ダビデの星
1938年の秋のことでした。
私は花束を買い、市街バスに乗って小さな病院に向かいました。道ゆく商店街では、窓ガラスや看板に『JUDE』の四文字と六芒星が描かれています。
罵るように、無遠慮に。
『ユダヤ人専門のお店です』
『当レストラン、ユダヤ人お断り』
人種を分断する波が、クラクフにもやって来ていました。
一昨年のベルリンオリンピックで、アスリートたちへの肉体賛美が高まる一方、人種や血統を重んじる声も各地で大きくなったのです。
特にポーランドのブルジョワ階級は、真っ先にナチスに近づき、結託し始めていました。
(……同じ人間なのに)
私はバスを降りて、病院のロビーで目的の部屋を案内してもらいました。
大部屋の片隅で、小さくシーツに丸まっている姿は——ザフィールの父親です。
「こんにちは、おじさま」
「……あぁ、ヴィーシャか」
「具合はいかが?」
言いながら上体を助け起こすと、すっかり痩せ細った背中が、大きな咳に波打ちました。
「落ちついて、大丈夫よ」
私はもう慣れっこでしたので、近くのトレイを取り、痰が出るまで背中をさすりました。ようやく呼吸が落ちつく頃には、痩せた身体が汗びっしょりになっていました。
「身体を拭いてもいいかしら?」
「……好きにしろ」
「よろこんで! 憎まれ口が、ずいぶん優しくなったものね」
お湯を絞ったタオルで丹念に身体を拭いていくと、強張った筋肉がゆるんでいくのがわかりました。
「息子たちは、どうしている?」
「そうね……手紙が届いて、おばさまも喜んでいらしたわ」
ウソでした。
その頃、すでにザフィールからの手紙は途絶えていました。
1932年のあいだは、月ごとに手紙が来ました。寮生活のおもしろい話や、夏休みはサマーキャンプに行く、などなど。そんな報告が次第に遠のき、「ヒトラー・ユーゲントに入団した」という一言を皮切りに、文章は短く簡素になりました。
最後に来た手紙は1934年の夏、「兄さんがナチ党に入ったので、仕送りができるようになった」という事務連絡だけです。
「お兄さまのおかげで、こうして養生できるのですもの。ゆっくりなさるといいわ」
「こんな死に損ないに、金のムダ遣いはいらん」
「バカ言わないで」
かつて酒を飲み歩いていた男性は、仕送りが来るようになって間もなく風邪をこじらせ、今まで堰き止めていたものが溢れるように、身体を悪くしていました。
「きっとすぐに良くなるわ。ザフィールにおじさまのことをお伝えしたら、この夏には顔を見せる、ですって」
これも作り話です。
いえ、前半は本当で、半分は願いでした。
ザフィールが見舞いに来ることを望んでいると、私は何度も手紙を書いていました。しかし、彼から返事が届くことはなかったのです。
清拭を終えると、ザフィールの父親はベッドの上で向き直りました。
「ヴィーシャ……頼みがある」
「まぁ、おじさまが私に頼みごとなんて、槍でも降るのかしら?」
わざと明るく言い返すと、彼は枕の下からノートの切れ端のようなものを取り出しました。
「これを、ザフィールに渡してくれ」
シワだらけの枯れた手には似合わぬ異様な力強さに、私は驚いてしまいました。
「頼む……オレはろくでなしだ……だけどアンタたちは、良い人だ、善人だ……」
ザフィールのお父さんは、私の手を握りしめたまま、ポロポロと泣き出しました。
「おおげさね。ご自分でお渡しになって」
そう言いながらも、私は何かの予感におののいていました。
これを受け取れば、後に引けなくなるのではないか。
運命の重い扉がギィ……と押し開けられるような、それとも閉じ込められるのか、そんな息苦しさを感じました。
だけど同時に、彼の必死さに根負けして、託された紙の切れ端を、ざわついた気持ちで持ち帰ったのです。
その決断は正解でした。
数日後に届いた手紙には、ザフィールの父親の死が、淡々と綴られていました。
「病院からよ」
20歳の青年になって、すでに家業を切り盛りしているスレヴが、作業台から顔を上げました。
精悍に伸びた四肢と、彫りの深い顔だち。鼻すじは思わず指を伸ばしそうになるほどの美しさで、だけどそれを真っ黒な双眸が制してくる、そんな理知的な魅力がありました。
すでにこのとき、私は胸のうちにある感情を自覚していたと思います。
「おじさまの埋葬が済んだそうよ」
肺炎で亡くなったこと、病院の共同墓地に埋められたことなど、手紙を読みながら伝えました。
「あ、あの病院、良心的、だ」
「ええ。人種の差別なく受け入れて……おじさまが安らかに眠られることを祈るわ」
