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第9話 母親が泣いた日



 その日の朝、エルナ・ベルナールはいつもより少し早く目を覚ました。


 ――いや、正確には“眠れていなかった”と言うべきかもしれない。


 薄い毛布の中で何度も目を開けては閉じ、浅い眠りの底を漂うように夜をやり過ごし、気づけば窓の外が白み始めていた。


 小さな借家の天井は低い。


 壁には何度も補修した跡があり、窓枠は少し歪んでいる。冬の名残を含んだ朝の冷気が、隙間からゆっくりと入り込んでいた。


 部屋の隅に置かれた小さな机。

 昨日の夜に途中までやっていた針仕事。

 干し切れなかった洗濯物。

 畳みかけの布。

 水差し。

 使い込まれた食器。


 どこを見ても、生活があった。


 そしてそのすべてが、今のエルナにはひどく重かった。


 胸の奥が、朝からもう苦しい。


 まだ何も始まっていないのに、息を吸うだけで薄い膜が肺に貼りついているようで、深く吸おうとするとかえって苦しくなる。


(起きなきゃ)


 頭では分かっている。


(ミルフィのごはん)

(着替え)

(保育園に送って)

(そのあと、工房へ)

(遅れたら駄目)

(絶対に遅れたら駄目)


 分かっているのに、体が重い。


 毛布をはねのけて起き上がろうとした瞬間、ぐらりと視界が揺れた。


「……っ」


 思わず片手を床につく。


 冷たい。


 その冷たさだけが妙に鮮明で、自分がちゃんとここにいるのだと嫌になるほど分からされた。


「……まま?」


 小さな声。


 隣の簡素な寝台で眠っていたミルフィが、目をこすりながら上体を起こしていた。


 ミルクティー色のふわふわした髪は寝起きで少し跳ねていて、琥珀色の瞳はまだ眠たげだ。

 けれど、母親を見るその目だけは、朝からもう優しすぎた。


「……起きたの?」

「まだ、ねててよかったのに」


 エルナは無理に笑ってそう言う。


 だが、ミルフィはじっと母親の顔を見つめたまま、小さく首を傾げる。


「……まま、くるしそう」


 その一言に、胸がきしむ。


(この子は、また見てる)


 隠したつもりでも、隠せていない。


 笑ったつもりでも、笑えていない。


「だ、大丈夫よ」

「ちょっと、朝が苦手なだけ」


「……ほんと?」


「ほんと」


 そう答えながら、エルナは立ち上がる。


 台所代わりの小さな炉に火を入れる。

 硬くなりかけたパンを温める。

 残っていた野菜を刻んで薄いスープを作る。


 包丁を持つ手が少し震えた。


 危ない、と思って握り直す。


(ちゃんとしなきゃ)

(朝くらい、ちゃんと)

(母親なんだから)


 その“ちゃんと”が、最近は分からなくなっていた。


 ミルフィは椅子に座って、小さな手でスプーンを握る。


「……きょう、ほいくえん?」


「うん」

「今日も、行こうね」


「……ノエル、いる?」


「いると思う」


「……ぐれいせんせいも?」


「もちろん」


 それを聞いたミルフィの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その変化を見て、エルナの胸の奥で何かが痛んだ。


 安心している。


 あの場所に。

 あの人たちに。


 それは良いことのはずなのに、どこかで寂しさと罪悪感が混じる。


(この子が安心できる場所がある)

(それは、本当はすごくありがたいことなのに)


(……私は、嬉しいだけでいられない)


