連載 コーポ長谷川14|法は誰も守ってくれない——同情するなら拳銃をくれ
「ゆいっぺ、生きとったかぁー!」
車から降りると、田中さんが事務所から飛び出してきて、駆け寄ってくる。
「大丈夫か?! えらい目に遭ったなぁ」
一週間ぶりの出勤だ。
「あの女、ついにやらかしたな。結局どうなったんや? 逮捕されたか?」
逮捕なんかされない。
子供の頃は、人は悪いことをしたら、当たり前のように警察に捕まって、牢屋に入れられるものだと思っていた。
でも、大人になるにつれ、それは“テレビドラマの中だけの話”なんだと、なんとなく理解していった。
……ただ、それがどれほど現実味のない話なのかは、当事者になるまで、私はわかっていなかった。
「被害届を取り下げちゃったから、もう逮捕されないよ」
「取り下げた? なんでよ。ひとんちの窓割って入ってきといて、お咎めなしかいな」
「うん……。私も納得いかないけど、逮捕までの道のりは険しいらしいよ。……というより、逮捕される可能性が低すぎて、頑張る意味がそこまでないって感じかな」
「でも、結果的に逮捕されんでも、事件にすることで前科がつくんとちゃう?」
「前科もつかないらしいよ」
私が力なく笑うと、田中さんは「まじかよ」と言って、吸っていた煙草を灰皿にぐりぐりと押しつけた。
「じゃあ何や。その女、野放しってことか。ゆいっぺの周りをまた彷徨くかもしれんな」
「……そうだね」
一樹は、マキを連れて遠くへ引っ越すと言っていた。
でも、私の居場所をマキが知っている以上、それがどこまでの抑止力になるのかは疑問だ。
「えっ、ゆいっぺ引っ越すんか?」
「うん……そうするしかないかなって。ペット可で、セキュリティがしっかりしてるとこ、どっか知らない?」
「うちの近所に何軒かアパートあるで。近くに住んでくれたら、なんかあったとき助けられるかもしれへんし、嫁さんにも目光らせといてもらったら安心やないか?」
「いやー……巻き込んじゃったら申し訳ないよ」
「何言っとんねん。俺が住んでた沖永良部島じゃあ、みんな隣近所助け合わなきゃ生きていかれへんで。台風やらの災害も多いし、お互い頼り合いや。今、ゆいっぺは災害に遭っとるみたいなもんやろ。こっわい雷女に追っかけ回されてさ」
「まあ……」
「うまいこと言わないでよ」と、私は苦笑する。
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夕方、帰り支度をする。
昨夜、クロを連れてコーポ長谷川へ戻った。
血まみれのカーテンや寝具を処分し、掃除も済ませた。
しかし、マキが残していった“匂いの痕跡”に、クロはなかなか落ち着かなかったようだ。
気配を追い払うように、あちらこちらで粗相をしてしまった。
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「いい物件ありそうか? 俺も探してみるから……」
そう言いかけた田中さんは、駐車場に入ってくる気配に気づき、硝子戸の向こうを見た。
舗装されていない駐車場を、
「ジャリ……ジャリ……」と踏むタイヤの音。
私も、思わず戸のほうを振り返る。
「ん? お客さんか?」という田中さんの声に、
私はそれをかき消すように、低くつぶやく。
「ちがう……」
どこかで見覚えのある車。
そこから、女が降りてくる。
私は椅子から立ち上がり、
「田中さん……」と声をかけた。
田中さんもゆっくりと立ち上がり、「おぉ……」と答える。
雨上がり、雲ひとつない空の下を、
右手に包帯を巻いた女が——
鬼の形相で、
まっすぐこちらへ歩み寄ってくる。
15へつづく