2024年、聴衆の一人より。
オルガ・マリアは手記から顔を上げて、照明の眩さに目を細めた。
プロジェクターに映されていたスライドが消え、室内が明るくなると、ぼんやりと聴衆の姿が見えてきた。
「自分の名前が出てきて驚いたとき、そのページの日づけは1948年の秋でした。避難民法によって、私と姉がアメリカに移住する直前のことです。この手記に書かれていないことを、私の限られた記憶で、補足させてください」
介添えのスタッフが、車椅子の向きを変えてくれる。
「1944年の秋、空襲が続くベルリンの郊外で、ヴィーシャは私を保護しました」
目を閉じると、煤にまみれた姉がこちらへ向かって必死に両手を伸ばしている、そんな光景が思い出される。
「夜空を真っ赤に染める炎と、地下防空壕の腐ったようなにおいは、今でも忘れられません。それから、移動しては隠れてを繰り返し、ダンツィヒの港に着いたのは半年後でした。しかし何があったのか、姉は進路を西へと変えています」
タデクと呼ばれていた人の顔は、覚えていない。
大柄な男性がたまに食べ物を運んで来てくれたことを覚えている。
その彼と道を分けたのでは、もしかこの港町だったかもしれない。
「ベルギー人兵士に出会い、もらったチョコレートの美味しかったこと……姉はしばらくフランスへの亡命を訴えていましたが、ビザがないと出国できないことを知ると、行き先をフランクフルトに変えました。そこでは難民を支援する事務所があり、姉の技術はそこで活かせるだろう、とアドバイスを受けたからでした」
この場所に着いた途端、ヴィーシャが倒れたことも覚えている。
ようやく頼れる大人たちを前にして、張りつめていた緊張の糸が切れたのだろう。
「当時、難民の子どもたちは居住スペースを分けられていました。夜眠るとき、姉がいないことに気がついて、よく泣いたものです。それでも、彼女は日々の合間を縫って、私に会いに来てくれました」
自身の傷さえまだ治っていないのに、姉は何かに取り憑かれたように働いていた。
多くの人が訪れ、しばらく滞在しては去っていく、そんな荒れ果てたビルの一角で、彼女が職を得たことは僥倖だった。
「ヴィーシャが戦時中に身につけた技術……タイプライター、看護の知識、さまざまな言語……それらのおかげで、追い出されずに済んだということも大きかったでしょう」
老眼鏡をかけ、用意してあったレジュメを読む。
「現実の戦争は、チェスのように勝敗がハッキリ分かれるものではありません。また、今のようにインターネットでリアルタイムの情報が得られる訳でもありませんでした。何が言いたいかというと、当時、終戦直後は、まだ多くの暴行や迫害があったということです。敵味方が入り乱れた無秩序な状態で、姉は私を守るために最善を尽くしてくれました」
今日は国際平和デーだ。
戦後八十年の節目を迎えて講話を頼まれたことが、西海岸からニューヨークまでやってきた大きな理由ではある。
だけど一番の理由は、姉の遺言にある。
——これを、読んで……知っていて。
「そんな姉が書いた手記には、さまざまなルーツの人々が描かれています。ナチス、ポーランド、ソ連——思想に至っては、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、無神論者まで」
姉は息を引き取るとき、ひと粒の涙と共に、祈りのような一節を呟いた。
ヴィーシャが晩年、何に苦しんでいたのか知りたい。
レジュメに書き写した言葉を読み上げる。
「約束を果たさなければならないのに、今の私は祈ることができない。
どうやって祈ればいいのかもわからない。
カトリックならば、
プロテスタントならば、
ユダヤ教ならば……
どんな祈りの言葉なら、神は赦してくださるのでしょうか。
せめて私は、覚えていなければいけない。
今約束を果たすことが難しいなら、後年の私に託すしかない。
それなら証として、この日記を残しておこう。
この日を忘れないように。
愛すべき故国、ポーランドの片隅で起こった、ゆるされざる友情と愛について。
懐かしいクラクフの街。
