連載 コーポ長谷川13|歪んだ承認欲求
しかし、胸の奥に舞い戻ってきた淡い気持ちは、またもやあっけなく一樹の言葉によって打ち砕かれた。
「もう、ゆいには迷惑はかけない。俺、マキを連れて、遠くへ引っ越すから」
その言葉が意味することを、脳が理解するよりも先に、心のどこかが冷たく沈んだ。
まるで、春の陽にほだされた雪が、ふいに吹きつけた北風に凍てついていくような感覚だった。
隣にいるはずの一樹の声が、遠く感じられた。
「……そう、なんだ」
視界の端に映った一樹の横顔は、どこか死を宣告された人のようだった。
目の奥に影があり、唇には力がなく、そこにあったのは決意ではなく、諦めに近いものだった。
「いったい、何が起きてるの? あの人、なんであんなこと……」
不審なメール、突然の訪問、そしてあの夜。どれもまだ説明がつかない。
「あのメールも、いったい何だったの……」
誰に向けたともわからない問いに、一樹が小さく反応した。
「……メール、って?」
私はバッグから携帯を取り出し、あのメールを開いた。
マキの顔が大きく写った写真付きの自己紹介メールと、「シネ」の文字が並んだ、あの不気味な文面。
それを無言で差し出すと、一樹は眉をひそめながら受け取り、黙り込んで画面を見つめた。
やがて、携帯を私に返しながら、ぽつりと言った。
「……そういうことか」
それきり言葉を発しない一樹に、私は声を少し強めた。
「どういうことか、説明して」
一樹は目を伏せたまま、「……家賃」とだけつぶやいた。
「え?」
「マキが言ってきたんだ。『申し訳ないから、せめて家賃くらい払ってあげて。一緒に届けに行こう』って」
一樹は、淡々と続けた。
「火事があって、俺が勝手に出てって……それは俺が悪いって分かってた。だから、マキの言葉も、最初は正論だなって思った」
私は記憶をたどった。
郵便受けに無言で入れられていた封筒。
最初の一通には何も書かれておらず、ただ紙幣だけが入っていた。
次の封筒には、見覚えのある筆跡で「ごめん またくるね」と書かれたメモが入っていた。
一樹を追いかけようとしたけれど、彼はもういなかった。
その代わり、路肩に停まった一台の車から、不気味な視線を感じた。
「だから、月末に俺がゆいに家賃を届けようって決めたんだ。だけどそもそも『家賃を届けに行こう』って言い出したのも、ゆいの居場所を掴むためだったんだな……」
一樹は床に視線を落としたまま言った。
「でも結局、一緒に届けに来たことは一度もないんだよね? あの“また来るね”ってメモが入った封筒のときも、一人で届けに来たんでしょ?」
訊くと、一樹が「え……?」といぶかしげに顔を上げた。
記憶を整理するようにしばらく考え込んだあと、深いため息を吐き、重い口を開いた。
「一度、俺が用意して、会社のデスクの中に入れておいた封筒がなくなってたことがあったんだ。探しても見つからなかったから、今度また用意するしかないかって諦めてたんだけど……」
窓の外。重く浮かぶ灰色の雲が、ところどころ微かに光り、ゴロゴロと雷が唸っていた。
「それが、あのメモを入れた封筒だったんだ」
あの日、月明かりに照らされた白いシルエット。
いるはずもなかった一樹を追いかけ、そして立ち尽くす私をじっと見据えていた。
——あの視線は、やはりマキだった。
一樹の目を盗み、デスクから封筒を持ち出した。
新聞受けに入れ、もしかしたら、呼び鈴も鳴らしたのかもしれない。
あの日、私が帰宅したときのクロは、様子がおかしかった。
何者かを追い払うように吠え、扉から視線を外さず固まる姿は、私に警鐘を鳴らすようでもあった。
扉の向こうの“狂気”を、彼は感じ取っていたのかもしれない。
「でも、あの人はなんで住所を? まさか、一樹が?」
「いや、俺は教えてない。まさかこんな攻撃的なことをするとは思ってなかったけど、わざわざ教えたりなんかしないよ。たぶん……」
「俺、ほんと馬鹿だ……」と呟き、一樹は言った。
「彼女、総務部なんだよ。たぶん、いや、間違いなく、俺の個人情報を探ったんだ……」
一樹は、罰を受けるような声で続けた。
「まさかマキがゆいにあんな風に嫌がらせしてたなんて知らなくて、俺、封筒がなくなってもマキを疑わなかった」
悔やむように言ったあと、言いにくそうに口を開いた。
「でも……マキ、ちょっとだけ、ゆいに似てるところがあるんだ」
「……は?」
眉をひそめた私の顔色に気づいたのか、一樹は慌てて付け足した。
「いや、違う。性格とかそういうんじゃなくて……なんていうか、奥の方っていうか。小さい頃から苦労してきた感じが、少しだけ似てて……」
「もういい。そんな話、聞きたくない。
どんな事情にせよ、なんの関係もない他人のせいにして攻撃するなんて、許されるわけないじゃん」
「そうだね……」と、一樹は苦笑いを浮かべた。
「俺、なんかずっとゆいに悪くて……マキの前で曖昧な態度とっちゃってたのかもしれない。あいつ、それで俺に未練があると勘違いして、だから、多分あんなこと……」
その一言に、胸の奥がざわついた。
マキの行動には、“ただの嫉妬”では片付けられない何かが潜んでいる。
ひょっとしたら、一樹のような優しい人には、理解しきれないものなのかもしれない。
けれど、彼の言うように、私たちに共通して潜む根っこの部分——何かがあるのだ。
「あの人があんな行動をとるのは、そんな単純な理由じゃないと思う」
一樹が、私に視線を向けた。
「他の誰でもない“自分”に、一樹が振り向いてくれた。それは、あの人にとっては誇るべき、すっごく価値のあることだったと思う。やっと憧れてた“あっち側”の人間になれた気がしたんじゃないのかな」
——まともに陽の光を浴びることもなく、ひっそりと雑草のように、這いつくばって生きてきた。なのに、選ばれるのはいつだって、さんさんと太陽の下で咲き誇る華やかな花ばかり。
一樹は、話の意図がつかめないといった様子で、ただ黙って聞いている。
「これは仮の話だけど……」と、私は言った。
「友達や同僚に経緯を話したら、『え、元カノ可哀想……』とか、ちょっと引かれたりして、期待してた賞賛の声が返ってこなかった。崩れた自己肯定感を取り戻すには、勝ち組側に立たなきゃ。それも叶わないなら、邪魔するものを排除しなきゃ。きっと、あの人、必死だったんだと思う」
一樹がいなくなり、私は幾度となく暗闇に潰されそうになった。
でも、クロがいてくれたし、コーポ長谷川は住み心地がよかった。
会社へ行けば、田中さんが全てを笑いに変えてくれる。
だから、やり過ごせた。
私の周りを執拗に嗅ぎ回っていたマキの目には、期待していた“哀れな姿”は映らなかったのだろう。
そのうえ、惨めな姿を嘲笑いたくて叩いた扉も開かれず、いつまでも満たされない気持ちを爆発させたのかもしれない。
実際は、マキの望む通り、哀れに泣き続けた夜は何度もあったのに——。
一樹は何も言わなかった。
ただ両手を握りしめ、俯いたまま動かない。
その姿の一樹こそが、どこか哀れで、そして腹立たしかった。
「……そう……かもしれないな」
ようやく絞り出されたその言葉は、濡れた空気の中に、静かに溶けていった。
外の雨音が、さっきよりも強くなっていた。
——14へつづく