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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第二章 閉ざされた人々
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愛おしい日々

「アウシュヴィッツ……」


 その名を呟いたスレヴは、何かを思い出すように、視線を宙に泳がせました。


「聞いたことがある……ドイツから来た監督官が言っていた。『国内のゲットーはもういっぱいで、労働できない人たちを収容するための施設が、ポーランドに作られている』って」

「ゲットーから収容所に移されるの?」


 今でさえ最悪の環境なのに、と私は怒りが込み上げてきました。


「そんなの捕虜と同じ扱いじゃない!」

「ベルギーやフランスからも、どんどんユダヤ人が送られて来ているらしい」

「信じられないわ。全部で一体どれだけの人数になるの?」

「何万人じゃ済まないだろうね。薬どころか、満足な食事さえ与えらないかもしれない」


 私たちの脳裏によぎったことは、ひとつ。

 スレヴのお母さんはどうなるのか。


「せめて、お母さんがどこに移されたのか、知ることはできないかしら。場所がわかれば支援もできるわ」

「ゲットーからの移送トラックは、東に向かったと聞いたけど……」

「ああ、よかった! それなら、オシフィェンチムじゃないわね。あっちは西側だもの」


 スレヴも頷いて、わずかに希望を取り戻したようでした。


「父さんから、移送車はクラクフ駅で一旦止まると聞いた」

「スレヴのお父さんが?」

「駅の倉庫で働いているんだ。宝飾品を選り分ける係らしい」


 技術を持っていれば、多少身体が老いていても労働力としてみなされます。だけどその殺伐とした物言いは、私を悲しくさせました。

 父子二人が虫眼鏡で作業台をのぞく、あの日常がすっかり遠くなってしまったように思えたからです。


「駅でお母さんの手がかりが掴めないかしら」

「父さんには難しいよ。ユダヤ人は皆見張られている」

「ポーランド人なら、どう?」


 スレヴは目を丸くしました。


「ヴィーシャ、何を考えているんだい」

「クラクフ駅で働くの。私のお父さまは貨物輸送にも詳しいから、きっと力になってくれるわ」

「だめだ!」


 ガサガサッと音が聞こえ、私たちは弾かれたように立ち上がりました。

 幸い、それは飛び立つ鳥の羽音でした。


「もう戻りましょう」

「ヴィーシャ、待って!」


 スレヴは眉根に深いシワを寄せ、私を見つめて言いました。


「君はいつもそうやって、無理をする」

「無理じゃな——」


 私の言葉をさえぎって「小さい頃からそうだ」と、スレヴは腹立たしそうに拳を握ります。


「僕たちと親しくして、他のポーランド人から冷たくされたこともあるって、知っているよ」


 そんなことないわ、とは言えませんでした。うつむく私の頬を、スレヴの大きく骨ばった手が包みました。


「だけど、そんなヴィーシャに救われていることも確かなんだ」


 間近で見るスレヴの瞳は、まるで真っ暗な夜の星々さながら(きら)めいていました。地球儀を回すときのように、鉱物の光を覗きこむときのように。


(貴方のその眼差しが、私をどうしようもないほど、突き動かすの)


