連載 コーポ長谷川9|駆けつけてきてくれる彼氏がいて、よかったね!!ーーさすがに怒るでしかし の巻
翌朝。コーポ長谷川から一時間ほどの所にある、兄家族が住むマンションで目を覚ます。
「頼れるご家族とか、ご連絡できそうな方はいますか?」
警察官に訊かれ、唯一浮かんだのが兄だった。
私は遅くにできた子供で、両親はもう高齢だ。特に母は、からだが弱い。確かに生命に関わる出来事だと言えばそうだが、過ぎ去ってしまえば、男女のいざこざの末のくだらないトラブルにも思えてしまう。
そんなものに巻き込んだり、余計な心配ごとを増やしたくないのが娘としての心情だ。そして、巻き込んでしまって申し訳ないけれど、生まれた順番に事寄せて頼ってしまおうというのが、妹としての心情なのだ。
「でも一応、ここペット禁止だからね」
言いながらも、兄は嬉しそうにクロを撫で回している。
「あ、そうなの?! じゃあさっさと帰らないとだめじゃん」
「まあ、こいつがそこまで暴れなきゃ、数日くらい大丈夫でしょ」
兄はそう言ってくれるけれど、迷惑はあまりかけたくない。
窓ガラスの修理が終わり次第、コーポ長谷川に戻ろう。
昨夜、警官たちに引き離された後、女は怪我の治療もあるからと病院へ連れて行かれた。
しかし、彼女が診てもらうのは、きっと怪我“だけ”ではないだろう。
彼女の名前は「タマダ マキ」。
マキの母親が現場に着くまでの間、彼女はアパートの外で取り押さえられた後も、警官らから逃れようと暴れ続けた。
「あの女どこだ!」
「あの女連れてこい!」
「あの女のせいだ……!」
ひたすら叫び続けるマキの声は、二時間にも渡って響き渡っていた。
「すごい体力……」
部屋の中で寄り添ってくれていた女性警官が、呟くように言った。
「でも一週間くらいはかかるだろ? 業者、週末は連絡つかないだろうし」
兄が言う。
「大家さんが、窓すぐに直してもらえるように手配してくれたって言ってたから」
あの後、いろんな人が現場に駆けつけた。
一樹の保育園時代からの友人の母親でもある大家さんは、「すみません、こんなトラブル……」と言う私を素通りし、駆けつけるなり、状況を一気飲みするように「ふんふん」と、テキパキと部屋を見回す。
「大丈夫、大丈夫。大丈夫だからね」
と早口で言い、私の肩をぽんぽんとたたき、忙しく出ていった。
兄に次いで、マキの母親も到着し、玄関先で申し訳なさそうに頭を下げた。
「うちの娘が……すみません……」
「どうぞ。上がってください」
台所にあるカウンターテーブルを挟んで私と兄、そして母親は向かい合わせに座ると、次に母親が口にした言葉に、兄も私も愕然とした。
「娘も娘ですけど……でも……あなたもなんで、ここにまだ住んでるの?」
予想外の言葉に、何も言えず母親を見つめる。
「だって、嫌じゃないですか、普通。別れた後も彼氏と住んでた所に住み続けるなんて。しかも、家賃も彼氏に払わせてるそうじゃないですか。
娘がこの状況が耐えられないって、すごく悩んでたんです」
「え……いや、家賃は、私が頼んだわけじゃないですけど……」
「でも、娘の立場からしたら、嫌な気持ちになるの当然だと思いませんか?
あの子……子供のころにいじめられててね、それからトラウマを抱えてて……ずっと精神が不安定なんですよ……」
ーーは……?
「もちろん、ちゃんと誠意は見せますから。娘が壊したものとかね、見積もりをくれればお支払いします。
だけど、あなたにも非があるわけなので、事件とかには……ね? 穏便にお願いします」
「ふっ」
兄が失笑を漏らす。
「なんですかこれ。あなた、謝罪に来てるんじゃないんですか」
「だから、申し訳ないって言ってるじゃないですか。だから、穏便に……事件にだけは……」
「あの」
母親の視線が、私の視線と交わる。
頭や口の中の毒素を、この母親の顔にぶちまけてやりたい気持ちを抑え、私は絞り出すように静かに言った。
「夜中に娘に……娘さんに、家の窓を叩き割られて、こっちは殺されるかと思うほど怖かったんです。
今、こうしてあなたと会って、娘さんがあんな風に育った原因がなんとなくわかりましたよ。
被害届を出すかは、こっちが決めます。もう帰ってください」
母親の顔が不服そうに歪む。
クロは吠え回るが、一瞥もくれず、不貞腐れたように部屋を出ていく。
すると、ちょうど入れ違いで、顔を真っ青にして現れたのが一樹だった。
開け放たれた部屋の玄関に立ち、「ゆい」と呼ぶ。
振り返り呆然と立ち尽くす私に、「ごめんな……」とひとことだけ言って、駄々をこねるようにアスファルトにベタリと座り込み、叫ぶマキのそばへと駆けていく。
遠くで、一樹の声が微かに聞こえる。
懐かしい、優しい声が。
「大丈夫か……?」
私は真っ暗な霧の中で
地べたに座り込む白いシルエットが立ち上がり、愛おしい人の胸に絡みつくのを、ただただ遠くから眺めた。
【10】へつづく