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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第四章 灰混じりの雪

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22/22

なにかが待つ

「ザフィールを呼んでくれないか? 土産(みやげ)を持ってきたのでね」


 顔は笑っているはずなのに、その頬についた血の飛沫が、所長の表情を猟奇的に見せていました。

 背すじに寒気が、サアッとかけのぼっていくのを感じます。

 所長は振り返り、背後の下士官たちに「連れて来い」と命令しました。

 ズルッと暗がりから引きずり出されたモノ。

 一瞬、鉄の鎖に縛られた、手負いの大きい熊かと思いましたが——


(タデク!)


 私の喉は、今までにない悲鳴をあげました。

 生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からないほど、全身に殴打の痕があります。

 せめて息があるのか確認したくて、(かが)もうとした私を「ヴィーシャ!」とザフィの声が制しました。


「屈むな! こっちに来い!」


 ザフィールが拳銃の狙いをつけて、鋭く言います。

 気づけば、下士官のほうも拳銃を取り出して、私の頭を狙おうとしていました。


「そのままゆっくり退()がれ。そいつは後でいい。簡単には死なん」


 ザフィールの眼差しと銃口は、手荒な来訪者たちを()めつけながらも、私の身体を後ろへと押しやります。


「所長どの。こんな夜更けになんのご用ですか」

「上官が部下を訪ねるのに、許可が必要かね?」


 所長の声は、どこか面白がっているようです。


「有能な少尉の様子が最近おかしい、と報告を受けて来てみれば、こんなネズミどもと付き合っていたとはな」

「ヴィーシャとタデクの雇用については、以前に貴方の許可を得たはずです」


 ザフィールの肩越しに、私は玄関の方を盗み見ます。目をこらすと、所長のそばにいる下士官の一人に覚えがありました。

 ナチス将校としてのザフィールに付き従い、以前この邸にスレヴを連れてきた——そしてスレヴを悪魔だと罵った、そのひとでした。


「フン、何が雇用だ。自分が愛玩(あいがん)するポーランド女と、うす汚いコソ泥の間違いだろう」


 侮辱の一つひとつに、兵たちの嘲笑する声が重なります。


「さあて……」


 所長の声が、一段と低くなりました。


「他に何を隠している?」


 私は息ができなくなりました。

 もしかしたら、あの下士官はスレヴの存在を知っているのかもしれません。


(いつの間にか、誰かに見られて——?)


 今にもパニックを起こしそうな自分を、制するのに必死でした。

 ここでもしスレヴが姿を見せれば、所長は間違いなく命を奪うでしょう。

 駆除し損ねたネズミを叩き潰すように、簡単に。


(どうか、出てこないで、隠れていて——!)


 所長と下士官が見張っている今の状況では、身動きひとつ取れません。

 玄関ホールに静寂がおります。

 互いの息遣いが聞こえるほど。


「所長どのは、誤解をなさっておいでです」


 ザフィールが静かに言いました。


「その男には、確かに前線の動きを探るよう指示を下しましたが、それは、俺の情報工作のためです」

「なに?」

「覚えておいででしょうか。ルブリンで任務をご一緒したとき、俺はまだいち軍曹に過ぎませんでしたが、我が軍に有利な情報をいち早く、貴方にお届けしたことを」


(ルブリン……)


 その地名を聞いて、所長とザフィールの会話を思い出しました。


 ——相変わらずの遠耳だね。

 ——ルブリンでも君の情報通ぶりにはよく助けられた。


「当時の上官が異動になったと聞いて、居てもたってもいられず、その男を利用したまでです」

「ほう、筋は通っている。しかし——情報のやり取り程度なら、こんな小包が届くのはおかしいじゃないか?」


 所長は片手に持っていた茶色の小さな包みを、ひらひらと振って見せました。

 これにはザフィールも弁明のしようがありません。

 所長から包みを受け取った下士官は、粗雑に包装紙を破りました。

 やがて、リボンをかけられた小さな箱が表れます。ただの贈り物にしか見えませんでしたが、他の士官が「注意しろ」と告げました。


「プレゼントに見せかけて爆弾だった例もある」


 そして彼らは慎重に、中身を確かめます。

 入っていたのは——


「……手帳?」


 それは、成人男性の片手に収まるサイズの手帳でした。

 遠目にも新品だと分かる革の表紙に、所長は(いぶか)しげに視線を走らせます。


「何か暗号のようなものがないか、確かめろ」


 下士官は巻かれている麻紐をほどき、サッとページに目を通しました。


「すべて白紙です。大尉」


 所長は舌打ちして、「こやつ……」とタデクの体をライフルで小突きました。


「どれだけ絞っても吐かぬから、よほど大層な情報でも掴んでいるのかと思ったが……手を煩わせやがって」


 今にも引き金にかかろうとする指。

 私は思わず目をつぶりました。


「待ってください!」


 ザフィールの声が玄関に響きます。

 目を開けると、ザフィは持っていたはずの小銃をホールの床に投げ捨てていました。


「俺が——その男を買います」


 そう言って、ガウンのポケットから札束を取り出します。ひと束、ふた束、三束(みたば)と、まるで手品のように溢れてくるものを、所長は信じられないように見つめていました。


