魔に逢うとき
三人での生活は、淡々と続きました。
朝起きて、湯を沸かす。
ザフィールの傷の様子を見る。
スレヴと私が食事の支度をしている間、ザフィールは執務室で書類に目を通したり、電話で指示を出す。
食事ができたら、三人で食べる。
軍医さまや下士官など、来客があれば、スレヴを地下室に隠す。
そんな日々の中で、ちょっとしたスパイスの役割をしてくれるのが、タデクでした。ジャガイモや豆、ミルク缶などを大きな荷台で運んできては、小さな紙切れをザフィールに預けていくのです。
タデクがどんな情報を仕入れてくるのか、私には誰も教えてくれませんでした。
ただし、その情報をきっかけに、ザフィールとスレヴの口論が聞こえてくることもありました。執務室から飛び出てくるのは決まってザフィールの方で、そうすると私はお茶を入れたり、薬を用意したり、彼のご機嫌取りをしなければなりませんでした。
そんな六月の半ば、ライラックの花が咲く頃に、ザフィールの腕は完治しました。
久しぶりに軍服に袖を通した姿を見ると、安心と不安、両方の心がせめぎ合います。
(この数ヶ月は、表情がずっとやわらかくなったのに)
またナチスの仮面が張り付くかもしれないと思うと、つい、玄関まで見送りに出てしまいました。
門の外には、下士官たちが送迎のために、黒い軍用車を停めて待っています。
「ザフィ、あの……」
「なんだ?」
なんと言えばいいのでしょうか。
彼は仕事に行くのです。収容者の労働を監督し、ときに処刑される場所へ。あの残忍な大尉の部下として、歯車にならなければいけないのです。
がんばって、とも、いってらっしゃい、とも言えません。
私が言い淀んでいると、ちょうどいい、とスレヴが顔を寄せました。
そして少し屈んで、そっと私の頬にキスをしました。
「な!?」
「じっとしていろ。アイツらが見ている」
門の向こうの兵たちのことでしょう。
それにしたって、ザフィの長いまつ毛が、肌のうえでゆれて、くすぐったくてたまりません。
「怪我が治ってからも、お前をここに留めておくために、少々強引な手を使った。恋人のフリくらいしておかないと不自然だろう」
あっけらかんと言い捨てていくザフィに、私は真っ赤になってしまって、結局何も言えませんでした。
気持ちがおさまらず、大股でドスドス歩いて台所に戻ると、スレヴが忍び笑っていました。
「ご、ごめ」
「見ていたの!?」
私は憤慨しながらも、スレヴの笑顔に文句を言えなくなってしまいました。
(だって、こんなふうに安らいだ表情なんて、戦争が始まってからずっと、見ることがなかったわ)
「き、機嫌、直して。これが、あったよ」
スレヴが差し出してくれた封筒には見覚えがありました。
「お父さまから!?」
私は嬉しくなって、飛び跳ねるように受け取りました。
初めての手紙が来て以来、タデクは私の返信を仲介してはくれましたが、「頻回だと怪しまれる」ということで、やり取りは控えられていました。
「よ、読んで、おいで」
「ありがとう! あっ、でも待って、先に洗濯物をやっつけなくちゃ」
喜びに慌てる私を、スレヴも嬉しそうに見つめてくれていました。
(一日の仕事を終えてからでも、じゅうぶん読めるわ)
夏の太陽の明るさは長く続きます。
楽しみにとっておこうと、私は弾んだ気持ちで、洗濯物に取り掛かりました。石けんを溶かした盥に布を浸し、じゃぶじゃぶと足踏みをします。
庭に咲く花々の匂いを胸いっぱいに吸い込み、顔を上げました。
青空をゆく戦闘機の隊列さえ、美しく光って見えるのでした。
「オレぁここに来ると、つい気が緩んじまうな」
ある日、タデクが言いました。
彼が車のボンネットを磨いているところに、私がパンとチーズを持って行ったときのことでした。
「いいじゃない、気が緩んだって」
「感覚が鈍るのは避けたいねぇ」
タデクは機械油で汚れた布をポケットに押し込み、パンを頬張りました。
「ザフィールもそうなのかしら」
怪我は治ったはずなのに、帰宅すると、青白い顔をしていることがよくありました。思い悩む表情も増えたような気がします。
それをタデクに伝えると、パンくずまみれの手でわしゃわしゃと頭をなでられました。
「鉄条網の中では、常に生死の最前線だからな。いくら命令に忠実な将校さまでも、気が滅入るのは仕方ねェよ」
