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メイルシュトローム

 漂流して三日目。天候は、今までとは打って変わって、とても静かだ。波もほとんどない。嵐に苛まれている時は、こんなに穏やかな場所にいるとは思いもよらなかった。空を見上げても、海面を見下ろしても何一つない。透き通っている海面の下を、たくさんの魚が泳いでいるのが見える。

 はるか彼方に地平線があって、空と海とが一つに溶け合っている。どこでも青い景色が広がる海原に、四人乗りの手漕ぎボートがぽつりと取り残されている。

 ついさっきまで使えていたスマホももう動かなくなっていた。こんな場所にいても、動作する最近のテクノロジーに恐れ入る。衛星からの電波をキャッチできなくなり、ついには、誰一人として

 僕らの乗っていた二十人乗りの小型船は、突然の嵐に遭遇し、沈没した。激しく船体が揺れた後、船腹から真っ二つに分かれて沈んでしまったのだ。

 沈む寸前に、フィリピン人の船長は、助けを呼んでくる、と言って、船に括り付けられていた唯一のモーター付きの小型ボートに一人で乗りこんでさっさと行ってしまった。

 連帯感のない乗船客は、全員異なる方向に漕ぎ出していってしまった。他の乗客はどうなったのかわからない。陸までどれほどの距離があるのかもわからない。大海原のど真ん中にいる。

 四人乗りの救命ボートに乗りこんでから、何とか飢えをしのぐことが出来た。船を離れる寸前に三日分の非常用バッグと毛布を四人分置いていったからだ。今のところ、船長の功績はそれくらいだった。

 せっかくの非常食を食べるのはもったいないといって、同乗していた生物学者の熊田哲さとしは、折り畳み式の釣り道具を取り出して、竿から糸を水面に垂らし始めた。腕はたいしたもので、瞬く間に竿一本で次々と魚を釣る。糸を垂らすと、魚の方から食いついていくように見える。

 釣れた魚は、放っておくと腐ってしまうので、採れるとすぐにサバイバルナイフで器用に魚をさばくと、ジッポライターで火をつけた。

 とりあえず、炙っておけば安心ですからと言って、パクパクと魚を食べていった。

 残る乗船客にも、魚を進めたが、気分が悪いらしくて食欲はないと言って首を振った。 もう一人は、二十代くらいの若い女性だった。船酔いでもしたのか、ずいぶんと顔色が悪かった。まあ、こんな状況だから、平静でいられるほうが難しいと思う。

「あの島に何しに行くつもりだったのですか」

 熊田は、ちらりと気分悪そうに座っている女を見る。小型船の向かっていた場所は、この近くにあるはずの、無人島だった。予定では、あと、二時間ほどで到着するはずだった。乗船した港から、ほぼ南西に位置している。

 漂流していればつくかもしれないと淡い期待を抱いたが、どこにいるかわからない以上、見当もつかなかった。

 熊田は、空を見上げながら、おそらく、今、僕らはこの辺にいるはずです。そう言って、メモ帳を取り出し、だいたいの地図を描いた。

 あの方向に、金星が見えますよね、と言って指をさすのだが、何も見えない。

 島は南南西の方向にあるらしい。

 彼の推測では、おおよそ五時間ほどの距離だ。

 嵐のせいで逆方向に流されてしまったらしい。

 目的の島に行くのは、研究者か自殺志願者くらいなものだ。詳しいことはわからないが、世界でも珍しい生物が多数生息しているらしい。

「写真を撮りに」僕はどちらでもないから正直そう答えた。持っていたカメラはどこかに行ってしまった。きっと、海の底に沈んだのだろう。

 ぐったりしていた女が顔を上げると、顔を覗き込んだ熊田の目つきが変わった。

「あの鳥を見たんですか」

 女から目をそらすようにして、彼は何かを隠すそぶりをしながら僕を見た。無邪気な顔で笑って見せる。

「正樹神社を知っていると」

 熊田は再びうなずく。女は顔を上げて、じっと熊田と僕を見比べる。

「体調はどうですか」熊田が日本語で尋ねると、女はうんと弱々しくうなずいた。

 あの鳥を知っていると言うことは、正樹神社を知っていると言うことだ。都内にある神社で、おおよそ神社があるとは思えない場所に位置している。ほとんどの人は、神社があることを知らないまま、神社の上を素通りしている。

