終着駅
聞いていたのか、と問う声に、私は答えられませんでした。
先ほどまで弱々しく喘いでいた青年は、すでにナチス将校としての顔つきを取り戻しています。
「戦線が近づくにつれて、アウシュヴィッツへの移送が加速していると聞いている」
(そこは……ユダヤ人たちの、長い長い移送の果てに、たどり着く場所)
まだプワシュフのゲットーが解体される前に、ザフィールとスレヴが交わした会話を思い出します。
——移送された者は、収容所の医師たちによって《選別》されて左右の列に分けられる。
——労働か、ガス室か。その一瞬で決まる。
あの夜、ザフィールは言いました。ガス室なんてものはない、と。
しかし今、彼は知っているのです。
アウシュヴィッツという場所で、またはその他の《絶滅収容所》で、何が行われているのかを。
(たった一人の判断で、一瞬で、誰かの生死が決められる場所)
右か、左か、指差しただけで。
「ここだけじゃない。ワルシャワや、他のゲットーも閉鎖されて、前線に近い収容所も解体されつつある。そうだろ? スレヴ」
振り返ると、スレヴが盆にティーポットとカップを乗せて、立っていました。
「ザフィ、ね、寝ていて」
スレヴに「ヴィーシャ、おいで」と促されて、私はようやく足を動かし、室内に入りました。
一人掛けのソファに崩折れるように腰を落とすと、スレヴがお茶を入れてくれました。
「この際だ。ちゃんと、話をしよう」
スレヴの口調から、これからとても大事な話をするのだということが分かりました。
ティーカップを手に取ると、ほのかにコニャックの香りがします。しかも、上等な。
「これって……」
スレヴはいたずらっぽくほほ笑んで、「こんな、時だから」と言いました。
温かいティーカップを受け取って初めて、自分の指先がとても冷えていることに気づきました。
ひと口飲むと、やわらかな灯火が喉を通り抜けて、凍りついていた身体がほどけていくようでした。
「ヴィーシャ」
そんな私を見計らったかのように、ザフィールが呼びます。
「俺たちは、お前をここから逃がしたい。それは共通の思いだ。だが、どこへ、どんな手段で逃がすか。それが悩みどころだ」
ザフィールもコニャックの香りで、気持ちが落ち着いたようです。
目は赤いままでしたが、しっかりとした冷静な口ぶりでした。
スレヴも頷いて私を正面から見据えます。
「結論から、言うと、今すぐにでも、君とザフィールを、イタリアへ向けて、亡命させたい」
「俺はずっとそれに反対していた。ヴィーシャはともかく、俺は、軍人だ。軍人は上官の命令を最後まで遂行するのが仕事で、任地から逃げるなんてもっての他だからな」
だけど、とザフィールが言葉を詰まらせます。
「俺が怪我をして離れているあいだに、現場の状況は——変わり果てていた。兵たちは、自分の残虐さを競ってでもいるかのようだ。所長は朝から酒を飲んで、無差別に収容者たちを撃っている。そんな振る舞いをしている大尉の、直属の部下が——俺だ」
ザフィールの言葉には、上官に対する複雑な気持ちがあらわれています。
私が所長のハウスメイドとして雇われ、ザフィールが私を紹介したとき、二人のやり取りから、ある程度の人間関係が築かれているということは、容易に見てとれました。
所長に対するザフィールの気持ちは、今思えば、兄に向ける憧憬や、父親に認めてほしいという自尊心に似たものだったのかもしれません。
「もちろん、ドイツが負けるとは思っていないが……」
ザフィールは眉根を寄せて話し続けます。
「万が一、前線がこのまま南下し続けてソ連軍がここを占領すれば、俺は捕虜になる。ヴィーシャを守ってやれない」
それに、と今度はスレヴが継ぎました。
「ソ連の兵たちは、占領地の女性に対して、乱暴をする。実際に、そういう例を聞いている」
「……つまり、このまま何もせずに待っていれば、私はお人形さんじゃなくて、ソ連軍の女にされるってことね」
私はくちびるを噛み締めました。
自分の性別に、言いようのない屈辱感を感じたからです。