「まさか——おまえ、正気を失ったのか?」

「いいえ、正気ですが……はい、馬鹿なことをしているのは分かっています」


 所長は床に転がっている札束をじっと見つめて、ため息をつきます。


「何をそんなに捨て鉢になっている? ザフィール、おまえの夢は、高官となってベルリンに家を買い、家族とともに暮らすことだったろう」


 説得する声色には、哀れみさえ感じられました。


「寮で出会ったとき、おまえは貧しさを嘆き、家族に楽をさせてやるんだと話していたじゃないか」

「それは——」


 言い淀むザフィールの声には、迷いがありました。

 畳みかけるように所長が続けます。


「その札束をしまえ。有意義に使うんだ。こんなネズミの代価にはもったいない」


 私は、もう何も、考えられませんでした。

 クラクフの広場で泣いていた、痩せっぽっちの少年を知っています。

 軍の将校として再会したときの、誇り高い表情を知っています。

 そんな彼が「どうして憎ませてくれないんだ」と、振り絞るように泣いた夜を……知っています。


(家族思いで、誇り高くて)


 優しいけど不器用な、私の友人。

 その友人は肩を震わせ、拳を握りしめて、必死に両足で立っています。


「俺、だって……こんなことに使いたい訳ではありません」

「それなら——」

「しかしこうでもしなければ、その男は今にも撃たれて死ぬでしょう。俺にはこいつが必要なのです」


 身体を支え突っ張っていた彼の膝は、とうとう降伏し、ドッと音を立てて床に崩れ落ちました。

 ザフィのか細い声が、内緒話を紡ぐように「お願いです」とささやきます。


「この札束の中には、ポンド札とドル札も混じっています。この戦況ではドイツの紙幣より価値があるでしょう。必要なら、この邸の財産すべて没収されてもかまいません」


 わずかな沈黙。

 それから、所長は部下たちに札束を拾うよう指示しました。

 彼らは事務的にそれらを掴みあげます。

 ザフィールの誇り、名誉、地位、それらすべてと言えるものを、簡単に。

 所長も失望の色を隠せないようでした。


「ドイツ帝国の屈強な将校が……見下げ果てたものだ」


 うずくまるザフィールを見る目は、哀れみから侮蔑へと、その色を変えていきました。


「お前の兄も左遷(させん)になった甲斐がない」

「……どういうことですか」

「知らなかったのか?」


 私の脈拍が、ドクンと波打ちました。


「あいつはベルリンの本部で人事の任に着いていた。《ユダヤ人問題の最終的解決》を知ったお前の兄は、可愛い弟の異動先を、私的な理由から操作したのさ」

「——最初から、ここでは、なかったのですか?」

「当初はアウシュヴィッツの予定だった。最終解決の要所となるポーランドの最果てで、このプワシュフよりもさらに栄誉ある任務だ。それが何を怖気づいたのか……」


 今までなされた会話の中で、もっとも大きいため息が、所長の口から吐き出されました。


「しかし今となっては理由も知れる。おまえたちが言う《高貴な血筋》とやらは、つまらぬ臆病者の遺伝子だったというだけだ」


 それはまるで、道ばたの虫に唾棄(だき)するような言葉でした。

 用は終わったと言わんばかりに、男たちの軍靴が動き始めます。

 石敷きの床だけでなく、私たちの……何か、とても大切なものまで踏み荒らし、出ていきました。

 遠くに聞こえる、軍用車のエンジン音。

 私は呆然として座り込みました。

 恐ろしい災害が過ぎたあとのように。

 木々のざわめきの向こうに、タイヤの振動が過ぎるまで——

 ずっと、ザフィールの背中は戦慄(わなな)いていました。

 

