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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第四章 灰混じりの雪

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最後の晩餐

 私はうすうす、気がついていました。

 それはスレヴの言葉の端々から——


(彼が行こうとする道に、私を連れて行くつもりはないのだわ)


 そして意外なことに、そんなスレヴの気持ちを尊重したい、と感じる自分もいました。

 夏の頃の私なら「ずっと三人で一緒にいたい」と駄々をこねていたでしょう。

 だけどもう、そんな幼くて優しい考えは、バラの花びらや赤く染まった葉っぱとともに、どこかへ散ってなくなってしまったのです。

 次々と襲い来る《死》は、次に誰を連れ去るか分かりません。

 それはスレヴかもしれないし、ザフィールかもしれないし、私自身であるかもしれないのです。

 別れは常に隣りにある。

 私ができることと言えば……きょう一日を、大切に過ごすこと。

 それだけしかありませんでした。


「ザフィールったら、本当に料理をしてこなかったのね」


 私はちんまりと小さくなったジャガイモをつまんで言いました。


「うるさい。ちょっと腕がなまっているだけだ」

「にしたって、この倍の大きさはあったはずよ」


 ナイフのそばには、ぶ厚く剥かれた皮が積み重なって、小さな山をなしていました。


「寮にいたときはキャンプで料理をしたさ」


 そう言いながらプイとそっぽを向くザフィールに、なんだか呆れるやらおかしいやらで、私は笑ってしまいました。


「笑うな」

「笑ってないわ」

「嘘つけ。スレヴもそのニヤけ面をなんとかしろ」


 スレヴはうすく伸ばした生地に菜種油を塗りながら「に、にやけて、ない」と目尻を細めたまま言いました。


「ねえザフィ、皮剥きの腕は分かったから、薪をとってきてくれない?」

「いや、まだ分かってないね。見てろ、完璧に任務をこなしてやるから」

「ひとには向き不向きがあるし、あなたがその任務を完遂する頃には、ひと月ぶんのジャガイモが消費されてしまいそうよ」

「おい、黙って聞いていれば——」

「はいはい、いってらっしゃい」


 ぐいぐいと台所の外に押し出すと、ザフィールは「分かったよ、我が総統(マイン・フューラー)」と捨てゼリフを残していきました。

 それまでのやり取りを黙って見ていたタデクが、ブフッと吹き出します。


「少尉どのも、ヴィーシャさまの前では形無しだな」

「む、昔っから、だよ」

「なぁに、貴方たちこそニヤニヤして。私は真面目に言ってるの」


 私は布巾で手を拭いてから、座っているタデクのそばにしゃがみ込みます。

 彼の左腕はまだ布で吊ってありますが、所長からの暴力の痕は、少しずつ回復の様子を見せていました。


「脚はどう?」

「おう、動くようになったよ。筋肉は削げ落ちたがな」

「家の中でも、少しずつ歩く練習を始めなきゃね」

「それなんだが」


 タデクがスレヴと目で何か合図を交わしました。


「オレはしばらく工場で(かくま)ってもらうことになった」

「え?」

「前に言った軍需工場さ。経営者が話の分かるやつで、オレの技術を買ってくれるらしい」

「技術って……まだ怪我も治りきらないのに」

「現場監督だとよ。オレくらいになると、手を動かさなくても食っていけるのさ」


 タデクはそう言って「嬢ちゃんも生きる武器は磨いておけよ」と、右手で私の頭をわしゃわしゃと撫でました。


「いつから?」

「今日の夕方には、少尉どのが車で送ってくださるらしい」

「きょう!?」


 私は驚いて立ち上がりました。


「貴方が調達してくれた食材なのに!」

「わりィな。三人で仲良く分けて食べな」


 タデクの揺るぎない口調に、私もひと呼吸おいて、別れの心を決めました。


「……ありがとう。こんな物不足の中で、食用油やハムに、良いワインまで仕入れてくれて……」

「気にすんな。しっかりお代は頂いてるよ」

「ザフィールったら、最近浪費が過ぎて心配だわ」

「た、ためていた、みたいだから」


 スレヴが優しい眼差しで私を見つめます。

 それは私に有無を言わせない、ちょっとずるい表情でもあります。


「ほら、家を、買いたい、って言ってた、だろう」

「……別にそのまま持っておけば良いのに。戦争が終わってからだって買えるわ」

「ご立派な正論だが、嬢ちゃんには男心の勉強が必要だな。見栄を張らせてやれよ」


 ムッとしてタデクに「知らないわ、そんなの」と言い返します。

 それすら男性陣にはおかしかったようで、彼らはクスクスと笑いました。


 タデクが去り、私たちは三人きりになりました。

 雪が降るなかで誰も訪れることのない、静かな一軒家。

 それはまるでドイツの童話で描かれるように、森の中にひっそりとたたずんでいました。

 もちろん、収容所は変わらず稼働していましたし、ザフィにも任務があったはずです。しかしこの頃にはもう、彼は「流行り病を患ったことにした」と言って、サボタージュを決め込んでいました。

 

「こんなに静かなクリスマスは初めてだ」


 ザフィールがぽつりと呟きました。

 ガウンのポケットに手を突っ込んで、窓の外に降り積もる雪を眺めています。


「今までは、どう過ごしていたの?」


 暖炉で火の粉がやわらかく爆ぜる音を聞きながら、私はスープ皿を並べました。


「忙しかったよ。所長のパーティーに呼ばれたり、書類の山をひたすら片付けたり、何かしら対応に追われたり……どこの収容所でも、クリスマス前後は空気がひりつくんだ」


 どうして、と問いかけようとした私の前に、スレヴがワイングラスを置きました。


「この時期は、脱走者や、処刑が、多い」

「さすが、歴が長いな」


 ザフィールが皮肉な笑みを浮かべて振り返ります。


「どいつもこいつも、クリスマスに思い入れがあり過ぎるのさ。今年こそ戦争が終わって、きっと家族と一緒に過ごしたい、過ごせるはずだと幻想を持って、向こうみずな行動をとる」