(女というだけで、戦争には不利な性別……私が男だったら、みずから戦場に飛び込んで、大切な人たちを守ることができるのに)
拳を強く握りしめた私の肩を、スレヴの手のひらが包みました。
「だから僕は、君とザフィールを、ここから逃したい。ずっとそう言っていたんだ」
(『君とザフィールを』、なんて)
私はなんだか胸騒ぎがしました。
——母親としては、心配でもあるの。
穏やかでやわらかな響きの声が、脳裏によみがえります。
——誰かのために、平気で自分を犠牲にするようなところがあるでしょう。
「スレヴは?」
私は弓を持つように、引き絞って訊ねました。
「私とザフィが一緒に行くなら、スレヴだってそうでしょう?」
スレヴは一瞬、目を真ん丸くさせました。
黒い瞳の中いっぱいに、星空の瞬きを集めたような光がきらめきます。
「もちろん、そのつもりだよ」
「本当ね?」
私が念押すところを、ザフィールが「くどいぞ、ヴィーシャ」と遮ります。
「だって心配なんだもの!」
「なあスレヴ。お前が亡命を急かす理由は分かったが、そのルートは難しくなった」
スレヴが驚いてザフィールを振り返ります。
「つい最近、諜報員から情報が入ったばかりなんだが……ハンガリーが、ドイツを裏切って連合軍側につこうとしているらしい。上層部では軍の派遣を検討しているところだ」
ザフィールは軍服の首元をゆるめて、足を組み直しました。
「前線になる恐れがある。内陸は三つ巴状態だな」
「それなら、海岸に行くほうが、安全だ」
「ワルシャワ経由でバルト海へ向かうのはどうだ? そうすれば、途中でヴィーシャの父親とも合流しやすいだろう」
スレヴは思慮深く、しばらく沈黙しました。
「——うん。それがいい」
タデクに連絡をつけてもらおう、とスレヴが言って、ティーカップを置きます。
カチャンと食器のぶつかる音が「話はこれでおしまい」と言っているようでした。
その翌日、タデクが軍用車で迎えに来たとき、ザフィールは夕べの失態など見せなかったかのように振る舞いました。タデクも多くを訊ねるようなことはせず、「後で荷を持ってくる」と私に言いました。
庭先のバラを見ると、花びらに朝露がのっています。
(短い夏が、もうすぐ終わるわ)
私はなんだかもの寂しい気持ちになりましたが、急いで台所に戻りました。
それからは、夜に三人で地図と睨めっこをすることが日課になりました。
地図は応接間に広げっぱなし、マルをつけてはバツをつけ、あっちはどうだ、こっちはどうだ、と試行錯誤が始まります。
正直言って、地理に疎い私にとっては、二人の話についていくのが精いっぱいでした。
(もっと、スレヴのお店の地球儀で、勉強しておけば良かったわ)
なにしろ戦況は刻々と変化するのです。
八月のある日、タデクが残したメモを見て、ザフィールがため息をつきました。
「そういうことか」
「何があったの?」
ザフィールは軍帽を取り、髪を掻きあげながら、うっとおしそうに言いました。
「俺と所長の、さらに上官——ルブリンで働いていたときの責任者が、異動になった」
「タデクのメモには?」
「トレブリンカで収容者の武装蜂起があった、と」
スレヴもそばに来て、メモを覗き込みます。
「ふ。タデクが、行きそびれた、場所だ」
「お前に聞いてから俺の部下を使って探らせたが、確かに、あそこは絶滅収容所だった」
ザフィールは脱力したようにシンクへ身体を預けました。
「プワシュフのような労働収容所とは違って、絶滅収容所の《処理工程》は徹底している」
「処理工程って——」
「ヴィーシャ、それは聞かない方がいい」
私はスレヴを見上げました。
光のいたずらでしょうか。青白く、骸骨のような影が、サッと映り込んだように見えました。
(この邸に来てからだいぶん栄養状態は良くなって、頬も肉づきを取り戻したはずなのに)
「とにかく、そういう徹底した管理下の施設で、組織的な武装蜂起が起こったんだ。一時的な、暴動のようなものとは訳がちがう。厳しく監視されている中、それをぶっ壊すほどの何か、そうまで確信させる雰囲気が、前線にはあるということだ」