 それもそのはずで、祀られているのは地下だからだ。都心にあるオフィスビルの地下に、神社があるなどとは誰も考えない。

 偶然その場所を見つけ、オフィスビルの所有者に直撃すると、おやおや、それは仕方ありませんね、と言って、本を見せてくれたのだ。

 ずっと、探していた書籍だ。十九世紀、欧州の研究者によって書かれたという書物は、江戸にいる正体不明の蘭学者の手によって、著された。

 正体不明の蘭学者の別の本で、鳥について言及している箇所があった。チェコに立ち寄ったときに、たまたま本屋で手に取ったドイツ語の本に、鳥について言及している箇所は会った。店主に尋ねると、その本は日本にあるという。半世紀ほど前に、店主の祖父から本を買って日本に持って居たはずだという。面白半分で、いつか、その本に出会えたらと願っていたのだが、まさか、神社の中で出会えるとは思わなかった。

著作の中に、あの鳥について書かれているのは、およそ四ページにわたる。丁寧に挿絵までついて、著者が遭遇した状況について、具に書かれていたのだ。

 著者が南米旅行をしている途中で出会ったという、偶然、島付近を航行してるときに『巨大な雲が頭上を通り過ぎたと思って見上げると、見たことのない大きな鳥が飛んでいた』という。鳥のような形をした何かは、雄大な姿で、海の上を飛ぶ巨大な鳥のように見える。鳥の下には、巨大な渦が書かれている。

 だが、記述には致命的な欠点があった。そもそも、本当に鳥かどうかはわからない。鳥のような形に見えるだけで、何かのマークかもしれなかった。長々と記述されている割には、いかに著者がその何かを見て驚いたかと言うことしかわからず、渦については一切言及されていない。

 その場所は、ちょうど、チリと、ニュージーランド、東京の三点を結ぶ中心付近にある。

そうして見つけたのがこの島だった。

 所有者に尋ねると、今向かっている島の付近で、何度か目撃された情報があるらしい。所有者自身、若い時に、鳥を探しに旅に出掛けたが、結局、出会うことはできなかったという。なぜなら、バミューダ海峡のように、侵入するものを拒む何かがそこにあるからだ。

「メイルシュトロームって知ってますか」熊田は言う。

「聞いたことはありますよ、実際に見たことはないですがね。ファンタジーの中に出てきそうだ」

「ええ、よくゲームとかに出て来るです。渦潮なら鳴門海峡にもあるじゃないですか、ただ、メイルシュトロームは、日本にある渦潮をもっと巨大にしたやつらしいんですよね」

 ボートを出すとき、地元民がマシミランと言って恐れていた。マシミランという言葉をいくら検索しても出てこなかった。

「マシミランというのは、失われた古代の言葉らしいです。一応、僕も研究者の端くれですから、調べてみたんですよ。ロマンを描きたてられるじゃないですか」

 ロマンの代償に遭難というのは、ある意味古典的な取り合わせであった。彼の言うメイルシュトロームについては、地元民も知らない。

「それにしても、よくあの神社の場所がわかりましたね」彼はいったいどうやって、メイルシュトロームについて知ったのか疑問が湧いた。

「ええ、ぎりぎり間に合ったんです」

 神社について、誰かが噂をしたらしく、所有者のもとには、ひっきりなしに、地下にある神社を見せてくれという問い合わせが殺到したらしかった。中には、違法なことまでするもので表れて、困り果てた所有者は、強固な壁で覆ってしまい、もう二度と外から入ることはできないようにしてしまった。心労がたたったのか、所有者は、去年亡くなってしまった。僕のことは散々疑われた。

「もしかして、あなたも鳥を見に」熊田は首を振った。

「いや、僕は、研究者ですから、あの島でしか見れない珍しい種類の生物を採取しに来たんです」

「研究者にしては、やけにロマンチストですね」もしかすると、皮肉に聞こえたかもしれないが、熊田は気にするそぶりを見せない。

「学生にはいつも言っているんです、なんでもかんでも無関係だと言って切り捨てるな、と。近頃の学生は、すぐに線を引きたがある。こっから先については、僕の領分じゃないっていう風に。想像の世界をすぐに狭めたがる。見てみぬふりをする。不思議なこと、未知なことには積極的に足を踏み入れないと、真理はつかめません」