 私は帰宅してから、スレヴとの会話を父に伝えました。父もきっと応援してくれると思っていたからです。

 しかし返ってきたのは、恐ろしいほどの静寂でした。

 やがて、父がゆっくりと低い声で言いました。


「今まで甘やかし過ぎたようだから、ハッキリ言う。《英雄気取り》はやめなさい」


 その言葉は、私の胸にグサリと刺さりました。


「お前は今、ドイツの占領民にしか過ぎないんだぞ」

「でも、少しでも何かできないかって」

「身の程を知れ!」


 蝋燭の炎がおおきくゆれて、私は固く身をすくめました。


「これは絵本やおとぎ話じゃない。戦争が起きていることも、ユダヤ人が迫害されていることも『現実』なんだ!」


 小さく「分かっているわ」と応えると、さらに大きな声で「いや、分かっていない!」と浴びせられました。


「親衛隊や特殊部隊の者たちが、今どんなことをしているか、お前は知らない。だいたいスレヴもスレヴだ。おまえを(そそのか)すようなことを言って——」

「お父さま、ごめんなさい」


 私は慌てて父の拳のうえに手のひらを重ねました。

 以前、父がそうしてくれたように。


「だけど、お願い、考えてみて! もし私がいきなり行方不明になって、その手がかりがクラクフ駅にしかないと分かったら、お父さまはどうなさるの?」

「それは……」

「スレヴのお母さんは、私の母親も同然よ。家族が大切なの。もし行方知れずになったのが、お父さまだとしても、私は同じことをするわ」


 手のひらの下の拳がふるえ、ゆっくりと、指の力がほどけていきます。


「おまえは……私は、怖いんだ……おまえが、あまりにも母さんにそっくりだから——」


 愛しいオーリャ、と呟いて、父は両手で顔を覆いました。

 その姿の向こう、暖炉の上に写真立てが飾られています。幼い私を抱いている、金髪の女性が写っていました。

 オーリャ——私の母親の名です。


「勇気ある女性だった」


 振り絞るように、父の口から思い出が語られます。


「あの頃のソ連から逃げ出すことは、見つかれば殺される、とても危険なことだった。だのにオーリャは、産後間もない身体でポーランドに亡命したんだ——」


 父の語尾が小さくなります。感情が溢れるのをこらえるように。


「家族一緒にいたいと言って、無理をして……」


 父は言いました。

 あのとき、どうにか説得していれば、彼女はもっと長く生きることができたのではないか。


「だけどオーリャは、死の間際にも、悔やむ私に笑顔で言ってくれた。亡命して来て良かった、と」


 ——愛する家族と少しでも長く過ごせた。私の人生の宝……ヴィーシャをよろしくね。


「お前の今の表情は、あのときのオーリャの顔にそっくりだよ……きっと、いくら言っても聞かないんだろう」


 私が姿勢を正して頷くと、父は自嘲するように、小さく笑みをもらしました。


「お前たちには、いつも心配させられてばかりだ」


 それから二週間後、私はクラクフ駅構内の事務所で、ひとり座っていました。

 仕事は《ユダヤ人の財産目録をタイプすること》です。

 これには、父の事務所で働きながらタイプライターを学んだことが役立ちました。とはいえ、まだ打ち慣れないドイツ語も多くあったので、不安と緊張でいっぱいでした。


「新任の目録係はお前か?」


 ドアを開けて尋ねる男は、ナチス親衛隊の制服でした。


「はい、軍曹」

「タイプしてみろ」


 男は机の向かい側にドサリと掛けて、バインダーの紙をめくり、メモを読みました。


「項目、銀食器。燭台、35本……おい、何をボヤッとしているんだ」


 私は慌てて用紙を挟み、読み上げられた目録をタイプし始めました。


「スプーン128本、フォーク96本……」

「項目、金細工。指輪……」


 次々と読み上げられるのは、宝石や現金の事細かな集計でした。

 私はその数の意味も考えず、ただひたすらにタイプを打ち続けました。

 用紙の厚みが辞書ほどになった頃、軍曹はそれらをザッと確認して「休憩だ」と言いました。


「タイプは遅いがミスはないな。午後は私の上官が来る。手抜かりのないように」


 軍曹が革靴を鳴らして部屋を出ていってから、私はようやく、深く息を吐きました。女性用トイレに向かい、奥の小さな小窓を開けます。


「ヴィーシャ」


 聞き覚えのある声。

 スレヴのお父さんが、そこで待っていました。私はすぐさま、靴下に隠しておいた銀細工のネックレスを引っ張り出し、窓枠の隙間から落としました。


「それで足りるかしら」

「ああ、ありがとう。これでパンと交換できる」


 スレヴのお父さんは、痩せ切っていました。手首が窓の隙間に通りそうなほど、細くなっていました。


「これを受け取ってくれ」


 シワだらけで黒ずんだ指が差し出したのは、一枚のメモでした。


「ここで読んではいけない。靴下に隠しておくんだよ。帰ってから確認してくれ」

「分かりました」

「君のお父上にも御礼を伝えて欲しい……もう行かなければ」

「また明日、同じ時間に」


 汽笛が鳴り、車輪の金属音がけたたましく響きました。

 私は慌てて事務所に戻り、昼食に持って来たチーズを(かじ)りました。

 朝より多くの革靴の音が聞こえて、ドアがノックされました。顔をのぞかせた軍曹は眉をしかめて「休憩は終わりだ」と告げました。

 二人の将官が立っていて、その振る舞いから階級の違いは明らかでした。

 軍曹は先ほどまでの横柄な態度が嘘だったかのようにへりくだって、もう一人の将校に挨拶しています。


「少尉どの、こちらが目録係です」

「若いな」

「新入りなんですが、タイプの腕はまぁまぁで。処理には問題ないかと」

「それは私が判断する」


 将校は制帽のつばを直して、私の真正面に立ちました。

 その顔を見て、私は、まだ咀嚼(そしゃく)しきれていないチーズを、ゴクンと飲み下してしまいました。


「んぐ……!」


 やわらかな金髪、白い頬、そして——

 蒼玉のような瞳。


 ザフィールでした。


 背は高くなり、声も低くなって、私のなじみあるザフィールの姿ではありませんでしたが、それでも、本人だと分かりました。


「軍曹、案内はもういい。君は貨車の確認に行ってくれ」

「はい、少尉どの」


 軍曹が足早に退室してから、私は信じられない気持ちで、なつかしい名前を呼びました。


「ザフィール!」


 私の声に一瞬、彼は目をみはったかと思うと、怪訝(けげん)な顔をして、すぐに表情を戻しました。


「気安く呼ぶな」


 氷柱(つらら)で刺すように冷たい言葉。

 猟犬のように飢えた眼差し。

 初めて会ったあの頃のように。


(着ているものは立派なのに、貴方は何に飢えているの?)


 彼は私が呼んだ名を否定はせず、タイプライターの机の前に座り、手元のファイルから書類をめくりました。


「ヤドヴィガ・ニヴィンスカだな」


 それは私の本名でした。


「もう《ヴィーシャ》とは呼んでくださらないのですか、少尉さま」


 私はジッと彼を見つめました。青く輝く宝石のような双眸を。

 思い出して欲しかったのです。

 私たちが食卓をともに囲んだ夕べを、さまざまな言語で冗談を言い合った日々を。

 ——きよし、この夜(シュティル・ナハト)……と歌ってくれたイヴの夜を。


「ヴィーシャ……?」

 

 蒼い瞳がゆるやかに拡がり、私を真っ直ぐに見つめました。

 一瞬とも、永遠とも感じる沈黙。

 それから彼は空咳をひとつこぼして、うつむきながら言いました。


「まさか君は、ユダヤ人の援助などしていないだろうな?」

「あ……」


 とっさに、スレヴのことを尋ねているのだと察しました。

 その途端、彼のナチスの制服は、より残酷に褪せて見せました。かつての友情は失われたのだと、判を押すような尋問でした。


 今ここに居る二人は旧友ではなく、支配者と占領民なのだと。


 その事実が——

 今やナチス・ドイツがヨーロッパを支配していることよりも、

 戦火が母の故郷であるソ連にまで及んでいることよりも——


 私にとっては、絶望的に感じられました。





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