奪われるもの
「スレヴ、今の音は——?」
「ま、待ってて。動かないで」
何事かを察したらしいスレヴが、店の裏口から暗がりを覗きました。キッチンに居たスレヴのお父さんも加わって、ヒソヒソ話し込んでいます。
二階から、もう休んでいたお母さんまで降りてきました。
「こんな遅くに、何かあったの?」
「おまえたちは二階に上がっていなさい」
スレヴのお父さんが、苦い顔で近づいてきます。
「どうやら暴徒がいるらしい……若い母親が襲われた……」
「そんな!!」
私は声をあげました。
何が起こっているのか分かりませんが、特に女性が危険であるということは、ハッキリ知らされました。
「近所の男手みんなで見回ってくる。おまえたちは二階に隠れているんだ。鍵をしっかりかけて」
「ええ。あなた、気をつけてね」
スレヴの両親が抱きしめ合ったとき、耳を切り裂く悲鳴が聞こえました。
ガラスの割れる音が二重、三重に増えていき、まるでそれは目に見えない怪物がヒタヒタと、近づいてくるような恐怖でした。
私の息は浅くなりました。
「ヴィーシャ、こっちへ!」
スレヴのお母さんが、夜明かりを持って呼んでくれたおかげで、私の脚は正気を取り戻しました。
慎重に階段を昇り、奥の寝室に入ります。カーテンをしっかり閉め切って灯を吹き消しました。
そうして二人でピタリとくっついて、じっとしていました。
もちろん眠れる訳がありません。
「怖い……いったいどうなるの?」
「ヴィーシャ、落ちついて」
「何が起こっているの?」
「しーっ、大丈夫、だいじょうぶよ……。来週には貴女のお父さまも帰って来られるわ」
「えっ。いきなり、なぜ?」
「なぜって——」
そこでスレヴのお母さんはハッとして、口を閉じました。
「ごめんなさい。スレヴとあなたには、黙っている約束だったのに……」
「お父さまが、どうかなさったの?」
「この四月に逮捕されたの」
逮捕。
その言葉が持つ意味を、戦後に生まれた人々は理解できないでしょう。
それはつまり、拷問と処刑に繋がる単語でした。
「ヴィーシャ、大丈夫」
スレヴのお母さんが、毛布の肩掛けの下で、しっかりと私の両手を握ってくれました。
「あなたのお父さまは、何も悪いことはしていないわ。少し会社の経営が《アーリア化》に合わなかったらしいの。数ヶ月の拘留だけで済んだわ」
(アーリア化?)
(拘留?)
それとお父さまに、一体なんの関係があるの。
どうして私たちは今、こんなに怯えなければならないの。
怒りとパニックで暴れ出したくて、だけどそれはできなくて、私はくちびるを噛み締めました。
そこにふと、甘いものがふれました。
見ると、スレヴのお母さんの指に挟まれる、ちいさなヌガーのかけらがありました。
「ポケットに入っていたの。ついクセでね。貴方たちがぐずったら、いつでもこれを口に放り込めるように、常備しているのよ。あとは、私がお父さんとケンカしたとき……イライラしてどうしようもなくなったら、これをポイッと食べるの」
冗談めかして笑う彼女に、私の戦慄が、ほどけていくのが感じられました。
「……お母さんったら、私、もう子どもじゃないのよ」
「私にとっては、いつまでも可愛いヴィーシャよ。さぁ、お上がりなさい」
バターと砂糖の匂いが口いっぱいに広がり、それが胸にも溶けこむように、私は息ができるようになりました。
「ゆっくり舐めてね。お代わりはあげないわよ」
スレヴのお母さんがやわらかい声で、寝物語のように話をしてくれました。
「今のドイツったら、まるでおとぎ話の竜のようだわ。羊たちを片っ端から飲み込むの」
「ああ——《ドゥラテフカの竜退治》」
「貴方たちが大好きだった絵本ね」
「なつかしい。スレヴと一緒に何度も読んだわ」
「あの子ったら、貴女が初めて来たとき、なんて言ったか覚えてる?」
私が首を振ると、スレヴによく似た目じりを下げて、お母さんは答えました。
「ドゥラテフカと結婚したお姫さまみたい、って」
「うわ、恥ずかしい……」
「そうよね。あの子、けっこう恥ずかしいこと平気で言うの。父親の血かしら」
くすくすと笑ってから、スレヴのお母さんは、ふと何かを憂うようにうつむきました。
「母親としては、心配でもあるの。あの二人ったら優しすぎて……誰かのために、平気で自分を犠牲にするようなところがあるでしょう」
私はうなずきました。
ザフィールや彼の父親に、あんなふうに手を差し伸べることができたのは、クラクフの中でもスレヴ父子だけだったでしょう。
礼を欠く態度にも静かに応じて、たとえ相手が誰であっても、施すことを忘れない心。お金でも、チーズでも——ひとかけらのパンでも。
そしてさっきも、二人は危険をかえりみず外に出て行った……。
良くない想像に肩がふるえました。
「ヴィーシャ、お願いよ。スレヴをどうか守ってね」
私は厳粛な思いで、スレヴのお母さんの手を取り、さっき自分がそうしてもらったように温もりを移しました。
「私が生きる限り、そうするわ」
そうして私たちは祈りの言葉を口にしました。ユダヤ教とキリスト教、それぞれの言葉で。
やがて空が明けて白む頃、騒ぎはおさまったようでした。
二人が帰って来ないことに不安を感じながらも、私もスレヴのお母さんも、あえてそのことを口には出さず、ドアの鍵を開けて一階におりました。
キッチンで湯を沸かしているあいだ、そろりと裏路地をのぞくと、近所の人々が集まって話をしています。
口調は興奮ぎみですが、どうやら暴徒は去ったようでした。
「あの……」
何か一つでも、状況が分かる話はないか。そう思って私が声をかけると、近所の人々は皆一様に顔をこわばらせました。
「ヴィーシャ!」
「無事で良かった、だけど」
その次に語られたことは、到底信じ難いものでした。
「——どこに……?」
「中央広場だ。怪我人はみんな運ばれた」
私もスレヴのお母さんも、寝巻きに上着を引っ掛けたままの姿で、砕けたガラスが散らばる街路を走りました。
途中で見た光景のなか、壁が焦げた礼拝堂や、ショーウィンドウが割られた店、うずくまって泣いているおじいさん……みなユダヤの印をもつ者でした。
うわさが朝霧を含んで、冷たく耳に吹きつけました。
——ラジオでは民間のデモだと……
——だったら、警察はどうして動かないんだ?
