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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第二章 閉ざされた人々
7/15

クラクフ・ゲットー

 1942年の春、私は20歳になりました。

 髪を後ろでひとつに結って、うす汚れたスカーフを巻いていました。もちろんこれがオシャレだと思って装っていた訳ではありません。質素な身なりで、月に二、三度、外出する必要があったのです。


「お父さま、工場に書類を届けてきます。他にご用はあるかしら?」

「この包みを持って行ってくれ」


 父はクラクフに戻ってから近郊の工場を買い取り、金属加工の事業を始めていました。

 それは暮らしのためでもありましたが、スレヴ一家や親しい人々を(かくま)うためでもありました。

(このときザフィールの母親と弟妹も探したのですが、水晶の夜を前に行方知れずになっていました)


 紙袋の中に書類と包みを入れて、私はできるだけ目立たないように道を歩きました。

 街にはナチス親衛隊——SSと呼ばれていました——彼らが我がもの顔で、ポーランド人を見張っていたからです。

 特に、ユダヤ人を助けようとする者は、即座に《政治犯》として収容されていました。


「所長、工程管理表を持って来ました」

「ヴィーシャか。ご苦労さん」


 工場の時計が正午を知らせます。

 稼働していたラインが止まり、社員が昼休憩を取りに行きました。

 私は機械の影に隠れて、小さく「スレヴ」とささやきました。

 振り返る彼は、今にも破れそうな服にダビデの星の腕章(わんしょう)をつけています。

 疲労の濃い顔つきは、先週会ったときよりも、さらに痩せて見えました。


「いつもの場所で、ね」


 彼が頷くのを確認して、私は身を(ひるがえ)しました。

 もう春だというのに、街は灰色一色で、あざやかなものといえば、鉤十字(かぎじゅうじ)の真っ赤な垂れ幕だけでした。

 それでも植物はわずかに息づいていて、通り道にある雑木林は明るいグリーンの葉を芽吹かせていました。

 私は目的の切り株に座り、父から預けられた包みを広げます。

 遅れてスレヴもやってきました。

 彼は物も言わず、土の中に隠してある木箱を取り出し、私が差し出す食糧を押し込みました。私も黙って包みの中身を仕分けました。

 世間話をするヒマはないのです。

 誰かに感づかれる前に、何もかも、迅速にしなければなりませんでした。


「これは外からの手紙。こっちは……割らないように気をつけて」


 小さなガラス瓶は、スレヴから頼まれていた抗生物質です。父がなんとか手に入れたものでした。

 スレヴは小瓶を大切そうに布でくるみ、手紙と一緒に、衣服の中に隠しました。


「……お母さんの様子はどう?」

「たぶん、チフスだ。流行ってる」

「薬は足りてるの?」


  スレヴは鼻で笑いました。


「何も足りてない」


 憎々しげに「ヤツら、腐った芋しか、渡して来ない」と悪態をつきます。


「貴方とお父さんは、どうなの?」

「君たちのおかげでなんとかやれてる。ヴィーシャこそ……ここまで大丈夫だった?」


 最後にパンの塊とチーズを渡しながら、私は答えました。


「ええ。前にナチに声をかけられてから、出歩くときは顔を汚すようにしているわ」


 ようやく食事を始めたスレヴが、わずかに頬をゆるませました。


「君は女性だから、気をつけないと」

「それ、お父さまにも毎日言われてるわ」

「——本当は、こんなふうに仲介をしてもらうのも、心配なんだ」

「おあいにく。私は毎日来たいくらいよ」


 私が鼻息荒く言うと、スレヴの落ち窪んだ目のなかに、ようやくあたたかな光が灯ったように見えました。


「もう行くわね。何かあったら、また合図を送って」

「ありがとう」


 この頃、私たちは別々の場所に住まいしていました。

 私と父は事務所の二階に。

 スレヴ一家はユダヤ人の居留区(ゲットー)に——いいえ、そんな言葉では生ぬるいでしょう。

 牢屋や監獄でさえ、法があり、収容者には人権があります。