にぎやかな広場と美しい古城。
広場で駆けっこをしたり、一緒にパンを焼いたり。
貧しくても、クラクフに住む人々には幸せがありました。
そんな日々が、これほど遠くなってしまったなんて。
あの雄大なヴィスワ川の頂。
クラクフの南にそびえる山脈から湧きいづる源水のように、私たちは期待と希望に溢れていたはずなのです。
その水流が分かれてしまったのは、いつだったのでしょうか。
きっと気づかないほど少しずつ、ちいさな石のまにまに、私たちの運命は流れ出していたのかもしれません」
ふう、とオルガ・マリアは息をついた。
自分の脈が上がっているのを感じる。
うっとうしかった老眼鏡を外し、ふたたび聴衆に目を向けて、声を張る。
「現実の戦争は、分水嶺がハッキリと決まっている訳ではないのです。気づかないほど少しずつ、小石に水流が隔てられ、やがて大きな濁流となっていくように」
今こそ姉の気持ちに応えたい。
自ら命を絶ってしまいたいと思いながらも、かすかな希みを頼りに自分を探し出し、ついに死ぬまで答えを得られず、後世に託すしかないと泣いた、姉のひたむきな生き方に。
「分断が進む世の中で、あの人は敵だ、あの人は味方だ、と決めつけることは簡単です。しかし、人間とは本来、多面的な生き物だと私は思っています。悪魔のように見えるときもあれば、聖母のように見えるときもある。静かな人かと思っていたら、内に熱い激情を秘めている人もいる。今のようなフェイクニュースがあふれる現代だからこそ、私たちは自分の目で見て、耳で聞いて、ひとつの出来事にまつわる多方面からの見方を、失ってはならないと思います」
老いた血管が、膨張し、収縮する。
その鼓動に耐えられるのかと不安なくらい。
骨はきしみ、限界を訴えている。
(だけどこれで、自分の義務は果たした)
オルガ・マリアの視界が暗転する。
介添えのスタッフが支えてくれるのを感じて、会場に響く拍手喝采の音を、どこか他人事のように聞いていた。
目を覚ましたのは、ホテルのベッドの上だった。
ぼんやりとした視界の中で、この旅行中ずっと付き合ってくれた青年が、こちらを心配そうに見つめていた。
「あら……」
「オーリャ、気がつきましたか」
青年は顔じゅうをホッとゆるませて、オルガ・マリアの手を取った。
スーツを着替えていないところを見ると、どうやら会場からそのままここへ付き添ってくれたらしい。
「よかったです、常備薬をいつもより多めに持ってきていて」
「いやね、私ったら。人前で倒れたの?」
「倒れもしますよ。あんなに熱烈なスピーチ、どの学会でも聞いたことがない」
「ふふ。世界中の学会に招待されるあなたが言うなら、それは褒め言葉かしら」
「当然です」
彼はミネラルウォーターと思しきペットボトルのふたを開け、長いストローを差した。
「少し、身体を起こしますよ」
背中の後ろに枕をたくさん重ねて、青年は優しく介助してくれた。
酷使した肉体は渇ききっていた。
水が砂漠に染み込むのを甘受するように、潤される感覚をしばらく楽しむ。
「落ち着きましたか?」
「ええ、ありがとう」
青年が指輪型のバイタルチェッカーを取り出し、しわくちゃの指に、まるで結婚指輪でもはめるかのように、慎重に差し入れる。
「……よかった、安定しましたね」
「心配性ねえ」
「あなたに何かあったら、僕は子どもたちに顔向けができませんよ」
「サラとレオは、上手にお留守番しているの?」
青年は破顔して「難しい質問ですね」と答えた。
ご近所づきあいをするうちに、まるで孫のような存在ができたことを、オルガ・マリアは喜んでいた。
目の前の青年はゲイであり、男性のパートナーと暮らしている。彼らが引き取った子どもらの親は、コロナ禍に命を奪われた。
みなそれぞれ血は繋がっていないが、家族同然の付き合いをしている間柄だ。
そんな中、いちばんフライト慣れしている彼が、ここまで付き添ってくれたのである。
「——実は、オーリャ宛てに、預かっているものがありまして」
「ああ、納得したわ。それで執拗にバイタルを確認したのね」
「嫌だなあ、僕ってそんなに分かりやすいですか」