 朝食のあと、身支度を整える。


 ミルフィの髪をやさしく梳かし、リボンを結ぶ。

 小さな外套を着せ、荷物を持つ。


 その一つひとつの動作を、今日はやけに慎重にしてしまう。


 送り届けたあと、自分は工房へ行かなければならない。


 今日も。


 いつものように。


 何事もない顔で。


 街の東区画にある魔導工房《ルーグ刻印工房》は、朝から重い音を響かせていた。


 石造りの細長い建物。

 窓は高く小さく、外の光はほとんど入らない。

 代わりに青白い魔導灯が天井からぶら下がり、冷たい光で工房内を照らしている。


 中へ入れば、独特の匂いが鼻を刺す。


 焼けた金属。

 削られた魔晶石の粉。

 油。

 薬液。

 そして、焦げついた魔力の残滓。


 工房では主に、魔導具の外殻部品と基礎刻印板が作られていた。


 高級な魔導具ではない。

 冒険者や商人、街の警備隊が日常的に使うような量産型だ。


 防音板。

 簡易照明具。

 魔力保温器。

 通信札の外枠。

 小型障壁具の補助板。


 そういったものに使う部品を、流れ作業で作り続ける。


 エルナの仕事は、その中でも一番地味で、神経をすり減らすものだった。


 薄い銀板に魔力の通り道となる下書き線を引き、その上から極細の刻印針で補助紋様を彫り込む。


 ほんの僅かでも線がずれれば、その板は不良品だ。

 魔力の流れが乱れれば、完成後の魔導具が誤作動を起こす。

 だから工房では、その作業をする者にだけ異様な集中を要求した。


 集中しろ。

 手元を見ろ。

 雑念を入れるな。

 無駄口を叩くな。

 遅れるな。

 ミスするな。


 それが、この場所の空気だった。


「エルナ、遅い」


 席についた途端、低い声が飛んできた。


 工房主任のバザールだった。


 四十代半ば。

 痩せた頬。

 神経質そうに尖った鼻。

 茶色い目はいつも苛立っていて、従業員を見る時だけ妙に冷たくなる男だ。


「ま、まだ刻限前です」


 エルナがそう答えると、バザールは鼻を鳴らした。


「準備の時間も仕事のうちだ」

「毎回ぎりぎりに来るな」

「子持ちってのは、どうしてこう余裕がないんだ」


 その言葉に、周囲の空気がわずかに固まる。


 誰も何も言わない。

 言わないからこそ、この工房ではそれが“普通”なのだと分かってしまう。


 エルナは頭を下げるしかなかった。


「……申し訳ありません」


「謝る暇があるなら手を動かせ」

「今日の分、昨日より多いからな」

「納品が詰まってる。足引っ張るなよ」


 机の上には、銀板がすでに山積みになっていた。


 目の前に座る年上の女性職人が、ちらりとこちらを見る。

 だがすぐに視線を逸らした。


 助けてくれるわけではない。

 責めるわけでもない。


 ただ、この空気に巻き込まれたくないだけだ。


 それがこの工房だった。


 エルナは椅子に座る。


 刻印針を持つ。

 銀板を固定する。

 息を整える。


 深く吸おうとした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


(落ち着いて)

(大丈夫)

(線を引くだけ)

(いつもやってる)

(出来る)


 そう思いながら、針を動かす。


 細い線。

 魔力の流れに沿った下書き。

 補助紋様の刻み。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 最初の数枚は何とか問題なく進んだ。


 だが、三枚目の途中で、手元がほんの僅かにぶれた。


「っ……」


 針先が、線を逸れる。


 ほんの僅か。


 だが、その僅かが致命的だった。


 銀板の紋様が歪み、魔力の通り道が乱れる。


「何やってる」


 すぐ横から、冷たい声が落ちた。


 いつの間にかバザールが立っていた。


 彼はエルナの手元を見て、露骨に顔をしかめる。


「またか?」


「す、すみません」

「やり直します」


「やり直しで済めばいいがな」

「素材だってただじゃない」

「こっちは慈善事業じゃないんだ」


 バザールはわざと周囲に聞こえる声で言う。


「最近、集中切れてるんじゃないか?」

「仕事と育児、両方抱えて潰れそうなら、どっちかに絞ったらどうだ?」


 くすり、と誰かが息を漏らした気がした。


 笑いではない。

 だが、居心地の悪さだけが広がる。


 エルナの耳が熱くなる。


「……申し訳ありません」


「謝罪はいい」

「結果を出せ」

「母親だろうが未亡人だろうが、使えなきゃ意味がない」


 その一言に、胸の奥がずんと沈む。


 未亡人。


 あえて言ったのだ。


 痛む場所を、分かっていて踏みに来る。


「休みはやらんぞ」

「子供が熱を出した? 知るか」

「代わりはいくらでもいる」

「こっちは納期で回ってるんだ」


 言葉が、ひとつずつ削るように落ちてくる。


 エルナは何も返せない。


 返したところで、立場が悪くなるだけだと知っているから。


 ただ、手が震えていた。


 それを押さえようと、余計に力が入る。


(ちゃんとしなきゃ)

