いつか もしかの 平和な世界で(前)
【IF背景】
オーストラリアでルームシェア中、数年目。
それぞれ20代半ば。
ヴィーシャとザフィールはユーロ圏、スレヴは中東ルーツ。
留学ビザや就労ビザを申請したり延長したりで滞在中。
共通言語は英語(※ 日本語で書いてありますが、英語のつもり。ややこしくてゴメンよ!)
ヴィーシャ……ナショナルスクール(小学校)で事務のアルバイト中。
ザフィール……在学中に一攫千金を狙って配信者になろうとしたが挫折。
スレヴ……華僑系半導体企業のシステムエンジニア。在宅ワーカー。
そして申し訳ないことに、完全に平和な世界設定が、秋乃には思いつかなかった……!!
ということで、世情は今の乱世を反映しております。
どの時代でも、どの国でも、愛する人やコンテンツがそばに在るなら、そこが平和の居場所。
そんな雰囲気で読んでくださると嬉しいです^^
楽しんで頂けますようように……
「ただいまー」
ヴィーシャがドアを開けると、リビングからザフィのけだるげな声が「おかえり」と返ってきた。
「おかえり」
「スレヴは?」
「まだ引きこもってる」
「もう三日目じゃない!」
台所で手を洗ってから、ヴィーシャは買ってきた食材を冷蔵庫に入れ始めた。
「ちゃんと食べてるのかしら」
「俺が起きたときは、エナドリ持って行ってたよ」
「そういう問題じゃないわよ……」
「しかしそろそろ、シャワーには入らせるべきだよな。ちょっと獣じみてきた」
ザフィはゲームの液晶を見つめながら、眠そうに話している。時刻は夕方だが、まだ寝起きなのだろう。
三人での共同生活が始まって数年経つが、それぞれの生活リズムはバラバラのまま安定している。
ヴィーシャが朝型、ザフィは夜型、スレヴは不規則型——では、あるが。
「こんなに長いこと部屋に篭ったままなんて、今まであった?」
「俺の覚えてる限りじゃ、ないね」
「そうよね……」
ヴィーシャは頬に手を当てて、スレヴの仕事部屋へ顔を向けた。
そもそも、部屋に引き篭もるひと月くらい前から、何か悩んでいたような気がする。
「ザフィ」
「あ?」
ヴィーシャがソファの背もたれに肘を預ける。ザフィールの後頭部には、まだ寝ぐせが残っていた。
「悪いことは言わないから、謝ってらっしゃいよ」
「なんで俺だよ」
「スレヴのこと、傷つけたんじゃないの?」
「はあ?」
「あなたって、時々デリカシーのないことを言うから」
「それはお前だろ!」
「スレヴは私の言うことなら許してくれるもの」
ゲームオーバーになり、ザフィールはSwich2(最近届いたばかりで、ザフィがスマホよりも愛用している)をクッションに放り投げて振り返った。
「なんでヴィーシャなら良いんだよ。ふつう俺だろ?」
言葉の先を待って黙っていると、ザフィールは露骨に目を逸らした。
「ふつうは、好きな——相手を、優先するもの、なんじゃないのか」
「スレヴは私のことも好きよ」
「そうじゃなくて!」
ザフィールの狼狽ぶりを見て、ヴィーシャはにっこりした。
「わかってる。どちらもLoveだけど、貴方に向けられているのはLibidoよね」
「そうだぞ、アイツ、信じられない……」
スレヴがザフィにカムアウトしたのは三ヶ月ほど前。
ちょうどザフィールが進路に悩んで、本国に帰ろうと思っている、と相談してきた頃だった。
「あれは熱烈な告白だったわよね」
「バカ言えよ。俺は、友だちだと思ってたのに」
「でも、あなたも結局、スレヴのことが好きなんでしょう?」
「はあ!?」
「だって見たわよ、この前。夜中にキッチンでキスしてたの」
とうとうザフィールの顔面は限界突破したのか、ケチャップを塗りたくったように赤くなった。
「おま——! なっ、」
「私だって、見たくて覗いたわけじゃないの。水が飲みたくて出てきたら、あらあらって感じだったわ」
ヴィーシャが肩をすくめて両手をひっくり返すと、ザフィールはクッションに顔をめり込ませた。
「あれ、は……つが……た、から」
声がこもって聞こえない。なんだかブツブツ言っている。
