表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第二章 閉ざされた人々
9/15

繋がっていく記憶

 その夜、緊張と疲労でクタクタになった身体を引きずって、家に帰りました。

 ドアを開けると父が廊下を走って来ました。背広を脱ぎもせず、仕事終わりの姿のままでした。


「怪我はないか?」

「大丈夫」


 私は父を思いっきり抱きしめて、自分の無事を伝えました。

 スレヴのお父さんから渡されたメモを渡し、ようやく息をついて首のスカーフを緩めました。胸もとから、黒パンの欠片が転がり落ちます。


「スレヴのお父さんには、ネックレスしか渡せなかったわ。窓の隙間から手を伸ばすのが精いっぱい」


 私は黒パンをテーブルに置いて、冷えたスープ鍋を覗き込みながら言いました。


「だから今まで通り、スレヴの勤務時間を狙って——どうかした?」


 かすかな灯火にメモを広げていた父の顔は真っ青でした。かすれた低い声が、虚ろに「まさか」と呟きました。


「なんて書いてあるの?」

「おまえは……見ないほうが……」


 父は逡巡(しゅんじゅん)してから首を振りました。


「いや、知っておいたほうがいいかもしれん」


 父のただならぬ声色に、私は喉に鉛が突っかかるような気持ちでメモを読みました。


「ポーランド語ね。えっと……待って、今日はドイツ語ばかり使っていたから……『預かり倉庫には……』」

「これはどんな倉庫だ? おまえの職場に近いのか?」

「たぶん駅の隣の仮設倉庫のことね。移住するユダヤ人の荷物を《一時預かり》として納めておく所だと聞いているわ。近いけれど、私の出入りは禁止されてる」

「ああ……」


 父は項垂(うなだ)れて、崩れるように椅子に座り込みました。

 私はその反応の意味が分からず、続きを読みました。


「『財産目録に隠して』——目録って、私がタイプしているものかしら。『義肢や差し歯の金具が運ばれてくる。数人分ではなく、大量に』……」


 義肢は、先の戦争で腕や脚を失った人たちが付けているものです。40代以降のユダヤ男性には、これを付けている人が多くいました。差し歯はもちろん抜いた歯の代わりに使うもの。

 どちらも、失っては生活していけないものです。


「どういうこと……? 施設に移住しても食べたり歩いたり、手を使う必要があるはずよ。付きっきりで介助でもされない限り——」

「ナチスがユダヤ人の、しかも障害者の介助をすると思うか?」


 父の応えは神妙でした。


「じゃあ、どうするっていうの。食事どころか、排泄さえ……」


 言いながら、ふと恐ろしい考えが浮かびます。


「嘘でしょ……」


 自分の声が震えているのを感じました。

 私は文面の『大量に』と書かれた部分を指でなぞり、ああ、嫌、と呟いていました。


「大量に……『積まれた義手や義足の中から、私たちは金具を外し、銀や金、鉄や(すず)を選り分けて別の箱に入れる。それらがどこに送られているのかは知らされない』——そんな……!」