 あの時代におけるゲットーとは、《ユダヤ人を死なせるための閉鎖地区》を意味していました。

 ポーランドの内外で、ナチスがユダヤ人を迫害して飽き足らず、虐殺をしているらしいという話も、どこからともなく聞こえてくるのでした。


「お父さま」


 私は夕食時に、父に言いました。


「スレヴのお母さん、チフスを発病してしまったらしいの。ゲットーの中がどんなか分からないけれど、とても今のままで良いなんて思えないわ。どうにかならないかしら」


 ポテトスープを静かに飲み干して、父はゆっくりと答えました。


「私たちも安全ではない。現に職員の中には、お前がたびたび工場に行くことを怪しんでいる者もいる。密告されれば、今のように彼らを援助することもできなくなる」


 それどころか私たちも収容所行きだ、と付け加えました。


「先月も、たくさんのソ連兵が連行されているのを見た。また土木工事か何かがあるんだろう」


 銃で脅されながら、尊厳もなく働かされる人々。

 そんな捕虜たちの姿が、不自由な暮らしを強いられているスレヴに重なり、胸がナイフで切られるように痛みました。


「……ただ黙って、見ているしかできないのかしら」

「そうだ。そして終戦を待つ」

「終戦なんて……無理よ。フランスも占領されるしソ連にも侵攻するし……終わるどころか、戦火はどんどん広がっているわ」


 いつのまにかテーブルの上で震えていた私の拳に、父の大きな手のひらが重なりました。


「幸い、イギリスはよく抵抗している。アメリカも参戦した。俗な言い方になってしまうが……希望を捨ててはいけないよ」


 私は声を絞り出しました。


「わかってる」


 夕食を終えて寝室に戻ると、サイドテーブルの引き出しから、ベルベットの巾着を取り出しました。スレヴと両親がゲットーへ入る日、これを私に預けて行ったのです。

 金時計のネジを巻くことが、いつしか私の日課になっていました。

 時を刻み続ける音を聞き、いったいこの針が何周、何十周すれば戦争が終わるのか、そんなことを考えます。

 そして——


「ザフィール……」


 もう22歳になったであろう、古い友人を思い出します。彼はきっとヒトラー・ユーゲントからすぐにナチスへ入隊したはずです。

 行っている任務が、どうか人々を虐げるものではないように、と祈るばかりでした。


 夏の匂いが近づく頃、スレヴのお母さんは抗生物質のおかげで、かなり回復したと知ることができました。


「体力はだいぶん落ちているけれど……」


 スレヴはパンを噛みちぎりながら話してくれました。

 だんだんと痩せ、身なりも汚く、粗雑になっていくことが、ゲットーでの生活の苦しさを物語っていました。

 あとは変化がもう一つ。


「スレヴ……ぜんぜん(ども)らなくなったのね」

「ああ」


 スレヴは何でもないことのように答えました。


「悪目立ちすると殺されるから」


 一気に血の気が引きました。

 そんなむごいことを、さらりというスレヴにも、そうさせた日常にも。


「ゲットーの中では……何が、起こっているの?」


 思わずこぼれた問いに、スレヴはごくんとパンを飲み込みました。


「聞きたい?」


 スレヴの真っ黒な瞳が、私を射抜きました。まるで私の質問の奥底にある、浅ましい好奇心を見透かすように。


「……ごめん、なさい」

「いいよ。ただ、他のユダヤ人にはその質問をしないほうがいい」


 なんとなく感じてはいました。

 ゲットーの外で働くユダヤ人たちの、ポーランド人に対する嫉妬や憎悪の視線を。

 それはドイツ人に対する憎しみとはまた違った種類の嫌悪でした。


「僕も、同じようなものだけど」


 スレヴは空気を変えるように、わざと明るく言いました。


「妬まれてるよ。仲間うちでは、ヴィーシャが僕の可愛い恋人だと思われてる」

「えっ?」

「地元のユダヤ人なら、ヴィーシャのことを知ってる人も多いから。僕をそこまで助けてくれるってことは、つまり、誓い合った仲だろうって」


 私の頬がいきなり発火したかと思うくらい、熱くなりました——

 可愛い恋人?

