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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第一章 クラクフの広場
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奪われるもの

「スレヴ、今の音は——?」

「ま、待ってて。動かないで」


 何事かを察したらしいスレヴが、店の裏口から暗がりを覗きました。キッチンに居たスレヴのお父さんも加わって、ヒソヒソ話し込んでいます。

 二階から、もう休んでいたお母さんまで降りてきました。


「こんな遅くに、何かあったの?」

「おまえたちは二階に上がっていなさい」


 スレヴのお父さんが、苦い顔で近づいてきます。


「どうやら暴徒がいるらしい……若い母親が襲われた……」

「そんな!!」


 私は声をあげました。

 何が起こっているのか分かりませんが、特に女性が危険であるということは、ハッキリ知らされました。


「近所の男手みんなで見回ってくる。おまえたちは二階に隠れているんだ。鍵をしっかりかけて」

「ええ。あなた、気をつけてね」


 スレヴの両親が抱きしめ合ったとき、耳を切り裂く悲鳴が聞こえました。

 ガラスの割れる音が二重、三重に増えていき、まるでそれは目に見えない怪物がヒタヒタと、近づいてくるような恐怖でした。

 私の息は浅くなりました。


「ヴィーシャ、こっちへ!」


 スレヴのお母さんが、夜明かりを持って呼んでくれたおかげで、私の脚は正気を取り戻しました。

 慎重に階段を昇り、奥の寝室に入ります。カーテンをしっかり閉め切って灯を吹き消しました。

 そうして二人でピタリとくっついて、じっとしていました。

 もちろん眠れる訳がありません。


「怖い……いったいどうなるの?」

「ヴィーシャ、落ちついて」

「何が起こっているの?」

「しーっ、大丈夫、だいじょうぶよ……。来週には貴女のお父さまも帰って来られるわ」

「えっ。いきなり、なぜ?」

「なぜって——」


 そこでスレヴのお母さんはハッとして、口を閉じました。


「ごめんなさい。スレヴとあなたには、黙っている約束だったのに……」

「お父さまが、どうかなさったの?」

「この四月に逮捕されたの」


 逮捕。

 その言葉が持つ意味を、戦後に生まれた人々は理解できないでしょう。

 それはつまり、拷問と処刑に繋がる単語でした。


「ヴィーシャ、大丈夫」


 スレヴのお母さんが、毛布の肩掛けの下で、しっかりと私の両手を握ってくれました。


「あなたのお父さまは、何も悪いことはしていないわ。少し会社の経営が《アーリア化》に合わなかったらしいの。数ヶ月の拘留(こうりゅう)だけで済んだわ」


(アーリア化?)

(拘留?)


 それとお父さまに、一体なんの関係があるの。

 どうして私たちは今、こんなに怯えなければならないの。

 怒りとパニックで暴れ出したくて、だけどそれはできなくて、私はくちびるを噛み締めました。

 そこにふと、甘いものがふれました。

 見ると、スレヴのお母さんの指に挟まれる、ちいさなヌガーのかけらがありました。


「ポケットに入っていたの。ついクセでね。貴方たちがぐずったら、いつでもこれを口に放り込めるように、常備しているのよ。あとは、私がお父さんとケンカしたとき……イライラしてどうしようもなくなったら、これをポイッと食べるの」