 私はメモを取り落としました。

 指先には感覚がなく、足の底が抜けたように、私は床にペタンと座り込みました。

 父は自らを嘲笑するような声色で言います。


「これで、ポーランドの金属工場に入ってくる材料の正体が分かった」


 ユダヤ人を移送すると見せかけて、財産を奪ってから殺すのです。


「だけど、どうやって? 毎日、何千、何万という人が送られているのよ。ドイツどころか、フランスやオランダからだって」

「ガス室だ」

「ガス……?」

「おまえには黙っていようと思ったんだが」


 父の両目は赤く滲んでいます。


「アウシュヴィッツだけじゃない。東のベウジェッツやソビブルにも収容所がある。そこには労働力のないユダヤ人を効率的に《処理》するためのガス室があるんだそうだ」


 効率的に。

 まるで家畜を処理するように。

 私の脳裏に、スレヴと話したことが(よみがえ)ってきました。


 ——昨日帰ったら、いなくなってたんだ。


「そんな、嘘よ……」


 ——母さんだけじゃなくて、大勢が消えた。病人、老人、小さな子ども……。


 不気味だと感じたいくつかのことが、ポロポロと思い出されます。

 みんなが働きに出てからやって来た多くのトラック。

 怪我や病気をしている者は出てきなさい、という説明。

 一戸一戸ノックをして行く念入りさ。

 見逃された女の子がもらったお菓子。

 すべての点が繋がって、ひとつの結論を出しました。

 信じられないほど恐ろしい、その意味は——


「みんなを騙しているのね……ガス室で殺す、その瞬間まで」


 全身が、怒りで震えました。


「ゲットーから移送された人たちは——スレヴの、お母さんは……!」


 父はゆっくりと、首を振りました。

 その目もとから涙が落ちます。

 視界が歪んで、自分の目にも涙が溢れていることがわかりました。

 私たちの温かい母親は、形見さえも残せなかったのです。


(スレヴ)

(どうして今、この場にいないの)


 家族が失われて、打ちひしがれて、互いにすがる肩すらないことが、これが戦争だということを突きつけました。

 そしてスレヴのことを思う一方、心を占めたのはザフィールです。


(貴方は、このことを知っているの?)


 問いただそうにも、彼は現れませんでした。


 季節は秋になりました。

 この頃になると、駅全体の役割が分かってました。転轍機(てんてつき)——車両を他の線路に移すために、線路の分かれ目に設けてある装置のことですが、クラクフ駅で行われていることが、まさにそれでした。

 貨物車両に詰め込まれた多くの人々にとって、ここは紛れもない《生死の分かれ目》だったのです。


「今日は煙草しか持って来れなかったの」


 変わらずトイレの小窓から手を差し伸べて、私たちは物々交換をしました。

 スレヴのお父さんは、日に日に青白く痩せてゆくようでした。


「助かるよ。ひと箱で二週間は生き延びられる」

「スレヴとは話せている?」

「監視の目が厳しいのだが……なんとか、お互いの無事は分かっている」

「良かった……」

「きみのお父さんが、スレヴに食糧を持たせてくれているそうだね。連絡役が教えてくれたよ」


 私は口をつぐみました。

 数日前、父がスレヴに直接、お母さんのことを伝えたと言っていたからです。


「そんな顔をしないでくれ、ヴィーシャ」


 落ち窪んだ瞳のなかに、わずかに、平和な頃の情感豊かな眼差しが見えました。


「私たちは泣けなかったんだ。哀しくても、涙を出せるほどの余裕がない。代わりに君が憤り、悲しんでくれたことは、私たちの慰めになった——いけない、もう行かなければ」

「気をつけて」

「ヴィーシャも。無理して毎日来なくとも良いんだからね」


 小窓の隙間から、この短期間で一気に老けた顔が、力なく微笑みました。

 そして踵を返したそのとき——


「何をしているッ!?」


 怒声が聞こえました。続いて静かな受け応え……スレヴのお父さんです。


(見つかったの!?)


 私はすぐさま小窓に飛びつきました。

 しかしガッチリした鉄枠に阻まれ、狭い視界からは見ることができませんでした。

 風に木立の陰がゆらいでいます。

 不自然に落ち葉が散り、非常な事態が起こったことは理解できました。

 どうしたの。

 誰に見つかったの。

 どこに連れて行かれるの。


(やめて、もう家族を奪わないで)


