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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
エピローグ

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24/27

2024年、聴衆の一人より。

 オルガ・マリアは手記から顔を上げて、照明の眩さに目を細めた。

 プロジェクターに映されていたスライドが消え、室内が明るくなると、ぼんやりと聴衆の姿が見えてきた。


「自分の名前が出てきて驚いたとき、そのページの日づけは1948年の秋でした。避難民法によって、私と姉がアメリカに移住する直前のことです。この手記に書かれていないことを、私の限られた記憶で、補足させてください」


 介添えのスタッフが、車椅子の向きを変えてくれる。


「1944年の秋、空襲が続くベルリンの郊外で、ヴィーシャは私を保護しました」


 目を閉じると、(すす)にまみれた姉がこちらへ向かって必死に両手を伸ばしている、そんな光景が思い出される。


「夜空を真っ赤に染める炎と、地下防空壕の腐ったようなにおいは、今でも忘れられません。それから、移動しては隠れてを繰り返し、ダンツィヒの港に着いたのは半年後でした。しかし何があったのか、姉は進路を西へと変えています」


 タデクと呼ばれていた人の顔は、覚えていない。

 大柄な男性がたまに食べ物を運んで来てくれたことを覚えている。

 その彼と道を分けたのでは、もしかこの港町だったかもしれない。


「ベルギー人兵士に出会い、もらったチョコレートの美味しかったこと……姉はしばらくフランスへの亡命を訴えていましたが、ビザがないと出国できないことを知ると、行き先をフランクフルトに変えました。そこでは難民を支援する事務所があり、姉の技術はそこで活かせるだろう、とアドバイスを受けたからでした」


 この場所に着いた途端、ヴィーシャが倒れたことも覚えている。

 ようやく頼れる大人たちを前にして、張りつめていた緊張の糸が切れたのだろう。


「当時、難民の子どもたちは居住スペースを分けられていました。夜眠るとき、姉がいないことに気がついて、よく泣いたものです。それでも、彼女は日々の合間を縫って、私に会いに来てくれました」


 自身の傷さえまだ治っていないのに、姉は何かに取り憑かれたように働いていた。

 多くの人が訪れ、しばらく滞在しては去っていく、そんな荒れ果てたビルの一角で、彼女が職を得たことは僥倖(ぎょうこう)だった。


「ヴィーシャが戦時中に身につけた技術……タイプライター、看護の知識、さまざまな言語……それらのおかげで、追い出されずに済んだということも大きかったでしょう」


 老眼鏡をかけ、用意してあったレジュメを読む。


「現実の戦争は、チェスのように勝敗がハッキリ分かれるものではありません。また、今のようにインターネットでリアルタイムの情報が得られる訳でもありませんでした。何が言いたいかというと、当時、終戦直後は、まだ多くの暴行や迫害があったということです。敵味方が入り乱れた無秩序な状態で、姉は私を守るために最善を尽くしてくれました」


 今日は国際平和デーだ。

 戦後八十年の節目を迎えて講話を頼まれたことが、西海岸からニューヨークまでやってきた大きな理由ではある。

 だけど一番の理由は、姉の遺言にある。


 ——これを、読んで……知っていて。


「そんな姉が書いた手記には、さまざまなルーツの人々が描かれています。ナチス、ポーランド、ソ連——思想に至っては、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、無神論者まで」


 姉は息を引き取るとき、ひと粒の涙と共に、祈りのような一節を呟いた。

 ヴィーシャが晩年、何に苦しんでいたのか知りたい。

 レジュメに書き写した言葉を読み上げる。


「約束を果たさなければならないのに、今の私は祈ることができない。

 どうやって祈ればいいのかもわからない。

 カトリックならば、

 プロテスタントならば、

 ユダヤ教ならば……

 どんな祈りの言葉なら、神は(ゆる)してくださるのでしょうか。


 せめて私は、覚えていなければいけない。

 今約束を果たすことが難しいなら、後年の私に託すしかない。

 それなら証として、この日記を残しておこう。

 この日を忘れないように。

 愛すべき故国、ポーランドの片隅で起こった、ゆるされざる友情と愛について。


 懐かしいクラクフの街。

 にぎやかな広場と美しい古城。

 広場で駆けっこをしたり、一緒にパンを焼いたり。

 貧しくても、クラクフに住む人々には幸せがありました。


 そんな日々が、これほど遠くなってしまったなんて。

 あの雄大なヴィスワ川の(いただき)

