なにかが待つ
「ザフィールを呼んでくれないか? 土産を持ってきたのでね」
顔は笑っているはずなのに、その頬についた血の飛沫が、所長の表情を猟奇的に見せていました。
背すじに寒気が、サアッとかけのぼっていくのを感じます。
所長は振り返り、背後の下士官たちに「連れて来い」と命令しました。
ズルッと暗がりから引きずり出されたモノ。
一瞬、鉄の鎖に縛られた、手負いの大きい熊かと思いましたが——
(タデク!)
私の喉は、今までにない悲鳴をあげました。
生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からないほど、全身に殴打の痕があります。
せめて息があるのか確認したくて、屈もうとした私を「ヴィーシャ!」とザフィの声が制しました。
「屈むな! こっちに来い!」
ザフィールが拳銃の狙いをつけて、鋭く言います。
気づけば、下士官のほうも拳銃を取り出して、私の頭を狙おうとしていました。
「そのままゆっくり退がれ。そいつは後でいい。簡単には死なん」
ザフィールの眼差しと銃口は、手荒な来訪者たちを睨めつけながらも、私の身体を後ろへと押しやります。
「所長どの。こんな夜更けになんのご用ですか」
「上官が部下を訪ねるのに、許可が必要かね?」
所長の声は、どこか面白がっているようです。
「有能な少尉の様子が最近おかしい、と報告を受けて来てみれば、こんなネズミどもと付き合っていたとはな」
「ヴィーシャとタデクの雇用については、以前に貴方の許可を得たはずです」
ザフィールの肩越しに、私は玄関の方を盗み見ます。目をこらすと、所長のそばにいる下士官の一人に覚えがありました。
ナチス将校としてのザフィールに付き従い、以前この邸にスレヴを連れてきた——そしてスレヴを悪魔だと罵った、そのひとでした。
「フン、何が雇用だ。自分が愛玩するポーランド女と、うす汚いコソ泥の間違いだろう」
侮辱の一つひとつに、兵たちの嘲笑する声が重なります。
「さあて……」
所長の声が、一段と低くなりました。
「他に何を隠している?」
私は息ができなくなりました。
もしかしたら、あの下士官はスレヴの存在を知っているのかもしれません。
(いつの間にか、誰かに見られて——?)
今にもパニックを起こしそうな自分を、制するのに必死でした。
ここでもしスレヴが姿を見せれば、所長は間違いなく命を奪うでしょう。
駆除し損ねたネズミを叩き潰すように、簡単に。
(どうか、出てこないで、隠れていて——!)
所長と下士官が見張っている今の状況では、身動きひとつ取れません。
玄関ホールに静寂がおります。
互いの息遣いが聞こえるほど。
「所長どのは、誤解をなさっておいでです」
ザフィールが静かに言いました。
「その男には、確かに前線の動きを探るよう指示を下しましたが、それは、俺の情報工作のためです」
「なに?」
「覚えておいででしょうか。ルブリンで任務をご一緒したとき、俺はまだいち軍曹に過ぎませんでしたが、我が軍に有利な情報をいち早く、貴方にお届けしたことを」
(ルブリン……)
その地名を聞いて、所長とザフィールの会話を思い出しました。
——相変わらずの遠耳だね。
——ルブリンでも君の情報通ぶりにはよく助けられた。
「当時の上官が異動になったと聞いて、居てもたってもいられず、その男を利用したまでです」
「ほう、筋は通っている。しかし——情報のやり取り程度なら、こんな小包が届くのはおかしいじゃないか?」
所長は片手に持っていた茶色の小さな包みを、ひらひらと振って見せました。
これにはザフィールも弁明のしようがありません。
所長から包みを受け取った下士官は、粗雑に包装紙を破りました。
やがて、リボンをかけられた小さな箱が表れます。ただの贈り物にしか見えませんでしたが、他の士官が「注意しろ」と告げました。
「プレゼントに見せかけて爆弾だった例もある」
そして彼らは慎重に、中身を確かめます。
入っていたのは——
「……手帳?」
それは、成人男性の片手に収まるサイズの手帳でした。
遠目にも新品だと分かる革の表紙に、所長は訝しげに視線を走らせます。
「何か暗号のようなものがないか、確かめろ」
下士官は巻かれている麻紐をほどき、サッとページに目を通しました。
「すべて白紙です。大尉」
所長は舌打ちして、「こやつ……」とタデクの体をライフルで小突きました。
「どれだけ絞っても吐かぬから、よほど大層な情報でも掴んでいるのかと思ったが……手を煩わせやがって」
今にも引き金にかかろうとする指。