 その日の午後は何度もタイプミスをし、軍曹にひどく(ののし)られました。だけどどんな嘲りも、私を責めるには足りません。

 次の日も、その次の日も、スレヴの父親は待ち合わせの場所に姿を見せず、私の不安はさらに募りました。

 そして一週間経った頃、ザフィールが再び、クラクフ駅にやって来ました。

 それは、移送の貨車が何十両も通り過ぎた日のことでした。


「ヤドヴィガ・ニヴィンスカ」


 彼は前回のように、私のフルネームを呼んで、制帽のつばをキュッと握りました。


「質問に答えてもらう」

はい、少尉さまアンダシュタム・フューラー

「先週、倉庫で特殊任務についていたユダヤ人の男が、規則を破り、逮捕された」


 ゆっくりと、声変わりした低い音が、這うように説明の言葉を並べます。


「男の名は……」


 スレヴのお父さんの名前でした。

 私はうつむいたまま、黙っていました。ザフィールの眼差しが、私を射抜くように()めつけます。


「見つけた門兵の話では、煙草をひと箱持っていたそうだ。おかしいじゃないか? ゲットーのユダヤ人に煙草は配給されていない。そうだろう?」

「分かりません、少尉さま」

「どこからか盗んだのか、それとも……何か心当たりはあるか。ユダヤ贔屓(びいき)のヴィーシャ」


 愛称がこれほど不快に感じられるものかと怖気(おぞけ)が走り、私は必死に考えを巡らせました。


(このままでは、私も逮捕される)


 何か、交渉できるものはないか。

 自分の命を助け、あわよくばスレヴの父親も放免されるような、何かとっておきの弱みはないか。


 ——あった!


 私は(はや)る鼓動をおさえて、努めて冷静に切り出しました。


「少尉さま宛てに、預かっているものがございます」


 私は床の上を見つめました。

 ちぢこまっている粗末な靴。

 この一足が今夜、帰宅する道を歩けるかどうかが、これからの抗弁にかかっている。


「金時計を覚えておいでですか」

「金時計……?」

「お父上がご生前のとき、私にお預けになったものです」


 子どもの頃と同じザフィールなら「そんな骨董品はゴミ同然だ」と笑っていたでしょう。

 しかし、私には勝算がありました。


「少尉さまのお血筋が高貴なものであると、明らかな証の立つ金時計です」


 もう昔のこと、ザフィールがベルリンに発ってからしばらくして、スレヴがこっそり教えてくれたのです。

 時計の蓋に掘り込まれた紋様とイニシャルが、間違いなく、中世まで(さかのぼ)る古い王家の印章であることを。


「恐れながら、総統閣下は、実務能力とともに、家の血統を重んじられると——」

「黙れ!」


 押さえつけるような恫喝(どうかつ)に、私は思わず身をすくめました。

 やりすぎたか。

 出しゃばり過ぎたか。

 これ以上は言うまいと口をつぐんだ私の耳に、深いため息が聞こえました。


「……お前が」


 ザフィールは灰色の壁に肩を預けました。


「持っていたのか……」


 安堵したような声に、私はつい、好奇心から顔を上げてしまいました。

 青年将校はわずかにうなだれ、白い手袋で表情を隠しています。

 その指の隙間から、青い光がのぞきます。一瞬、十二年前のあたたかな夜のように、またたいた瞳。


「……何が、望みだ」


 ザフィールは(うめ)くように言いました。


「私、は……私、よりも……」


 スレヴのお父さんを助けてほしい。

 ゲットーで苦しむスレヴを解放してほしい。

 こんな望みは、少尉という地位が叶えられる範疇(はんちゅう)のどちら側にあるのか。

 私は計りかねて、言葉を失ってしまいました。

 やがて、やわらかく息の洩れるような音が聞こえて、ザフィールが言いました。


「変わらないな。弁は立つのに、向こうみずで見切り発車」


 それは、少年のときのからかう口調と一緒でした。


「いいだろう、レディ(フラウ)・ニヴィンスカ」


 咳払いをし、軍人らしい声色に戻した将校は、姿勢を正しました。


「あなたのご協力を鑑み、より安全な職場を提供する。逮捕したユダヤ人も今回だけは見逃してやる」

「ご厚意に感謝します。少尉さま」


 そうして、1942年の冬の始め、私に対しての封書が届きました。

 新しい仕事はザフィールの任地に付き従い、ハウスメイドをすること。

 この邸宅のことは今でも夢に見ます。

 私が《プワシュフ収容所》に足を踏み入れる最初のきっかけであり、


 地獄の門とも言える場所でした。





【第二章・終】



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