——ドイツではもっと酷かったらしい……暴行されて……
——ユダヤ系の礼拝堂や商店に、のきなみ火が付けられて……
すべて嘘であればいいと願うものばかりでした。
中央広場には仮設テントが立ててあり、怪我人や焼け出された人を一時的に保護していました。
戸板に横たわったままの人、妻子を探す男性、止血をする医者や看護師たち……戸惑う群衆のなか、私は見慣れた長身を見つけました。
「スレヴ!」
振り返ったスレヴの姿は、ひどく憔悴した様子でした。
「ヴィーシャ……母さん、も……」
まず生きていたことにホッとして、私はスレヴの全身をくまなく見ました。あちこち擦り傷はありましたが、命に関わるものはなさそうです。
「無事でよかった……けど」
「スレヴ、ああスレヴ。お父さんはどこ?」
「……母さん、落ちついて、き、聞いて」
その不穏な声が心臓をひりつかせます。
「父さんは——うちの、店を、守ろうとして、大きな、怪我を」
「ああ……!!」
今にも倒れそうなお母さんを、私は隣りで支えました。
「それで? ご無事なのよね?」
「わから、ない。病院に、は、運ばれたとき……息は、あった」
私の喉を、唾のかたまりがゴクンと落ちていきました。
やめて。
これ以上奪わないで。
誇りも、仕事も、財産も——その上、家族まで。
(お母さん、本当ね。まるで見境なく羊を食い尽くす竜のようだわ)
真っ暗な穴の中からヒタヒタと、よだれを垂らして忍び寄る怪物。
スレヴのお父さんは、その獰猛な牙に脚を裂かれたのでした。
私たちが病室を探し当てたとき、すでに施術は終わっていました。顔は汚れ、髪はもつれて、服も血の染みがあちこちについて——だけどとにかく、生きていた!
私たちは涙を流して喜びました。
しかしその後の悲劇を思えば、ここで助かったことが、果たして……
言葉に、詰まります。
感情的に叫びそうになってしまいます。
客観的なことを書きます。
歴史が記録したことを、心を努めて平静に。
本来は《ユダヤ人種》という区分なんてありません。
彼らはただ、ユダヤ教を信仰していただけです。そんな教徒は世界中にいましたし、程度の差もありました。
両親または片親が熱心に信仰しているけれど、子どもは信仰していない、教会にだって行かない、という家庭もたくさんあったのです。
それらを一切無視して、ナチス・ドイツは無理やり人種を定義しました。
『守るべき純粋なアーリア人種』
『追放すべき汚れたユダヤ人種』
追い詰められたユダヤの難民がヨーロッパ中に押し寄せ、「これ以上は受け入れられない」という状態で、多くの人々がストレスを抱え、憤りの矛先がユダヤ人に向かいました。
暴動が起こった理由には、これらのことも背景にあったと思います。
しかし、この事件が世界中の人々に知らされたにも関わらず、ナチスは非難されませんでした。
彼らは仮面をかぶっていたのです。
周到に、慎重に。
平和を願う政治家の仮面を。
情報源がラジオと新聞しかない時代、ヒトラーの演説は、電波の良くないところでも力強く響いたことでしょう。
「強い祖国を守るためには、純粋なドイツ国民の血統を守らなければならない!」
この頃のユダヤ人は世界から見捨てられたも同然でした。
だから、ポーランド侵攻も必然だったでしょう。
1939年の9月1日、金曜日。
ユダヤ教徒の祝日でした。
越境したドイツ軍は、たった五日後にはクラクフを占領しました。
おびただしい数の飛行機の、空気を切り裂く轟音。
ドイツ軍の急降下爆撃は、ポーランドの豊かな平野をことごとく蹂躙し、黒い煙がもくもくと空を隠していました。
一方、迎え撃つポーランド軍の戦車砲はかすりもしない。まるで巨人と小人の戦いでした。
銀色に輝くヴィスワ川も、鉄クズと機械油にまみれ、ぐちゃぐちゃにされてしまいました。
大好きな風景が、街並みが、炎と煙にたやすく壊されてゆくのを見ながら、私たちは思っていました。
何もかも失った、と。
なんて甘い考えだったのか、我ながら笑えてきます。
だけど——
愛する故国を丸ごと奪われて、まさか、これ以上のものを奪われるなど、いったい誰が予想できたでしょう?