 それから何があったか、少しのあいだ、私の記憶は曖昧(あいまい)です。

 ぼんやりと覚えていることだけを書いておきます。


 タデクの怪我は、意識を取り戻すのに数日かかるほど酷いものでした。

 そして少しずつ、事のいきさつを教えてくれました。

 小包は父から私への贈り物だったということ。

 添えられていた手紙は、兵士に見つかったとき破いて飲み込んだということ。

 東部の絶滅収容所で、大規模な武装蜂起があったこと。


「まさか、ソボビルか?」


 ザフィールが鋭く問い返したことは、覚えています。

 そして——


「ヴィーシャの父親」

「どうして」

「脱走者をかくまっていたところが」

「ナチスに見つかって」


 彼らはそんな言葉を交わしていました。

 私はその光景を、霧の向こうでたたずむように、たよりない意識のどこか遠くで聞いていました。

 身体はそこにあっても、心はそこにありませんでした。

 もういっそ、このまま消えてなくなりたいとさえ、感じていました。

 愛しい人々がどんどん、しかもあっけなく、別れさえ告げられずにいなくなるというのに、どうして私だけが残されているのか。


「——ずるい」


 私は確か、そう言ったと思います。


「生きているのよ、私たちは」


 支離滅裂な叫びを、スレヴが黙って受け止めていました。

 月のない夜空のような黒い瞳が、真摯に私を見つめていました。


「ただの数字なんかじゃない」

「お金に換えられるようなものじゃない」

「一人ひとり家族がいて、夢を持って、生きているのよ」

「たかが戦争だというだけで、その一言で、どうしてここまで、誰かの命を踏みにじることができるの」


 もう耐えられない。

 私を死なせて。

 慟哭(どうこく)しながら暴れる私の手を、スレヴは握ってくれました。

 そして優しく言ったのです。


「今年の、クリスマスは」


 私は驚きました。

 そんなものがまだ世の中にあることが、信じられませんでした。


「三人で、いっしょに、過ごそう」


 雪ふるクラクフの広場。

 道なりに灯る人々の(いとな)み。

 光が映りこむ窓辺の明るさ。

 あたたかな家庭で過ごした幸せなひととき。

 食卓にところ狭しと並べられた、いい匂いの料理たち。


「バターを、たっぷり使って、パイの重ね焼き(ジャフヌン)を作るよ」

「……それ、スレヴのお母さまの、得意料理だった」

「ソーセージとキノコの煮込み(ビゴス)は、ヴィーシャに、作って、ほしいな」


 目を閉じて思い出す、美しい記憶。

 たくさんの食材を見て色めき立つ母親たち。

 赤ちゃんのお世話をするスレヴ。

 ザフィールの妹と遊んだのは私。


「……ケーキも、欲しいわ」

「そうだね。ザフィールのお母さんの、チョコレートケーキ、美味しかったね」

「作れるかしら」


 スレヴがくすっと笑いました。


「さあ。ザフィールが、レシピを、知っているかな」

「あのケーキには……真っ赤なチェリーを飾らなきゃ」


 ——ああ、それなら、酒漬けのチェリー缶を持ってきましたよ。


 父の声が聞こえます。

 ワインを開けながら、ご機嫌に、朗らかに笑っています。


「どうして」


 つぶやく私の両頬を、涙がとめどなく濡らします。


「こんなことで、泣けてくるの」


 別れはもっと、心の用意をさせてくれるのだと思っていました。

 スレヴのお母さんも、お父さんも、自分の父親も。

 こんな別れが待っていると知っていたなら。

 もっと、もっと——


「思い出が、ぜんぜん足りない……!」

「ヴィーシャ」


 スレヴの温もりが私を包み込みます。


「最高の思い出を、君にあげたい」


 そして、ひたいにキスを受けました。


「僕は、き、君を、愛している」


 スレヴが言葉を選びながら、一生懸命話してくれます。


「この、気持ちは……あの……ふつうの、男女の、感情では、な、ないかも、しれないけれど」


 私は頷いて、スレヴの言葉を待ちました。


「ぼ、僕の、命を、捧げたいと、おもう」


 泣いていたら、なぐさめたいと思う。

 笑っていたら自分も嬉しくなる。

 歩く先に石があったら、そっと取り除いておきたくなる。


「き、君が、生きている、と、いうだけで」


 僕の心に、光が生まれる。

 君の存在は、僕の命に、意味を与えてくれる。


 それだけのことを、彼はつっかえながら、たっぷり時間をかけて伝えてくれました。

 握り合う私たちの手は、涙なのか、汗なのか、びしょびしょになっています。


「——クリスマス、待ちきれないわ」


 私がほほ笑むと、スレヴはホッとしたように、「とびきりのディナーを作ろう」と返してくれました。


「僕たちの、ためだけに」


 私はずいぶん心が落ち着いて、眠りに落ちたと思います。

 ぼやけていた記憶も、この後からは比較的はっきりしています。


 今考えると、スレヴは慣れていたのでしょう。

 生きていることになんの期待も持てない、という人々の嘆きに。

 常に生死の選択を強要される、ゲットーや収容所という環境では、ありふれた感情だったのかもしれません。

 そんな環境で生きるスレヴは、きっと知っていたのです。


 生きようとする力が時に傷つき、失われたとしても。

 たとえ今この瞬間がどんなに無意味に思えたとしても。


 誰かが自分を待っている。

 何かが私を待っている。


 どんなに些細なことでも、日々の先に待っているものが、必ずある。

 それがどんなに——

 人の生きる力を呼び起こすか、ということを。





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