(ここで駄目になったら終わる)

(働かなきゃ)

(ミルフィを育てなきゃ)

(遅れたら駄目)

(休んだら駄目)

(ミスしたら駄目)


 “駄目”だけが頭の中で増えていく。


 昼が近づくにつれ、工房の空気はさらに重くなった。


 あちこちで金属を削る音。

 刻印針が板を擦る細い音。

 魔晶石の粉を払う音。

 誰かの咳払い。

 主任の苛立った声。


 青白い魔導灯の光が、妙に冷たい。


 頭が痛い。


 耳の奥で、きぃん、と細い音が鳴っている。


 視界の端が、少しだけ歪む。


(……駄目)


 手元を見なければならない。

 集中しなければならない。


 そう思えば思うほど、焦点が定まらなくなる。


 次の銀板に刻印針を入れた瞬間、針先がかすかに揺れた。


 魔力補助のために流した微量の魔力が、不安定にぶれる。


 線が、にじむ。


「おい」


 またバザールの声。


 今度は近い。

 真後ろだ。


「何回言わせる」

「集中しろ」


「……はい」


「聞こえない」


「……はい!」


 喉が乾く。


 声を張っただけで、胸が苦しくなる。


「ふん」

「まったく、子供がいる女はこれだから」

「仕事場に私情を持ち込むな」

「泣きたいなら家で泣け」


 その言葉が、頭の中で反響する。


 泣きたいなら家で泣け。


 家では泣けない。


 ミルフィが見ているから。


 じゃあ、どこで泣けばいいのだろう。


 そんな考えが浮かんだ瞬間、急に息が浅くなった。


「っ、……」


 肺に空気が入らない。


 入っているはずなのに、足りない。


 手が震える。

 針先が定まらない。


 板の上の紋様が、二重に見える。


(駄目)

(駄目、駄目、駄目)

(止まっちゃ駄目)

(迎えに行かないと)

(仕事も終わらせないと)

(ミルフィが待ってる)

(遅れたら駄目)

(怒られる)

(でも、迎えに行かなきゃ)

(どっちも、やらなきゃ)


 その時。


 頭の奥に、昨日のミルフィの声が蘇った。


 ――まま、だいじょうぶ?