「そう、だね。期待が外れて、亡くなる、人が多かった」

「それは——だって、期待したくもなるわ。一年でいちばん、家族の思い出が多い日だもの」

「まあ、普通の家族はそうだろうな」


 スレヴの手もとからワインを取り上げたザフィールは、その銘柄を確かめながら言いました。


「俺にとっては、ろくな思い出がない。いつもと同じ、腹を空かせて酔っ払いの父親に殴られていた」


 ああでも、と彼の青色の瞳が、私を見つめます。


「お前たちと一緒に過ごしたクリスマスは、別格だったな」


 瓶のコルクを抜いて、私たちはそれぞれに、ワインを注ぎました。


「なつかしいわね。あなたのちっちゃな弟をスレヴが抱っこして、おしゃまな妹さんとは私が遊んでいたわ」

「ちっちゃな弟? そうか、考えてみると……」


 ザフィールは指折り数えて、驚いたように言いました。


「もう13年も前になるのか。信じられない」

「……ご家族と、連絡は取っていないの?」


 私は慎重に、様子を伺いながら訊ねました。


「取っていない」


 ザフィールは首を振ります。


「ポーランド侵攻の前に、兄に頼んで疎開させてもらったとき、会ったきりだ」


 てっきり行方知れずのままだと思っていた私は、それを聞いて、嬉しさに飛び跳ねました。ワインも飛び跳ねて衿にシミがつきます。

 スレヴが「落ち着いて」とグラスを取り上げました。

 私はそれを奪って、きゅっとひと口飲んでから、スレヴにまた押しつけます。


「よかった! クラクフで見かけなくなってから、ずいぶん探したのよ!」

「フン、取り越し苦労だったな」


 ザフィールは気だるげに息を吐きました。


「兄は国家保安部で勤めていたから、高級将校たちに顔が効いた。収入も俺よりよほど大きかったから、戦争が始まる前に、弟たちの世話を頼んだんだ」


 ザフィールがワインを煽り、スレヴも少し口にしました。

 乾杯の挨拶もなしに、ちょっとお行儀が悪いかしらと思いましたが、三人きりなのです。誰に気を遣う必要もありません。

 私もふたたびスレヴからグラスを受け取って、芳醇(ほうじゅん)な香りを味わいます。

 スレヴが遠慮がちに「今は、どこに」と訊ねました。

 ザフィールは懐から金時計を取り出し、精巧な造りの(ふた)を開けて、ちいさく折り畳まれた用紙を取り出しました。


「ベルリンの郊外だ。家が空襲で焼けていなければ、今もそこにいるだろ」


 ザフィールにぽいと手渡された用紙をひらくと、走り書きで記された住所が読めます。普通の紙ではなかったので、不審に思って裏返せば——


「かわいい!」


 なんと、家族写真があらわれました。


「貴方みたいな冷血漢にも、写真を持ち歩くような情緒があったのね」

「どういう感想だ、それは」


 ザフィールとスレヴが、それぞれ私の両隣に腰かけます。カウチでぎゅう詰めになりながら、私たちは一枚の写真を眺めました。


「疎開あとに、送ってきてくれたんだ」

「この将校さんが、ザフィのお兄さまね。あなたと違ってお優しそう」

「さっきから嫌味が雄弁だな」


 え、とスレヴの動揺した声が聞こえました。

 写真には男女と子ども、全部で五人が写っています。


(疎開先なら、ザフィールがいないのは分かるけど……)


「妹さんでしょ、弟さんでしょ」


