どうしようもなく、君が好き
液晶の冷たい青白い光が、漆黒の部屋にぽつりと浮かび上がる。
黒髪の毛先が鎖骨に落ちる。
窓ガラスには、すっぴんで血色の薄い、どこか疲れたような自分の顔がぼんやりと反射していた。
私は、画面を伏せ、深く息を吐く。
『麻美〜何してんの? 今から来れたりする?』
たったそれだけの、愛想のない通知。
どうせまた、誰かに埋められなかった隙間風を私で塞ごうとしているだけだ。
わかっているのに、気がつけばクローゼットの扉を開け、深夜の冷気に耐えうる分厚いコートを引きずり出していた。
深夜のタクシー。冷たいシート。エレベーターの無機質な機械音。
見慣れた金属のドアノブに手を伸ばすと、内側から重い音がして扉が開く。
「……遅いよ」
アッシュグレーの無造作な髪。
切れ長で、どこか温度を感じさせない涼しい目元。彼の名前は拓真だ。
真っ直ぐで嘘のない子に育ってほしいと名付けられたとか教えてくれたけど、全然名前通りの性格じゃない……
むしろ逆すぎて笑っちゃう。
靴を脱ぐ暇さえ与えられず、強い力で腕を引かれる。
彼の柔軟剤の甘さと、微かな煙草の匂いが、暴力的に鼻腔を支配した。
乱暴に重なる唇。熱い舌の感触。
暗闇の中、衣類が擦れる乾いた音と、荒い呼吸だけが響き渡る。
壁に押し付けられた背中が痛い。けれど、それ以上に彼の体温が熱い。
首筋に這わせた指先が、私の輪郭を確かめるように強く食い込む。
この瞬間だけは、私のすべてを欲しがってくれる。
余裕なんてなくて、ただすべてこの熱に溶かされていく。
彼の広い背中に爪を立て、もっと、もっとと貪欲に熱をねだる。
――ふと、魔法が解ける。
それは甘い時間が終了した証。
汗ばんだ肌に、エアコンの微風が冷たく張り付く。
彼はゆっくりと体を離し、ベッドの端に腰掛けた。
サイドテーブルの煙草に火を点けるカチリという音。紫煙が天井に向かって、細く、頼りなく伸びていく。
事後の、甘くて残酷な恋人ごっこ。
私の頭を撫でてくれる手のひらは確かに優しいけれど、そこに熱帯夜のような執着はない。
選ばれないなら、それでもいい。
この体温を手放して、独りの冷たいベッドで朝を待つくらいなら、偽物の恋人で構わない。
明日になれば他人に戻るのだとしても、今はただ、この残酷な優しい匂いの中に、自ら進んで閉じこもっていたかった。
……それから数日後。
油とフロアの芳香剤が混ざったような、アルバイト先の匂いがまだ髪にこびりついている。
重い足を引きずりながら帰り着いた、六畳一間の狭い部屋。
電気も点けず、ラグの上に力なく仰向けに倒れ込む。
薄暗い天井には、シミが一つ。
それをぼんやりと目でなぞりながら、乾いた唇を微かに動かした。
「拓真に会いたいなー」
誰に届くわけでもない、掠れた独り言。
直後。
枕元に放り投げていたスマートフォンが、ブブッと短く震えた。
心臓が、肋骨の内側で跳ねる。這うように手を伸ばし、画面を裏返す。
『今日、空いてる?』
画面に浮かぶ、拓真の文字。
指先が微かに震え、無意識のうちに口角が上がってしまう。
都合のいい女だと、頭の片隅で冷めた自分が嘲笑う。
それでも、肺いっぱいに酸素が巡り、急に世界の色が鮮やかになったような錯覚に陥る。
「もちろん」
声に出して呟き、画面にスタンプを一つだけ返す。
急いでシャワーを浴び、一番お気に入りの下着を選んで、夜の街へと駆け出した。
そしてまた、私は彼に抱かれている。
シーツが擦れる音。間近で聞こえる、拓真の少し荒い呼吸。
熱を帯びた肌と肌が密着し、逃げ場のないほどに彼の匂いに包まれる。
「ねえ……」
天井を見つめたまま、彼の背中に回した指先に力を込める。
私の声に、拓真は動きを止めず、ただ低く「ん」とだけ喉を鳴らした。
汗ばんだ彼の髪が、私の頬を掠める。
「私のこと、どう思ってるの……?」
言ってはいけない。聞いても無駄なことだと、痛いほどわかっている。
それでも、肌が触れ合っているこの瞬間だけは、彼が私だけのもののような気がして、つい言葉がこぼれ落ちてしまう。
拓真は、ふっと短く息を吐いた。
「どうって。……気持ちいいよ。麻美も、そうだろ」
私の首筋に顔を埋め、ぞくりとするほど甘い声で囁く。
その唇がズルいほど温い。私の名前を呼んでくれる。
優しく、どこまでも甘く私を溶かしていく。
けれど。
どれだけ深く繋がっていても、彼が決して『好き』という言葉を口にしないことだけが、冷たい事実としてそこにあった。
そして無慈悲にも愛される時間は終わり、私は大人しく何も言わず帰ることにした。
冷え切った夜風が、火照った体を容赦なく冷ましていく。
帰り道、一人きりの歩道。
私はポケットから、彼がいつもベッドサイドに置いているのと同じ銘柄のタバコを取り出した。
カチリ、とライターを擦る。
深く吸い込むと、喉の奥を焼くような苦味と共に、彼と同じ匂いが肺を満たした。
紫煙が、冬の夜空に白く溶けて消えていく。
(……もう、会うのやめよう)
タバコのフィルターを噛み締めながら、心の中でつぶやく。
優しくされるたびに惨めになる。選ばれない痛みに、いつか耐えられなくなる。
こんな関係、今日で終わりにしなければいけない。
けれど、靴底がアスファルトを叩く音を聞きながら、私は確信していた。
数日経てば、またあの狭い部屋の天井を見上げて、彼の名前を呼んでしまうのだと。
メッセージが来れば、尻尾を振って駆けつけてしまうのだと。
だって、どうしようもなく、彼のことが好きだから。