私の言葉に、スレヴは「ふ」と息を洩らしました。
「ドイツ人が、ユダヤの骨と、土の中、か……」
「やめて、不謹慎だわ」
「なにが」
「亡くなった人を揶揄わないで」
「ヴィーシャには、わ、分からないよ」
スレヴが長い腕をトンとついて、私を囲い込んでしまいます。
そうして互いの鼻先がふれ合うような近くで、ささやきました。
「きみはユダヤ人ではなく、ポーランド人だもの」
スレヴはいつの間にか、吃らず話すことができるようになっていました。
それは例えばユダヤを悪しざまに言う人たちの前や、こんなとき——私を人種の壁の向こうに追いやろうとするときに、吃音がなくなるのでした。
「また……そんな、悲しいことを言うのね」
その頃すでに、ユダヤの人々はまるでペスト患者のように扱われていました。近づけば感染するとでもいうかのように忌避されていたのです。
そういう理由から、私が学校の先生に叱られることもしばしばでした。
付き合う友達は選びなさい、と。
「前にも伝えたはずよ。貴方や家族を見捨てて逃げるような、薄情者にはなりたくないって」
「僕も言った。きみはすぐに荷物をまとめて、国外へ脱出するべきだ。ここはすぐ戦場になる」
「ねぇ、悲観しないで。ついこのあいだ、ソ連やフランスと不可侵条約を結んだばかりじゃないの」
「だから、だよ」
スレヴは棚に置いてある地球儀をゆっくりと回して、ソ連よりもさらに東、極東の国ぐにを指さしました。
「もう、ここで戦争が始まっている」
「どうしてそんなことを知っているの?」
「旅行者が教えてくれた。日本の技術者だと言って、ドイツへ向かう途中だ、とも」
「日本人がドイツへ? 何をしに?」
「決まっているよ。軍拡だ」
スレヴは眉根を寄せて、地球儀を見ました。昔の頃のようにワクワクした瞳ではなく、どこか苦々しげに。
「極東の小競り合いがあるから、ソ連は軍力を散らせない。不可侵条約はそのためだった」
「ちょっと待って」
私も地球儀を見つめて、ソヴィエト連邦という名の天秤にかけられた、極東とポーランドを見比べました。
「そんな言い方……まるで」
「ソ連はポーランドを見捨てた」
「そんな!」
「ヴィーシャ」
わ、わかって、と舌が滑ったのを聞いて、私は耳をすませました。
ここから先スレヴが語る言葉は、差別のもとではなく、友人として伝える意味を持つ。
「き、きみの美徳は、分かっているよ」
スレヴは私の足もとに膝をついて、祈るように言いました。
「——嫌よ」
夢にまで見た光景だったはずでした。
目の前で好きな相手が跪き求婚を受ける、そんな少女らしい夢をスレヴは粉々に壊したのです。
一生を共にと誓う姿勢で、どうか僕から離れてくれ、と懇願する。
そんな残酷なことがあるでしょうか。
「スレヴはちっとも分かってない」
「ぼ、僕たちのことを、親身に考えてくれている」
「当たり前でしょ、家族なのよ」
「だけど僕らの旅券は、もう使えない」
迫害の動きは、渡航制限にまで及んでいました。
ペストを発症した村々が門を閉じられたように、ユダヤ人の居場所は恐ろしい早さで封鎖されていきました。
あらゆる場所——学校で、病院で、商店で。
「ヴィーシャ。ぼ、僕の、可愛い妹。お願い、だから……」
「そんな風に言うのは、ズルい」
私たちは泣いていました。
どこかで分かってはいたのです。
人種の差別がある限り、いつまでも一緒には居られないことを。
「ねぇ、ヴィーシャ。おじさま、にも、た、頼まれたんだろう?」
私は頷きました。
ザフィールの父親が今わの際に渡してきた紙切れには、遺言とサインが書いてありました。
『この金時計を、息子ザフィールに譲る』
スレヴは作業台の引き出しから、ベルベット布に金糸紐の巾着袋を取り出しました。
「これを彼に、わ、渡すことは、父さんの望みでもある」
「そんなもの——」
「ヴィーシャにしか、た、頼めない」
頼まれたからには——
渡すからには、生き延びなければなりません。
それはスレヴからの最後通牒でした。
「……お父さまに、手紙を書くわ」
スレヴはホッとしたように私を抱きしめました(このときほど彼を憎らしく思ったことはありません)。
早い方がいい、と私を二階へ促しました。
足取りも重く、階段を昇った瞬間——
木板が大きく軋んだのかと——
または、
車輪が急ブレーキを掛けたのかと思うほど——
それは、
女性の悲鳴でした。
息が止まるほどの静寂。
続いて、ガラスの割れる音。
赤ちゃんの泣く声。
1938年11月。
忘れもしない、水晶の夜の始まりでした。