第九話
建物は本館と別館の二棟。本館は3階建で客室が十室と温泉と宴会場、レストランの他、従業員用の宿泊部屋や事務室、座敷などがあった。ちなみに客室は甲、乙、丙、丁……と陰陽五行説になぞらえた名が付けられていた。
別館は現在、ほとんど使われておらず、用具置場となっているとのことであった。
二人は、あらかた見回ったが、施設そのものに特に異常は見られない。温泉は、設備こそやや古いものの、男湯と女湯とも露天風呂も備えられ、広々として落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「どうだ、氷室?」
測定機を手に、真剣な表情で数値を確認していた氷室に、葉一が声を掛けた。
「うーん……建物全体に弱い反応があります。ただ温泉だけ反応が少し強いですね」
「これだけではなんとも言えんな。ただ例の客も温泉に入っていくことを考えると……」
葉一は案内していくれている藤乃に確認した。
「藤乃さん、温泉について知っていることを教えてくれ。確か、祖母の代から湧き出したと聞いたが?」
「そうですね、先代から聞いたお話でよければ。温泉が湧く前、この宿はまだ料亭でした。そのとき、一人の小さな旅人に馳走し、お泊めしたことがあるそうです。小さな旅人というのは、子供とか、背の小さなという意味ではなく、本当に手のひらに乗るくらいの、そう、ちょうど一寸法師のような方だったそうです」
氷室は思わず息を呑んだ。その様子を見ながら、藤乃は淡々と続けた。
「その旅人は助けてもらったお礼に、何か欲しいものはないかと聞いたそうですが、先々代は欲のない人で、何もいらないと答えました。その旅人は『それでは私の気が済まない』と言い、不思議な力で、庭に温泉を沸かせたそうです。この温泉は病にとても効果があると評判になり、当時大繁盛したそうです」
「小さな旅人、温泉……。なんだか神話の小彦名命みたい。いやそんなはずはないですね」
氷室の感想に、藤乃は優しく微笑みながら答えた。
「神話にお詳しいのですね。そう、その小さな旅人は小彦名命様だったのではないかと伝えられています。 小彦名命は、古事記や日本書紀に出てくる手のひらサイズの小さな神様。大国主の相棒のような方で、人間に農耕や医療、温泉などの知識を授けたといいます。ここの温泉も小彦名命様が沸かせたものだと伝わっております」
「まるでおとぎ話のようなお話ですね」
「……いや、そうとは言い切れない。神話やおとぎ話と思われていたことが、実際に今の日本で怪奇現象として現れている例は少なくない」
「たしかに……」
氷室は数日前に調査した『黄泉がえり』の怪奇現象を思い出していた。死んだ人間が目の前に現れる。これまでありえないと思っていたことが、実在することをすでに体験していた。
「ふふふ。実際はどうなんでしょうね。もし本当なら、この温泉はとてもご利益のある湯ということになりますね。それこそ神様たちが温泉に浸かりにくるくらいに」
葉一と氷室の話を静かに聞いていた藤乃は満足そうに微笑む。その様子はまるで全てを知っているかのようであった。
「よし、とりあえず、こんなところか。調査は終了して、あとは怪異が現れるのを待とう」
「ではお部屋にご案内します。何かございましたら、どうぞお申し付けください」
「ありがとうございます」
二人はそれぞれ割り当てられた部屋に荷物を置き、ロビーで落ち合った。ここで怪異の到来を待つことにしたのだ。
「お部屋、思ったより広かったですね。私達はホテルのお客でもないのに、こんなにいい部屋、使ってもいいのかなと思いました」
氷室は思ったことを口にするが、葉一は資料をめくりながらそっけなく答えた。
「いいんじゃないか?どうせ普通の客なんてほとんどいないし、部屋は空いているだろう」
「そういう言い方は良くないですよ。だから誤解されるんですよ」
氷室は声をひそめて注意した。本当はそこまで悪い人ではないと分かっているが、このぶっきらぼうの話し方では誤解を受けても仕方がない。
当の本人は気にした様子はなく、資料に目を通していた。
「それより、奴らが来る前にもう一つだけ確認しておきたいことがある」
「確認、ですか?」
その時、江島が慌てた様子で戻ってきた。
「すみません。お待たせしました。業者とのやり取りが思ったより長引いてしまいまして」
「いや、構わない。一通り見回った。それより、例の防犯カメラの映像を見せてほしい」
「映像ですか?わかりました」
江島に連れられて、事務室に向かった。
江島がビデオデッキの操作をすると、モニターに、例の客がホテルに入ってくる様子が映し出された。
その風貌は、聞いていた通り。長い髪で顔半分が隠れた着物の女性や枕を抱いた寝巻の少女、僧侶の恰好をした背の高い男性が受付する様子が映っていた。
「少し変わった格好をしていますが、それ以外、とくに変なところはありませんね」
葉一はポケットから小さな円形のレンズを取り出した。それは片方の目だけにあてがう「モノクル」と呼ばれる探偵小説に出てきそうな道具であった。
「それは?」
氷室が興味深そうに尋ねた。
「これは霊視鏡『レイ・ミエール』。このレンズを通して見ることで、偽装された可視光線を遮断し、隠された真実だけを写す特殊なレンズだ。今回の調査に備えて、開発局から借りてきた」
「霊能力者の『霊視』みたいなものですか。何が見えますか?」
「落ち着け、今確認する」
氷室を制しながら、葉一は霊視鏡をのぞき込んだ。
そして映像を見た葉一の表情は険しくなった。
「見てみろ」。そう言って、葉一は霊視鏡を氷室に渡す。氷室は言われた通りに、霊視鏡をのぞき込み、映像を確認した。
「これは……物?も、物が動いて、ロビーで受け付けしていますよ!」
「そうだな」
「櫛に、行灯、手鏡……どれも年季の入った道具ばかりです。どういうことですか?」
「——付喪神……だな」
「つ、つくもがみ?」
付喪神。長い年月を経た道具に霊魂が宿ったもの。室町時代に書かれた『付喪神絵巻』には、道具は百年経つと霊魂を宿し、付喪神となると記されている。実際に付喪神となるのに百年を要するかは定かではないが、大事に使われた道具が長い年月を経て、魂を宿していることは確かなようだった。




