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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第四章 灰混じりの雪

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18/22

その男

 三人での生活が始まって間もない頃、一人の男が邸にやってきました。

 薪割りや食材の荷運びに、とスレヴが呼んでくれた助っ人です。


(労働隊の監督(カポ)って、今まで遠目にしか見なかったけれど……)


 なるほどこの体格なら、と納得するような様相の男性でした。

 作業を怠けたらすぐさま殴られそうな、太い腕。

 鼻骨は一度砕けたのか、曲がっています。

 目のまえに立つと日差しが遮られ、ヒグマのような影が逆光に浮かびました。


(こ、怖い……!)


 緊張して挨拶もできない私を察してか、その男は、ぶっきらぼうに「タデクと呼んでくれ」と右手を差し出してくれました。

 私は慌ててその手を握って応えました。


「あの、ヴィーシャと呼んでください。ポーランド人です」

「それは知っている」


 彼はニッと歯を見せて笑いました。


「収容所では話題の的だからな。少尉どのの可愛いお人形さん(マズルカ・ラルカ)ってさ」


 どこか嘲笑するような響きに戸惑ったとき、「タデク」とスレヴの声が聞こえました。


「ヴィーシャに変なことをしないでくれよ」

「ハハッ、おかしなことを言う。変なことって何だ?」

「君が収容所の中で手広く取引している、犯罪まがいのこと」

「あのクソったれな環境で犯罪がどうこうなんて、笑える冗談じゃねえか。くくっ、今年イチだぜ」


 嫌味たっぷり笑う男に対して、スレヴは懇願するように言いました。


「頼むよタデク。約束したろ」

「わかってる。人聞き悪く言うんじゃねえ。お嬢さんが怯えちまう」


 私は少しムッとして言い返しました。


「怯えはしないけど、女だからって(あなど)られるのは嫌よ。マズルカ・ラルカってどういう意味?」


 所内での隠語だ、と口を挟んだのはザフィールです。


「《ポーランドの愛人》という意味だ」

「愛人!?」


 私は持っていたジャガイモを取り落としました。

 ばたつく私とは正反対に、タデクはゆっくりと収容者帽を取り、不気味なほど丁寧に礼をします。


「これはこれは少尉さま。キッチンまで何の御用で?」

「白湯をくれ」

「承知で。今お持ちいたします」

「お前、タデク、と言ったか。ヴィーシャに妙な真似をするなよ」


 ザフィールはそれだけ言って、自室に戻っていきました。

 途端にタデクが笑い出します。


「はっはァ! あの冷血な将校さまが!」

「あ、あ、愛人って——」

「お嬢さん、箱入りにも程があるぜ。その位置づけは少尉どののご厚意だよ。そう言っときゃお前さんの身は安全だろうが」


 タデクは私が落としたジャガイモを拾って、その皮を剥き始めました。


「収容所の中も外も、女に飢えた野郎ばっかりさ。少尉どのが釘を刺しときゃ、万が一にも襲われる心配はねえだろう」

「なんだ……そんな心配いらないのに」

「フン、甘いぜ嬢ちゃん」


 収容所の中にはよ——と話し始めた先を、スレヴが慌てて制します。


「タデク! 頼むからヴィーシャには、そういう情報を、ち、近づけないでくれ」


 作業の話をしているときは滑らかで義務めいていたスレヴの口調が、だんだんと情感の乗った言葉になります。


「せ、正義感で突っ走って、何をするか、わ、分からないんだから」

「スレヴったら、そんな風に思っていたの?」

「当たり前だろ! ぼ、僕が何度、ヒヤヒヤ、させられたか」

「そんなことは——」


 いったん考えてみましたが、戦争が始まってからこっち、危ない橋ばかり渡ってきたことを思い出しました。