 指さしながら、記憶にある姿とはまったくちがう、成長した少年少女に面影を探して、答え合わせをします。


「この赤ちゃんは?」


 そこには知らない乳児が一人、母親に抱かれて眠っていました。


「疎開まえに生まれたの? ザフィのお父さまったら、隅に置けない……あれ?」


 私は限りある知識と記憶を総動員しましたが、どうも計算が合いません。

 ザフィールを見上げると、淡々と「俺の姪っ子だよ」と答えられます。

 スレヴは得心したように「あ」と声を上げました。


(姪っ子ってことは、ザフィのお兄さまの? でも、相手は——)


 私は推論にたどり着いて、スレヴを見上げました。

 彼がはにかみながら「まあ、そういう、ことも、あるよね」と応えます。


「えーっ!?」

「うるさい! 横で大きな声を出すな!」

「あっ、でもそうか、前にお母さまとは血が繋がってないって——やだ、ほんとに!?」

「騒ぐなうっとうしい」

「ヴィーシャ、あの、肘、ぶつかって、る」

「こんなの騒がない方が無理よ! ザフィはなんとも思わなかったの!?」


 ひとつのカウチの上で揉み合いながら、私は写真を穴が開くほど見つめました。


「まあな。そりゃびっくりしたけど……あの完璧な兄にも、人間らしいところがあったんだと思ったし」


 ザフィの声が笑っていることに気づいて、私は顔を上げました。

 破顔する頬が、暖炉の炎にあたたかく照らされています。


「誰かを愛することが出来るなんて、羨ましいとも思ったよ」


(そんな顔を見せられたら、何も言えなくなっちゃうわ)


「赤ちゃんの名前、なんていうの?」

「マリア」

「ふふ。ザフィールに目もとが似てる」


 私はワインで高揚した気持ちのまま、鼻歌をうたいました。

 それは《マリア》の名を冠した、幸せと恵みの喜びに満ちているメロディ。


「調子っぱずれだな。下手くそ」

「失礼ね。じゃあザフィが歌ってよ」

「ど、どんな、歌?」


 スレヴが訊ねたので、私はフムと考えました。

 女学校の教会で習ったのは《受胎告知》に関する曲だということでしたが、それを長々とスレヴに説明するのは、なんだか野暮ったいようにも思えます。


「そうね……挨拶? 祝福、かしら。生まれてくる命への」


 スレヴは目をまんまるく見ひらいて、長いまつ毛をしぱしぱと動かしました。


「どうしたの?」

「いや……」


 そんな世界に、生まれたかったな。

 スレヴが小さくこぼした本音。

 私はなんだか悲しくなってしまい、ムキになって言いました。


「スレヴが生まれてきてくれて良かったって、私が思ってないとでも思ってるの?」

「ヴィーシャ、酔ったのか? 言ってることがめちゃくちゃだぞ」

「く、ふふ。ほんと、だ」

「笑いごとじゃないわ! ねえザフィ、歌って聞かせて」

「なんで俺が」

「私の調子っぱずれな鼻歌じゃ伝わらなくても、貴方の声なら伝わるはずよ」


 ザフィールは舌打ちをして、ワイングラスを置きました。

 ためらいながらも立ち上がります。

 そして吹っ切ったように胸を張り、美しい喉をふるわせました。


「A——Ave Mari——a-ah-a——a……」


 中性的な深みのある声は、たゆたうように天へ昇り、響き返すことを楽しむように、私たちの耳に届きました。


(ねえ、スレヴ)