 その一言が、決定打になった。


 目の前の銀板が、急に遠ざかる。


 手から刻印針が滑り落ち、金属の床に小さく高い音を立てた。


 かしゃん。


 周囲の音が、そこで一瞬だけ遠のく。


「……エルナ?」


 誰かが呼んだ。


 でも、その声も遠い。


 息が出来ない。


 胸が痛い。

 喉が詰まる。

 視界の端が暗い。


「ちゃんと……」

「ちゃんと、しないと……」


 自分が何を言っているのか、半分も分からない。


「迎えに……」

「ミルフィ、迎えに行かないと……」

「でも、仕事……」

「遅れたら、駄目で……」


 椅子から立ち上がろうとして、足がもつれる。


 机に手をつく。

 だが力が入らない。


「何をしてる!」


 バザールの怒鳴り声。


「芝居してんじゃないぞ!」

「その程度で手を止めるな!」


 その声すら、今は刃のようだった。


 怖い。

 苦しい。

 でもそれ以上に、ミルフィの顔が浮かぶ。


 保育園の前で、自分を見上げていた顔。

 小さな声で、“まま、つかれた?”と聞いた顔。


 あの子は、全部見ている。


 なのに、自分は。


「……ごめん」

「ごめんね……」


 何に対しての謝罪かも分からないまま、言葉だけが漏れる。


 その時だった。


 工房の奥で作業していた年配の女性が、思い切ったように立ち上がった。


「もうやめなさいよ!」


 場の空気が凍る。


 普段、ほとんど口を挟まない女性だった。


「これ、どう見たって普通じゃないでしょう!」

「責め立ててどうするの!」


 バザールが顔をしかめる。


「口を出すな、シェラ」


「出すわよ!」

「この子、もう限界じゃない!」


 その一言で、張り詰めていたものがぶつりと切れた。


 エルナの膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。


「っ……」


 床は冷たかった。


 でも、その冷たさすら遠い。


 ただ、涙だけが止まらなかった。


「……ごめんなさい」

「ごめんなさい……」

「ちゃんと、したいのに……」

「ちゃんと、しないといけないのに……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 バザールは舌打ちした。


