連載 コーポ長谷川11|窓からじゃなくて玄関から入りなさいと、私も怒られたことあるけれど
窓ガラスには、応急処置のように新聞紙が貼られている。
湿った風が吹くたび、紙の表面がかすかにふるえ、ひゅう、と頼りない音を立てていた。
事件後、私は警察官らに連れられて署へ向かった。
割れた掃き出し窓はそのままだったが、後に大家さんが新聞紙でふさいでくれたようだ。
「なんとか天気がもってよかった……」
新聞紙の上部からわずかに覗く曇り空に向かって、ひとりごとのように呟く。
窓の修理の立ち合いのため、二日ぶりにコーポ長谷川に戻ってきた。
「大変だったねぇ」
間もなく到着した大家さんは、「片付け、大丈夫?」と声をかけ、資源ゴミ用の袋などを持参してくれていた。
これはこっち、これはあっちと、分別を手伝ってくれる。
マキの血液は、予想だにしない場所にまで飛び散っていて、衣類、シーツやラグの類はほとんど廃棄処分となった。
片付けをしていると、大家さんが「あっ」と、何かを思い出したように声をあげた。
はめていた軍手を外し、ジーンズのポケットを探る。
小さなメモを取り出し、「これ……」と私に手渡してくる。
「一樹くんのお母さんから、ゆいさんに渡してって預かったの」
見ると、そこには電話番号と、部屋の号室らしき数字が記されていた。
「火事の日……一樹くんの家が火事になったとき、ゆいさんも一緒にいて被災したんですってねぇ?
私もすぐ近所だからびっくりしちゃって。外に出たら、ものすごい勢いで炎が燃えてて……なかなか消えなかったわよね」
眉頭を寄せながら、大家さんが言った。
「ええ、私は一緒にいましたけど……。持ち物が燃えたくらいなので、被災というほどではないです。
入り組んだ場所に家があるから、消防車がなかなか入れなかったみたいで……。少し離れたところからの消火活動になって、時間がかかってしまったようです」
大きくて立派な家だった。
初めて一樹の家を訪れたとき、私はまだ高校生だった。
一樹に続いて玄関に足を踏み入れると、思わず「わぁ……」と声が出た。
高い天井には、木製のシーリングファンがゆらゆらと優雅に回っていて、
そこから差し込む光が、白い吹き抜けをさらに明るく照らしていた。
「そうそう、結局あのお家は全焼してしまったんですってね。
それで、すぐに不動産屋さんから“アパートを建てませんか”って話が来たそうですよ。
悪い話ではなかったみたいで、あれよあれよという間に建っちゃったみたい」
「それで、今はそこに住んでるそうですよ」
「……え? 誰がですか?」
「一樹くん一家。あ、でも一樹くんがどこに住んでみえるかは私はよく知らないんですけどね。
とりあえず、お母さんお父さんと妹さんたちね。二部屋に分かれて住んでるみたい」
首からぶら下げた老眼鏡をかけ直しながら、大家さんは私の手元のメモを覗き込む。
「それが、コレとコレ」
指さした先には「101号、102号」とあり、「101」は赤いボールペンで丸く囲われていた。
「こっちが、お母さんが住んでみえる方。
マキとかいう子は怪我の治療やらで、母親に付き添われて生活をしてるから、今はこの辺に戻ってくることはないって。
だから安心してって。ゆいさんと話がしたいから、ちょっと顔を出してくれるように頼んでもらえませんかって。そう言ってみえたから。
きっと、何か力になってくれると思うよ」
そう言って、大家さんは微笑んだ。
*
シトシトと細い雨粒が、静かに地面を濡らしていく。
変わらない街の景色の中で、そこだけ異質な、一樹の新しい実家が、雨にけぶって見える。
湿ったアスファルトの匂いが、胸の奥でさざめく不安を、ひときわ強く浮かび上がらせる。
ここへ向かう前、メモに記された連絡先に電話をした。
「……うちの火事が、まさか、こんなふうに……。ほんとうに、ゆいちゃんまで巻き込んでしまって……」
なんと言っていいかわからず、「いいえ……」とだけ返す私に、
「……本当に、ごめんね」と、電話の向こうで一樹の母は言う。
その声は、あの頃いつも毅然としていた面影からは想像できないほど、かすれていて、弱々しかった。
付きあい始めたころ、幼く、常識知らずだった私は一樹に「おいで」と部屋の掃き出し窓から呼ばれれば、言われる通り玄関ではなく窓から出入りを繰り返していた。そんな私に、一樹の母は臆することなく「ちゃんと玄関から入りなさい」と我が子に叱るように叱った。家族の一員かのように接してくれて、当たり前のことを叱れる、そんな愛情深く強い母親としての印象が強かった。
「それでね……」と一樹の母は続けた。
「一樹が今、帰ってきてるの。私たちは隣の102に行ってるから、二人だけで、ちょっと話ししてやってくれない?」
一瞬、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
ーー一樹と二人で会う……?
会いたいような、会いたくないような。
しかし私の中には、一樹を許せない気持ちが、いまだに疼いている。
唯一、自分を奮い立たせ、前を向かせてくれる感情。
それは、一樹の裏切りに対する怒りだ。
怒りを失えば、私はまた、立ち尽くしてしまう気がした。
それすらなくなったとき、私はいったい何を頼りに歩けばいいのか。
今さら話すことで、それさえも失ってしまうことが、私は怖いのだ。
だけど、マキという存在に翻弄され、行く先が見えなくなっている今だからこそ、
一樹と話すことで、解決の糸口がつかめるかもしれない……。
そんな思いが、心の中でぐるぐると渦を巻く。
気持ちはまだ迷子のままだが、電話口の向こうで「だめかな……?」と縋るような声に、
「……わかりました」と頷く。
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
——12へ続く