「……否定、できないわ」


 私とスレヴのやり取りに、タデクはもうひと笑いしました。


「こんな嬢ちゃんに大の男が二人も過保護たぁ、呆れるね」


 その日の夕方、タデクが収容所に帰ってから、私たちは三人でテーブルを囲みました。

 もちろん、本来ならそんなことはできません。ザフィールを介助するために私が必要で、食事をよそうためにスレヴが必要なのです。

 だけど私たち三人にとって、そんな上下関係は建前だったと思います。

 とにかく一緒にご飯を食べる。

 それだけで満たされる、大切な団欒(だんらん)の時間でした。


「あの男どうも胡散(うさん)くさい」

「ザフィ、黙って食べて」


 私が口を挟むと、ザフィールはじろりと睨み上げてきました。


「これぐらい一人で出来る」

「昨日そう言って見栄を張って火傷したのはどこの誰?」

「あれは……おまえが不器用なせいだ」

「文句を言われる筋合いはないわ」


 私たちの口喧嘩が始まりそうになると、すぐさまスレヴが「二人とも」と低く響く声で言いました。


「さ、皿が、ひっくり返る」


 スレヴの静止には、反射的に口を閉じてしまいます。

 クラクフの店の作業場で「静かにして」と、たしなめられたことの名残りでしょうか。


「きのう説明しただろう。タデクは頼りになる」


 スレヴがスープ鍋をかき混ぜながら言います。


「ワルシャワの出身で、戦争が始まってからは、ゲットー警察をしていた、って」


 それはタデクが来る前に、スレヴが伝えておいてくれたことでした。

 彼はいわば《収容歴の長い模範囚》のような存在らしいのです。それならばと、ザフィールも納得したはずでした。


「それだよ。確か任地はワルシャワ・ゲットー内だったな」


 どうやら、今になって議論を蒸し返したザフィールにも、言い分があるようです。


「今朝になって思い出したんだ。首都圏のゲットーからは、去年の夏に大量移送があったはずだ。住民たちのほとんどがトレブリンカ収容所に移送されたと聞いている。だとすれば、あいつがここにいるのはおかしい話じゃないか」

「あら、さすが少尉さま。ゲットーと収容所にはお詳しいのね」


 皮肉で返す私とは対照に、スレヴは黙ってうつむきました。

 にぎやかだった食器の音がやみ、なんだか不気味な静けさが、私たちを包みました。


「トレブリンカは、労働収容所じゃない」

「どういうこと……」


 飲み込みの遅い私より先に、ザフィールの方が先に、その結論へ辿りつきました。


「《処理》されたのか?」


 私もようやく思い至りました。労働収容所でなければ、それは——絶滅させるための、収容所。


「首都圏って、いったい、どれだけの……?」


 何十万もの人々をぎゅうぎゅうに押し込めて連なる貨車。

 気の遠くなるほど長く、ながく続く車列。

 想像すると、息苦しさで胸が詰まり、吐き気が込み上げてくるのを感じました。

 ザフィールは眉をひそめたまま、瞬きもせずスレヴを見つめています。


「タデクは労働用として、ここまで移送されてきた。去年の秋だと言っていた。数少ない生き残りだよ。僕も色々教えてもらった」


 私は、自分がまだ所長のハウスメイドをしていた頃、着衣にあれこれと食べ物を隠していたことを思い出しました。


「スレヴに渡していた食べ物って、もしかして」

「そうだよ。彼を中継すれば、いろんな物資に変えてくれた。靴や布、薬……情報も」


 ——ヴィーシャのくれる食糧がお金代わりになって……

 ——君がくれる上等な煙草だって、この労働隊(コマンド)のカポに流せば優遇してくれる。


 あのときに感じた違和感の正体。

 スレヴが何か、言い淀んでいるような雰囲気。

 きっとあの頃にはもう、今の情報を掴んでいたに違いありません。


(それでもまだ、私には言えないようなことが起こっているんだわ)