 冗談めかして笑う彼女に、私の戦慄が、ほどけていくのが感じられました。


「……お母さんったら、私、もう子どもじゃないのよ」

「私にとっては、いつまでも可愛いヴィーシャよ。さぁ、お上がりなさい」


 バターと砂糖の匂いが口いっぱいに広がり、それが胸にも溶けこむように、私は息ができるようになりました。


「ゆっくり舐めてね。お代わりはあげないわよ」


 スレヴのお母さんがやわらかい声で、寝物語のように話をしてくれました。


「今のドイツったら、まるでおとぎ話の竜のようだわ。羊たちを片っ端から飲み込むの」

「ああ——《ドゥラテフカの竜退治》」

「貴方たちが大好きだった絵本ね」

「なつかしい。スレヴと一緒に何度も読んだわ」

「あの子ったら、貴女が初めて来たとき、なんて言ったか覚えてる?」


 私が首を振ると、スレヴによく似た目じりを下げて、お母さんは答えました。


「ドゥラテフカと結婚したお姫さまみたい、って」

「うわ、恥ずかしい……」

「そうよね。あの子、けっこう恥ずかしいこと平気で言うの。父親の血かしら」


 くすくすと笑ってから、スレヴのお母さんは、ふと何かを(うれ)うようにうつむきました。


「母親としては、心配でもあるの。あの二人ったら優しすぎて……誰かのために、平気で自分を犠牲にするようなところがあるでしょう」


 私はうなずきました。

 ザフィールや彼の父親に、あんなふうに手を差し伸べることができたのは、クラクフの中でもスレヴ父子(おやこ)だけだったでしょう。

 礼を欠く態度にも静かに応じて、たとえ相手が誰であっても、施すことを忘れない心。お金でも、チーズでも——ひとかけらのパンでも。

 そしてさっきも、二人は危険をかえりみず外に出て行った……。

 良くない想像に肩がふるえました。


「ヴィーシャ、お願いよ。スレヴをどうか守ってね」


 私は厳粛(げんしゅく)な思いで、スレヴのお母さんの手を取り、さっき自分がそうしてもらったように温もりを移しました。


「私が生きる限り、そうするわ」


 そうして私たちは祈りの言葉を口にしました。ユダヤ教とキリスト教、それぞれの言葉で。


 やがて空が明けて白む頃、騒ぎはおさまったようでした。

 二人が帰って来ないことに不安を感じながらも、私もスレヴのお母さんも、あえてそのことを口には出さず、ドアの鍵を開けて一階におりました。

 キッチンで湯を沸かしているあいだ、そろりと裏路地をのぞくと、近所の人々が集まって話をしています。

 口調は興奮ぎみですが、どうやら暴徒は去ったようでした。


「あの……」


 何か一つでも、状況が分かる話はないか。そう思って私が声をかけると、近所の人々は皆一様に顔をこわばらせました。


「ヴィーシャ!」

「無事で良かった、だけど」


 その次に語られたことは、到底信じ難いものでした。


「——どこに……?」

「中央広場だ。怪我人はみんな運ばれた」


 私もスレヴのお母さんも、寝巻きに上着を引っ掛けたままの姿で、砕けたガラスが散らばる街路を走りました。

 途中で見た光景のなか、壁が焦げた礼拝堂や、ショーウィンドウが割られた店、うずくまって泣いているおじいさん……みなユダヤの印をもつ者でした。

 うわさが朝霧を含んで、冷たく耳に吹きつけました。


 ——ラジオでは民間のデモだと……

 ——だったら、警察はどうして動かないんだ?

 ——ドイツではもっと酷かったらしい……暴行されて……

 ——ユダヤ系の礼拝堂や商店に、のきなみ火が付けられて……


 すべて嘘であればいいと願うものばかりでした。

 中央広場には仮設テントが立ててあり、怪我人や焼け出された人を一時的に保護していました。

 戸板に横たわったままの人、妻子を探す男性、止血をする医者や看護師たち……戸惑う群衆のなか、私は見慣れた長身を見つけました。


「スレヴ!」


 振り返ったスレヴの姿は、ひどく憔悴(しょうすい)した様子でした。


「ヴィーシャ……母さん、も……」


 まず生きていたことにホッとして、私はスレヴの全身をくまなく見ました。あちこち擦り傷はありましたが、命に関わるものはなさそうです。


「無事でよかった……けど」

「スレヴ、ああスレヴ。お父さんはどこ?」

「……母さん、落ちついて、き、聞いて」


 その不穏な声が心臓をひりつかせます。


「父さんは——うちの、店を、守ろうとして、大きな、怪我を」

「ああ……!!」


 今にも倒れそうなお母さんを、私は隣りで支えました。


「それで? ご無事なのよね?」

「わから、ない。病院に、は、運ばれたとき……息は、あった」


 私の喉を、唾のかたまりがゴクンと落ちていきました。

 やめて。

 これ以上奪わないで。

 誇りも、仕事も、財産も——その上、家族まで。


(お母さん、本当ね。まるで見境なく羊を食い尽くす竜のようだわ)


 真っ暗な穴の中からヒタヒタと、よだれを垂らして忍び寄る怪物。

 スレヴのお父さんは、その獰猛(どうもう)な牙に脚を裂かれたのでした。

 私たちが病室を探し当てたとき、すでに施術は終わっていました。顔は汚れ、髪はもつれて、服も血の染みがあちこちについて——だけどとにかく、生きていた!

 私たちは涙を流して喜びました。

 しかしその後の悲劇を思えば、ここで助かったことが、果たして……


 言葉に、詰まります。

 感情的に叫びそうになってしまいます。


 客観的なことを書きます。

 歴史が記録したことを、心を努めて平静に。


 本来は《ユダヤ人種》という区分なんてありません。

 彼らはただ、ユダヤ教を信仰していただけです。そんな教徒は世界中にいましたし、程度の差もありました。

 両親または片親が熱心に信仰しているけれど、子どもは信仰していない、教会にだって行かない、という家庭もたくさんあったのです。

 それらを一切無視して、ナチス・ドイツは無理やり人種を定義しました。


『守るべき純粋なアーリア人種』

『追放すべき汚れたユダヤ人種』


 追い詰められたユダヤの難民がヨーロッパ中に押し寄せ、「これ以上は受け入れられない」という状態で、多くの人々がストレスを抱え、憤りの矛先がユダヤ人に向かいました。

 暴動が起こった理由には、これらのことも背景にあったと思います。


 しかし、この事件が世界中の人々に知らされたにも関わらず、ナチスは非難されませんでした。

 彼らは仮面をかぶっていたのです。

 周到に、慎重に。

 平和を願う政治家の仮面を。

 情報源がラジオと新聞しかない時代、ヒトラーの演説は、電波の良くないところでも力強く響いたことでしょう。


「強い祖国を守るためには、純粋なドイツ国民の血統を守らなければならない!」


 この頃のユダヤ人は世界から見捨てられたも同然でした。

 だから、ポーランド侵攻も必然だったでしょう。


 1939年の9月1日、金曜日。

 ユダヤ教徒の祝日でした。

 越境したドイツ軍は、たった五日後にはクラクフを占領しました。


 おびただしい数の飛行機の、空気を切り裂く轟音。

 ドイツ軍の急降下爆撃は、ポーランドの豊かな平野をことごとく蹂躙(じゅうりん)し、黒い煙がもくもくと空を隠していました。

 一方、迎え撃つポーランド軍の戦車砲はかすりもしない。まるで巨人と小人の戦いでした。

 銀色に輝くヴィスワ川も、鉄クズと機械油にまみれ、ぐちゃぐちゃにされてしまいました。

 大好きな風景が、街並みが、炎と煙にたやすく壊されてゆくのを見ながら、私たちは思っていました。

 何もかも失った、と。

 なんて甘い考えだったのか、我ながら笑えてきます。

 だけど——

 愛する故国を丸ごと奪われて、まさか、これ以上のものを奪われるなど、いったい誰が予想できたでしょう?





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