 その意見には、おおむね同意することはあった。

「実際、そんな風に、これが真実で、こっちが全くのでたらめだ、なんて明確に分けられないんですよ。目の前に、理解できない現実が現れたらどうするつもりなんですか」

 熊田の年は僕と変わらないように見えた。おそらく、四十代半ばくらいだろう。

「専門分野は貝なんですけどね、貝って面白いんですよ、よく出てくるんですよ。それまでじゃ説明できない、種類なんてたくさんいる。きっと、あの島にもたくさんいるはずです。ワクワクしませんか」

 随分とよくしゃべるな、と思った。内心、この状況に不安を感じているのかもしれない。

「ところで、その話と、メイルシュトロームとどう関係があるんですか」

 熊田はそう言うと、女性を見た。女性は、いつのまにか着ていた服を脱いで、ボートのへりに服を置いて乾かしている。前を隠すそぶりもなく、上半身はほとんど裸で、下半身も下着一枚になっていた。きれいな乳房を丸出しにしていた。僕は、なんとなく、彼女を見ないようにしていた。

「気にしないでください。どうぞ、話を続けて」女の容態は一向によくならないのに、船長の置いていった毛布をかぶるわけでもない。僕はそれまで思っていたことを尋ねようとして口を開きかけたが、その前に彼女が口を開いた。

「私は、谷口リミって言います」

 熊田は何かを言いかけた。

「自殺しようと思って、やってきたんですけど、自殺しそびれました」

 自己紹介が終わると、なんとなく、僕らは黙ってしまった。

 谷口は、僕らなんていてもいなくても同じだ、と言わんばかりに、自由に行動していた。

気にせず、時折、歌を口ずさんでいる。

風は心地よかった。南半球は夏だから、太陽の日差しは、冷えた体を温めてくれた。陽が沈み始めると、少し冷えてきた。

 船長の残した、四枚の毛布にくるまって、彼女は、乾かしている服のことはもう忘れてしまったように、毛布にくるまりながらウトウトしはじめた。

 夜がやってきた。オレンジ色に染まった空は、やがて赤くなり、紫色になったかと思うと、次第に真っ黒になった。辺りが暗くなっても、月明かりだけで、十分に互いの顔を識別することが出来るくらい明るい。

「僕は、プラネタリウムが嫌いだったんです」熊田は言った。僕は笑った。

「カメラ失くしてしまったんですよね」僕はうなずいた。「見てましたよ、望遠レンズを首からぶらさげているのを」

 そう、僕にとっては、痛い、出費だ。保険に入っているとはいえ、遭難した場合にも、保険金は降りるのだろうか。

「あの人、戻ってこない」谷口はポツリとつぶやいた。

「もう戻ってこないかもしれない」

「そんなことはないと思う、戻ってくるよ、一人用の小型ボートだったんだよ。僕ら全員で行ったら、途中で燃料がつきてしまうかもしれないし、マシじゃないのかな」

 往復分の燃料を計算に入れてないなんてあり得るのだろうか。

「私たちだけになってしまったのが寂しい」

 どこかから歌が聞こえると思ったら、谷口の歌だ。ここで歌っているはずなのに、遠くか聴こえてくるように感じる。頭がおかしくなったのか。セレナーデ、ノクターン、どちらなのだろう。

 谷口が歌っているように聞こえる美しい歌声に誘われて、ギリシャ神話に出てくるセイレーンを思い出した。メイルシュトロームにセイレーン。いよいよ、ファンタジー地味てきた。セイレーンは確か、女の姿をして、化け物の姿をしていたような、思い出そうとすると眠くなってきた。この三日、ほとんど寝て居ない。寝たら死んでしまうかもしれないからだ。

 船は、ゆっくりと西に向かって進んでいた

 パッと目が覚めた。何かの気配を感じたからだ。谷口がいない。熊田を見た。熊田はいる。無精ひげの生えた、熊田はぐったりしたように眠っている。乾かしていた服が残ったままだ。つけていたショーツが、座っていた場所に置いてある。

 熊田を起こそうと思ったが辞めた。彼も随分くたびれているように見える。

 流れが変わっている。ボートの速度が速くなった。まずい。どこに流されているのかもわからない。熊田を起こすよりも先に、オウルを使って漕いだけれど、全く歯が立たない。オウルの音に目が覚めたのか、熊田が体を起こす。

