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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
おまけ

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27/27

いつか もしかの 平和な世界で(後)

「とにかく丸洗いさせろ。お前、くさいぞ!」


 ザフィールのひと声でバスタブに蹴り入れられたスレヴは、わしわしとザフィに洗われて、大型犬のようにペチャッと大人しくなった。

 ヴィーシャはふうとため息をついて、何か消化に良いものを、とオニオンスープを作ることにした。

 くつくつ鍋を煮込みながら、スレヴの没入グセも考えものだと思う。

 彼の世界観は深遠で多層だ。とても一般人にはついていけない。

 賢すぎるのか、それとも一周まわってネジが飛んでいるのか、まるでちがう時間軸を生きているようだ。


(うす味にして……でも、ザフィと私は、もうちょっとガッツリ食べたいわ)


 まぁいっか、昨日の残りのバゲットでも焼こう、と思う。

 こうして日々のやりくりを考えている時間が、案外ヴィーシャは好きだった。

 テーブルに皿を並べ始めたあたりで、髪の濡れた二人が着替えてきたようだ。


「ザフィも浴びたの?」

「こいつを洗ってる間に、俺もビショビショになったんだよ」

「ご、ごめ」


 まるで大型犬と小型犬がじゃれついているようで、ヴィーシャはおかしくなってしまう。


「ちょうど出来たところよ。食べて」

「あ、ありがと」


 三人それぞれに胃を満たし、ひと心地ついたところで、ようやくスレヴが話し始めた。


「あの、最近、(ゴールド)の値動きが、激しくて」

「ニュースでも話題になっていたわ」

「なんで? なんかあったのか」

「もう、ザフィったらゲーム配信ばっかり見てるんだから」


 まずはスレヴとザフィの《感覚》を寄せるために、ヴィーシャが補足する。

 スレヴの生きてきた文化圏では、自国の通貨よりも米ドルや中国元が重宝されていたこと。

 彼自身の貯金のうち、ある割合をゴールドに替えて持っていたこと。


「だけど、ここ数年かしら? 金を買う人が多くなって、価格がだいぶ高騰していたってところまでは、私も知っているわ」

「うん。暴騰したり、暴落したり」


 スレヴはスープを(すく)いながらボソボソと話した。


「買う人と、売る人の、出入りが激しくて、ちょっと、目が離せなかった」

「ちょっとか?」


 ザフィが茶々を入れる。確かに、三日間の引きこもりは《ちょっと》ではない。


「んで、結局相場は落ち着いたのかよ」

「ぜんぶ売った」

「は?」

「高値で売り抜けて、日本円に替えた」


 ええっ、はあっ!? と二人ぶんの声が食卓に響く。


「オーストラリアン・ドルは?」

「今月の生活費は!?」


 怒涛の質問ぜめに、スレヴもさすがに非を感じたらしい。


「ご、ごめん。ゆ、ゆっくり、説明、させて」


 そうしてスレヴが話し始めたことは、ヴィーシャとザフィが考えていたよりも、もっと長期的な見通しだった。


「もともと、日本には、興味が、あったんだ」

「どうして?」

「ユダヤ人差別が、そんなに、感じられない」


 そこでヴィーシャは、ユダヤ人学校が銃撃された事件を思い出した。

 つい数ヶ月まえの出来事だ。

 オーストラリアに住む人々には、イスラエルの武力侵攻以来、反ユダヤの感情が高まっている。


「ったって、日本にはガイジン差別があるんじゃねえのか」


 ザフィールが水を差す。


「ジシン、ツナミ、あとは……何だ? とにかく色々あるだろ」

「ニンテンドー、アキハバラ、きれいなトイレ、コンビニのおもてなし」