「面倒なことを」

「今日はもう帰れ」

「だが賃金は引くぞ」

「途中放棄だからな」


 その言葉に、シェラが怒りで顔を赤くする。


「まだそんなこと言うの!?」


「現実だろうが」

「使えないなら要らん」

「次から来るなら、ちゃんとした状態で来い」


 ちゃんとした状態。


 それが今のエルナには、あまりにも遠かった。


 どれだけ時間が経ったのか分からない。


 気づけば工房の裏口近くの椅子に座らされ、水の入った杯を握らされていた。


 シェラが無言で隣に立っている。


「……保育園、迎え」

「行ける?」


 その問いに、エルナはゆっくり顔を上げた。


 もう昼を過ぎている。


 胸の奥が、ひゅっと縮んだ。


「ミルフィ……!」


 立ち上がろうとして、ふらつく。


 シェラが肩を掴んだ。


「落ち着いて」

「行くのは分かるけど、その顔じゃ余計あの子が不安になるよ」


「でも……」

「迎えに、行かないと……」


「分かってる」

「だから行きなさい」

「今日は、もう何も考えなくていいから」


 その言葉に、また泣きそうになる。


 けれど泣いている時間も惜しい。


 エルナは何度も息を整えて、どうにか足を前へ出した。


 街道を急ぐ。


 石畳の上を、転びそうになりながら歩く。


 空は明るいのに、視界の端はまだ少し暗い。


 でも、行かなければならない。


 保育園の扉が見えた時、胸の奥に詰まっていた息がようやく少しだけ流れた。


 こんこん、と扉を叩く手が震える。


「はい」


 扉を開けたグレイが、エルナの顔を見た瞬間、ほんの僅かに目を細めた。


 その一瞬で、隠しきれていないことを悟る。


 乱れた髪。

 赤い目元。

 浅い呼吸。

 震える指先。


「……ミルフィ」


 名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど弱かった。


 部屋の奥から、ミルフィが顔を上げる。


「……まま!」


 椅子から立ち上がって、小さな足で駆けてくる。


 その顔を見た瞬間、エルナの中で何かが決壊した。


 ミルフィを抱きとめる。


 温かい。

 ちゃんとここにいる。


「ごめんね」

「ごめんね、遅くなってない?」

「怖くなかった?」

「泣いた?」

「ちゃんと、待てた?」

「……ごめんね」


 言葉が止まらない。


 ミルフィは母親の胸に顔を埋め、それから少しだけ離れて、小さく頷いた。


「……ちょっと、ないた」


 エルナの顔が曇る。


 だが、ミルフィは続けた。


「でも」

「……ノエルが、いっしょにいた」


「え……?」


「……せんせいも、いた」

「……リリアも、いた」


 たどたどしい。

 でも、一生懸命に伝えようとしている。


 エルナは娘の顔を見つめた。


 目元は少し赤い。

 でも、壊れてはいない。


 朝よりも、確かに表情が柔らかい。


 その事実が、胸の奥を一気に緩ませた。


「……そっか」


 頼りない声が漏れる。


「……そっか」

「一人じゃ、なかったんだね」


 視界が熱くなる。


 エルナは慌てて顔を伏せた。


 泣いてはいけないと思った。

 娘の前で、こんなふうに崩れてはいけないと思った。


 でももう、無理だった。


 安心したら、逆に止まらなくなった。


「……すみません」


 誰に向けたのかも分からない謝罪。


 リリアが一歩だけ近づく。

 だが、無理には触れない。


「エルナさん」


 その呼びかけは、とても静かだった。


「今日は、ミルフィちゃん、頑張ってました」

「泣いたけど、泣いたままでは終わらなかったです」

「ノエルちゃんと一緒に、ちゃんとまた積み木を触れました」


 エルナは顔を上げられないまま聞いている。


 リリアは続けた。


「だから……」

「少しだけでも、安心していいと思います」


 その言葉に、エルナの肩が震える。


「……安心、なんて」

「そんな、簡単に……」


 そこまで言って、口をつぐむ。


 だがグレイは、責めるでも励ますでもなく、静かに口を開いた。


「簡単ではありません」


 穏やかな声だった。


「ですから、少しずつで構いません」

「今日、一時間安心できたなら、明日は二時間かもしれません」

「そうやって増やしていければ、それで十分です」


 エルナは、ゆっくり顔を上げた。


 泣いた跡を隠せていない目で、グレイを見る。


「……そんなふうに、してもいいんですか」


「ええ」


 即答だった。


「お母さんも、いきなり完璧である必要はありません」

「ミルフィちゃんが少しずつ慣れるのと同じように、エルナさんも少しずつでいいんです」


 その言葉は、子供に向けるものと同じくらい丁寧だった。


 エルナの胸の奥が、また熱くなる。


 “母親なんだからしっかりしなきゃいけない”としか思えなかった場所に、

 “少しずつでいい”という言葉が差し込む。


 それが、どうしようもなく眩しかった。


 リリアはそのやり取りを見ていた。


 胸の奥が静かに熱くなる。


(やっぱり、この人はすごい)

(子供だけじゃない)

(お母さんまで、ちゃんと見てる)


 同時に、自分もそうなりたいと思う。


 まだ何も出来ない見習いだ。

 けれど、今日、ここで初めて分かった。


 保育園は、子供を預かる場所である前に、

 子供と親の両方が少しだけ息をつける場所なのだと。


 セラフィーナは壁際から、その全部を見ていた。


(……まただ)

(この男、人の一番脆いところに触れるのが上手すぎる)

(優しい? そうかもしれない)

(だが、だからこそ不気味だ)


 疑念は消えない。

 だが同時に、否定もしきれない。


 それが余計に気に入らなかった。


 エルナは、まだ少し赤い目のまま、ミルフィの頭を撫でる。


「……ありがとう」

「頑張ったね」


 ミルフィは母親の服を握りながら、それでも保育園の方を振り返って言う。


「……また、くる」


 ノエルが小さく頷いた。


「……うん」


「……また、つみきする」


「……する」


 それだけで十分だった。


 今日が、ただの“お試し”では終わらなかった証だからだ。


 エルナは娘を抱き寄せたまま、もう一度頭を下げる。


「……明日も、お願いしていいですか」


 朝とは違う声だった。


 不安は消えていない。

 でも、そこには確かに信頼の芽があった。


「承知しました」


 グレイは静かに答える。


 それ以上は言わない。


 軽々しく“大丈夫です”と断言しない代わりに、

 ここで受け止めるという姿勢だけをはっきり示す。


 それが今のエルナには、何よりありがたかった。


 外では、昼の風がやわらかく吹いていた。


 窓辺の小さな花が揺れ、古い窓枠がかたんと鳴る。


 グレイは、母親に抱かれながらも保育園の方を振り返るミルフィと、

 その背を見送るノエル、

 そして少しだけ背筋を伸ばしたリリア、

 相変わらず険しい顔でこちらを見ているセラフィーナを順に見た。


(……少しずつ、ですね)


 一人で始めたはずの場所だった。


 だが今はもう違う。


 子供が増え、

 見守る大人が増え、

 そして、弱さを見せることすら出来なかった母親が、

 ほんの少しだけこの場所に涙を落とした。


 それだけで十分だった。


 ひだまりのゆりかご保育園は――


 今日、また一つ、誰かの居場所になったのだから。

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