連載 コーポ長谷川8|決めた。私、女優になる!
その時の私には、選択肢が二つあった。
一つはクロを抱いて部屋から逃げ出すこと。
そしてもう一つは、こうして、ただじっとこの部屋に留まることだった。
ぐるぐると頭の中を回る二つの選択肢のあいだで彷徨い、私は震えていた。
しかし――クレセント錠が開かれ、女の全貌が露わになった今、迷いや恐れはたった一つの思いに収束し、その姿を180度変えたのだ。
ーー死にたくない。
窓ガラスを華奢な素手で叩き割ったその女は、ついに侵入してきた。
「もう……」と呆れたように手の血を振り払いながら、のそのそと部屋へ入ってくる。
短いスカートにロングブーツという場違いな出立ちは、どこかで観た“死者が蘇る”シーンと重なった。
床に飛び散る大小さまざまなガラスの破片。ぼたぼたと垂れ落ちた血はどろりと重く床を這っていく。割れた窓から吹き込む風に揺れるカーテンに巻き込まるように、女の顔は見え隠れしている。乱れた長い髪が邪魔をして、その表情はよく分からない。けれど今の私には、それはどうでもいいことだった。
気になるのは、ただ一つ。
この女が凶器を持っているのか否か、それだけだった。
女の両手に視線を凝らし、何も持っていないことに一瞬安堵する。
が、すぐに気づく。凶器は、彼女の周りを囲むように、無数に散らばっているのだ。
興奮のあまり、腕の中で全力でもがくクロをおさえきれず、彼はついに床へと逃れ、女の周囲を吠え回る。
その瞬間、嫌な可能性が脳裏を走った。
私は咄嗟に、女の元へと駆け寄った。
「大丈夫?? 手、すごい血出てるよ?! きゅ、救急車! 救急車を呼ばないと!」
こんな猿芝居に騙される人など、普通いない。
けれど彼女の表情は、正気じゃなかった。
この人間の言動と同じ土俵に立ったら終わりだ。
本能が、そう告げている。
だから私は、理性すら脱ぎ捨てたふりをする。
狂気には、狂気で対抗する。
たった今、そう――覚悟を決めたのだ。
女は差し伸べる私の手を振り払い、「ほっとけ…」と虚ろに言う。
「全部……全部お前のせいだからな……」
「えっ、でも、痛いんじゃない?! ほっといたら化膿しちゃうよ?!」
「大丈夫……」と呟きながら、女はふらふらと部屋をじろりと見回す。
「ふーん。ここがカズが暮らしてた部屋ね……」
低い声のトーンで呟くと、虚ろな目をカッと見開き、鋭い視線で私を見据えた。
「カズとうまくいかないのはお前のせいだ。邪魔なんだよ!
お前さえいなくなれば、あたしは幸せになれるのに……。
お前も、その犬も、消えていなくなれよ!」
そう言われても、私はちらばるガラスの破片と、女と破片の間で吠え回るクロに意識を集中させていて、返答に迷っていた。
「おい! 話聞いてんのか!」
声を荒げながら、女はテーブルを蹴り飛ばす。
酎ハイのアルミ缶が宙を舞い、カランカランと音を立てて転がる。
テーブルの端に置かれていたメイクボックスが倒れ、蓋が開いて、中の鏡は衝撃でくっきりとひび割れていた。
この危険な空間から離れなければ。
ただその一点に向かって、考えを巡らせる。
私は、ひたすらガラスの破片とクロの間に視線を泳がせながら立ち尽くしている。
そのとき、女が私の腕を掴んだ。
「おい! 無視すんな! なんとか言えよ!」
言われ、「うっ……」と呻きしゃがみこみ、「き、気持ち悪い……オェ……オェー!」と嘔吐くふりをする。
「えっ……」
女がたじろぎ、掴んでいた手がわずかに緩む。
ーー今だ……!
その瞬間、私は一気に立ち上がった。
脚に溜めていた力を爆発させるように、玄関へと全力で駆けた。
凶器を持っていないこの女からなら、外へ逃げたほうがきっと助かる。
しかし、扉から体が半分外に出たところで、私はガシッと腕を掴まれた。
「助けて!!」
誰かに届いて――そう願って、声をあげる。
しかし、私の住むこのコーポ長谷川。
近隣住民の顔をほとんど知らずに暮らしているこの場所で、扉を開けてくれる者はいない。
みんな、巻き込まれたくないのだ。
それでも私は「助けて!! 誰か!!」と、何度も何度も繰り返す。
「おい! 入れ……!」
小柄なシルエットからは想像できないほどの凄まじい力で、引き戻されそうになる。
掴まれた腕が、じんじんと痛む。
その時だった。
駐車スペースの奥。赤いランプがちらつく。
その光が、私を現実に引き戻した。
膝がガクガクと震える。
制服姿の警察官が駆け寄ってきて、「どちらが通報しましたか? どちらが通報しましたか?」と、マニュアルのように繰り返す。
「私です!!」
私は叫ぶ。喉が裂けそうなほどの声で、何度も、何度も――。
【9】へつづく