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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第四章 灰混じりの雪

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20/22

魔に逢うとき

 三人での生活は、淡々と続きました。


 朝起きて、湯を沸かす。

 ザフィールの傷の様子を見る。

 スレヴと私が食事の支度をしている間、ザフィールは執務室で書類に目を通したり、電話で指示を出す。

 食事ができたら、三人で食べる。

 軍医さまや下士官など、来客があれば、スレヴを地下室に隠す。


 そんな日々の中で、ちょっとしたスパイスの役割をしてくれるのが、タデクでした。ジャガイモや豆、ミルク缶などを大きな荷台で運んできては、小さな紙切れをザフィールに預けていくのです。

 タデクがどんな情報を仕入れてくるのか、私には誰も教えてくれませんでした。

 ただし、その情報をきっかけに、ザフィールとスレヴの口論が聞こえてくることもありました。執務室から飛び出てくるのは決まってザフィールの方で、そうすると私はお茶を入れたり、薬を用意したり、彼のご機嫌取りをしなければなりませんでした。


 そんな六月の半ば、ライラックの花が咲く頃に、ザフィールの腕は完治しました。

 久しぶりに軍服に袖を通した姿を見ると、安心と不安、両方の心がせめぎ合います。


(この数ヶ月は、表情がずっとやわらかくなったのに)


 またナチスの仮面が張り付くかもしれないと思うと、つい、玄関まで見送りに出てしまいました。

 門の外には、下士官たちが送迎のために、黒い軍用車を停めて待っています。


「ザフィ、あの……」

「なんだ?」


 なんと言えばいいのでしょうか。

 彼は仕事に行くのです。収容者の労働を監督し、ときに処刑される場所へ。あの残忍な大尉の部下として、歯車にならなければいけないのです。

 がんばって、とも、いってらっしゃい、とも言えません。

 私が言い淀んでいると、ちょうどいい、とスレヴが顔を寄せました。

 そして少し屈んで、そっと私の頬にキスをしました。


「な!?」

「じっとしていろ。アイツらが見ている」


 門の向こうの兵たちのことでしょう。

 それにしたって、ザフィの長いまつ毛が、肌のうえでゆれて、くすぐったくてたまりません。


「怪我が治ってからも、お前をここに留めておくために、少々強引な手を使った。恋人のフリくらいしておかないと不自然だろう」


 あっけらかんと言い捨てていくザフィに、私は真っ赤になってしまって、結局何も言えませんでした。

 気持ちがおさまらず、大股でドスドス歩いて台所に戻ると、スレヴが忍び笑っていました。


「ご、ごめ」

「見ていたの!?」


 私は憤慨しながらも、スレヴの笑顔に文句を言えなくなってしまいました。


(だって、こんなふうに安らいだ表情なんて、戦争が始まってからずっと、見ることがなかったわ)


「き、機嫌、直して。これが、あったよ」


 スレヴが差し出してくれた封筒には見覚えがありました。


「お父さまから!?」


 私は嬉しくなって、飛び跳ねるように受け取りました。

 初めての手紙が来て以来、タデクは私の返信を仲介してはくれましたが、「頻回だと怪しまれる」ということで、やり取りは控えられていました。


「よ、読んで、おいで」

「ありがとう! あっ、でも待って、先に洗濯物をやっつけなくちゃ」


 喜びに慌てる私を、スレヴも嬉しそうに見つめてくれていました。


(一日の仕事を終えてからでも、じゅうぶん読めるわ)