ザフィールは軍帽をもてあそびながら、話を続けます。
「ルブリンの責任者の異動は、表向きは栄転だが——俺から言わせれば、隠蔽工作だな。絶滅収容所の存在は……見つかれば、国際世論の批判の的になるだろう」
スレヴも頷きます。
「解体なんて、聞こえは良いけれど、要は、証拠の隠滅だ」
いっぱいの情報があふれて、私の頭の中はゴチャゴチャになってしまいました。必死に脳を働かせながら、二人の話を自分なりに噛み砕きます。
「えっと……つまり、収容者の人たちは、その……《処理工程》を知っているのよね?」
「そうだ」
「だから、ナチスが証拠を隠すってことは、収容者の人たちを——」
(始末する、ということ)
「あ——」
私は息をのみ、その意味するところの残酷さに気づきました。
「だから……武装蜂起したのね。自分たちの運命を悟って」
どうせ奪われる命なら、せめて最後は抵抗したい。
少しでも、生き延びられる望みがあるなら。
そんな収容者の人たちの、切実な悲鳴が聞こえるようでした。
「窮鼠猫を噛む、とでもいうのか」
ザフィールは皮肉たっぷりの笑みを浮かべて言いました。
「ワルシャワでの蜂起を受けて、各収容所の責任者たちは、工程管理に必死になっている。武装集団やレジスタンスによって妨害行為が起これば、対応に追われて貨車は止まり、《処理工程》も滞る」
あまりにも非人間的なことを、つらつらと説明するザフィールに、私は胃がむかつきました。
「ねえ、その《処理》って言葉、どうにかならない?」
「ふ、ヴィーシャの屁理屈が始まったな」
「結局それって、ハッキリ言って《虐殺》でしょう? しかも大量の」
ザフィールは肩をすくめました。
「仕方ないだろう。公文書ではそう記すことが決まっているんだ」
「言葉を変えたからって、意味まで変わらないわ」
「変わるさ」
「何が?」
「《処理工程》に関わる俺たちの気持ちだよ」
私はザフィールを見つめました。彼はうつむいて、懐の金時計を確かめながら——本当に時間を見ているのかは分かりません——虚ろな眼差しをしています。先ほどスレヴの顔にチラついた骸骨の影が、今度はザフィールに乗り移ったようです。
「俺たちだって、進んで人殺しをしたい訳じゃない」
ザフィールが、自分の行為を《人殺し》だと明言するのは、このときが初めてでした。
「だけど《処理》なら——仕事であり命令ならば、仕方がない。従うしかない。そうやって自分に暗示をかける。自分自身が狂わないように」
「どうして……そこまでして……?」
「決まっている。家族の食い扶持を稼ぐためだ」
真っ直ぐに私を見つめてくる双眸には、有無を言わせぬ力がありました。
蒼玉を嵌め込んだような美しい瞳の中で、怒りの炎がゆらめいています。
かつてクラクフの広場で、俺の弟はミルクも飲めない、と叫んだ少年のときのまま。
(あの頃のザフィールが、今も生きてる)
ただ、貧しい家族を憂いている。
そんな純粋な少年や少女たちが、当時のドイツには、数えきれないほどいたでしょう。
悲しみは敵意となって、やがてみずから武器を持つ。
(そうよ、私だって思ったじゃない。もし自分が男なら進んで戦場に行くのに、って)
——《英雄気取り》はやめなさい。
父の厳然とした言葉が、今になって私の胸のうちを刺します。
戦争行為を非人間的と批難しながら、自分こそ英雄気取りで、友人に残酷な言葉を投げつけていたことを知らされます。
「……ごめん、なさい」
降りた沈黙の中で、スレヴが優しく、私の頭をポンポンと叩きました。
「ヴィーシャは、や、優しい、ね」
私が目線を上げると、スレヴがなんだか面映そうな表情を浮かべています。
「愛して、いるよ」
一瞬、言葉の意味が分からなくて、私はポカンとしてしまいました。
ザフィールが堪えきれず笑い出します。
「く、ははっ! こんな話の後で言うことか?」
「こんな、話の、後だから、よけいに」
スレヴは何かを吹っ切ったかのように、満面の笑みを見せました。
「ふたり、とも、愛して、る」
乙女心を惑わす罪つくりな男の表情!