 ドイツ語の歌詞が優しく、私たちの命を肯定します。

 苦しみにあっても。

 嘆きにあっても。


(私も貴方に思うことは一緒なのよ)


 ——僕の心に、光が生まれる。

 ——君の存在は、僕の命に、意味を与えてくれる。


(貴方がいたから、生きていられたの)





 あたたかくて、心地よくて。


 うすれていく意識。


 どこか遠くから声が聞こえます。


 まるで折り重なって、ピエタ像みたいだった……





「痛っ!」


 今までに経験したことのないような揺れに、私は目を覚ましました。

 頭が締めつけられるように痛くて、喉が渇いています。

 機械油の匂いと、絶え間ないエンジン音。

 自分が横たわっている場所が、車の後部座席らしいと分かって、私は慌てて身体を起こしました。

 運転している男が、ナチの軍帽を少しずらして、バックミラー越しに私を見ました。


「寝てな、嬢ちゃん」

「タデク……その格好……?」


 私はハッと気がついて、運転席に飛びつきました。


「ザフィとスレヴは!?」

「あっぶね! 大人しくしてろ!」

「タデクだって——怪我はどうしたの!?」

「それに関しちゃ、悪いな。実はもう治ってたんだ」


 それで、とタデクは、後ろ手に封筒を差し出しました。


「アイツらは来ない」


 私は声にならない声で叫びました。


「そうじゃないかと思っていたわ!」


 バンと後部座席の窓を叩くと、もろに反動が頭にぐわんぐわんと押し寄せました。


「無理すんな。まだ薬が残ってるんだろ」

「くすり……?」

「鎮痛薬だよ。副作用で眠くなる」

「よくも、そんなもの——」


 薬を盛られたと自覚すると、急に吐き気が込み上げてきました。

 ずるずるとシートに倒れ込みます。


「ザフィールが一時期、軍医から多めにくすねていただろ。あれだよ」

「すごく強い薬じゃない……」

「効き目が弱いとヴィーシャは暴れるに決まってると、少尉どのが言うもんだからな」

「クソッタレ……」

「おうおう、お口が悪いねえ」


 タデクがぴゅうと口笛を吹いて、私の頭の上に封筒を乗せました。


「薬が抜けるまで、大人しく読んでな」

「いやよ」

「まあ、そう言わず」

「別れの言葉なんて、読みたくない」

「よく考えてみろ」


 まるで聞き分けの悪い幼子を優しく叱るように、タデクは言いました。


「それはスレヴが書いたものだ。つまり、途中でナチに見つかるようなことがあれば、俺はその手紙を容赦なく処分する。お前の親父さんの手紙にやったようにな」

「……まるで脅迫ね」

「いいから読んでおけ」


(別れは、心の用意をさせてくれない)