「負けた」

「ザフィったら! 手のひら返すの早すぎよ」

「わるい。ゲームイベントとかコラボカフェ、実は行ってみたかったんだ」


 ヴィーシャは腕組みをして反駁(はんばく)した。


「日本語なんて話せないわよ」

「近くに、ナショナルスクールが、あるし、日本語教室も」

「それにしたって無理があるわ」

「きみの、好きな、トーフが安い」

「ん」

「スシ、ラーメン、安心の医療」

「あぁう……」


 食の充実と医療の保証は——抗いがたい。

 ヨーロッパでは、医療が汚職の温床になっている国もある。アメリカは言うに及ばず、医療費も保険料も高い。

 ヴィーシャがひるんだ隙に、スレヴはチェスプレイヤーもびっくりの詰めを見せた。


「二人とも、ビザの滞在期限が、切れる」

「追い打ちをかけないでよ〜」

「しかも、ここの家賃の値上がりが、ひどい。三倍になった」


 ヴィーシャとザフィールは互いにアイコンタクトで会話した。

 いちばん最後にもっとも深刻な問題を提示されては、反論のしようもない。

 この数年でじわじわと感じていたことではある。しかし二人が感じているよりも、スレヴの危機感は切迫していたようだ。

 それもそうだろう。三人それぞれ、収入に応じて家賃を払っているが、割合を大きく占めるのはスレヴである。

 目線だけでの会話をしたあと、二人は同じタイミングで両手を挙げた。


「降参」


 議論の余地なく攻めつぶすという力技を発揮した、意地悪なスレヴ。

 一方で、心底ほっとしたようにほほ笑む、優しいスレヴ。

 それが同一人物だというのだから、まったく人というものは分からない。


 それからは怒涛の忙しさが待っていた。

 職場、学校、本国への書類の往復や諸々の手続き。

 スレヴが率先して担ってくれたが、国籍の関わる手続きは、ヴィーシャとザフィが各自でやり取りせざるを得ない。

 いつも手作りだった晩ごはんはデリバリーと冷凍ピザに姿を変え、ザフィールもさすがに神経が参ったのか、「悪い夢を見た」と泣いて起きた。

 この夢の内容に関しては、ヴィーシャも喉に引っかかることがあったのだが、あえて気づかないフリをして、忙しさに身を(ゆだ)ねた。


 そうして、あっという間に学期末がやってきた。

 オーストラリアの6月は冬。故郷とはちがって、半袖で出歩く人を見かけるくらいの気温である。

 もろもろの雑務がひと段落した朝方、ヴィーシャは気分転換をしたくて、近くの公園に出かけた。さすがに肌寒かったので、カーディガンを羽織る。

 散歩がてらにテイクアウトのコーヒーを買い、公園のベンチに座って飲む。

 なんとなく、母親の声が聞きたくなった。

 スマホの液晶を見て、国の時差を確認する。向こうは夕食が終わった頃合いだろうか。

 電話をかけてみると、数コールの後、つながった。


「ハイ、ヴィーシャ」

お母さま(マーマ)、書類、いろいろ準備してくれてありがとう」

「いいのよ。引っ越しの準備はどう?」

「すっごく大変」


 スピーカーの向こうで「そうでしょうね」と母の笑い声が響く。

 その朗らかさにヴィーシャも気がゆるんで、愚痴がこぼれた。


「だって、日本よ、日本! アリガトとコニチハしか分からないのに!」

「治安は良いって聞くわよ」

「それは、うん。駅で落としたスマホがそのまま戻ってくるって、ショート動画で見たわ」

なんてこと(ゥワウ)!」


 母はポーランド語で感嘆した。


「こっちは物騒よ。ニュースでは都市部の反戦デモの映像ばかり」

「お父さまは?」

「相変わらず。小麦畑と家を往復しているわ」


 ポーランドの平野に広がる、小麦の海を思い出す。

 電車の窓から一面うつくしく輝く麦の穂を見ると、ようやく帰ってきたと実感が湧いたものだ。

