表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/19

連載 コーポ長谷川17|※編集済 物悲しい引越しと温かい君とのうどん




窓を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でた。

薄曇りの空の下、金木犀の香りがほのかに漂ってくる。ついこの間まで蝉の声にかき消されていた誰かの足音が、今日ははっきりと聞こえる気がした。コーポ長谷川の共同廊下を行き交う靴音も、どこか軽やかだ。


リサイクル業者は、大きな家具の大半を回収していった。


「差し引き金額、500円のお返しですねー」


手渡されたワンコインを見つめる。粗大ゴミにかかるはずだった費用が浮いたうえ、お釣りまで返ってくるとは。リサイクルってすごいな、とつくづく思う。


「来たでぇー。ゆいっぺー」


外から呼ぶ、田中さんのよく通る声が響く。


「ちょっと。チャイム鳴らしてよ」


呆れながら玄関を開けて言うと、


「なんでや。沖永良部じゃ、近所の奴ら飲みに誘う時、いつもこんなんやで。叫べば集まる」


「なにそれ。おもしろ」


笑うと、田中さんは「常識よーん」とふざけた。



ほとんどの大型家具は回収されたとはいえ、テレビや小型冷蔵庫、ソファーベッドは私の軽自動車では運べない。田中さんに相談すると、


「えぇよ。週末なら俺、手伝えるで。会社の軽バン使えば、それくらいの家具のるやろ」


と言い、


「でも、犬はさすがに乗せられへんけどな」


とも言う。


「大丈夫。ごちゃごちゃした小物類は私のトランクでもいけるから、それと一緒にクロは後から連れていくよ」


そう言って、私は田中さんに週末の引越しの手伝いをお願いしたのだった。



ひと通り軽バンに荷物を積み終えると、時刻はお昼を回っていた。


「腹減ったなぁ」


少し出っ張ったお腹をさすりながら、田中さんが言う。


「お礼に、ご馳走するよ」


と答える。


コーポ長谷川から歩いて五分くらいのところに、「手打ちうどん よし乃」という店がある。

路地を進み、大通りに出ると、信号を渡ったすぐ先だ。


古い暖簾がかかった、小さな店。

戸を開けると、木の椅子とテーブルが並んだ年季の入った空間で、出汁のいい香りがふわりと鼻に抜けた。

注文はセルフスタイルで、店主の無口なおじいさんが、奥の厨房で黙々とうどんを茹でている。


価格の割にコシのある麺や出汁が美味しい。一樹がいた頃は時々一緒に来ていたけれど、

家計事情が厳しい今は、すっかり足が遠のいていた。


「海老うまそうやな」

「お、とり天もえぇな」


田中さんは揚々と、自分のトレーと私のトレーに天ぷらをどんどんのせていく。


「ちょっ、勝手に……」


言うと、


「今日はゆいっぺの奢りだからねー。遠慮せずいっぱい食べるんだよー」


と、白々しい標準語でふざけながらも、どこか楽しそうだった。



私はかけうどんの“小“、田中さんは“大”を注文して、席についた。


会計は結局、田中さんが私に有無を言わせず済ませた。


「奢ってもらうのは、ゆいっぺが大人になってからでええよ」


「もう充分大人でしょ」


「もっとこう、背が大きなってぇ、胸もぼーんなってぇ、アンジェリーナ・ジョリーみたいになったら」


込み上げる笑いをこらえきれず、吹き出す。


「そんなの、一生待ってもならない」


と返した。



「ただいま」


留守番をしていたクロを撫でる。

うどん屋から戻ってきて、田中さんは「ほんじゃ、俺先に行っとるで」と軽バンを発進させ、新居へ向かった。


掃き出し窓に鍵をかけ、電気のスイッチを切る。


がらんと空っぽになった101号室を、目に焼きつけるように見回すと、思わず深いため息が出た。


 


——思い出が散らかったまま、どこかに置き去りにされているような気がした。


 


私は、どこでまちがってしまったのだろう。


一樹と出会った頃、私は“好きな自分”でいられたと思っていた。

一緒に暮らすまでは、ずっとそう思えていた。


けれど暮らし始めると、奥底に閉じ込めたはずの、どろどろした“醜い自分”が剥き出しになっていった。

両親と向き合えない自分。

誰に対しても、心を開くことができず、優しくない自分。

どうしても肯定できない自分自身を、一樹になんとかしてもらおうと、過度な期待を押し付けては、何も出来ない彼の無力さに苛立った。


依存するあまり、何も見えなくなっていたのだ。


それはきっと、マキのように。

私の心もまた、満たされず止まった時間の中に閉じ込められていたのだと、このごろ思う。


 


一樹は、そんな私から逃げることに成功したのに、また同じような暗い森に迷い込んでしまっている。


 


一樹と出会ったことで、私は“好きな自分”になれた気がしていた。

でもそれは、いつかは溶け落ちる仮面だったのだ。


蝋細工のように、きらきらとしたその仮面は、

静かに、確かに、崩れていった。


 


秋の夕暮れ。

窓の外で舞う落ち葉は、物悲しい過去を呼び起こし、誘うように舞っていた。


 


——18へつづく


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