「それはそうだけど……最近は、下士官の人たちとの付き合いも、減った気がするの。送迎まであなたの仕事になって」
「オレはかまわんよ。このとおり、機械いじりは好きだしな」
しかもさ、とタデクは指でチョイチョイと私を招きました。
「修理に乗じて、少しずつ部品を頂いてる。ラジオを作ってんだ」
「そんなことができるの!?」
「近くに軍需工場があるだろ。そこで機材を借りてる」
「あなた、ほんとに顔が広いのね」
タデクの眼差しが、誠実な強さで私を射抜きました。
「嬢ちゃんも心の準備をしておきな。ここんとこ、ひっきりなしに飛行機が飛んでるだろ。あれはイギリスやアメリカのもんだ」
「どおりで、見慣れないと思ったわ」
「じきに連合軍がやってくる。少尉どのから聞いたが、お前さんフランス語に覚えがあるんだってな」
「うーん、しばらく使っていないから、どうかしら」
「ちゃんと話せるように思い出しておけよ」
私はタデクの意図が汲めず、首を傾げました。
今さっきはイギリスとアメリカの話をしていたはずなのに。
「……なんでフランス語?」
「聞いてねェのか?」
噛み合わない私たちの代わりに、草木が風に揺れて、さわさわと音を立てました。
タデクは下を向いて「ったく」と舌打ちしました。
「あの二人、まだ揉めてやがんのか」
「ねえ、なんの話——」
「忘れろ」
「無理よ!」
「昼メシ、ありがとな」
私はくちびるをとがらせて、タデクの大きな背中を睨みました。
だけど彼は悪くないのです。
(わるいのは、私に隠しごとばっかりしてる、あの二人だわ!)
(だけど、何もかも教えられるほど、安全で優しい世界じゃないってことも、分かってる)
(結局、私にできることは……)
モヤモヤした気持ちのまま家事を終えて、私は玄関横のベンチに腰掛けました。
ベンチと言うには粗末な板材を積んだものでしたが、ここに座って、夕日を頼りに父の手紙を読み返すことが、私の日課になっていました。
(毎日読んだって、内容が変わる訳でもないのに)
書かれているのは、私が無事で安心しているということ。
父がまだポーランドへ来たばかりの頃、この街で過ごしたということ。
『オーリャとの思い出が、あちこちに残っている』
写真でしか知らない母、オリガ。
私にそっくりだと、父はよく言っていました。金の髪、笑う目じり、怒った顔、向こう見ずな性格も。
今もきっと大切に写真を持ち歩いて、愛おしさをいっぱいに集めたまなざしで、彼女の笑顔を見つめているのでしょう。
(想像できちゃう)
私がクスッと笑うと、砂利を踏む音が聞こえました。
いつの間にか、ザフィールが帰ってきていました。
私を見つめ、青白い顔で呆然と立ちすくんでいます。
「どうかした?」
私は心配になって、ザフィにかけ寄りました。
軍用車の運転席から、タデクが慌てて出てくるのが見えました。
「ザフィ——」
駆け寄った私の肩にしがみつくように、ザフィールが倒れ込みました。
ザフィールの呼吸は荒く、今にも嘔吐しそうなほどの顔色でした。
「嬢ちゃん!」
門の外から、タデクが走ってやってきました。
「何があったの!?」
「迎えに行ったときから、様子がおかしいと思ってたんだ」
タデクがザフィールの脇に腕を回し、しっかりと抱えます。
何がなんだかわからないまま、私たちは邸内にザフィールを運び込みました。
スレヴも、取り込んだ洗濯物の山を抱えたまま、急ぎ足でやって来ます。
「ど、どうしたの」
「わからないわ。熱はなさそうなんだけど……立ちくらみした感じだった」
ひたいに手をやり、脈を確かめながら「吐き気はある?」と尋ねました。
意識はあるらしく、ザフィールがわずかに首を縦に動かします。
スレヴが「な、何か、持ってくる」と部屋を出ました。
「タデク、何か心当たりはある?」
「いや……今日は日中こっちに居たからな。向こうで何があったかまでは分かんねえ」
「そうね。それに、もう点呼の時間だわ。あなたは戻らなきゃ」
所内では労働隊や寝起きするバラックによって、厳しく点呼時間が定められていました。
「門番や棟長の買収が必要なら、現金でもお酒でも持って行って」
「気前がいいねェ」
「茶化さないで。あなたが無事に戻るためよ」
「分かってる。中で変わったことがあったか、可能な限り聞いておく」
「ええ、お願い」
タデクを見送りに出た私は、洗面用の盥と布巾を携えたスレヴとすれ違いました。