 ヴィーシャの心に、郷愁とでもいうのか、そんな感情がポツンと沁みた。


「お父さまとも話したいわ」

「それはやめておいたほうがいいわね。今ちょうど、ワイン片手にテレビを見ているところよ。行政の文句を聞かされることになるわ」

「ふふ。お父さまに、飲み過ぎに気をつけてと伝えて」

「ヴィーシャ」


 母の声色が、幼い子に聞かせるような温もりをもった。


「あなた、少し(から)元気ではなくて?」

「……どうして?」

「なんとなく。ふだんは料理したり本を読んだりマイペースに過ごす性分なのに、不安なことがあると、無理にがんばろうとするクセがあるでしょう」


 心当たりがありすぎて、ヴィーシャは思わずくちびるを結んだ。


「……言っても、笑わない?」

「笑いませんよ。あなたの突飛なおしゃべりには慣れているもの」


 ヴィーシャの口もとが自然にほころんだ。

 子どもの頃から、絵本やおとぎ話のたぐいを自分で作って、母親に聞いてもらったことを思い出す。


「夢を見たの」


 その一言を皮切りに、ヴィーシャは誰にも——スレヴとザフィールにさえ言えなかったことを、話し始めた。


「とても怖い夢だったわ。炎が……あたり一面を覆っていて、火の粉が自分にかかるくらい、熱かった」


 曇天が真っ赤に染まっている。

 くすぶる悪臭の中で、大切な二人が立っていた。

 スレヴはボロボロの服を着て、ザフィールは軍服を着ていた。

 そして、お互いに武器を突きつけていた。

 ザフィールの手には拳銃が、スレヴの手には——恐らくカミソリではないか——刃物が、握られていた。

 その(おぞ)ましい状景を眺めている自分は、近づくことができない。誰かに腕を絡めとられ、拘束されていた。

 二人は今にも互いを害そうとしているのに、その表情は穏やかで、物騒な仕草とは裏腹に、ヴィーシャを優しく見つめていた。

 ヴィーシャは何かを叫んでいる。自分の声なのに聞こえない。

 スレヴとザフィールも、何かを言おうと——言い遺そうとしているのに、聞こえない。

 巻き上がる炎が空を焼く音、火が爆ぜる音、誰かが叫ぶ声。

 まわりの喧騒に阻まれて、肝心な声が何も聞こえない。

 そうしているうち、銃声が響き、視界は真っ赤に染められて、ヴィーシャは目を覚ましたのだ。

 あまりの臨場感に、起きてからもしばらく動悸が止まらなかった。


「しかもね」


 黙って聞いている母親に向けて、ヴィーシャは続けた。


「どうやら同じ夢を、ザフィも見たらしいの」

「まあ」

「まるで作り話みたいでしょ。ザフィは詳しくは語らなかったけど、夢の内容を聞いていたら、本当にそっくりだったの」


 私も同じ夢を見たのよ、なんて気軽には言えなかった。

 二人で共有してしまえば、それはまるで、現実になってしまいそうで。


「怖かった」


 口に出すと、遅れて震えがやって来た。


「そうだったの……」


 母親の声がやわらかく響く。


「話してくれて、ありがとう」

「うん」

「その話、スレヴとザフィールには言えなかったのでしょう」


 言い当てられて息を呑んだヴィーシャに、母は「あなたったら、お腹の中にいた頃からそうなのよ」と笑った。


「ふだんは大人しいのに、何か心配ごとがあると、いきなり活動的(アグレッシヴ)になるのよね」

「きっと、お母さまに似たんだわ」

「ほんとにねぇ……ここで、もし普通の母親なら『帰っていらっしゃい』というのでしょうけど。あいにく、ポーランドも安心できる場所ではなくなって来ているし」


 母は慎重に言葉を選んでいる。


「私の実家はウクライナでしょう。たまに家族と電話をするのだけど、戦争が起こって以来、ドローンがひっきりなしにやってくるのですって。しかも小さいものじゃないの。とっても大きいのよ」

