繋がっていく記憶
その夜、緊張と疲労でクタクタになった身体を引きずって、家に帰りました。
ドアを開けると父が廊下を走って来ました。背広を脱ぎもせず、仕事終わりの姿のままでした。
「怪我はないか?」
「大丈夫」
私は父を思いっきり抱きしめて、自分の無事を伝えました。
スレヴのお父さんから渡されたメモを渡し、ようやく息をついて首のスカーフを緩めました。胸もとから、黒パンの欠片が転がり落ちます。
「スレヴのお父さんには、ネックレスしか渡せなかったわ。窓の隙間から手を伸ばすのが精いっぱい」
私は黒パンをテーブルに置いて、冷えたスープ鍋を覗き込みながら言いました。
「だから今まで通り、スレヴの勤務時間を狙って——どうかした?」
かすかな灯火にメモを広げていた父の顔は真っ青でした。かすれた低い声が、虚ろに「まさか」と呟きました。
「なんて書いてあるの?」
「おまえは……見ないほうが……」
父は逡巡してから首を振りました。
「いや、知っておいたほうがいいかもしれん」
父のただならぬ声色に、私は喉に鉛が突っかかるような気持ちでメモを読みました。
「ポーランド語ね。えっと……待って、今日はドイツ語ばかり使っていたから……『預かり倉庫には……』」
「これはどんな倉庫だ? おまえの職場に近いのか?」
「たぶん駅の隣の仮設倉庫のことね。移住するユダヤ人の荷物を《一時預かり》として納めておく所だと聞いているわ。近いけれど、私の出入りは禁止されてる」
「ああ……」
父は項垂れて、崩れるように椅子に座り込みました。
私はその反応の意味が分からず、続きを読みました。
「『財産目録に隠して』——目録って、私がタイプしているものかしら。『義肢や差し歯の金具が運ばれてくる。数人分ではなく、大量に』……」
義肢は、先の戦争で腕や脚を失った人たちが付けているものです。40代以降のユダヤ男性には、これを付けている人が多くいました。差し歯はもちろん抜いた歯の代わりに使うもの。
どちらも、失っては生活していけないものです。
「どういうこと……? 施設に移住しても食べたり歩いたり、手を使う必要があるはずよ。付きっきりで介助でもされない限り——」
「ナチスがユダヤ人の、しかも障害者の介助をすると思うか?」
父の応えは神妙でした。
「じゃあ、どうするっていうの。食事どころか、排泄さえ……」
言いながら、ふと恐ろしい考えが浮かびます。
「嘘でしょ……」
自分の声が震えているのを感じました。
私は文面の『大量に』と書かれた部分を指でなぞり、ああ、嫌、と呟いていました。
「大量に……『積まれた義手や義足の中から、私たちは金具を外し、銀や金、鉄や錫を選り分けて別の箱に入れる。それらがどこに送られているのかは知らされない』——そんな……!」
私はメモを取り落としました。
指先には感覚がなく、足の底が抜けたように、私は床にペタンと座り込みました。
父は自らを嘲笑するような声色で言います。
「これで、ポーランドの金属工場に入ってくる材料の正体が分かった」
ユダヤ人を移送すると見せかけて、財産を奪ってから殺すのです。
「だけど、どうやって? 毎日、何千、何万という人が送られているのよ。ドイツどころか、フランスやオランダからだって」
「ガス室だ」
「ガス……?」
「おまえには黙っていようと思ったんだが」
父の両目は赤く滲んでいます。
「アウシュヴィッツだけじゃない。東のベウジェッツやソビブルにも収容所がある。そこには労働力のないユダヤ人を効率的に《処理》するためのガス室があるんだそうだ」
効率的に。
まるで家畜を処理するように。
私の脳裏に、スレヴと話したことが蘇ってきました。
——昨日帰ったら、いなくなってたんだ。
「そんな、嘘よ……」
——母さんだけじゃなくて、大勢が消えた。病人、老人、小さな子ども……。
不気味だと感じたいくつかのことが、ポロポロと思い出されます。
みんなが働きに出てからやって来た多くのトラック。
怪我や病気をしている者は出てきなさい、という説明。
一戸一戸ノックをして行く念入りさ。
見逃された女の子がもらったお菓子。
すべての点が繋がって、ひとつの結論を出しました。
信じられないほど恐ろしい、その意味は——
「みんなを騙しているのね……ガス室で殺す、その瞬間まで」
全身が、怒りで震えました。
「ゲットーから移送された人たちは——スレヴの、お母さんは……!」
父はゆっくりと、首を振りました。
その目もとから涙が落ちます。
視界が歪んで、自分の目にも涙が溢れていることがわかりました。
私たちの温かい母親は、形見さえも残せなかったのです。
(スレヴ)
(どうして今、この場にいないの)
家族が失われて、打ちひしがれて、互いにすがる肩すらないことが、これが戦争だということを突きつけました。
そしてスレヴのことを思う一方、心を占めたのはザフィールです。
(貴方は、このことを知っているの?)