「ヴィーシャ、湯が、沸いたら、持って、きてほしい」
分かった、と、私はなんの疑問も持たず頷きました。
それがスレヴの配慮であったとは気づかずに。
台所でヤカンを確認してから、私は応接間の水さしが空になっていたことを思い出しました。
(水分、摂れるかしら)
慌ててグラスに水を入れて持って行ったのが、間違いでした。
「——ったよ……」
部屋に入る寸前、わずかに開いているドアの隙間から、ザフィールの声が聞こえました。
私がハッと足を止めたのは、彼の声が、あまりにも——
「お前の言っていたことの意味……ようやく、分かった……」
(こんなに、打ちひしがれたような、弱々しい声……初めて、聞いた)
いけないこととは知りながら、どうしても気になって、室内を覗き見ました。
スレヴは黙って、ザフィールの傍らに座っています。
「あの、丘……なんと言ったか」
「フヨヴァ・グルカ。僕がいた、バラックからは、よく見えた」
「じゃあ、あんな光景を、しょっちゅう見ていたのか?」
「見ることを、強制されることも、あった」
「……俺は、知らなかったんだ……」
ザフィールが鼻をすすり、苦しみに喘いでいるような、そんな雰囲気が伝わってきました。
「深い穴の中から、埋まりきらない手や、足が……何本も、はみ出て」
「あの場所は、僕らへの、見せしめ、だよ。一人が、脱走しようとすれば、十人が、あの丘で撃たれる」
「ふ……そんなことは、ただの数字だと思っていた」
「そう、だろうね」
スレヴが優しく、ザフィのひたいを撫でています。
ザフィはその振る舞いに文句ひとつ言いません。
私たち三人が初めて出会った日、泣きじゃくるザフィールを抱きしめたスレヴの姿を思い出しました。
どれだけ罵られた相手でも、関係ない。
泣いている迷い子がいれば手を差し伸べる。
そんなスレヴの優しさに溶かされたように、ザフィールは身体を大きく震わせました。
「今日、一人の女囚が、処刑された。ヴィーシャと同じ歳ごろの女だった」
その瞬間、私は腹の底からゾッとしました。
よくよく考えてみれば、自分と同じ年頃の女性も囚われていて当たり前なのに。
どうして今まで、それを忘れていられたのでしょう。
「彼女の処刑理由を、訊ねたら」
息ができない。
私の心臓が、ドンドンと耳に響きます。
「胸に下着をつけていたからだ、と」
ザフィールの口から洩れる息は、嘲笑っているのか咽び泣いているのか、分かりませんでした。
きっと本人でさえ、どちらか分かっていないでしょう。
「そんな光景を目にしてさえ、俺は、ヴィーシャの姿を見ると、人間的な気持ちを取り戻すんだ。あいつが笑っていると、嬉しくなる。あいつの持つ温かさに、溺れそうになる。そんな自分自身に、吐き気がした」
スレヴが黙って聞いているあいだ、ザフィールの独白は続きました。
「俺は、一生懸命、働いているつもりだったんだ。上官の期待に、いかに応えるか、自分のことを誇れるように、必死だった。所長と共にルブリンでこなした任務の、あの——正義は……」
ナチスの正義。
それは、国を守ること。
劣等人種を排除すること。
ユダヤ人のいない世界を作ること。
「正義は、かんたんに覆る——コインの裏は、罪悪だ。裁きは免れない」
そこまで言い切って、ザフィールは大きく息を吸い、吐きました。
自分の心を落ち着けるかのように。
「お前が、俺とヴィーシャの亡命を、急かす理由……ようやく、分かった」
私もようやく分かりました。
空に弧を描く飛行機雲や、父の在所について確かめた地図、そんな断片的な光景が、写真をめくるように、脳裏を過ぎていきます。
——じきに連合軍がやってくる。
——ちゃんと話せるように思い出しておけよ。
そして何よりも、スレヴとザフィールが執務室で口論していた、その理由は——
(国外への脱出……)
シューッとかん高く蒸気の音が、廊下を伝って響き渡りました。
スレヴが慌ててドアを開けます。
私を見つけた彼の瞳が、丸く小さく動きます。
「ヴィ、シャ」
私の足は、床に縫い付けられたように動きません。
代わりにスレヴが火を止めに行きました。
開け放たれたドアを介して、私とザフィールの視線がぶつかります。
「……聞いていたのか」
緩慢に身体を起こすザフィールの両頬には、涙のあとが鈍く光って見えました。