 クラクフの南にそびえる山脈から湧きいづる源水のように、私たちは期待と希望に溢れていたはずなのです。

 その水流が分かれてしまったのは、いつだったのでしょうか。

 きっと気づかないほど少しずつ、ちいさな石のまにまに、私たちの運命は流れ出していたのかもしれません」


 ふう、とオルガ・マリアは息をついた。

 自分の脈が上がっているのを感じる。

 うっとうしかった老眼鏡を外し、ふたたび聴衆に目を向けて、声を張る。


「現実の戦争は、分水嶺がハッキリと決まっている訳ではないのです。気づかないほど少しずつ、小石に水流が隔てられ、やがて大きな濁流となっていくように」


 今こそ姉の気持ちに応えたい。

 自ら命を絶ってしまいたいと思いながらも、かすかな(のぞ)みを頼りに自分を探し出し、ついに死ぬまで答えを得られず、後世に託すしかないと泣いた、姉のひたむきな生き方に。


「分断が進む世の中で、あの人は敵だ、あの人は味方だ、と決めつけることは簡単です。しかし、人間とは本来、多面的な生き物だと私は思っています。悪魔のように見えるときもあれば、聖母のように見えるときもある。静かな人かと思っていたら、内に熱い激情を秘めている人もいる。今のようなフェイクニュースがあふれる現代だからこそ、私たちは自分の目で見て、耳で聞いて、ひとつの出来事にまつわる多方面からの見方を、失ってはならないと思います」


 老いた血管が、膨張し、収縮する。

 その鼓動に耐えられるのかと不安なくらい。

 骨はきしみ、限界を訴えている。


(だけどこれで、自分の義務は果たした)