気軽な口調とは裏腹に、繊細な手つきでベルベット生地に包まれた箱を取り出す。
生地の深い群青色は海のようだ。
青年は恭しく小箱を開け、その中を見せた。
金色の懐中時計である。
白いシルクに包まれて、色褪せところどころ傷付いてはいるが、よく手入れされていたことがうかがえた。
「あなたのスピーチが終わったあと、聴衆のお一人から預けられたんです」
「なぜ……?」
「『これは貴方が持つべきものだから』と仰っていました。ほら、蓋が外れるようになっているでしょう」
青年がハンカチを取り出し、時計を汚さないように、ひっくり返して見せる。
裏蓋の中に、小さく折り畳まれた用紙が入っていた。
「開けてみてください」
オルガ・マリアは、何か予感めいたものに突き動かされて、震える指で紙を広げた。
茶色く古くなった安い紙に、書き込まれた言葉。英語ではない。
「最近のアプリは便利でね、俺、失礼かなとは思いながら翻訳してみたんですよ」
老婆は苦笑して頷きを返す。
この青年は頭が良すぎて、好奇心旺盛なところが長所でも短所でもある。
「そうしたら、これ、ポーランド語でした」
その地名に、胸がざわつく。
青年がスマホの液晶を見せながら、ほほ笑んだ。
「毎日、君を恋しく思う。君は僕たちの人生そのものだ。二人の友人より」
伝えられた言葉は波のように打ち寄せて、その意味をざぶり、ざぶりと被せてくる。
「まさか……」
「この金時計を持ってきてくれた女性が、話してくれましたよ」
女性は南アメリカの出身であること。
貧しい家庭に生まれたが、二人の養父に育ててもらったこと。
養父たちは農場を経営しながら、貧困層の子どもたちをサポートしていたこと。
「亡くなる直前まで、この時計を手放さず、毎日ネジを巻いていたそうですよ。質にでも入れれば、相当な金額になったでしょうが……」
「そうでしょうね——よっぽど、」
よほど、大切だったのでしょうね。
その言葉は喉の奥に置き去りになってしまい、オルガ・マリアは涙を流した。
(ああ、ヴィーシャ!)
八十も半ばを越える身体に、西海岸からの旅程は身体に鞭打つようなものだった。
それでも、何かできることはないか、と。
戦時下に生きた人々の来し方を、誰かに伝えるすべはないだろうか。
そう思いながら、ここまでやって来た。
すでに身体衰え、目も耳も悪く、しゃがれ声しか出ない、生気の出涸らしのような自分に、それでも何かできることがあるならば……
「ヴィ、シャ——」
嗚咽とともに洩れる、愛しい姉の名前。
それは嬉しくも哀しくも、オルガ・マリアの頬を濡らす。
(生きていた)
(でも、遅かった)
もっと早く、生きて会える世界があるはずだった。
戦争さえなければ。
だけどスレヴが遺したように、戦争があったからこそ生まれた愛も、友情もあった。
(世の中はなんて理不尽で、儘ならないのだろう)
窓の外に見える平和な景色。
だけどそれはわずかな世代、限られた土地の人々が享受できるもの。
誰かの不幸の上に成り立つ幸福。
それを喜ぶ罪人を、一体どんな神が拯うというのか。
(姉さん、あなたは、こんな矛盾を抱えていたの?)
少女のように泣きじゃくるオルガ・マリアの背中を、青年が優しく撫でてくれる。
「あなたは勇気のある人です」
青年は淡々と、それでいて深い思いやりの滲む声で言う。
「ザフィールとスレヴが願ったことを、ヴィーシャが継いで、あなたに託した。そうして語られたスピーチが聴衆の心に届いた。あなたもまた、分水嶺のひとつになった」
生きていてくれて、ありがとう。伝えてくれて、ありがとう。
自分より何十歳も若い青年が、なだめすかすように言うのを聞いて、なんだかオルガ・マリアは可笑しくなった。
「そんなに言われると、死期が近いのかと思うじゃありませんか」
「やめてくださいよ。オーリャには元気な姿で帰ってもらわないと。子どもたちが口をきいてくれなくなります」
「あらまあ」
「頼みますよ、グランマ」
「そうね、長生きしなきゃ」
背すじを伸ばして、オルガ・マリアはようやく、八十年前のポーランドから帰ってきた。
「お土産は何がいいかしらね」
【終】




