いつか もしかの 平和な世界で(後)
「とにかく丸洗いさせろ。お前、くさいぞ!」
ザフィールのひと声でバスタブに蹴り入れられたスレヴは、わしわしとザフィに洗われて、大型犬のようにペチャッと大人しくなった。
ヴィーシャはふうとため息をついて、何か消化に良いものを、とオニオンスープを作ることにした。
くつくつ鍋を煮込みながら、スレヴの没入グセも考えものだと思う。
彼の世界観は深遠で多層だ。とても一般人にはついていけない。
賢すぎるのか、それとも一周まわってネジが飛んでいるのか、まるでちがう時間軸を生きているようだ。
(うす味にして……でも、ザフィと私は、もうちょっとガッツリ食べたいわ)
まぁいっか、昨日の残りのバゲットでも焼こう、と思う。
こうして日々のやりくりを考えている時間が、案外ヴィーシャは好きだった。
テーブルに皿を並べ始めたあたりで、髪の濡れた二人が着替えてきたようだ。
「ザフィも浴びたの?」
「こいつを洗ってる間に、俺もビショビショになったんだよ」
「ご、ごめ」
まるで大型犬と小型犬がじゃれついているようで、ヴィーシャはおかしくなってしまう。
「ちょうど出来たところよ。食べて」
「あ、ありがと」
三人それぞれに胃を満たし、ひと心地ついたところで、ようやくスレヴが話し始めた。
「あの、最近、金の値動きが、激しくて」
「ニュースでも話題になっていたわ」
「なんで? なんかあったのか」
「もう、ザフィったらゲーム配信ばっかり見てるんだから」
まずはスレヴとザフィの《感覚》を寄せるために、ヴィーシャが補足する。
スレヴの生きてきた文化圏では、自国の通貨よりも米ドルや中国元が重宝されていたこと。
彼自身の貯金のうち、ある割合をゴールドに替えて持っていたこと。
「だけど、ここ数年かしら? 金を買う人が多くなって、価格がだいぶ高騰していたってところまでは、私も知っているわ」
「うん。暴騰したり、暴落したり」
スレヴはスープを掬いながらボソボソと話した。
「買う人と、売る人の、出入りが激しくて、ちょっと、目が離せなかった」
「ちょっとか?」
ザフィが茶々を入れる。確かに、三日間の引きこもりは《ちょっと》ではない。
「んで、結局相場は落ち着いたのかよ」
「ぜんぶ売った」
「は?」
「高値で売り抜けて、日本円に替えた」
ええっ、はあっ!? と二人ぶんの声が食卓に響く。
「オーストラリアン・ドルは?」
「今月の生活費は!?」
怒涛の質問ぜめに、スレヴもさすがに非を感じたらしい。
「ご、ごめん。ゆ、ゆっくり、説明、させて」
そうしてスレヴが話し始めたことは、ヴィーシャとザフィが考えていたよりも、もっと長期的な見通しだった。
「もともと、日本には、興味が、あったんだ」
「どうして?」
「ユダヤ人差別が、そんなに、感じられない」
そこでヴィーシャは、ユダヤ人学校が銃撃された事件を思い出した。
つい数ヶ月まえの出来事だ。
オーストラリアに住む人々には、イスラエルの武力侵攻以来、反ユダヤの感情が高まっている。
「ったって、日本にはガイジン差別があるんじゃねえのか」
ザフィールが水を差す。
「ジシン、ツナミ、あとは……何だ? とにかく色々あるだろ」
「ニンテンドー、アキハバラ、きれいなトイレ、コンビニのおもてなし」
「負けた」
「ザフィったら! 手のひら返すの早すぎよ」
「わるい。ゲームイベントとかコラボカフェ、実は行ってみたかったんだ」
ヴィーシャは腕組みをして反駁した。
「日本語なんて話せないわよ」
「近くに、ナショナルスクールが、あるし、日本語教室も」
「それにしたって無理があるわ」
「きみの、好きな、トーフが安い」
「ん」
「スシ、ラーメン、安心の医療」
「あぁう……」
食の充実と医療の保証は——抗いがたい。
ヨーロッパでは、医療が汚職の温床になっている国もある。アメリカは言うに及ばず、医療費も保険料も高い。
ヴィーシャがひるんだ隙に、スレヴはチェスプレイヤーもびっくりの詰めを見せた。
「二人とも、ビザの滞在期限が、切れる」
「追い打ちをかけないでよ〜」
「しかも、ここの家賃の値上がりが、ひどい。三倍になった」
ヴィーシャとザフィールは互いにアイコンタクトで会話した。
いちばん最後にもっとも深刻な問題を提示されては、反論のしようもない。
この数年でじわじわと感じていたことではある。しかし二人が感じているよりも、スレヴの危機感は切迫していたようだ。
それもそうだろう。三人それぞれ、収入に応じて家賃を払っているが、割合を大きく占めるのはスレヴである。
目線だけでの会話をしたあと、二人は同じタイミングで両手を挙げた。
「降参」