「どうしましたか」

 すぐにボートがスピードを上げているのに熊田は気がつき、空を見上げる。

「西に向かってます、運がよければ早く島に着くかもしれません」

 熊田は残っている服を見て、それから、船底に落ちているショーツにも目をやった。

「彼女は」僕は首を振った。

「メイルシュトローム」僕がそう言うと、熊田の顔つきが変わった。

 何かが聞こえてくる。歌じゃない。巨大な音だ。水が落ちるような音。ボートのスピードがどんどん早くなるにつれて、音まで大きくなる。

 巨大な渦巻きが目の前に広がっている。文字通り巨大な渦巻きだった。ナイアガラの滝よりもはるかに大きい。けたたましい、波の音が、辺り一面に広がる静かな海に響き渡る。

 吸い込まれる。僕らには、抵抗するすべがない。こんな細いオールじゃあ、激流に突き立てるつまようじくらい意味がない。谷口はもう、あの渦の底に引きずり込まれてしまったのに違いない。

「メイルシュトロームがずっと気になっていました」流されてることなど気にもしていない様子で、熊田は話し始めた。「アビス、つまり、深淵、ですよね。流された底には一体何があるのか見てみたかった。冒険者を阻むものはなんだったのか」熊田の唐突なメイルシュトローム論を聞いて、僕の頭はより冷静になった。

「僕は苦手だったんです。暗闇が」僕もどうでもよくなって、そう言った。抵抗しても無駄なのだ。「クレパスとか、谷の底とか、見るたびにぞっとする。ぞっとするのに、水にはいられない」

 熊田は笑っていた。この状況で笑えるのか。

「僕はね、ずっと、ずっと、探していたんですよ。この渦を。モービーディックみたいにね」

 熊田はオウルを使うのを辞めた、抵抗するのが無駄だと思ったからではない。ボートはどんどん吸い込まれていく。船が激しく揺れる。ボートがさかさまになる。滑り台みたいに、僕らの身体は船底を滑り落ちていく。

身体は熊田は僕の腕をつかんだ、とても強い力で。振りほどこうと思ったがやめた。もう死ぬのだ。死ぬなら、放っておこう。好きにさせておこう。

熊田はなぜか、左手に釣竿を手にしている。釣り糸が先端からぶらさがっている。

 大量の水が一気に顔面に覆いかぶさる。息が出来ない、苦しい、すさまじい力で、下に引っ張られていく。空気がなくなる。苦しい。呼吸が出来ない。死ぬ。暗闇の底にあるのは死しかない。怖さはない。カメラを失くしたからかもしれない。

 音が聴こえる。鳥の羽ばたく音。遠くから、クルーズ船よりもはるかに大きな鳥が飛翔してくるのが見える。巨大な渦巻きまでやってくると、海面すれすれで羽ばたき続ける。巨大なくちばしをためらうことなく、渦巻きに突っ込む。