どうやら、アイツがいきなりしてきたからとか、避けきれなかったとか、弁明しているようだ。
(さあ、それはどうかしらね)
ヴィーシャは、スレヴの想いや葛藤を知っていた。
彼が生まれた場所はイスラム文化やヒンドゥー教の圏内で、同性愛者は差別される。
——ふ、ふ……十代の、とき、いっそ、チベットにでも、行って……
スレヴがいつだったか、酔って話してくれたことがある。
——世俗を、捨てて、僧侶に、なろうか、って思ったことも、ある。
本人にとっては笑い話のようだったが、思春期のスレヴがそこまで思い詰めていたのだと思うと、ヴィーシャは胸がギュッとなった。
そして幸いなことに、そうして泣くスレヴのことを、彼の両親が否定しなかったということも。
——だけど、やっぱり、そういうところでは、結婚して、一人前、だから。
スレヴは訥々と教えてくれた。
田舎のちいさなコミュニティで、いつまでも結婚しない自分がいると、両親を孤立させてしまうこと。
だからせめて経済的には援助できるようにと、一生懸命勉強したこと。
そうして中東からインド、オーストラリアへと友人もなく流れてきた、と彼は達観したような笑みを浮かべていた。
(そんなところに、ザフィが来たのよね)
この部屋に引っ越してきたとき、ザフィールは剣呑で、無力感に覆われている雰囲気をまとっていた。
(私たちの世代特有の、漠然とした不安感、っていうのかしら)
ヴィーシャはポーランド、ザフィールはドイツの出身である。
国がおなじEU圏内といっても一枚岩ではない。国々が抱えている問題は様々で、この先この国でどんなふうに生きていけば良いのか、途方に暮れてしまいそうになる。
その無力感をSNSは慰めてくれるが、承認欲求の格差は広がるばかり。
ザフィールはとうとう学業を投げ出して、劣等感のモンスターになってしまった。
そして、スレヴのカムアウト。
ザフィールのことが好きだから一緒にいて欲しいと、ヴィーシャもいる場所で(もちろんとっくに知っていたが)、けじめをつけて告白した。
(スレヴはザフィを求めているし、ザフィはそれで満たされてる)
ベクトルの違う劣等感は、互いの《優しさ》という感情をツナギにしてくっついた。
まるで合挽肉のパテのように。
晩ごはんはハンバーグにしようかしら、と連想する。
「ヴィーシャ、お前は?」
「ん?」
「スレヴのこと、好きだったんじゃないのかよ。それに……気まずく、ない、のか」
(そりゃあ、キスの瞬間を見たら気まずいけど)
茶化してやろうかと考えたが、ザフィの真剣な眼差しがヴィーシャを思い留まらせた。
ソファの背もたれを回り込んで隣に座る。
「ザフィは、私にボーイフレンドがいたこと、知っているでしょ」
「ああ、スレヴには『内緒にしてて』って頼まれたやつか。俺、あれでヴィーシャはスレヴが本命なのかと思ってた」
「私もあえて否定しなかったしね」
「ん」
「今だから言うけど、それ、本当は違うのよ」
ザフィールが首を傾げる。
「この部屋にスレヴが一番長く住んでいるってことは、知っているわよね。私が来るまでは、三、四人が数ヶ月ごとに引っ越しする感じだったってことも」
つまり、人が居付かないシェアルームだったのだ。
スレヴは少し変わっている。寡黙だし、自分から関わりを遠ざけるようなところもある。
だから《ふつうのシェア》をしたい人は数ヶ月で見切りをつけて、もっと居心地のいい場所を探すのだ。
「そんな訳だから、この部屋が立地のわりに安かったのよ。私はあんまり人付き合いとか気にしないタイプだし、お金を貯めたかったから、ここに長く居座ったのよね」
「で、スレヴがお前に懐いた、と」
「ふふ」
スレヴが「自分は同性愛者だ」と話してくれたときは、驚きよりも嬉しさが勝った。
自分の反応にスレヴが安堵いっぱいの笑顔を返してくれたことも。
「だけど、その後ね、私にボーイフレンドが出来て」
「それ、俺が知ってるヤツ?」
「その前の人」
ザフィールは表情を歪めて「うぇ」と舌を出した。
「やめて、その顔。とにかく、私にとっても初めてのことだったから、距離感がうまく分からなくって……彼がヤキモチを妬いたりスレヴに突っかかったりして、最終的に、男二人で殴り合いの大ゲンカになっちゃったの」