私は思わず目をつぶりました。
「待ってください!」
ザフィールの声が玄関に響きます。
目を開けると、ザフィは持っていたはずの小銃をホールの床に投げ捨てていました。
「俺が——その男を買います」
そう言って、ガウンのポケットから札束を取り出します。ひと束、ふた束、三束と、まるで手品のように溢れてくるものを、所長は信じられないように見つめていました。
「まさか——おまえ、正気を失ったのか?」
「いいえ、正気ですが……はい、馬鹿なことをしているのは分かっています」
所長は床に転がっている札束をじっと見つめて、ため息をつきます。
「何をそんなに捨て鉢になっている? ザフィール、おまえの夢は、高官となってベルリンに家を買い、家族とともに暮らすことだったろう」
説得する声色には、哀れみさえ感じられました。
「寮で出会ったとき、おまえは貧しさを嘆き、家族に楽をさせてやるんだと話していたじゃないか」
「それは——」
言い淀むザフィールの声には、迷いがありました。
畳みかけるように所長が続けます。
「その札束をしまえ。有意義に使うんだ。こんなネズミの代価にはもったいない」
私は、もう何も、考えられませんでした。
クラクフの広場で泣いていた、痩せっぽっちの少年を知っています。
軍の将校として再会したときの、誇り高い表情を知っています。
そんな彼が「どうして憎ませてくれないんだ」と、振り絞るように泣いた夜を……知っています。
(家族思いで、誇り高くて)
優しいけど不器用な、私の友人。
その友人は肩を震わせ、拳を握りしめて、必死に両足で立っています。
「俺、だって……こんなことに使いたい訳ではありません」
「それなら——」
「しかしこうでもしなければ、その男は今にも撃たれて死ぬでしょう。俺にはこいつが必要なのです」
身体を支え突っ張っていた彼の膝は、とうとう降伏し、ドッと音を立てて床に崩れ落ちました。
ザフィのか細い声が、内緒話を紡ぐように「お願いです」とささやきます。
「この札束の中には、ポンド札とドル札も混じっています。この戦況ではドイツの紙幣より価値があるでしょう。必要なら、この邸の財産すべて没収されてもかまいません」
わずかな沈黙。
それから、所長は部下たちに札束を拾うよう指示しました。
彼らは事務的にそれらを掴みあげます。
ザフィールの誇り、名誉、地位、それらすべてと言えるものを、簡単に。
所長も失望の色を隠せないようでした。
「ドイツ帝国の屈強な将校が……見下げ果てたものだ」
うずくまるザフィールを見る目は、哀れみから侮蔑へと、その色を変えていきました。
「お前の兄も左遷になった甲斐がない」
「……どういうことですか」
「知らなかったのか?」
私の脈拍が、ドクンと波打ちました。
「あいつはベルリンの本部で人事の任に着いていた。《ユダヤ人問題の最終的解決》を知ったお前の兄は、可愛い弟の異動先を、私的な理由から操作したのさ」
「——最初から、ここでは、なかったのですか?」
「当初はアウシュヴィッツの予定だった。最終解決の要所となるポーランドの最果てで、このプワシュフよりもさらに栄誉ある任務だ。それが何を怖気づいたのか……」
今までなされた会話の中で、もっとも大きいため息が、所長の口から吐き出されました。
「しかし今となっては理由も知れる。おまえたちが言う《高貴な血筋》とやらは、つまらぬ臆病者の遺伝子だったというだけだ」
それはまるで、道ばたの虫に唾棄するような言葉でした。
用は終わったと言わんばかりに、男たちの軍靴が動き始めます。
石敷きの床だけでなく、私たちの……何か、とても大切なものまで踏み荒らし、出ていきました。
遠くに聞こえる、軍用車のエンジン音。
私は呆然として座り込みました。
恐ろしい災害が過ぎたあとのように。
木々のざわめきの向こうに、タイヤの振動が過ぎるまで——
ずっと、ザフィールの背中は戦慄いていました。
それから何があったか、少しのあいだ、私の記憶は曖昧です。
ぼんやりと覚えていることだけを書いておきます。
タデクの怪我は、意識を取り戻すのに数日かかるほど酷いものでした。
そして少しずつ、事のいきさつを教えてくれました。
小包は父から私への贈り物だったということ。
添えられていた手紙は、兵士に見つかったとき破いて飲み込んだということ。
東部の絶滅収容所で、大規模な武装蜂起があったこと。
「まさか、ソボビルか?」
ザフィールが鋭く問い返したことは、覚えています。
そして——
「ヴィーシャの父親」
「どうして」
「脱走者をかくまっていたところが」