「確か、大統領も画像をポストしていたわね」


 ヴィーシャは記憶を引っぱりだす。墜落したドローンのそばに、大統領が自分の背丈と比較するように映っていた。


「あれが、ふつうの住宅地にも飛んでくるの。夜には警報が鳴りっぱなしで、私も一度帰ったときは、恐ろしくて眠れなかったわ」


 口調はあくまで軽い。

 まるで「ケーキを焼いていたら、焼き加減をまちがえて焦がしてしまったの」とでも言わんばかりの、日常の語り。


「だけど、家族は逃げもせずに寝ているの。私が母を起こそうと揺さぶったら、『気にしすぎよ』って」


 ヴィーシャは息をのんだ。


「ねえ、ヴィーシャ。この時代、どこにいようと戦争は避けられないわ。それなら、空襲警報を子守唄がわりに寝る場所よりも、あなたが悪夢を見たときに、そばに愛情深い誰かがいて、あなたを抱きしめてくれる、そんな場所で生きていてほしいと思うわ」


 ヴィーシャは目を閉じた。

 永遠の平和なんて存在しない。

 享受できたとしても、長くて五十年くらいだろう。

 まして世界平和なんて望んでも叶わない。望めるほど高尚な人間でもない。

 それなら、せめて——

 笑える日が、少しでも多くあればいい。

 大切な人を思いやれる瞬間が、ひとときでもあったらいい。

 そんな暮らしができるなら、この絶望的な世界でも、生きていけるのかもしれない。


「それにね、ヴィーシャ」


 優しい声がゆっくりと、「そういうことは、一人で抱えこんじゃダメよ」と告げる。


「あなたがポーランドにいるなら、私が抱きしめられるけれど……もう、二人についていくって決めたのでしょう?」

「——そうね」

「どこに居ようと、あなたの選択を尊重するわ」


 やわらかな羽を思わせる語り口ながら、発する言葉には凄みがある。

 ソ連崩壊を経験し、ウクライナに実家をもつ母親は、さすがに肝の座り方がちがう。

 ヴィーシャは笑って、目尻に浮かんだ滴をぬぐった。


「あら、泣いていたの?」

「ちがうわ。鼻がかゆかっただけ」


 母は笑って「いつか日本に行ってみたいわ」と言った。

 肯定して通話を切る。ヴィーシャはふうと天を仰ぎ、冬の空気を吸った。

 コーヒーを飲みきり、近くのゴミ箱にぽいと捨てる。

 そして家路を歩く。

 建物はじきに変わるけれど、ザフィとスレヴの居る場所が(ホーム)だ。


「ただいまー」


 ヴィーシャがドアを開けると、リビングから二人の慌てた声が「ヴィーシャ!!」と被さってきた。


「どこに行ってたんだよ!」

「び、びっくり、した」

「ただの散歩よ。どうしたの、そんなに慌てて」

「慌てもするだろ!!」


 二人とも寝グセをぴょんぴょんさせて、顔も洗っていない様子である。

 どうやら警察に連絡する一歩手前だったらしい。

 思わずヴィーシャは笑ってしまった。


「いやね。あなたたちも疲れてるのよ」


 とたんに三人のお腹がグウと鳴った。

 タイミングの良さに、お互いの笑顔が弾ける。


「シリアルでも食べましょ」


 ザフィールが手を伸ばし、棚からシリアルの箱を取ってくれる。

 ヴィーシャは冷蔵庫から牛乳をとる。

 スレヴは皿とスプーンを用意する。

 取り止めもない会話を交わしながら、日常の食卓を一緒につくる。

 こうしてキッチンに並ぶ三人の時間が、ヴィーシャはいちばん好きなのだ。





【終】







ここまで読んで頂き、ありがとうございました!

三人は都心で暮らすも良し、田舎で農業や牧場するも良し、どのようにでも生きていけると思います。


それぞれの時代、それぞれの人生を見守ってくださった読者の皆さまに、重ねて、感謝申し上げます。

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