連載 コーポ長谷川7|もしかしてだけど、これっておいらが殺されるやつじゃないの
「コンコンコンコン」
恨む理由はあっても、私がこの女に恨まれる理由なんてひとつもないはずだ。
深夜に突然現れて、インターホンを鳴らし、扉が開かないとわかってもしつこくノックを続けている。
まさに“どの面下げて”というやつだ。
いっそドアを開けて、ひとこと言ってやるべきなのだろうか。
そう思いかけたとき、キッチンのすりガラスの向こうを、あの日と同じシルエットが横切った。
ヒールの音が、妙にあっけなく遠ざかっていく。
ーー帰った…?
私は浅くなった呼吸を整えようとしながら、ゆっくりと玄関から離れる。
ーー諦めたのだろうか…
だが次の瞬間、嫌な想像が頭をかすめ、私は息を止めた。
それは、クロに目をやったときだ。
今では心強くすら感じるクロの威嚇吠えは、ヒールの音が消えたあとも止む気配がない。
それどころか、私は彼のある異変に気づいてしまった。
クロが向いているのは、玄関でも、キッチンのすりガラスでも、アパートの出口の方向でもない。
リビングの掃き出し窓ーーその方向だ。
耳を澄ますと、あのヒール音は確かにまたこちらに近づいてきている。
手足の先がじわじわと冷えていく。
体温が制御不能になったかのように奪われていき、指先は氷のように冷たくなる。
気づけば肩が小刻みに震えていた。
カーテンの向こうに感じる“何か”に、今まで味わったことのない種類の恐怖が、私の全身を支配する。
「寒い」
思わずそう呟く。そんな場合ではないと頭ではわかっているのに、エアコンのリモコンに手を伸ばす。
まるで、自分はまだ平静だと、自分自身に証明したいかのように。
暖房の温度を上げ、普段通りを装うけれど、リモコンを持つ手はかすかに震えている。
叩かれない窓。
ただ、誰かが窓を開けようとしている気配だけが、そこにある。
私はようやく気づく。今、自分が手に取るべきなのはエアコンのリモコンなんかじゃない。
携帯電話だ。
「コンコンコンコン」
ついに、こちらを呼びかけるようなノックが鳴る。
だが今度は、応答を待つことなく、
「ドンドンドンドン!」
と連打が響き渡る。
私の心臓も、それに合わせるかのように激しく高鳴り、顎はひとりでに震え始める。
「ドンドンドンドン!」
私の動揺を見透かすかのように、鈍い打音はさらに強く鳴り響く。
頭の中ではさまざまな“想定”が目まぐるしく浮かんでは消え、
私は震える手で「110」をプッシュする。
そして、窓ガラスを叩く音が、変化する。
「ドン」
「ドン」
「ドン」
さっきの苛立ちにまかせた連打とは違う。
一打一打、ゆっくりと、重く、拳が振り下ろされている。
ーーそれも、窓ガラスの一箇所に集中して。
電話口の向こうで「事件ですか、事故ですか」という声を遠くに感じながら「ピキッ」というガラスがきしむ音に私はようやく確信したのだ。
これは思い過ごしでも早とちりでもない。
まぎれもなく“事件”の始まりなのだと。
「落ち着いてください。まず、居場所を教えてください。住所はわかりますか?」
真っ白になった頭から、かろうじて答えを引き出す。
「住所……えっと……」
焦りで喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
クロが狂ったように吠え回る中、「ドン」と窓を叩く衝撃音が重なってくる。その音に呼応するように、ガラスが悲鳴を上げはじめる。
「ドン」 ピキッ
「ドン」 ピキピキ……
「ドン」 ピキッ……ピキッ……
「ドン」 ミシッ!
「わかりました。パトカーを向かわせます。相手は、今も近くにいますか?」
「バリィン!」
甲高い破裂音とともに、掃き出し窓のガラスが砕け散る。
床に飛び散った破片が、細かく跳ねて転がった。
「カラカラ…ッ」と硬質な音が、耳にこびりつく。
一瞬、クロの吠え声が止まる。
そして次の瞬間――
クレセント錠が回される「ガチャ、ガチャ」という小さな音に、戦慄が走る。
体の奥から冷たい震えがせり上がってくる。
私は慌ててクロを抱き上げ、後ずさる。
「はい。たった今、窓を割って……鍵を開けようとしてます……」
カーテンの隙間からちらちらと覗く、その華奢な手が視界に入る。
手から流れ落ちる真っ赤な、ぬめるように垂れていくその血が、カーテンの白をじわじわと染めていく。
しかし、何故だか分からないけれど、さっきまでどうにも出来なかった体の震えが、恐れの感情が、すーっとおさまっていく。
この時私は、恐怖の渦中にいるはずなのに、まるで誰かの悪夢を傍観しているような、奇妙な静けさに包まれていた