連載 コーポ長谷川17|※編集済 物悲しい引越しと温かい君とのうどん
窓を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でた。
薄曇りの空の下、金木犀の香りがほのかに漂ってくる。ついこの間まで蝉の声にかき消されていた誰かの足音が、今日ははっきりと聞こえる気がした。コーポ長谷川の共同廊下を行き交う靴音も、どこか軽やかだ。
リサイクル業者は、大きな家具の大半を回収していった。
「差し引き金額、500円のお返しですねー」
手渡されたワンコインを見つめる。粗大ゴミにかかるはずだった費用が浮いたうえ、お釣りまで返ってくるとは。リサイクルってすごいな、とつくづく思う。
「来たでぇー。ゆいっぺー」
外から呼ぶ、田中さんのよく通る声が響く。
「ちょっと。チャイム鳴らしてよ」
呆れながら玄関を開けて言うと、
「なんでや。沖永良部じゃ、近所の奴ら飲みに誘う時、いつもこんなんやで。叫べば集まる」
「なにそれ。おもしろ」
笑うと、田中さんは「常識よーん」とふざけた。
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ほとんどの大型家具は回収されたとはいえ、テレビや小型冷蔵庫、ソファーベッドは私の軽自動車では運べない。田中さんに相談すると、
「えぇよ。週末なら俺、手伝えるで。会社の軽バン使えば、それくらいの家具のるやろ」
と言い、
「でも、犬はさすがに乗せられへんけどな」
とも言う。
「大丈夫。ごちゃごちゃした小物類は私のトランクでもいけるから、それと一緒にクロは後から連れていくよ」
そう言って、私は田中さんに週末の引越しの手伝いをお願いしたのだった。
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ひと通り軽バンに荷物を積み終えると、時刻はお昼を回っていた。
「腹減ったなぁ」
少し出っ張ったお腹をさすりながら、田中さんが言う。
「お礼に、ご馳走するよ」
と答える。
コーポ長谷川から歩いて五分くらいのところに、「手打ちうどん よし乃」という店がある。
路地を進み、大通りに出ると、信号を渡ったすぐ先だ。
古い暖簾がかかった、小さな店。
戸を開けると、木の椅子とテーブルが並んだ年季の入った空間で、出汁のいい香りがふわりと鼻に抜けた。
注文はセルフスタイルで、店主の無口なおじいさんが、奥の厨房で黙々とうどんを茹でている。
価格の割にコシのある麺や出汁が美味しい。一樹がいた頃は時々一緒に来ていたけれど、
家計事情が厳しい今は、すっかり足が遠のいていた。
「海老うまそうやな」
「お、とり天もえぇな」
田中さんは揚々と、自分のトレーと私のトレーに天ぷらをどんどんのせていく。
「ちょっ、勝手に……」
言うと、
「今日はゆいっぺの奢りだからねー。遠慮せずいっぱい食べるんだよー」
と、白々しい標準語でふざけながらも、どこか楽しそうだった。
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私はかけうどんの“小“、田中さんは“大”を注文して、席についた。
会計は結局、田中さんが私に有無を言わせず済ませた。
「奢ってもらうのは、ゆいっぺが大人になってからでええよ」
「もう充分大人でしょ」
「もっとこう、背が大きなってぇ、胸もぼーんなってぇ、アンジェリーナ・ジョリーみたいになったら」
込み上げる笑いをこらえきれず、吹き出す。
「そんなの、一生待ってもならない」
と返した。
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「ただいま」
留守番をしていたクロを撫でる。
うどん屋から戻ってきて、田中さんは「ほんじゃ、俺先に行っとるで」と軽バンを発進させ、新居へ向かった。
掃き出し窓に鍵をかけ、電気のスイッチを切る。
がらんと空っぽになった101号室を、目に焼きつけるように見回すと、思わず深いため息が出た。
——思い出が散らかったまま、どこかに置き去りにされているような気がした。
私は、どこでまちがってしまったのだろう。
一樹と出会った頃、私は“好きな自分”でいられたと思っていた。
一緒に暮らすまでは、ずっとそう思えていた。
けれど暮らし始めると、奥底に閉じ込めたはずの、どろどろした“醜い自分”が剥き出しになっていった。
両親と向き合えない自分。
誰に対しても、心を開くことができず、優しくない自分。
どうしても肯定できない自分自身を、一樹になんとかしてもらおうと、過度な期待を押し付けては、何も出来ない彼の無力さに苛立った。
依存するあまり、何も見えなくなっていたのだ。
それはきっと、マキのように。
私の心もまた、満たされず止まった時間の中に閉じ込められていたのだと、このごろ思う。
一樹は、そんな私から逃げることに成功したのに、また同じような暗い森に迷い込んでしまっている。
一樹と出会ったことで、私は“好きな自分”になれた気がしていた。
でもそれは、いつかは溶け落ちる仮面だったのだ。
蝋細工のように、きらきらとしたその仮面は、
静かに、確かに、崩れていった。
秋の夕暮れ。
窓の外で舞う落ち葉は、物悲しい過去を呼び起こし、誘うように舞っていた。
——18へつづく