議論の余地なく攻めつぶすという力技を発揮した、意地悪なスレヴ。
一方で、心底ほっとしたようにほほ笑む、優しいスレヴ。
それが同一人物だというのだから、まったく人というものは分からない。
それからは怒涛の忙しさが待っていた。
職場、学校、本国への書類の往復や諸々の手続き。
スレヴが率先して担ってくれたが、国籍の関わる手続きは、ヴィーシャとザフィが各自でやり取りせざるを得ない。
いつも手作りだった晩ごはんはデリバリーと冷凍ピザに姿を変え、ザフィールもさすがに神経が参ったのか、「悪い夢を見た」と泣いて起きた。
この夢の内容に関しては、ヴィーシャも喉に引っかかることがあったのだが、あえて気づかないフリをして、忙しさに身を委ねた。
そうして、あっという間に学期末がやってきた。
オーストラリアの6月は冬。故郷とはちがって、半袖で出歩く人を見かけるくらいの気温である。
もろもろの雑務がひと段落した朝方、ヴィーシャは気分転換をしたくて、近くの公園に出かけた。さすがに肌寒かったので、カーディガンを羽織る。
散歩がてらにテイクアウトのコーヒーを買い、公園のベンチに座って飲む。
なんとなく、母親の声が聞きたくなった。
スマホの液晶を見て、国の時差を確認する。向こうは夕食が終わった頃合いだろうか。
電話をかけてみると、数コールの後、つながった。
「ハイ、ヴィーシャ」
「お母さま、書類、いろいろ準備してくれてありがとう」
「いいのよ。引っ越しの準備はどう?」
「すっごく大変」
スピーカーの向こうで「そうでしょうね」と母の笑い声が響く。
その朗らかさにヴィーシャも気がゆるんで、愚痴がこぼれた。
「だって、日本よ、日本! アリガトとコニチハしか分からないのに!」
「治安は良いって聞くわよ」
「それは、うん。駅で落としたスマホがそのまま戻ってくるって、ショート動画で見たわ」
「なんてこと!」
母はポーランド語で感嘆した。
「こっちは物騒よ。ニュースでは都市部の反戦デモの映像ばかり」
「お父さまは?」
「相変わらず。小麦畑と家を往復しているわ」
ポーランドの平野に広がる、小麦の海を思い出す。
電車の窓から一面うつくしく輝く麦の穂を見ると、ようやく帰ってきたと実感が湧いたものだ。
ヴィーシャの心に、郷愁とでもいうのか、そんな感情がポツンと沁みた。
「お父さまとも話したいわ」
「それはやめておいたほうがいいわね。今ちょうど、ワイン片手にテレビを見ているところよ。行政の文句を聞かされることになるわ」
「ふふ。お父さまに、飲み過ぎに気をつけてと伝えて」
「ヴィーシャ」
母の声色が、幼い子に聞かせるような温もりをもった。
「あなた、少し空元気ではなくて?」
「……どうして?」
「なんとなく。ふだんは料理したり本を読んだりマイペースに過ごす性分なのに、不安なことがあると、無理にがんばろうとするクセがあるでしょう」
心当たりがありすぎて、ヴィーシャは思わずくちびるを結んだ。
「……言っても、笑わない?」
「笑いませんよ。あなたの突飛なおしゃべりには慣れているもの」
ヴィーシャの口もとが自然にほころんだ。
子どもの頃から、絵本やおとぎ話のたぐいを自分で作って、母親に聞いてもらったことを思い出す。
「夢を見たの」
その一言を皮切りに、ヴィーシャは誰にも——スレヴとザフィールにさえ言えなかったことを、話し始めた。
「とても怖い夢だったわ。炎が……あたり一面を覆っていて、火の粉が自分にかかるくらい、熱かった」
曇天が真っ赤に染まっている。
くすぶる悪臭の中で、大切な二人が立っていた。
スレヴはボロボロの服を着て、ザフィールは軍服を着ていた。
そして、お互いに武器を突きつけていた。
ザフィールの手には拳銃が、スレヴの手には——恐らくカミソリではないか——刃物が、握られていた。
その悍ましい状景を眺めている自分は、近づくことができない。誰かに腕を絡めとられ、拘束されていた。
二人は今にも互いを害そうとしているのに、その表情は穏やかで、物騒な仕草とは裏腹に、ヴィーシャを優しく見つめていた。
ヴィーシャは何かを叫んでいる。自分の声なのに聞こえない。
スレヴとザフィールも、何かを言おうと——言い遺そうとしているのに、聞こえない。
巻き上がる炎が空を焼く音、火が爆ぜる音、誰かが叫ぶ声。
まわりの喧騒に阻まれて、肝心な声が何も聞こえない。
そうしているうち、銃声が響き、視界は真っ赤に染められて、ヴィーシャは目を覚ましたのだ。
あまりの臨場感に、起きてからもしばらく動悸が止まらなかった。
「しかもね」
黙って聞いている母親に向けて、ヴィーシャは続けた。
「どうやら同じ夢を、ザフィも見たらしいの」
「まあ」
