第七話
街の喧騒から車を走らせた先。深い森に抱かれるように佇むそのホテルは、知る人ぞ知る静養の地として申し分のない場所であった。
しかし、早朝の冷え切った空気のなか、一室から漏れた鋭い叫びが、その品格ある静寂を無惨に引き裂いた。
「オーナー、オーナー……!」
フロントに駆け込んできた女性スタッフの顔はひどく蒼白で、まるで見てはならぬものを目撃してしまったかのようであった。
奥の執務室から姿を現したオーナーは、焦燥を隠せぬ様子で彼女を見据えた。
「落ち着け。何があったか話してくれ」
「消えたんです……。あのお客さまたちが」
「……そうか。またか」
オーナーの声には、重い疲弊が滲んでいた。
「例の宿泊客全員か?」
「はい。どのお部屋も、まるで最初から誰もいなかったように整えられていて……」
「確認だが、チェックアウトの記録は。正面玄関のセンサーはどうなっている」
「何も……記録には何も残っていません。誰も通っていないんです。この建物のどこにも、彼らの気配が残っていない!……私、もう限界です。今日で辞めさせていただきます」
「ま、待ちたまえ!」
オーナーが止める間もなく、彼女は逃げ出すように去っていった。
「くそ、これで何人目だ。一体、この場所で何が起こっているというのだ……」
オーナーは窓の外に目をやった。すぐ麓には街の輪郭が近くに見えるというのに、ここだけが世界から切り離されているような錯覚に陥る。
その時、傍らで静かに状況を見守っていた昔から勤めてくれているスタッフの藤乃が、一歩前へ出た。
「……オーナー、調査を依頼されてはどうでしょう」
「藤乃くん、警察を呼べと言うのか? そんなことをすれば、このホテルの評判は……」
「いえ。もっと『専門的』な場所です。巷で囁かれている、怪奇現象を専門に扱う『神域調査課』という組織があるそうです」
オーナーは苦虫を噛み潰したような顔で街の灯を見つめていたが、やがて絞り出すように呟いた。
「……わかった。そこに、連絡しよう。この不気味な連鎖を、終わらせなければ……」
町の大通りに古く、どっしりとした建物が建っていた。この町の市役所だ。最寄り駅から徒歩数分とアクセスも良く、また周辺に市立図書館や公会堂が並び、全体的に落ち着いた雰囲気を漂わせていた。建物の内部には、市の各局が入っており、手続きに訪れた人々でごった返していた。その喧噪を抜けた奥、重い扉の向こうに、神域調査課はあった。
比較的新しく出来たこの部署には、まだ備品は少なく、机など最低限必要なものしか置かれてない。そのため整然としており、他の部署と比べて質素な印象を与えていた。
「葉山さん……」
真っ直ぐに伸びた黒髪の調査服に身を包む女性が、冷ややかな声で葉一の名を呼んだ。彼女の名は氷室氷香ひむろひょうか。美人だがどこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。そんな彼女の視線の先には、机に突っ伏して居眠りする男、葉山葉一はやまよういちがいた。ただし反応はなかった。
「葉山さん」
少し強めの口調を強めても、聞こえてくるのは、すぴー、すぴーと気持ちよさそうないびきだけだ。
「葉山さん!」
「んあ?」
がばっとおきた葉山は、相変わらずのぼさぼさ頭に無精ひげ。氷室は呆れたように溜息をついた。前回調査で、少しでも見直した自分を恥じた。
「いてて、昨日飲み過ぎて二日酔いなんだよ。大きな声出すと頭にひびくだろ」
「いい加減にしてください。北野課長が呼んでますよ。応接にお客様です!」
「他の奴が行けばいいだろ。春日とか」
葉一は伸びをしながら、ふわぁと大きなあくびをした。氷室は心の中で、この人が自分の指導役である不運を呪った。
「春日さんも香取さんも調査で出ています。今、部署にいるのは私たちだけですよ。そんな風だから、うちの課は税金泥棒みたいに言われるんですよ」
「一応、仕事はしてるだろう。はぁ、わかったよ。頭いてぇ……」
葉一と氷室が応接に入ると、課長の北野と品のある身なりをした男性がソファーに向かい合って座っていた。
「おお、来たか。こいつがうちの課の調査員の葉山だ。こんなんだが、仕事はちゃんとする。そして彼女も調査員の氷室。うちの期待の新人だ」
「ども」
「氷室氷香と申します。よろしくお願いします」
挨拶のあと、年配の男性は名刺を取り出し、葉一と氷室に手渡した。
そこには——
『ホテル月影亭、オーナー 江島敬三』と記載されていた。
「私は月影亭というホテルを経営しています江島と申します。本日は、神域調査課にお願いしたいことがあり参りました」
それぞれの席に着いたのち、江島はおもむろに話を切り出した。
「実は、少し前から当ホテルで不思議なことが起きています……」
江島は重い口を開き、最近の出来事を語り始めた。




