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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第四章 灰混じりの雪

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19/22

生きる場所

 夜が明けて、山の稜線が淡く見え始めるころ、私とスレヴがキッチンで支度を始めていると、ザフィールが顔を出しました。


「わるかった」


 それはとても小さな声で、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの息遣いでしたが、私の耳には真っ直ぐに届きました。

 スレヴも同じだったのでしょう。驚いて、そら豆の麻袋をテーブルにぶちまけてしまっていました。


「きのう、水をかけたこと……その前にも」


 私が呆けていると、スレヴがめずらしく、鳩のように喉を鳴らしました。


「く、あははっ!」

「お前、人が真面目に……」

「き、きみ、こそ」


 スレヴの困ったような笑い方。久しく見なかった明るい表情に、私までなんだか、ほほ笑みが昇るようでした。


「もう、な、慣れっこだよ」

「ザフィは子どもの頃から、悪態上手だったものね」


 私がからかうと、ザフィはムッとした顔で言い捨てました。


「もういい」


 きびすを返した彼の腕を、パッとスレヴの手のひらが捕まえます。


「あ、ありがとう!」


 私はおもわず口を真一文字に結びました。きゃあ、と変な声が出そうだったからです。


「気にかけて、く、くれて、うれしい」


 スレヴのやさしい、温かな表情には、見ているこちらが恥ずかしくなるほどの魅力がありました。

 例えるならチェロを爪弾く音色や、真っ赤なバラの花びらに頬ずりするような、あの感じです。こんなふうに言っても、まったく伝わらないかもしれません。私の文学的表現の情けないこと!

 とにかく乙女心をつかんで奪ってゆさぶって、それでも憎めない罪な男、それがスレヴという人なのです。


(いいなあ)


 それは、どちらに向かった感情だったのでしょう。

 彼の魅力を真正面から受けたザフィールに?

 誰かを愛し、その気持ちを素直に伝えられたスレヴに?


(それとも——)