 最高の思い出をつくりたい、そう言ってくれた夜。

 スレヴが残してくれた《心の用意》を知ることは、私の義務のように思えました。

 気の進まない手つきで封筒から便箋を取り出し、それを開きます。


『ヴィーシャへ


 君は今ごろ、ものすごく怒っているだろうね。

 泣いているかもしれないし、もう僕たちのことなんか嫌いになっているかもしれない。

 ごめん。

 僕なりに色々と考えた結果、これが一番良い方法だと思ったんだ。


 僕は、残酷な死に慣れきっていた。

 ひとの命も、自分の命もどうでも良かった。

 ヴィーシャとザフィールを逃がすことだけ、考えていた』


 ここで、筆跡の跡にインクが大きな染みを作っていました。

 悩みながら、言葉を選んで、懸命に伝えようとしてくれたスレヴの姿が思い浮かびます。

 込み上げる何かを飲み込むために、一拍おいて、私は続きを読み始めました。


『嘘だ。

 本当は、ザフィールが自分と一緒に死んでくれたら良いと思っていた。

 戦後罪に問われるのは明白だし、捕虜になって拷問のような労苦を味わうくらいなら、いっそ僕が楽にしてあげたいと、そんな自分勝手なことを考えた。

 君はいつも、僕のことを優しいと言ってくれたけど、本当の僕は、自分のことしか考えていないエゴの塊なんだ。

 君たちがまだクラクフにいた時から、ずっと恐れていた。

 ヴィーシャとザフィールが大人になって、惹かれ合って、そんな様子を僕は笑顔で見守ることができるだろうか。

 きっと無理だと分かっていた。

 ヴィーシャ、君が、僕たち三人の友情にヒビが入って傷つくとき、僕はいつも、心のどこかでホッとしていた。

 ザフィールがベルリンの寮に行くと決めたとき。

 この収容所で、自分は同性愛者なんだと、口にしたとき。

 僕のザフィールへの気持ちが、君たちに知られてしまったとき。


 こんな状況でなければ、僕は、これほど自分の気持ちをさらけ出すことはできなかったと思う。

 自分でも信じられない。

 これほど痛ましい戦争が起こっているのに……

 毎日多くのユダヤ人が——それだけじゃない、ドイツ人も、イギリス人も、世界中の人々が傷つき、涙しているときに、僕は、』


 2枚目の便箋が、奇妙なシワで歪んでいます。

 書きながら思わず握りしめてしまったのかもしれません。


『喜んでいた』


 単語の意味とは裏腹に、弱々しく、所在なさげな筆致。


『嬉しかったんだ。

 ヴィーシャとザフィールが、僕の気持ちを知りながらもそばに置いてくれること。

 そんな二人と、笑い合う日々を過ごせることが』


 それは、誰かの不幸の上に成り立つ幸福。


『僕は、どんな物語の悪魔よりも、恐ろしい人でなしだ。

 ユダヤとしての信仰心はかけらもなくて、同性愛者で、人々の不幸の陰で笑う愚かなスレヴ。

 君がお父さんの訃報に嘆いているとき、僕はたまらなくなって、全部ザフィールに打ち明けた。

 そうしたら、彼が言ったんだ。

 俺も同じだ、って。

 この戦争があったから、自分がナチスの将校だったから、お前たちの友情や愛情を知ることができたって、そう言うんだ。

 ヴィーシャ、こんな人でなしが安心して生きられる世界なんてない。

 地球の上のどこに逃げても、自分が犯した罪から、逃れることはできない。

 僕たちを(すく)う神はいない。

 死んでも、生きていても、地獄の罰が待っている。


 だけど君は違う。

 愛情深くて、口うるさくて、生きる力にあふれた、野ばらのようなヴィーシャ。

 君ならきっとどこにいても、誰かの力になれるだろう。

 差し伸べる手を、君の愛情を、待っている人がたくさんいる。

 どうか生きてほしい。

 寿命の尽きるまで。

 そうして生きた君の祈りなら、きっと神も(ゆる)してくれるだろう。

 

 今、これを書いているとなりにザフィールがいる。

 金時計の中に入れ換えたいものがあると言って、何か一生懸命になっている。

 そろそろ僕の手助けが必要かもしれないな。

 

 愛している。

 何度言っても足りないくらいに。


 ザフィールとスレヴより』


 読み終えて、力なく、指先から便箋が滑り落ちました。


(……なんて、(むご)いことを言うの)


 涙は出ません。

 きっと水分が足りないからでしょう。

 くっきりと映る視界の中の車窓の向こうには、冬の曇天が広がっていました。

 こまかな雪が無数に降り注いでいます。


(まるで呪いをかけられたみたいだわ)


 生きて、生き延びて、寿命をまっとうして、その末に「祈れ」と言う。

 それはこの先何十年も自分を縛る鎖になるだろうと、私は予感めいたものを覚えました。


(今の私は祈ることができない)

(どうやって祈ればいいのかもわからない)