問いただそうにも、彼は現れませんでした。
季節は秋になりました。
この頃になると、駅全体の役割が分かってました。転轍機——車両を他の線路に移すために、線路の分かれ目に設けてある装置のことですが、クラクフ駅で行われていることが、まさにそれでした。
貨物車両に詰め込まれた多くの人々にとって、ここは紛れもない《生死の分かれ目》だったのです。
「今日は煙草しか持って来れなかったの」
変わらずトイレの小窓から手を差し伸べて、私たちは物々交換をしました。
スレヴのお父さんは、日に日に青白く痩せてゆくようでした。
「助かるよ。ひと箱で二週間は生き延びられる」
「スレヴとは話せている?」
「監視の目が厳しいのだが……なんとか、お互いの無事は分かっている」
「良かった……」
「きみのお父さんが、スレヴに食糧を持たせてくれているそうだね。連絡役が教えてくれたよ」
私は口をつぐみました。
数日前、父がスレヴに直接、お母さんのことを伝えたと言っていたからです。
「そんな顔をしないでくれ、ヴィーシャ」
落ち窪んだ瞳のなかに、わずかに、平和な頃の情感豊かな眼差しが見えました。
「私たちは泣けなかったんだ。哀しくても、涙を出せるほどの余裕がない。代わりに君が憤り、悲しんでくれたことは、私たちの慰めになった——いけない、もう行かなければ」
「気をつけて」
「ヴィーシャも。無理して毎日来なくとも良いんだからね」
小窓の隙間から、この短期間で一気に老けた顔が、力なく微笑みました。
そして踵を返したそのとき——
「何をしているッ!?」
怒声が聞こえました。続いて静かな受け応え……スレヴのお父さんです。
(見つかったの!?)
私はすぐさま小窓に飛びつきました。
しかしガッチリした鉄枠に阻まれ、狭い視界からは見ることができませんでした。
風に木立の陰がゆらいでいます。
不自然に落ち葉が散り、非常な事態が起こったことは理解できました。
どうしたの。
誰に見つかったの。
どこに連れて行かれるの。
(やめて、もう家族を奪わないで)
その日の午後は何度もタイプミスをし、軍曹にひどく罵られました。だけどどんな嘲りも、私を責めるには足りません。
次の日も、その次の日も、スレヴの父親は待ち合わせの場所に姿を見せず、私の不安はさらに募りました。
そして一週間経った頃、ザフィールが再び、クラクフ駅にやって来ました。
それは、移送の貨車が何十両も通り過ぎた日のことでした。
「ヤドヴィガ・ニヴィンスカ」
彼は前回のように、私のフルネームを呼んで、制帽のつばをキュッと握りました。
「質問に答えてもらう」
「はい、少尉さま」
「先週、倉庫で特殊任務についていたユダヤ人の男が、規則を破り、逮捕された」
ゆっくりと、声変わりした低い音が、這うように説明の言葉を並べます。
「男の名は……」
スレヴのお父さんの名前でした。
私はうつむいたまま、黙っていました。ザフィールの眼差しが、私を射抜くように睨めつけます。
「見つけた門兵の話では、煙草をひと箱持っていたそうだ。おかしいじゃないか? ゲットーのユダヤ人に煙草は配給されていない。そうだろう?」
「分かりません、少尉さま」
「どこからか盗んだのか、それとも……何か心当たりはあるか。ユダヤ贔屓のヴィーシャ」
愛称がこれほど不快に感じられるものかと怖気が走り、私は必死に考えを巡らせました。
(このままでは、私も逮捕される)
何か、交渉できるものはないか。
自分の命を助け、あわよくばスレヴの父親も放免されるような、何かとっておきの弱みはないか。
——あった!
私は逸る鼓動をおさえて、努めて冷静に切り出しました。
「少尉さま宛てに、預かっているものがございます」
私は床の上を見つめました。
ちぢこまっている粗末な靴。
この一足が今夜、帰宅する道を歩けるかどうかが、これからの抗弁にかかっている。
「金時計を覚えておいでですか」
「金時計……?」
「お父上がご生前のとき、私にお預けになったものです」
子どもの頃と同じザフィールなら「そんな骨董品はゴミ同然だ」と笑っていたでしょう。
しかし、私には勝算がありました。
「少尉さまのお血筋が高貴なものであると、明らかな証の立つ金時計です」
もう昔のこと、ザフィールがベルリンに発ってからしばらくして、スレヴがこっそり教えてくれたのです。
時計の蓋に掘り込まれた紋様とイニシャルが、間違いなく、中世まで遡る古い王家の印章であることを。
「恐れながら、総統閣下は、実務能力とともに、家の血統を重んじられると——」
「黙れ!」
押さえつけるような恫喝に、私は思わず身をすくめました。
やりすぎたか。
出しゃばり過ぎたか。
これ以上は言うまいと口をつぐんだ私の耳に、深いため息が聞こえました。
「……お前が」
ザフィールは灰色の壁に肩を預けました。
「持っていたのか……」
安堵したような声に、私はつい、好奇心から顔を上げてしまいました。
青年将校はわずかにうなだれ、白い手袋で表情を隠しています。
その指の隙間から、青い光がのぞきます。一瞬、十二年前のあたたかな夜のように、またたいた瞳。
「……何が、望みだ」
ザフィールは呻くように言いました。
「私、は……私、よりも……」
スレヴのお父さんを助けてほしい。
ゲットーで苦しむスレヴを解放してほしい。
こんな望みは、少尉という地位が叶えられる範疇のどちら側にあるのか。
私は計りかねて、言葉を失ってしまいました。
やがて、やわらかく息の洩れるような音が聞こえて、ザフィールが言いました。
「変わらないな。弁は立つのに、向こうみずで見切り発車」
それは、少年のときのからかう口調と一緒でした。
「いいだろう、レディ・ニヴィンスカ」
咳払いをし、軍人らしい声色に戻した将校は、姿勢を正しました。
「あなたのご協力を鑑み、より安全な職場を提供する。逮捕したユダヤ人も今回だけは見逃してやる」
「ご厚意に感謝します。少尉さま」
そうして、1942年の冬の始め、私に対しての封書が届きました。
新しい仕事はザフィールの任地に付き従い、ハウスメイドをすること。
この邸宅のことは今でも夢に見ます。
私が《プワシュフ収容所》に足を踏み入れる最初のきっかけであり、
地獄の門とも言える場所でした。
【第二章・終】