「まるで作り話みたいでしょ。ザフィは詳しくは語らなかったけど、夢の内容を聞いていたら、本当にそっくりだったの」
私も同じ夢を見たのよ、なんて気軽には言えなかった。
二人で共有してしまえば、それはまるで、現実になってしまいそうで。
「怖かった」
口に出すと、遅れて震えがやって来た。
「そうだったの……」
母親の声がやわらかく響く。
「話してくれて、ありがとう」
「うん」
「その話、スレヴとザフィールには言えなかったのでしょう」
言い当てられて息を呑んだヴィーシャに、母は「あなたったら、お腹の中にいた頃からそうなのよ」と笑った。
「ふだんは大人しいのに、何か心配ごとがあると、いきなり活動的になるのよね」
「きっと、お母さまに似たんだわ」
「ほんとにねぇ……ここで、もし普通の母親なら『帰っていらっしゃい』というのでしょうけど。あいにく、ポーランドも安心できる場所ではなくなって来ているし」
母は慎重に言葉を選んでいる。
「私の実家はウクライナでしょう。たまに家族と電話をするのだけど、戦争が起こって以来、ドローンがひっきりなしにやってくるのですって。しかも小さいものじゃないの。とっても大きいのよ」
「確か、大統領も画像をポストしていたわね」
ヴィーシャは記憶を引っぱりだす。墜落したドローンのそばに、大統領が自分の背丈と比較するように映っていた。
「あれが、ふつうの住宅地にも飛んでくるの。夜には警報が鳴りっぱなしで、私も一度帰ったときは、恐ろしくて眠れなかったわ」
口調はあくまで軽い。
まるで「ケーキを焼いていたら、焼き加減をまちがえて焦がしてしまったの」とでも言わんばかりの、日常の語り。
「だけど、家族は逃げもせずに寝ているの。私が母を起こそうと揺さぶったら、『気にしすぎよ』って」
ヴィーシャは息をのんだ。
「ねえ、ヴィーシャ。この時代、どこにいようと戦争は避けられないわ。それなら、空襲警報を子守唄がわりに寝る場所よりも、あなたが悪夢を見たときに、そばに愛情深い誰かがいて、あなたを抱きしめてくれる、そんな場所で生きていてほしいと思うわ」
ヴィーシャは目を閉じた。
永遠の平和なんて存在しない。
享受できたとしても、長くて五十年くらいだろう。
まして世界平和なんて望んでも叶わない。望めるほど高尚な人間でもない。
それなら、せめて——
笑える日が、少しでも多くあればいい。
大切な人を思いやれる瞬間が、ひとときでもあったらいい。
そんな暮らしができるなら、この絶望的な世界でも、生きていけるのかもしれない。
「それにね、ヴィーシャ」
優しい声がゆっくりと、「そういうことは、一人で抱えこんじゃダメよ」と告げる。
「あなたがポーランドにいるなら、私が抱きしめられるけれど……もう、二人についていくって決めたのでしょう?」
「——そうね」
「どこに居ようと、あなたの選択を尊重するわ」
やわらかな羽を思わせる語り口ながら、発する言葉には凄みがある。
ソ連崩壊を経験し、ウクライナに実家をもつ母親は、さすがに肝の座り方がちがう。
ヴィーシャは笑って、目尻に浮かんだ滴をぬぐった。
「あら、泣いていたの?」
「ちがうわ。鼻がかゆかっただけ」
母は笑って「いつか日本に行ってみたいわ」と言った。
肯定して通話を切る。ヴィーシャはふうと天を仰ぎ、冬の空気を吸った。
コーヒーを飲みきり、近くのゴミ箱にぽいと捨てる。
そして家路を歩く。
建物はじきに変わるけれど、ザフィとスレヴの居る場所が家だ。
「ただいまー」
ヴィーシャがドアを開けると、リビングから二人の慌てた声が「ヴィーシャ!!」と被さってきた。
「どこに行ってたんだよ!」
「び、びっくり、した」
「ただの散歩よ。どうしたの、そんなに慌てて」
「慌てもするだろ!!」
二人とも寝グセをぴょんぴょんさせて、顔も洗っていない様子である。
どうやら警察に連絡する一歩手前だったらしい。
思わずヴィーシャは笑ってしまった。
「いやね。あなたたちも疲れてるのよ」
とたんに三人のお腹がグウと鳴った。
タイミングの良さに、お互いの笑顔が弾ける。
「シリアルでも食べましょ」
ザフィールが手を伸ばし、棚からシリアルの箱を取ってくれる。
ヴィーシャは冷蔵庫から牛乳をとる。
スレヴは皿とスプーンを用意する。
取り止めもない会話を交わしながら、日常の食卓を一緒につくる。
こうしてキッチンに並ぶ三人の時間が、ヴィーシャはいちばん好きなのだ。
【終】
ここまで読んで頂き、ありがとうございました!
三人は都心で暮らすも良し、田舎で農業や牧場するも良し、どのようにでも生きていけると思います。
それぞれの時代、それぞれの人生を見守ってくださった読者の皆さまに、重ねて、感謝申し上げます。