(どんな祈りの言葉なら、神の(ゆる)しを得られるのかしら)


 ふと天に手を差し伸べたくなり、タデクに「窓を開けて」と言いました。


「やだね」

「ちょっと寒いくらい、いいじゃない」

「寒いだけじゃねえよ」

「雪が降ってるから?」


 私がしつこく訊ねると、タデクは苦々しく「ただの雪じゃない。灰が混じってる」と答えました。


「道の後ろのほう、左手側——黒い煙が見えるだろ」


 言われた方向を見ると、ひとすじの煙が、曇天の中でも見えるほど黒くたなびいていました。

 軍需工場かと思いましたが、それにしては黒すぎて、大量のガソリンを燃やしているような禍々しさです。


「あれがアウシュヴィッツだ」


 初めて見る、殺戮の光景。

 それなら雪に混じる灰の正体は、おのずと知れます。

 人生を、思い出を、命を、奪われた人々の無念を思います。

 そして——スレヴとザフィールの葛藤も。


「……ばかね」


 運転席のタデクは振り返りません。


「私に懺悔したって、仕方がないのに」


 だけど彼がそれをしたいというなら、私には拒めないのです。

 それすらスレヴの計算のうちかもしれないと、半ば呆れながら、愛おしくもありました。


「オレが嬢ちゃんを迎えに行ったとき」


 会話ではなく、ひとりごとのような口調で、タデクが言います。


「あの狭いカウチで女の膝を大の男ふたり、子どもが取り合うみたいに覆い被さって。嬢ちゃんは両腕で二人の背中を包むように、折り重なって寝ていた。そんなお前ら三人が朝日に照らされて、まるで——」

「『ピエタ像みたいだった』?」

「聞こえてたのか」

「ぼんやりと」


 そうか、とタデクが笑いました。

 続けて大きなため息をつき「オレはようやく納得したよ」と荒々しく言います。


「スレヴもザフィールも『ヴィーシャを(けが)すな』と言わんばかりに、しつこいのなんのって。しかも嬢ちゃんの身の振りをオレに預けたくせして『三人でもう少し一緒に過ごしたい』だの『クリスマスは三人きりにしてくれ』だのと、えらく注文の多い依頼主だったぜ」


 怒涛のグチに、私は思わず笑ってしまいました。


「最初っから、私を説得すれば良かったのに」

「守りたかったんだろ。それこそ男の見栄ってもんさ」


 私は前を向いて、運転席に顔を寄せました。


「それで?」

「っと! 危ねえって言ったじゃねえか!」

「あの二人の見栄のために、私はどこへ連れて行かれるのかしら」


 タデクはハンドルを握りしめながら「封筒の中、入ってなかったか」とぶっきらぼうに言いました。

 後部座席の下、落ちた便箋を拾いながら、封筒を見つけます。

 その中を開いてみると……


「ザフィールったら」


 まだ折り目の跡が新しい、一枚の家族写真でした。

 ひっくり返して、裏に住所が書いてあることを確かめます。


(うたぐ)り深いんだから——きっとスレヴの手紙だけじゃ、私が絶望して抜けがらになってしまうんじゃないかって、心配したのね」


 だからこうして、私の《英雄気取り》をくすぐるような手がかりを残したのでしょう。

 過去に閉じこもらないように。

 私が前だけを向いて生きていけるように。


「まったく……」


 まぶたを閉じて映るのは、スレヴとザフィールが、二人で並び立つ姿。

 振り返り、笑顔を見せて、彼らは私に生きてくれと言っている。

 勝手なことに、私自身の意思とは関係なく。


「いいわ。仕方がない」

「どうした、嬢ちゃん」


 苦しむことも、嘆くことも、その末に絶望することも、生きていれば必ずある。


(たとえ今この瞬間が、どんなに無意味に、無力に思えたとしても……)


 誰かが自分を待っている。

 何かが私を待っている。


「自暴自棄になるのは、この子たちの無事を確かめてからでも、遅くないわ」


 そうして出会ったのが、あなたでした。

 ザフィールと同じ青い目をもつ、祝福された子ども。

 私の愛しい妹……

 オルガ・マリア・ニヴィンスカ。





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