 誓い合った仲!?


「それは、あの……」

「大丈夫だよ。ヴィーシャが届けてくれる食糧は、仲間内で分け合ってる。少なくとも孤立してはいない」

「よ、良かったわ」


 衝撃の余波がまだおさまらないまま、私は言ってしまいたくなりました。


 ——貴方が好き、と。


 本当はスレヴにゲットーから出てきて欲しい。

 自分の部屋の屋根裏で、誰にも見つからないように安全に(かくま)いたい。

 そして同時に恥入りました。

 善人ぶっておきながら、本音は、スレヴを助けられたらそれでいい、他の人はどうなってもかまわない——恐ろしいほど傲慢(ごうまん)なエゴを持っている。

 それを言えばスレヴはきっと私を軽蔑するでしょう。

 必死に自分を制して、私は「お母さんが早く良くなるよう、祈っているわ」と伝えました。


 しかし、それは叶いませんでした。

 病気が悪くなったのではありません。


「帰ったら、いなくなってた」


 スレヴはいつにもまして重くくたびれた様子で、待ち合わせの切り株に座り込みました。


「どういうこと?」

「僕にも分からない。昨日帰ったら、いなくなってたんだ。しかも母さんだけじゃなくて、大勢が消えた。病人、老人、小さな子ども……」


 私はハーメルンの笛吹きの話を思い出しました。笛吹の音に誘われて、街の外に出てゆく子どもたち……。

 外気はあたたかいはずなのに、ぶるっと震えが来て、私は腕をおさえました。


「不気味……」

「そう、なんだよ」


 スレヴは考え深げに、両手を口もとで合わせました。


「家の近くで、たまたま残っていた子どもがいて——教えてくれたんだけど」


 その女の子が語るには、みんなが働きに出たあと、銃を持ったSSが何人も乗り込んだトラックが、たくさんやって来たのだそうです。

 スピーカーで『怪我や病気をしている者は治療します。出てきなさい』と説明したとか。

 しかも一戸一戸ノックをして行く念入りさだった、と。


「その女の子は、どうして助かったの?」

「見た目が『ユダヤ人っぽくないから』だって。お菓子をもらったと言ってたよ」


 おかしい。優しすぎる。

 何かその奥に、とてつもない悪意を秘めていそうで、私は自分の脈が早まるのを感じました。


「じゃあ『療養』のために連れて行かれたと、思っていいのね?」

「……そう思いたい。だけど——確実な情報が欲しい。何が起こっているのか、知りたい」


 彼は楽観をしません。

 妥協(だきょう)しない姿勢は技術者だからでしょうか。まるで歯車の噛み合わせを見つめるときのように、深く考えている様子です。


「ヴィーシャの周りでは、何か変わったことはあった?」

「そうね……春先に、ソ連の捕虜がたくさん連れて行かれたと聞いたわ」

「意外だな。ソ連兵はすぐ射殺されると聞いたよ」

「お父さまが言うには、工事のための労働力じゃないかって」

「ああ、また線路の敷設(ふせつ)か、居留区づくりか」


 ため息をついたスレヴが、私を見上げて「場所はどこかわかる?」と訊ねました。


「えっと……たしか、ここから西に何十キロか行ったところよ。村の名前は……オシフィェンチム、って」

「え、何?」

「ちょっと待ってね。ポーランド語だったから……ドイツ語だと、たしか」


 ——アウシュヴィッツ。


 この地名が後に、世界中の人々を恐慌させる言葉になるとは、このとき思ってもいませんでした。





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