第二十話
隠れることに気を取られ過ぎて、扉の中を確認することを怠ってしまったことを悔やむが、もう遅い。氷香はツクシを背にかばいながら、逃げ道を探すため、室内を見回した。
室内は広く、事務所のような内装であった。声の主は、大きめの木の机に座っている。スタンドライトの影で顔がよく見えないが、こちらを観察しているようだ。
さらに奥からもう一人、女性の声が聞こえた。
「先生、お客さまがおびえているじゃありませんか。まずは自己紹介を」
「そうか、すまない。突然の来客だったからつい観察してしまった。失礼した。僕は綾小路尊。探偵さ」
その名を聞いた瞬間、氷香の目が大きく見開かれた。
綾小路尊は、氷香が愛読する月山詩乃の人気小説シリーズ「綾小路尊の事件簿」の主人公、その人であった。
特徴的な赤髪、茶色のスーツにベスト、革の手袋。小説の挿絵そのままの姿であった。
「あ、あの失礼ですが、雪山大捜索事件で活躍した綾小路尊さんですか?」
「ええ」
「あの摩天楼迷宮入り事件の糸口を掴んだ?」
「あれは手強い事件だったね」
「海底1000メートルの密室殺人事件で犯人のトリックを見破った?」
「それはつい最近の話だね」
「し、信じられない、本物の綾小路尊さん!とするともしかして、そちらは厳島玲奈さん!?」
氷香は綾小路の隣に立つ、紫の前髪を揃えたメイド服の女性に視線を向けた。
「はい。わたくし、厳島玲奈と申します。わたくしのこともご存じなのですね?」
厳島は丁寧にお辞儀をしながら、自己紹介をする。表情には出ていないが、氷香が自分のことまでしっていたことに、少し驚いているようだ。
「も、もちろん知ってます。やばい、実物かわいい!私、お二人の大ファンです。サインいただけませんか!」
「ええ、もちろん!どうぞ」
「わぁ、ありがとう!」
「……氷香、ちょっと待つ」
氷香が綾小路と厳島から色紙に書かれたサインを受け取っていると、さすがに見かねたツクシが声を掛けた。ちょっと引いているようだ。
「はっ、そうだった。ごめんなさい。こんなことしてる場合じゃなかった」
「氷香、しっかりする。そいつらも敵かもしれない」
「あっ。そ、そうね」
彼らも魘魅が創り出した世界の住人であれば、氷香たちを捕えようとしている可能性は十分にある。憧れの人物に会い、つい興奮してしまった自分を恥じつつも、氷香はあわてて警戒心を高めた。
「あ、あなたたちの狙いも私たちですか?」
氷香の直球の質問に対しても、綾小路は気にした素振りは見せず、それどころか楽しそうに返した。
「ふふふ、忙しいお嬢さんだ。安心したまえ。僕たちにその意思はない。そもそも君たちが誰かも知らないからね」
綾小路の紅い瞳が氷香たちを射抜く。しかしこの瞳からは、彼が真実を語っているのか、はたまた嘘をついているのか、何も読みとることができなかった。
(もし本当に私たちを捕まえるのだったら、私たちが部屋に入った瞬間が一番の好機だったはず。そうしなかったということは、少なくとも嘘はついていない?)
「……わかりました。あなたたちを信じます。突然お邪魔してすみません。私は氷室氷香で、こっちはツクシといいます」
「ん」
綾小路は二人を観察しながら、ゆっくりと席を立ち上がった。
「さて、君たちはなぜここに来た?かなり急いでいたようだったが」
「それは……」
「追われているんだろう。それも大勢に……」
氷香が説明を始めようとした瞬間、綾小路が先に言葉を重ねた。
「何故それを?」
「簡単なことだ。入ってきたとき、君たちは勢いよく扉を開けて、中の確認もせず、外の様子ばかり気にしていた。これで何かに追われているということがわかる」
綾小路は指を指を一本立てて、淡々と続ける。
「問題は何にだが……。氷室君と言ったね。君の身のこなしから、それなりの護身術を身に着けているのがわかる。そしてそちらの小さいお嬢さんも、見た目通りの子供ではない。足音を全く出さない子供なんて、君で二人目だよ」
綾小路は肩をすくめる。もう一人の子供というのは、もちろん綾小路の小説に出てきた登場人物だ。悪の組織に育てられた凄腕の暗殺者という設定だが、今は関係がないので、その話は置いておく。
「そんな二人が、慌てて逃げているとなれば、相手はよほどの怪物からか、あるいは対処できないほどの大勢か。あとは可能性の絞り込みだよ」
「すごい……、それで合ってます」
状況を一瞬で推理され驚く氷香とツクシに対し、その横で厳島はなぜか誇らしげであった。
「問題はどうしてそのような状況になったのかだが、ここからは僕の推理でも説明がつかない不可思議なことが起きているようだね。説明してくれるかい?」
有無を言わさぬ綾小路の口調に、氷香とツクシは頷くしかなかった。そしてこれまでの状況について、かいつまんで説明した。
「なるほど。魘魅という鬼が、映画を現実させたと。そして君たちを追っているのが、その映画の登場人物であるというわけか」
「信じられないかもしれませんが、そうです」
「確かに信じ難い話だが、信じよう。君が嘘を言っているようには見えない。だが、そうなると僕も厳島君も『映画の世界の住人』ということか」
「いえ、『綾小路尊の事件簿』に関しては違います。実写化の話もありますけど、まだされていません。されていたら、絶対観てますし……」
「なるほど……」
綾小路は軽く顎に手を当て、紅い瞳を細めた。
「大体わかったよ。この事件の真相が」
その時、ドンドンと扉を叩く音が聞こえた。