 突き刺したくちばしはまっすぐに、渦の中に引きずり込まれた、二人の身体の場所まで向かっていく。周囲の海水と一緒に、二人の身体が口の中に引き込まれる。

 目が覚めると、砂浜にいた。まだ、辺りは暗い。地平線が赤く染まり始めている、

夜明けだ。生きているのか。体を触った。服は破けているが、どこにも傷がない。死んだのか。

 立ち上がったときに、身体が右に傾いた。右腕が重たい。肘から先の腕が、僕の右の上腕部にからみついている、薬指にはめていた指輪が同じだった。

「熊田さん」

 大声で読んでみた。

 どこにもいない。

 もしかすると、どこかに漂着しているかもしれない。名前を連呼しながら、

 島を探した。

 大きくない島だった。

 獰猛な生物がいるかもしれなかったが、もはやそんなことを気にする余裕がなかった。襲われたらひとたまりもなく食われてしまうだろう。

 特に変わったことのない島だった。何の起伏もない島で、一周するのに、一時間もかかっていないはずだ。

 相変わらず、波は静かだった。

 この島がどこなのかわからなかった。

 砂浜に座り込み、

 地面に右腕を置いて、

 地平線を眺めた。

 まだ、渦の音が聴こえる。

 もう音は聞こえない。

あれは夢だったのか、熊田は狂っていた。でも、僕もくるっていた。今、ここにいるのが夢なのか、ほほをつねった。夢の中でも痛いことはある。

やがて、小型ボート

 熊田だと思った。違う。あの船長だ。

「いた、いた、小田切さん、探しましたよ。もうダメだと思ったよ、そう言って、折れたオウルを見せた。

 片言の日本語で

「他の二人は」

 僕の言葉にフィリピン人の船長は怪訝な表情を浮かべてから、首を振った。

「二人ってどういうこと」

「いたでしょ、僕くらいの男と若い女が」

「熊田は一緒じゃないのか」

僕は首を振った。砂浜に落ちている、肘から先の腕を見せた。そうだ、フィリピン人の船長と仲良くなった熊田のことをクマダ、クマダ、とリズミカルに呼んでいたのを思い出した。

「ああ、なんてことだ」彼は腕の前で十字を切った。

「もう一人は」

「もう一人って、なんのことだ」

「いただろ、若い女が一人」

「どうかしたのか、最初から、ふたりだけだっただろ」

 何の冗談だ、と言おうとしたとき、船長は僕の肩越しに何かを見ているのに気が付いた。驚いた様子で振り返った。一瞬、やっぱり、熊田が生きてたんだと思ったが違う。

 鳥だ。巨大な鳥が、浮かんでいる。

 先ほどから聞こえていた汽笛のような音は、この鳥らしき何かの羽ばたく音だった。

「何、あれ、」

 彼はひざまずいて、拝み始めた。

 鳥の上に、誰かがいる。

 女だ。

「谷口」

 船長は起き上がって、

 その時、初めて、船長が首から僕の落したはずのカメラをぶらさげているのに気が付いた。彼は、僕のカメラを勝手に使って、シャッターを押した。僕のカメラで、なぜ、彼が持っているんだ。

 シャッターに反応した鳥は飛んでいった。

 無言で待った。

 帰りの航路、船長は一言も口を利かなかった。僕がカメラを返せと言ったのと、せっかく撮った画像データが消えていたからだ。奇跡的にカメラは壊れていなかった。フィリピン人の船長が勝手にとった自撮り写真は消えていなかったからだ。

 日本に帰ってから、熊田の家を訪ねた。冷凍保存された彼の腕を持って帰るためだ。

 まずは、熊田の勤めている大学に行って、事情を説明した。確かに、一週間前から捜索願が出ていて、ニュースにもなっていた。生憎、僕のことは誰も探していないらしくて、ニュースになっていなかった。

熊田の家は長野にあった。立派な屋敷で、敷地内にテニスコートとバスケットのハーフコートまであった。

出迎えてくれたのは、弟だ。俳優のようにきれいな顔立ちの好人物で、弟も大学の教員をやっているらしく、知的な雰囲気が立っているだけで伝わってきた。

 最初に、電話に出たのは弟だった。

 居間に案内され、両親と弟の三人に見守られながら、冷凍バッグを開けた時、弟は声を上げて泣いた。小指の先が欠けていた。

「兄です、間違いないです」

 帰りを待っている誰かがいるのはとても羨ましく思った。

 ふと、弟の背後に目が行った。目が行ったのは、仏壇に置いてあった写真だ。見覚えのあると思った顔は、谷口リミにそっくりだった。

「この人は誰ですか」

「熊田の妻です、熊田リミです」

「旧姓は谷口ですか」

「ええ、よくご存じですね、兄から聞いたんですか」ためらいがちに僕はうなずいた。

「三年前に行方不明になったんです、同じ場所で、巨大な渦巻きに巻き込まれて。僕らは何度も止めたんですが」

 帰り際、弟は声をひそめて聞いた。

「あなた、よくメイルシュトロームに遭遇しても平気でいられますね」

「どうして」

「兄も兄嫁も、おかしくなったのは、メイルシュトロームを見てからなんです」

 思い出して、僕はカメラを取り出した。何が起きるのかと不安そうな面持ちで、僕と僕のカメラを見比べた。

 画像データを再生した。実は、フィリピン人の船長が撮影した画像データを復元することが出来た。

 映っているのは巨大な影だった。影の上に乗っている突起物はハッキリと映っている。人だ。

 弟の顔が引きつっていた。そこには確かに、谷口リミが映っていたからだ。

「あなたは一体何を見たんですか」

「メイルシュトロームです」

 近いうちにもう一度行こうと思う。(了)


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