私は自分の首が熱くほてってくるのを感じながら、懸命に言い返しました。
「どうしてそんなに綺麗な瞳で甘いことを言ってくるの!?」
「ふふ、ヴィーシャ、可愛い」
「そんなの、愛情でいったら、私だって負けてないから!」
「僕の、ほうが、強い。ぜったい」
「スレヴったら!」
スレヴと私のやり取りが、なんだか喧嘩めいてきました。
「確かになあ」
笑いすぎて涙まで出てきたらしいザフィールが、目尻をぬぐいながら言います。
「お前たちを見てると、《愛》というものの存在を信じたくなるよ」
その笑顔は、屈託ない少年のようでした。
(そんなふうに笑ってくれるなら)
(いつだって、何度だって、証明する)
(あなたが人殺しだろうと、戦犯だろうと、変わらず私の友人であること)
そして、私がスレヴとザフィールを、心の底から大切に想っているということを。
バラの季節が終わり、紅葉樹が赤く染まる頃。
イタリアの降伏を知りました。
もちろん、ドイツの大本営がそんなふうに報道するはずはありません。
「タデク、ラジオを聞かせてくれ」
ザフィールがそう言うときは、決まってタデクお手製のラジオのことでした。
タデクは上手くそれを完成させ、大胆にもザフィールの邸に置いていました。電子工学に明るい彼は、連合国軍側の無線をつかまえることにも成功したのです。
自然と国外への亡命の話も、タデクを含めて話すようになり、私は色々な視点から戦争の動きを知ることになりました。
「北はノルウェー」
タデクがコーヒーを飲みながら教えてくれました。
「西はベルギー、南はギリシャのユダヤ人も、アウシュヴィッツに送られてくるらしい」
「だけど地中海の辺りは、もう連合国が占領したのでしょう?」
「お嬢ちゃん、占領したからってハイ終わり、とはならねえよ。特にイタリアはナチスの同盟国だぜ。現地にもドイツ兵がいるに決まってるだろうが」
「軍部でも、降伏したはずのイタリア兵が、労働収容所に移送された例が報告されている」
ザフィールは頭が痛いといった仕草で、呆れたように言います。
「そうさ、北イタリアはまだナチスの範囲内。下手すると移送の貨車に詰め込まれちまう」
「……あの、タデク」
スレヴがためらいながら口をひらきました。
「ヴィーシャの、お父さんのこと、だけど」
「おう、分かってるよ。こっちも仲介人を急かしてはいるんだが」
タデクはこめかみをガリガリと掻きながら、珍しく焦ったような表情を浮かべています。
「あっちの奴らも、しばらく連絡が難しいと言っていた。ルブリンの辺りは、今いちばん前線に近いからな」
「……大丈夫かしら」
何も大丈夫ではないはずなのに、私は場違いな言葉を言わずにいられませんでした。
それくらい心配だったのです。
男性たちとの話し合いを経て、私の《前線》という語彙に対する危機感はまったく変わってしまいました。
行き交う装甲車。
ゲリラ戦をする兵士たち。
硝煙の匂い。
一瞬の運命のいたずらで、命が奪われてもおかしくない。
——お前たちには、いつも心配させられてばかりだ。
私を送り出してくれた父親の、困ったようなほほ笑みを思い出して、私は両手の指を組みました。
(お母さま、この祈りが届くなら、どうか、お父さまを守って)
そうして祈る日々が続いて、数週間後。
足早に過ぎ去る秋の風が、冬の匂いを呼び込むのと、とき同じくして……待ちに待っていた父からの手紙は、ようやく私の手もとに届きました。
ただし、それはタデクからではありませんでした。
その日は夜になってから、めずらしくドアベルが鳴りました。私たちがいつものように、応接間で地図を広げていた時刻のことです。
(タデクったら、ふだんなら勝手口から入ってくるのに)
ドアベルが急かすように鳴り続けます。
「はいはい、今開けるから——」
私の持つ手灯り、ロウソクのちいさな炎が、隙間風にゆらぎました。
玄関先に立っている、大柄な軍服のシルエット。
安物のお酒のにおいがして、その顔を見上げました。
「あ、」
「こんばんは。可愛らしいお嬢さん」
片手に小包を持ち、
もう片手にライフルを持って、
頬に返り血を浴びたまま笑っている、
プワシュフ収容所の所長——アーモン・ゲートの姿でした。