「アイツ、ケンカなんかすんのかよ」
「強いわよ」
「野蛮だな」
「サバイバー、なの」
ヴィーシャは腕を組み、ナショナルスクールに在籍している子どもたちを思う。
世界大戦後の欧米リベラルな思想によって定められた、児童の基本的人権。
それに則ろうとする国、しない国の違いを思う。
「きっと、私たちとは違う世界を生きてきたんだわ」
「そんで?」
ザフィールはそろそろ話に飽きてきたらしい。
「つまり何が言いたいんだよ」
「スレヴはものすごーく寂しがり屋で、独占欲が強いの」
「へえ」
「それに、私も男性と付き合ってみて分かったけど、スレヴの方が大事みたい」
小さな頃は、いつか自分も結婚して、一人の男性と特別な関係を築くのだと、ぼんやり思っていた。
だけど現実のヒト科のオスは、あまりにもへなちょこ過ぎて(もちろん世代や人によるのかもしれないが)、自分が支えたい、この人となら一緒に苦労をしてみたいとは、到底イメージできなかったのだ。
「もし朝晩の『おはよう』や『おかえり』を言うなら、その相手はスレヴなの。だけど私はスレヴのLibidoを満たしてあげられないわ」
ヴィーシャはザフィールを見つめた。
金髪で美しく、怠惰で脆弱なヒト科のオス。
野生の獣のようなスレヴに噛みつかれてもどこ吹く風、飄々として楽観的な物言いは、ときにスレヴの深い傷を癒してくれる。
そんなザフィールが愛おしい。
「気まずくなんかない。むしろ感謝してる。スレヴはザフィと出会ってから、ずいぶん明るくなったわ」
今度はほんのりと、チークを乗せたようにザフィの頬が染まる。
「俺……スレヴみたいに、学歴も仕事もないし、ゲームしかしてないし、なんの役にも立たないけど?」
「いいの、いてくれるだけで」
ヴィーシャは立ち上がり、掛けてあったエプロンを取った。
「さ、晩ごはん作ろ。あなたも手伝ってよ」
「今いてくれるだけでいいって言ったばっかりじゃないか」
「それはそれ、これはこれよ!」
ザフィールがかすかに笑って立ち上がったそのとき、ドアが勢い良くひらく音がした。
「スレヴ?」
「どした、仕事終わったのかー?」
様子を見に行ったザフィが「うおっ」と叫んで、二人分の体重の倒れこむ音が聞こえる。
まさか廊下で襲われたのかと、ヴィーシャも少し心配になって様子を見に行く。
「何かあったー?」
廊下で折り重なっている二人が見える。
「おい、立ちくらみか?」
「ご、め……重い、ね」
「スレヴ、無理に起きようとしないで」
ヴィーシャはザフィと協力してスレヴの体勢を変えながら、手首で脈をはかった。
かんたんな応急処置には慣れている。職場柄、子どもたちの怪我や病気に立ち会う場面もあるからだ。
ひたいで体温を確かめたり、目もとや口もとを見て、ヴィーシャは「貧血ね」と言った。
「ちゃんと食べないからよ。待ってて、今、何か持ってくる」
冷蔵庫の中から、さっき買ってきたばかりのバナナとミネラルウォーターを取り出す。
ザフィに支えられて上体を起こした状態のスレヴが、おとなしく待っていた。
「はい。自分で飲める?」
「ご、めん」
「こんなになるまで、いったい何をやっていたんだか……」
ドアがひらきっぱなしの室内では、PCのモニターが三台、青く光っている。
デスクから落ちたらしいマウスの横で、スマホが振動して鳴っている。どうやら着信の通知のようだ。
入るわよ、と断ってからスマホを拾ってスレヴに渡す。
電話をかけてきた相手の名前を確認した瞬間、スレヴは食べかけのバナナを放り出して着信を受けた。
「Hello!」
バナナを押しつけられたザフィは、不満そうに眉にシワを寄せている。
ヴィーシャも状況が飲み込めないまま、スレヴの通話を見守った。
言葉の中にはトウキョウ、とか、トヨタ、とか時折り日本語が混じっていた。
そして数分後——
「三人で日本に住もう」
行こう、ではなく《住もう》。
突拍子もなく出てきた提案に、ヴィーシャとザフィは口をあんぐりと開けた。