 夏の太陽の明るさは長く続きます。

 楽しみにとっておこうと、私は弾んだ気持ちで、洗濯物に取り掛かりました。石けんを溶かした(たらい)に布を浸し、じゃぶじゃぶと足踏みをします。

 庭に咲く花々の匂いを胸いっぱいに吸い込み、顔を上げました。

 青空をゆく戦闘機の隊列さえ、美しく光って見えるのでした。


「オレぁここに来ると、つい気が緩んじまうな」


 ある日、タデクが言いました。

 彼が車のボンネットを磨いているところに、私がパンとチーズを持って行ったときのことでした。


「いいじゃない、気が緩んだって」

「感覚が鈍るのは避けたいねぇ」


 タデクは機械油で汚れた布をポケットに押し込み、パンを頬張りました。


「ザフィールもそうなのかしら」


 怪我は治ったはずなのに、帰宅すると、青白い顔をしていることがよくありました。思い悩む表情も増えたような気がします。

 それをタデクに伝えると、パンくずまみれの手でわしゃわしゃと頭をなでられました。


「鉄条網の中では、常に生死の最前線だからな。いくら命令に忠実な将校さまでも、気が滅入るのは仕方ねェよ」

「それはそうだけど……最近は、下士官の人たちとの付き合いも、減った気がするの。送迎まであなたの仕事になって」

「オレはかまわんよ。このとおり、機械いじりは好きだしな」


 しかもさ、とタデクは指でチョイチョイと私を招きました。


「修理に乗じて、少しずつ部品を頂いてる。ラジオを作ってんだ」

「そんなことができるの!?」

「近くに軍需工場があるだろ。そこで機材を借りてる」

「あなた、ほんとに顔が広いのね」


 タデクの眼差しが、誠実な強さで私を射抜きました。


「嬢ちゃんも心の準備をしておきな。ここんとこ、ひっきりなしに飛行機が飛んでるだろ。あれはイギリスやアメリカのもんだ」

「どおりで、見慣れないと思ったわ」

「じきに連合軍がやってくる。少尉どのから聞いたが、お前さんフランス語に覚えがあるんだってな」

「うーん、しばらく使っていないから、どうかしら」

「ちゃんと話せるように思い出しておけよ」


 私はタデクの意図が汲めず、首を傾げました。

 今さっきはイギリスとアメリカの話をしていたはずなのに。


「……なんでフランス語?」

「聞いてねェのか?」


 噛み合わない私たちの代わりに、草木が風に揺れて、さわさわと音を立てました。

 タデクは下を向いて「ったく」と舌打ちしました。


「あの二人、まだ揉めてやがんのか」

「ねえ、なんの話——」

「忘れろ」

「無理よ!」

「昼メシ、ありがとな」


 私はくちびるをとがらせて、タデクの大きな背中を睨みました。

 だけど彼は悪くないのです。


(わるいのは、私に隠しごとばっかりしてる、あの二人だわ!)

(だけど、何もかも教えられるほど、安全で優しい世界じゃないってことも、分かってる)

(結局、私にできることは……)


 モヤモヤした気持ちのまま家事を終えて、私は玄関横のベンチに腰掛けました。

 ベンチと言うには粗末な板材を積んだものでしたが、ここに座って、夕日を頼りに父の手紙を読み返すことが、私の日課になっていました。


(毎日読んだって、内容が変わる訳でもないのに)


 書かれているのは、私が無事で安心しているということ。

 父がまだポーランドへ来たばかりの頃、この街で過ごしたということ。


『オーリャとの思い出が、あちこちに残っている』


 写真でしか知らない母、オリガ。

 私にそっくりだと、父はよく言っていました。金の髪、笑う目じり、怒った顔、向こう見ずな性格も。

 今もきっと大切に写真を持ち歩いて、愛おしさをいっぱいに集めたまなざしで、彼女の笑顔を見つめているのでしょう。


(想像できちゃう)


 私がクスッと笑うと、砂利を踏む音が聞こえました。

 いつの間にか、ザフィールが帰ってきていました。

 私を見つめ、青白い顔で呆然と立ちすくんでいます。


「どうかした?」


 私は心配になって、ザフィにかけ寄りました。

 軍用車の運転席から、タデクが慌てて出てくるのが見えました。


「ザフィ——」


 駆け寄った私の肩にしがみつくように、ザフィールが倒れ込みました。

 ザフィールの呼吸は荒く、今にも嘔吐しそうなほどの顔色でした。


「嬢ちゃん!」


 門の外から、タデクが走ってやってきました。


「何があったの!?」

「迎えに行ったときから、様子がおかしいと思ってたんだ」


 タデクがザフィールの脇に腕を回し、しっかりと抱えます。

 何がなんだかわからないまま、私たちは邸内にザフィールを運び込みました。

 スレヴも、取り込んだ洗濯物の山を抱えたまま、急ぎ足でやって来ます。


「ど、どうしたの」

「わからないわ。熱はなさそうなんだけど……立ちくらみした感じだった」


 ひたいに手をやり、脈を確かめながら「吐き気はある?」と尋ねました。

 意識はあるらしく、ザフィールがわずかに首を縦に動かします。

 スレヴが「な、何か、持ってくる」と部屋を出ました。


「タデク、何か心当たりはある?」

「いや……今日は日中こっちに居たからな。向こうで何があったかまでは分かんねえ」

「そうね。それに、もう点呼の時間だわ。あなたは戻らなきゃ」


 所内では労働隊や寝起きするバラックによって、厳しく点呼時間が定められていました。


「門番や棟長の買収が必要なら、現金でもお酒でも持って行って」

「気前がいいねェ」

「茶化さないで。あなたが無事に戻るためよ」

「分かってる。中で変わったことがあったか、可能な限り聞いておく」

「ええ、お願い」


 タデクを見送りに出た私は、洗面用の(たらい)と布巾を携えたスレヴとすれ違いました。


「ヴィーシャ、湯が、沸いたら、持って、きてほしい」


 分かった、と、私はなんの疑問も持たず頷きました。

 それがスレヴの配慮であったとは気づかずに。

 台所でヤカンを確認してから、私は応接間の水さしが空になっていたことを思い出しました。


(水分、()れるかしら)


