少しずつ形を取り戻していく。


 魔導工房《ルーグ刻印工房》は、相変わらず冷たい建物だった。


 灰色の石壁。

 小さく高い窓。

 中から漏れる青白い魔導灯の光。


 扉を開ける前から、あの独特の匂いがする。


 焼けた金属。

 魔晶石の粉。

 油。

 薬液。

 焦げた魔力の残り香。


 息を吸うだけで喉の奥がざらつくような場所だ。


 中へ入れば、すぐに現実が始まる。


 金属を削る音。

 刻印針が銀板を擦る細い音。

 小さな魔導炉の低い唸り。

 誰かの咳。

 短い指示。

 無機質な光。


 保育園とはまるで違う。


 あちらが“人の体温のある場所”なら、こちらは“機能だけで動く場所”だった。


 エルナが席につくと、ほどなくしてバザールの声が飛んできた。


「今日は来たか」


 それだけの一言なのに、棘がある。


 工房主任バザールは、昨日よりも機嫌が悪そうだった。

 痩せた頬に神経質そうな目。

 視線は人ではなく道具でも見るように冷たい。


「……おはようございます」


「挨拶はいい」

「昨日は随分と都合のいい帰り方をしたらしいな」


 周囲の空気がぴりつく。


 他の職人たちは手を止めない。

 だが耳は確実にこちらへ向いていた。


「申し訳ありません」


「申し訳ありません、で済むなら楽だ」

「こっちは納期で回ってるんだ」

「一人が勝手に崩れて流れを止めたら、全員に迷惑がかかる」


 エルナは俯くしかない。


 言い返せない。

 言い返す余裕もない。


「今日は昨日の分もやってもらう」

「遅れは取り戻せ」


「……はい」


「返事だけは立派だな」


 バザールは鼻を鳴らした。


「まったく、子持ちってのはこれだから困る」

「仕事か育児か、どっちかに絞れないなら最初から来るな」

「中途半端が一番いらない」


 その言葉に、胸の奥がきしむ。


 けれど昨日とは少し違った。


 痛い。

 苦しい。

 でも、その言葉が全部“正しい”わけではないと、どこかで思っている自分がいた。


(……本当に、そうなの?)


 刻印針を持つ手が止まりそうになる。


(仕事か育児か、どっちかに絞れって)

(そんなの、絞れるなら最初から苦しまない)


 小さな違和感。


 今までなら、その違和感すら抱く前に“自分が悪い”で蓋をしていた。


 だが昨日、グレイは言った。


 少しずつでいい、と。


 リリアも言った。


 頼るのは逃げじゃない、と。


 その言葉が、工房の冷たい空気の中でもまだ消えずに残っていた。


 作業は始まる。


 銀板を固定する。

 下書き線を確認する。

 刻印針を入れる。

 補助紋様を刻む。


 細い線。

 魔力の通り道。

 一定の圧。

 一定の速度。


 ひとつ、またひとつ。


 今日は昨日ほど手は震えていない。

 だが、完全に安定しているわけでもない。


 少しでも気を抜けば乱れる。

 少しでも呼吸が浅くなれば針先がぶれる。


 集中しなければならない。


 そう思えば思うほど、逆に肩へ力が入る。


 昼前、隣の卓で働くシェラが小さく声をかけてきた。


「……昨日、あのあと大丈夫だったのかい」


 年配の女性職人。

 工房の中では珍しく、エルナへ人らしい目を向ける数少ない存在だ。


「……すみません、ご迷惑を」


「そういう意味じゃないよ」

「体だよ、体」

「顔色、まだ良くない」


 シェラは手を止めずに言う。


 その口調に責める響きはない。


 エルナは一瞬だけ迷い、ほんの少しだけ本音を漏らした。


「……正直、まだ少し」

「でも、大丈夫です」

「やらないと」


 シェラは小さく息を吐く。


「“やらないと”で人間はいつか壊れるよ」


 その一言が、妙に残る。


 壊れる。


 昨日の自分を思い出して、エルナは小さく唇を噛んだ。


 昼の休憩は短い。


 工房の隅で干しパンをかじるだけ。

 水を飲み、またすぐ作業へ戻る。


 他の職人たちは仕事の愚痴や市場の噂を少し話していたが、エルナの周りだけは不自然に静かだった。


 気を遣われているのか。

 距離を置かれているのか。

 たぶん、その両方だ。


 午後に入ると、バザールが新しい板の束をどさりと机に置いた。


「これもやれ」


 枚数を見て、エルナは一瞬息を呑む。


「……今日中に、ですか?」


「当たり前だ」

「昨日抜けた分があるんだぞ」


「でも、これでは――」


「出来ないって言うのか?」


 その声音に、エルナは言葉を飲み込む。


 出来ないと言った瞬間に、自分の居場所がなくなる気がした。


 だから、言えない。


「……やります」


「最初からそう言え」


 バザールは踵を返す。


 その背中を見ながら、エルナは心の底で思った。


(……何を守ろうとしてるんだろう)


 工房の席か。

 賃金か。

 生活か。

 それとも“母親としてちゃんとしているふり”か。


 分からない。


 分からないまま、手だけを動かす。


 そして気づけば、昼を大きく回っていた。


 目の奥が痛い。

 肩が固い。

 呼吸は浅い。

 それでも昨日ほど崩れそうにはなっていない。


 壊れかけた何かが、かろうじて持ちこたえている。


 その理由は、自分でも少し分かっていた。


 迎えに行く場所があるからだ。


 保育園。

 ミルフィ。

 ノエル。

 小さな積み木。

 グレイの静かな声。

 リリアの真っ直ぐな目。


 そこがあると思うだけで、今までの“帰るだけの家”とは少し違うものが自分の一日の終わりに生まれていた。


(……帰る場所がある)


 その感覚は、まだ小さい。

 けれど確かにあった。


 仕事を終えて工房を出る時、空はすでに夕方へ傾き始めていた。


 石畳の上を歩きながら、エルナは疲れ切った足を前へ出す。


 体は重い。

 頭も痛い。

 現実は何一つ解決していない。


 職場は変わらない。

 バザールも変わらない。

 明日もまた同じ圧があるだろう。


 それでも、昨日と今日の自分は少し違った。


 ただ潰されるだけではなく、

 “このままでいいのか”と考え始めてしまった。


 それは苦しさでもあり、同時にわずかな変化でもあった。


 ひだまりのゆりかご保育園が見えた時、胸の奥に小さな熱が灯る。


 扉の向こうに、今日の続きを受け止めてくれる場所がある。


 それだけで、足が少しだけ軽くなった。


(……明日も、行かなきゃ)


 工房へ、ではない。


 もちろんそれもある。


 だが今のその言葉には、もう一つ意味があった。


 ミルフィを連れて、

 あの保育園へ行く。


 それが明日の中にある。


 その事実が、今日のエルナをどうにか立たせていた。


 夕暮れの風が、少しだけ優しく頬を撫でる。


 エルナは小さく息を吐き、保育園の扉へ手を伸ばした。

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