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連載 コーポ長谷川6 | 開けてあげないよ、ジャン!三角形のひみつより気になる招かれざる客の正体



コーポ長谷川は、北側にキッチンとトイレ、お風呂があり、南側には六畳ほどの洋室と和室が一つずつある。


古い建物だけれど日当たりが良く、玄関を開けると部屋全体が見渡せて開放感があるこの部屋が、私は好きだ。


大通りから何本か入った入り組んだ場所にあって、夜は静かで、よく眠れる。


唯一の難点を挙げるなら、洗濯物が外に干せないことだ。洗濯竿を掛ける場所がないわけではない。けれど、掃き出し窓を開けると、すぐそこはアパートの駐車スペース。建物と外との間に仕切りがないので、窓を開ければ部屋の中が丸見えになるのだ。


洗濯物を干すどころか、レースカーテンを開けるのすらためらってしまう。


けれどそれも私にとっては、大した問題ではない。使っていない和室も日当たりがいいから、そこに干しておけば済む話だ。




窓から差し込む柔らかな光が、朝の訪れを告げている。


気ままに目覚める休日の朝は

コーポ長谷川の住民たちのさまざまな“音”が、心地よく耳に届く。


カチャカチャと食器が鳴る音。水道の音。扉や窓の開閉音。


同じ建物で暮らす彼らの生活音に包まれると、週末の孤独感が、いくらか紛れる気がする。古い建物ならではの気密性のなさや、壁の薄さに、私は救われている。


 「散歩行こうか。準備してくるからちょっと待ってね」


クロにそう声をかけるけれど、彼は私が言い終わる前にはもう玄関にいた。“散歩“という一言に反応して矢のごとく飛んでいきそわそわしている。扉を見上げながら座ったり立ったりを繰り返し、叱られないよう絶妙に押さえ込んだ「うぉっふ」という吠え声で催促してくる。その落ち着きのなさにせかされ、私は「はいはいはい」と言って散歩の支度を急ぐのだ。



散歩を終えて、クロを玄関で待たせたままバスタオルを取りに行くと、彼はあきらめたように小さなため息をついた。


お風呂が苦手なクロは、さっきまでのテンションとは打って変わってしょんぼりと尻尾を丸め、もともと垂れている耳がさらに垂れて見える。


まるでこの世の終わりかのような悲壮な顔に、毎度ながら、思わず吹き出してしまう。






一樹がいなくなったことで、コーポ長谷川での暮らしの負担を、私は丸ごと背負うことになった。だから、家計はなかなか厳しい。


――あのお金には、どうしても手をつけられない。


友達とのお茶や外食も、自然と控えるようになった。そうしているうちに、付き合いそのものが減っていくのだろうと思う。


そうやって少しずつ、自分がこの世界から切り離されていくような気がして、時折ぞっとする。


青い空を灰色に染める雨雲のように、孤独の闇が忍び寄ってくるのは、こんな夜だ。


この世に自分だけが取り残されてしまったような、誰からも忘れ去られてしまったような、そんな錯覚に襲われるのだ。


「さっさと寝ちゃおう」


一樹がいた頃は二人で和室で寝ていた。しかし今はソファーベッドを購入したので、暮らしのほとんどがリビングで完結してしまう。


ソファーベッドを広げ、寝る支度をする。


「クロ、寝るよ」


「ハウス」と促すとクロはとぼとぼとソファーの横にあるケージに入る。 


開けない夜はない。

そう自分に言い聞かせて瞼をとじる。



しかし壁の薄いコーポ長谷川の週末の夜は賑やかだ。

隣から、バンドの練習かなにかなのだろうか。ギターの音と、複数の歌声が洩れ聞こえてくる。


「だめだ」


起き上がると、クロも爛々とした表情で尻尾をゆらゆらさせている。


「寝れないねぇ。一緒に夜更かししちゃおっか」

言って、ケージの扉を開けると、クロは嬉しそうに軽やかな足取りで出てきた。


冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、小さなテーブルをベッドの側に引き寄せる。腰掛けるとクロもベッドに上がり、私にぴたりとひっついて丸くなる。テレビで流れているバラエティ番組を虚ろに眺め、眠気の訪れを待つ。

二本目の缶を空けたあたりで、心のどこかで張りつめていた糸が、ようやくほどけていく気がした。どうでもいい映像が、なぜか面白く感じられる。目の端で、三角形のお菓子たちが踊っていた。


『教えてあげないよ、じゃん!』


「いい加減教えろよ」


テレビに向かってツッコむ。



逃れられない闇に抗うのをあきらめ、ただ漂う。


一樹がいなくなってから、こんな夜は、もう何度も訪れている。




――一樹に、会いたい……。



「ピンポーン」


玄関から響いた呼び鈴の音に、はっと我に返る。


一樹……?



「また来る」と書かれた、懐かしい文字。


それが投函されたあの日から、私はどれほど思いをめぐらせてきただろう。


だけど月末に無言で投入される茶封筒。


きっと罪悪感や義務感。彼を動かしたのは、そんなものに違いない。


それでも、私は何を期待しているのだろう。バカみたいだ。


一樹ではない。


そう思った瞬間、胸の奥がざわつき嫌な予感が走る。


テレビを消し、物音を立てないように、そっと覗き穴に近づく。



クロの、吠える声だけが空間に響き渡る。



――やっぱり……あの女だ。




テレビの音にかき消されていたが、鋭いヒールの音は、意識の奥で確かに響いていた。




「ピンポーン」


再び鳴り響く呼び鈴に、息を潜めながら思う。




私から恋人を奪ったこの女に、扉を開けてあげる理由なんて、どこにもない。


それに――




「コンコンコン……」




これから起きることを暗示するような、乾いたノックの音。




……この女、きっとまともじゃない……


【7】へつづく

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