 慌ててグラスに水を入れて持って行ったのが、間違いでした。


「——ったよ……」


 部屋に入る寸前、わずかに開いているドアの隙間から、ザフィールの声が聞こえました。

 私がハッと足を止めたのは、彼の声が、あまりにも——


「お前の言っていたことの意味……ようやく、分かった……」


(こんなに、打ちひしがれたような、弱々しい声……初めて、聞いた)


 いけないこととは知りながら、どうしても気になって、室内を覗き見ました。

 スレヴは黙って、ザフィールの傍らに座っています。


「あの、丘……なんと言ったか」

「フヨヴァ・グルカ。僕がいた、バラックからは、よく見えた」

「じゃあ、あんな光景を、しょっちゅう見ていたのか?」

「見ることを、強制されることも、あった」

「……俺は、知らなかったんだ……」


 ザフィールが鼻をすすり、苦しみに喘いでいるような、そんな雰囲気が伝わってきました。


「深い穴の中から、埋まりきらない手や、足が……何本も、はみ出て」

「あの場所は、僕らへの、見せしめ、だよ。一人が、脱走しようとすれば、十人が、あの丘で撃たれる」

「ふ……そんなことは、ただの数字だと思っていた」

「そう、だろうね」


 スレヴが優しく、ザフィのひたいを撫でています。

 ザフィはその振る舞いに文句ひとつ言いません。

 私たち三人が初めて出会った日、泣きじゃくるザフィールを抱きしめたスレヴの姿を思い出しました。


 どれだけ(ののし)られた相手でも、関係ない。

 泣いている迷い子がいれば手を差し伸べる。

 そんなスレヴの優しさに溶かされたように、ザフィールは身体を大きく震わせました。


「今日、一人の女囚が、処刑された。ヴィーシャと同じ歳ごろの女だった」


 その瞬間、私は腹の底からゾッとしました。

 よくよく考えてみれば、自分と同じ年頃の女性も(とら)われていて当たり前なのに。

 どうして今まで、それを忘れていられたのでしょう。


「彼女の処刑理由を、訊ねたら」


 息ができない。

 私の心臓が、ドンドンと耳に響きます。


「胸に下着をつけていたからだ、と」


 ザフィールの口から洩れる息は、嘲笑(わら)っているのか(むせ)び泣いているのか、分かりませんでした。

 きっと本人でさえ、どちらか分かっていないでしょう。


「そんな光景を目にしてさえ、俺は、ヴィーシャの姿を見ると、人間的な気持ちを取り戻すんだ。あいつが笑っていると、嬉しくなる。あいつの持つ温かさに、溺れそうになる。そんな自分自身に、吐き気がした」


 スレヴが黙って聞いているあいだ、ザフィールの独白は続きました。


「俺は、一生懸命、働いているつもりだったんだ。上官の期待に、いかに応えるか、自分のことを誇れるように、必死だった。所長と共にルブリンでこなした任務の、あの——正義は……」


 ナチスの正義。

 それは、国を守ること。

 劣等人種を排除すること。

 ユダヤ人のいない世界を作ること。


「正義は、かんたんに(くつがえ)る——コインの裏は、罪悪だ。裁きは免れない」


 そこまで言い切って、ザフィールは大きく息を吸い、吐きました。

 自分の心を落ち着けるかのように。


「お前が、俺とヴィーシャの亡命を、急かす理由……ようやく、分かった」


 私もようやく分かりました。

 空に弧を描く飛行機雲や、父の在所について確かめた地図、そんな断片的な光景が、写真をめくるように、脳裏を過ぎていきます。


 ——じきに連合軍がやってくる。

 ——ちゃんと話せるように思い出しておけよ。


 そして何よりも、スレヴとザフィールが執務室で口論していた、その理由は——


(国外への脱出……)


 シューッとかん高く蒸気の音が、廊下を伝って響き渡りました。

 スレヴが慌ててドアを開けます。

 私を見つけた彼の瞳が、丸く小さく動きます。


「ヴィ、シャ」


 私の足は、床に縫い付けられたように動きません。

 代わりにスレヴが火を止めに行きました。

 開け放たれたドアを介して、私とザフィールの視線がぶつかります。


「……聞いていたのか」


 緩慢に身体を起こすザフィールの両頬には、涙のあとが鈍く光って見えました。





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