 少し寂しい気持ちを感じたことは覚えています。

 しかし、その次のザフィールの言葉で、私は一気に現実に引き戻されました。


「レジスタンスの情報がほしい」


 ザフィの顔つきは、ナチスの将校というよりは、軍人としてのもののようでした。


「お前がきのう話していたことを、よく考えた。タデクが来たら、詳細を教えてほしいと伝えてくれ」

「……それは、なんのために?」


 スレヴの口調にも、鋭く真意をはかろうとする雰囲気が戻りました。


「所長に伝えるつもりはない。あくまで、俺個人の頼みだ」

「情報を得るには、それなりの対価がいる」

「対価……金か、宝石か?」


 ザフィが考え込んだところに、明かり取りの窓が(きし)みました。


「薬ですかねえ」


 タデクが窓から顔を出しました。


「タデク! いたなら声をかけてよ」

「いやあ、なんか雰囲気的にさ」


 タデクは勝手口から、両脇に太い薪の束を抱えて入ってきました。


「金ならドル、宝石ならダイヤ。けどまあ、今の少尉どのでしたら、軍医さまからの医薬品をくすねて頂くのが、いちばんよろしいかと」


 スラスラと慣れた様子の口上は、ザフィールを幾分か警戒させたようでした。


「お前、本当にポーランド人なんだろうな。今の言い方、まるでシャイロックだ」

「それって『ヴェニスの商人』だったかしら?」

「なんじゃそりゃ」

「シェイクスピアの書いた物語よ」


 タデクはぴゅう、と口笛を吹きました。


「嬢ちゃん、学があるねえ」

「読書が好きなの。ここに来る前に、本はぜーんぶ没収されたけれど」

「そりゃお気の毒」

「ザフィ、あのお話に出てくる金貸しはユダヤ人よ」


 私はタデクの着ているジャケットに目をやりました。気づいたタデクが、縫い付けられた標識(バッジ)を指差します。

 緑色の逆三角形の真ん中に《P》のイニシャル。

 文字はポーランド出身であることを、バッジの色は、刑務所にいた経験があることを意味していました。


「オレは大それた犯罪なんて、なァんもしてねえよ」


 タデクはおどけるように肩をすくめました。


「ちょっとラジオを作ってみただけさ」

「それってすごいことだわ」


 私は目をみはって、まじまじとタデクを見つめました。無骨な風貌からは、繊細な技師のようには見えません。


「おい、失礼な感想が顔に書いてあるぜ」

「ごめんなさい、あの、ちょっと、意外で」


 モゴモゴと私が言うと、タデクは快活に笑いました。


「親父が放送局に勤めてたんだ。子どもの頃から機械が好きでな。戦争が始まる前は、電子工学の学校に行っていた」

「そういう事情なら、ラジオくらい作ってみても普通よね?」

「だろう。しかしそのオモチャがあいにく見つかってな。あれよあれよという間に反体制だの政治犯だのと、刑務所に入れられちまった」


 タデクはザフィールに向かって両手を広げました。


「これで信用して頂けたましたかね?」


 ゴホン、とザフィールがわざとらしく咳払いをしたので、私も黙りました。


「いいだろう。医薬品を持ち出せばいいのか?」

「そうですねえ、鎮痛薬をひと瓶、包帯を木箱いっぱい、あとはモルヒネや青酸カリなんかもあると最高です」

「お前——」


 不穏な気配を感じたのか、スレヴがさっと(さえぎ)りました。


「情報の価値、にも、よると思う。前に、東部の話を聞いた時は、たしか、ハムのスライスだった」

「そりゃあ《身内割り》ってやつさ。しかも東部戦線なんて、大した情報じゃねえ」


 タデクはようやく真剣な顔つきで、「少尉どの」とザフィールに向き合いました。


「こっちは命張ってるもんでね。ただの好奇心で聞きてェんなら、知らない方が身のためだ」


 ザフィールは、言葉の(あたい)をはかるように、しばらく目をすがめていました。

 そして決心したように「そうだな」と応えます。


「とりあえず、今ある物をくれてやる。来い」


 それからスレヴも、とザフィールは声をかけました。


「お前にも聞いてもらいたいことがある。執務室に地図を広げておいてくれ」


 もちろん自分にも何か指示が飛んでくるだろうと思って身構えていた私に、ザフィールは一言、当然のように言い放ちました。


「お前はここで、そら豆を()でていろ」

「えっ、私だけ!?」

「そうだよ。お前の茹で具合がいちばん美味いんだ」

「まーっ、いつもはそんなお世辞言わないくせに!」


 廊下の奥から、タデクの笑う声が聞こえてきました。

 私は憤然として鍋に湯を沸かします。

 さっき覚えたばかりの、寂しい気持ちが、また胸の奥を突きました。


(いいなあ……《男の子》は、分かり合えて)