「ナチスに見つかって」
彼らはそんな言葉を交わしていました。
私はその光景を、霧の向こうでたたずむように、たよりない意識のどこか遠くで聞いていました。
身体はそこにあっても、心はそこにありませんでした。
もういっそ、このまま消えてなくなりたいとさえ、感じていました。
愛しい人々がどんどん、しかもあっけなく、別れさえ告げられずにいなくなるというのに、どうして私だけが残されているのか。
「——ずるい」
私は確か、そう言ったと思います。
「生きているのよ、私たちは」
支離滅裂な叫びを、スレヴが黙って受け止めていました。
月のない夜空のような黒い瞳が、真摯に私を見つめていました。
「ただの数字なんかじゃない」
「お金に換えられるようなものじゃない」
「一人ひとり家族がいて、夢を持って、生きているのよ」
「たかが戦争だというだけで、その一言で、どうしてここまで、誰かの命を踏みにじることができるの」
もう耐えられない。
私を死なせて。
慟哭しながら暴れる私の手を、スレヴは握ってくれました。
そして優しく言ったのです。
「今年の、クリスマスは」
私は驚きました。
そんなものがまだ世の中にあることが、信じられませんでした。
「三人で、いっしょに、過ごそう」
雪ふるクラクフの広場。
道なりに灯る人々の営み。
光が映りこむ窓辺の明るさ。
あたたかな家庭で過ごした幸せなひととき。
食卓にところ狭しと並べられた、いい匂いの料理たち。
「バターを、たっぷり使って、パイの重ね焼きを作るよ」
「……それ、スレヴのお母さまの、得意料理だった」
「ソーセージとキノコの煮込みは、ヴィーシャに、作って、ほしいな」
目を閉じて思い出す、美しい記憶。
たくさんの食材を見て色めき立つ母親たち。
赤ちゃんのお世話をするスレヴ。
ザフィールの妹と遊んだのは私。
「……ケーキも、欲しいわ」
「そうだね。ザフィールのお母さんの、チョコレートケーキ、美味しかったね」
「作れるかしら」
スレヴがくすっと笑いました。
「さあ。ザフィールが、レシピを、知っているかな」
「あのケーキには……真っ赤なチェリーを飾らなきゃ」
——ああ、それなら、酒漬けのチェリー缶を持ってきましたよ。
父の声が聞こえます。
ワインを開けながら、ご機嫌に、朗らかに笑っています。
「どうして」
つぶやく私の両頬を、涙がとめどなく濡らします。
「こんなことで、泣けてくるの」
別れはもっと、心の用意をさせてくれるのだと思っていました。
スレヴのお母さんも、お父さんも、自分の父親も。
こんな別れが待っていると知っていたなら。
もっと、もっと——
「思い出が、ぜんぜん足りない……!」
「ヴィーシャ」
スレヴの温もりが私を包み込みます。
「最高の思い出を、君にあげたい」
そして、ひたいにキスを受けました。
「僕は、き、君を、愛している」
スレヴが言葉を選びながら、一生懸命話してくれます。
「この、気持ちは……あの……ふつうの、男女の、感情では、な、ないかも、しれないけれど」
私は頷いて、スレヴの言葉を待ちました。
「ぼ、僕の、命を、捧げたいと、おもう」
泣いていたら、なぐさめたいと思う。
笑っていたら自分も嬉しくなる。
歩く先に石があったら、そっと取り除いておきたくなる。
「き、君が、生きている、と、いうだけで」
僕の心に、光が生まれる。
君の存在は、僕の命に、意味を与えてくれる。
それだけのことを、彼はつっかえながら、たっぷり時間をかけて伝えてくれました。
握り合う私たちの手は、涙なのか、汗なのか、びしょびしょになっています。
「——クリスマス、待ちきれないわ」
私がほほ笑むと、スレヴはホッとしたように、「とびきりのディナーを作ろう」と返してくれました。
「僕たちの、ためだけに」
私はずいぶん心が落ち着いて、眠りに落ちたと思います。
ぼやけていた記憶も、この後からは比較的はっきりしています。
今考えると、スレヴは慣れていたのでしょう。
生きていることになんの期待も持てない、という人々の嘆きに。
常に生死の選択を強要される、ゲットーや収容所という環境では、ありふれた感情だったのかもしれません。
そんな環境で生きるスレヴは、きっと知っていたのです。
生きようとする力が時に傷つき、失われたとしても。
たとえ今この瞬間がどんなに無意味に思えたとしても。
誰かが自分を待っている。
何かが私を待っている。
どんなに些細なことでも、日々の先に待っているものが、必ずある。
それがどんなに——
人の生きる力を呼び起こすか、ということを。