 オルガ・マリアの視界が暗転する。

 介添えのスタッフが支えてくれるのを感じて、会場に響く拍手喝采の音を、どこか他人事のように聞いていた。


 目を覚ましたのは、ホテルのベッドの上だった。

 ぼんやりとした視界の中で、この旅行中ずっと付き合ってくれた青年が、こちらを心配そうに見つめていた。


「あら……」

「オーリャ、気がつきましたか」


 青年は顔じゅうをホッとゆるませて、オルガ・マリアの手を取った。

 スーツを着替えていないところを見ると、どうやら会場からそのままここへ付き添ってくれたらしい。


「よかったです、常備薬をいつもより多めに持ってきていて」

「いやね、私ったら。人前で倒れたの?」

「倒れもしますよ。あんなに熱烈なスピーチ、どの学会でも聞いたことがない」

「ふふ。世界中の学会に招待されるあなたが言うなら、それは褒め言葉かしら」

「当然です」


 彼はミネラルウォーターと思しきペットボトルのふたを開け、長いストローを差した。


「少し、身体を起こしますよ」


 背中の後ろに枕をたくさん重ねて、青年は優しく介助してくれた。

 酷使した肉体は渇ききっていた。

 水が砂漠に染み込むのを甘受するように、潤される感覚をしばらく楽しむ。


「落ち着きましたか?」

「ええ、ありがとう」


 青年が指輪型のバイタルチェッカーを取り出し、しわくちゃの指に、まるで結婚指輪でもはめるかのように、慎重に差し入れる。


「……よかった、安定しましたね」

「心配性ねえ」

「あなたに何かあったら、僕は子どもたちに顔向けができませんよ」

「サラとレオは、上手にお留守番しているの?」


 青年は破顔して「難しい質問ですね」と答えた。

 ご近所づきあいをするうちに、まるで孫のような存在ができたことを、オルガ・マリアは喜んでいた。

 目の前の青年はゲイであり、男性のパートナーと暮らしている。彼らが引き取った子どもらの親は、コロナ禍に命を奪われた。

 みなそれぞれ血は繋がっていないが、家族同然の付き合いをしている間柄だ。

 そんな中、いちばんフライト慣れしている彼が、ここまで付き添ってくれたのである。


「——実は、オーリャ宛てに、預かっているものがありまして」

「ああ、納得したわ。それで執拗(しつよう)にバイタルを確認したのね」

「嫌だなあ、僕ってそんなに分かりやすいですか」


 気軽な口調とは裏腹に、繊細な手つきでベルベット生地に包まれた箱を取り出す。

 生地の深い群青色は海のようだ。

 青年は(うやうや)しく小箱を開け、その中を見せた。

 金色の懐中時計である。

 白いシルクに包まれて、色褪せところどころ傷付いてはいるが、よく手入れされていたことがうかがえた。


「あなたのスピーチが終わったあと、聴衆のお一人から預けられたんです」

「なぜ……?」

「『これは貴方が持つべきものだから』と仰っていました。ほら、(ふた)が外れるようになっているでしょう」


 青年がハンカチを取り出し、時計を汚さないように、ひっくり返して見せる。

 裏蓋の中に、小さく折り畳まれた用紙が入っていた。


「開けてみてください」


 オルガ・マリアは、何か予感めいたものに突き動かされて、震える指で紙を広げた。

 茶色く古くなった安い紙に、書き込まれた言葉。英語ではない。


「最近のアプリは便利でね、俺、失礼かなとは思いながら翻訳してみたんですよ」


 老婆は苦笑して頷きを返す。

 この青年は頭が良すぎて、好奇心旺盛なところが長所でも短所でもある。


「そうしたら、これ、ポーランド語でした」


 その地名に、胸がざわつく。

 青年がスマホの液晶を見せながら、ほほ笑んだ。


「毎日、君を恋しく思う。君は僕たちの人生そのものだ。二人の友人より」


 伝えられた言葉は波のように打ち寄せて、その意味をざぶり、ざぶりと被せてくる。


「まさか……」

「この金時計を持ってきてくれた女性が、話してくれましたよ」


 女性は南アメリカの出身であること。

 貧しい家庭に生まれたが、二人の養父に育ててもらったこと。

 養父たちは農場を経営しながら、貧困層の子どもたちをサポートしていたこと。


「亡くなる直前まで、この時計を手放さず、毎日ネジを巻いていたそうですよ。質にでも入れれば、相当な金額になったでしょうが……」

「そうでしょうね——よっぽど、」


 よほど、大切だったのでしょうね。

 その言葉は喉の奥に置き去りになってしまい、オルガ・マリアは涙を流した。


(ああ、ヴィーシャ!)


 八十も半ばを越える身体に、西海岸からの旅程は身体に鞭打つようなものだった。

 それでも、何かできることはないか、と。

 戦時下に生きた人々の()し方を、誰かに伝えるすべはないだろうか。

 そう思いながら、ここまでやって来た。

 すでに身体衰え、目も耳も悪く、しゃがれ声しか出ない、生気の出涸(でが)らしのような自分に、それでも何かできることがあるならば……


「ヴィ、シャ——」


 嗚咽とともに洩れる、愛しい姉の名前。

 それは嬉しくも哀しくも、オルガ・マリアの頬を濡らす。


(生きていた)

(でも、遅かった)


 もっと早く、生きて会える世界があるはずだった。

 戦争さえなければ。

 だけどスレヴが遺したように、戦争があったからこそ生まれた愛も、友情もあった。


(世の中はなんて理不尽で、(まま)ならないのだろう)


 窓の外に見える平和な景色。

 だけどそれはわずかな世代、限られた土地の人々が享受できるもの。

 誰かの不幸の上に成り立つ幸福。

 それを喜ぶ罪人を、一体どんな神が(すく)うというのか。


(姉さん、あなたは、こんな矛盾を抱えていたの?)


 少女のように泣きじゃくるオルガ・マリアの背中を、青年が優しく撫でてくれる。


「あなたは勇気のある人です」


 青年は淡々と、それでいて深い思いやりの滲む声で言う。


「ザフィールとスレヴが願ったことを、ヴィーシャが継いで、あなたに託した。そうして語られたスピーチが聴衆の心に届いた。あなたもまた、分水嶺のひとつになった」


 生きていてくれて、ありがとう。伝えてくれて、ありがとう。

 自分より何十歳も若い青年が、なだめすかすように言うのを聞いて、なんだかオルガ・マリアは可笑しくなった。


「そんなに言われると、死期が近いのかと思うじゃありませんか」

「やめてくださいよ。オーリャには元気な姿で帰ってもらわないと。子どもたちが口をきいてくれなくなります」

「あらまあ」

「頼みますよ、グランマ」

「そうね、長生きしなきゃ」


 背すじを伸ばして、オルガ・マリアはようやく、八十年前のポーランドから帰ってきた。


「お土産(みやげ)は何がいいかしらね」







【終】





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