 きっと、彼らの《性》を、うらやましいと思っている。

 彼らの冒険には混ざれない。

 秘密基地には入れてもらえない。

 そんな寂しさが、私にはありました。


 豆のスープが出来上がる頃、タデクは執務室から台所に戻ってきました。小脇に紙袋を抱えています。


「目当てのものは、もらえた?」

「まあな。今日は手付け金ってなもんだ」

「いったいどんな秘密会議をしていたのかしら」


 味見がてらタデクに小皿を渡して、自然な様子で、それとなく訊ねてみます。

 寂しい気持ちを隠したくて。

 それでも私の拗ねっぷりは、彼に伝わってしまったようでした。


「心配ねえよ、嬢ちゃん。あいつらはアンタのこと、ちゃんと大事にしてる。しすぎなくらいだ」


 予想外に穏やかな声色に、私は驚いて顔を上げました。

 タデクの表情は、慈しみなのか、哀れみなのか、なんとも表現し難いものでした。

 その後にぐしゃぐしゃと私の頭を掻き混ぜたことさえ、何かを隠しているような。


「旨いぜ、スープ。あいつらに出してやんな」


 それ以来、タデクはただの労働役ではなくなりました。ときに夜陰に紛れて知らせを運んでくる、情報屋となったのです。

 一方で、ザフィールは私に軍医の話相手を務めさせました。

 私がお茶を入れてとりとめもない会話をしている間に、気づかれないほど少しずつ、小瓶や包帯を失敬していくのでした。


 そんな日々が一ヶ月も続いた頃でしょうか。

 花の匂いが香り始める5月の始め、タデクが興奮した様子でやってきました。


「スレヴ、届いたぞ! 少尉どのを呼んできな!」


 台所のテーブルにジャガイモの麻袋をドカッと置いて、タデクは上着の内ポケットから、何かを取り出しました。


「これ、頼まれてたものだ」


 大事そうに取り出したわりには、どこにでもありそうな粗製の封筒です。

 訳がわからず見つめていると、ザフィールとスレヴが歩調も早くやってきました。


「繋がったか!」

「なあに? また内緒のお話なら、執務室で——」

「ヴィーシャ、見ろ!」


 封筒を開けたザフィールが、中の用紙を広げました。

 私は一瞬、それが何だか分かりませんでした。

 手紙とも、メモとも思えない。

 地図とも思えない。

 何かを書き殴ったかのような、子どもの落描きのような……


「あ」


 それは私がかつて描いた、クリスマスカードのスケッチでした。


「どうして、これが……?」


 存在さえ忘れていたものが目の前に現れて、私は動揺しました。

 スレヴが「て、手紙も、ある」と差し出してくれます。


『ヴィーシャへ

 仲介人が渡してくれることになった。

 本人だと分かるものを、と言われたので、これを同封する。

 くれぐれも無茶をしないように。

 私は無事に過ごしている。

 父より』


「そんな……!」


 私がこのプワシュフに来てから、外部との連絡は一切禁止されていました。

 ですから、父の近況を知ることもできませんでした。


「お父さま——どうして、タデク、あなたが……?」

「これも少尉どのの依頼のひとつでね」


 タデクがチラリとザフィールに目配せしました。

 ザフィールの腕にはまだ添え木がされていますが、指先は自由に使えるようになっています。

 その指が、古びた子どもの落書きをつまんでいました。

 顔じゅうに笑みを浮かべて。


「あの下手っぴなカードを描くために、こんな下書きまで必要だったのか?」


 言い方があんまりにも朗らかだったので、私も彼の嫌味に気づくのが遅れてしまいました。


「うるさいわ……」


 私はザフィールからスケッチを受け取り、その表面を撫でます。


「だって、この年は、二人ぶん描かなきゃいけなかったのよ」


 スレヴが言ってくれたのです。毎年、私の描くクリスマスカードが楽しみなんだと。

 それを聞いて、きっと素敵なカードにしよう、ザフィールにも同じものを、と張り切った少女の私。


「だから、下絵を描いて、写せるようにして……」


 何日も前から、いそいそと準備していた自分を思い出します。

 なけなしの絵の具を、このときばかりは惜しみなく使って、きれいに塗ろうとしていました。


「だけど……見返してみると、本当ね」


 ザフィールの目はトンボのように大きいし、スレヴの指は一本足りません。私の顔ばっかり大きくて、まるでお姫さまのようにドレスを着せて描いてあります。


「本当に、下手っぴだわ」


 私の頬にはいつの間にか、涙が伝っていました。


「……生きて、いるのね」


 よかった。

 ありがとう。

 気持ちは言葉になりませんでした。

 視界はにじんで何も見えなくなっていました。

 だけど私がどんなに嬉しかったかは、その場にいる皆に伝わっていたと思います。


 その後、タデクは分かったことを簡潔に教えてくれました。

 父の経営していた金属工場は、軍直下の企業に合併されたこと。

 ソ連の侵攻が進むにつれ、多くの占領民が軍需産業に動員させられていること。


「ヘウム?」

「そこから少し北にある労働収容所にいるそうだ」

「たしか、ルブリンよりも東の町よね」


 執務室に広げられた地図を指でたどりながら、父の在所を確かめます。


「捕虜だけじゃなく、占領民まで駆り出されるなんて……」

「おう、ぜんぶ戦争優先さ。食べ物なんて二の次、三の次」


 パンをかじりながら言うタデクに、ザフィールが神妙な面持ちで応えます。


「ルブリンの辺りは、俺も任地だったから知っている。その時にはポーランド人にも多少の自由があったはずだが……」

「そりゃ、スターリングラードで敗けたのが大きかったな」

「そんなに?」


 私がスレヴを見上げると、彼も頷きました。


「今までとは、比べ物にならない、被害が出たと、聞いている。人も、物資も」

「怖いわ。もし戦線が、お父さまのところまで来たら……」

「戦線だけじゃない」


 ザフィールは腕組みをして、タデクを見つめました。


武装集団(パルチザン)の動向はどうだ?」

「さァて、そこまで教える義理はねえな」

「パルチザンってなに? レジスタンスとは違うの?」


 話についていけない私に、スレヴが「違うよ」とやさしく言い添えてくれます。


「武力で国家に抵抗する勢力だ。ドイツ軍ともソ連軍とも違う、ただの民間の組織だよ」

「その《ただの》民間組織が、ワルシャワで武装蜂起したらしいな」

「ほお、さすが将校どの。お耳が早いね」


 ザフィールとタデクの視線の間に、緊張が走ります。

 私は未だ何がなんだか分かりません。

 そのまま二人は黙って、たっぷり数分間は、互いを睨みつけていました。


「まあいいだろう」


 ザフィールは組んでいた腕をほどきました。


「お前がどんな活動をしているにしろ、ヴィーシャの父親と連絡をつけたのはお手柄だ」

「どーも」

「やり取りは続けられそうか?」

「少尉どのが物資をくださるあいだは、保証しますよ」

「よし」


 ザフィールは立ち上がって、自分の上腕をさすりました。長い腕組みが傷に障ったのでしょう。


「今後も便宜をはかろう。他にも頼みたいことがある」


 スレヴは「ヴィーシャ」と私を呼びます。

 これから私が立ち入れないような話をするのだと、暗に理解しました。


「そうね。そろそろ夕食を用意しないと」


 私はもう一度、地図を見下ろしました。

 父が生きているという場所、その地名。

 クラクフからは離れていますが、ヴィスワ川の支流が流れる場所です。


(同じ水の流れる場所に、私たちは生きている) 


 どうか無事で。

 そう思いながら、部屋を後にしました。





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