 そうでなければ、彼がタデクに「ヴィーシャにはそういう情報を近づけないでくれ」と訴える道理がありません。

 スレヴは選んでいるのです。

 私とザフィールに伝えるべき事柄を、まるで歯車の大小を丹念に確認し、選び取っていくかのように。


 不意に、ガチャン、と食器のぶつかる音がしました。

 私の頬にスープがはねて、スプーンが皿に落ちたのだと気づきました。

 それを握っていたはずのザフィールの手は、テーブルの上で固く拳を震わせています。


「それなら、なおさら怪しいじゃないか」


 ザフィールが冷ややかに、怒りをあらわにします。

 先ほどまでの和らいだ表情はどこかへ吹き飛んでいました。


「いち収容者ごときが、どうしてそんな知ったかぶりをできるんだ?」


 ナチスの将校として、ヒトラー・ユーゲントとして育てられてきた者の矜持(きょうじ)が、背から尾羽を広げるように禍々しく、ザフィールを覆っていました。


「まさかアイツ、地下活動(レジスタンス)なんてしていないだろうな」


 —— ヴィーシャ、これは尋問だ。


 腹の底から軽蔑しているような、あの声。


(三人で再会した、あの夜みたいだわ)

(私とスレヴが組んでいるんじゃないかって、あなた、疑っていたわね)


 スレヴは変わらず、ひるみもせずに応えました。


「僕もタデクもメンバーじゃない。だけど、協力はしている」


 私は口を覆い、ザフィールは拳をテーブルに振り下ろしました。


「裏切り者の汚いユダめ!!」

「彼はポーランド人だよ」

「同じことだ! 今すぐ首吊り台に送ってやるッ!」


 激昂するザフィールを、私は抑えにかかりました。

 腕の包帯に、血が滲んでいたのです。傷口が開いたに違いありません。

 しかし私の手をはたいて、ザフィールはなおも問い詰めます。


「この邸から、いったいどれだけの情報を漁ったんだ? 答えろ!!」

「ザフィ、お願いよ、落ちついて——」

「バカを言うな! この邸から軍事機密が盗まれているなんて、大尉に知られようものなら、俺は——」

「君たちが機密だと思っているものは、もう機密でもなんでもない」


 スレヴは静かな声で、しかし決然として言いました。


「去年の末に記事が出た。イギリスの『タイムズ』、それからアメリカの新聞にも」


 タイムズと言えば、私でさえ知っている新聞でした。

 ポーランドのものとは比べものにならないほどの拡散力と信頼性。

 国際的な影響を考えると、当時でもっとも大きなメディアであったでしょう。


(それは、つまり、イギリスやアメリカの人々だけではなくて……)


「世界じゅうの、軍人どころか民間人まで知っているんだ。ナチスの——き、君が」


 一瞬、スレヴの語尾が弱々しく震えました。


「きみ、たちが言う《軍事機密》を、知らないのは、ヒトラーを選んだ、この国の人たちだけなんだよ」

「総統閣下を侮辱するな!」


 ザフィールは手元にあったグラスを掴み、水を投げるようにスレヴへと浴びせました。


「もういらん」

「ザフィ!」

「こんなクソ不味いメシが食えるか」


 ザフィールはナプキンを床へ乱暴に叩きつけて、椅子から無理やり立ち上がりました。


「もうっ!」


 私は頭が煮えそうになって、髪をぐしゃぐしゃと掻きあげました。

 だからといって放っておく訳にもいきません。つい先日まで、水もろくに飲めなかった怪我人なのです。

 これだけ議論し、罵倒するほどの熱量がどこにあったのか知りませんが、ベッドにたどり着くまでに倒れてしまうかもしれません。

 もっとも、そうなっても良いと思うくらいには腹が立っていましたが。


「ごめんなさい、スレヴ。私のスープはそのまま置いておいて。片づけは後でするから、貴方も温かいうちに食べてね!」


 スレヴは滴る水を拭うこともせず、ひとつ、うなずきました。


「ザフィール!」


 私が彼の寝室に荒々しく入ると、ザフィールはベッドにうつ伏せで倒れていました。


「だから落ちついてって言ったのに!」

「うるさい。知るか」


 ザフィールの横顔はサイドテーブルの金時計に向けられています。

 彼自身の高貴な血筋を証明する、それはザフィの矜持そのもの。


(子どもの頃は、こんなのガラクタだって、バカにしていたのに)


 私は不覚にも、幼い頃のザフィールの姿を思い出して、身じろぎしました。

 青白く、手脚は痩せ細り、ユダヤ人を憎むことでしか生きられなかった男の子。


 ——これが王族の証なんて嘘っぱちだよ。


 父親のでたらめだ、骨董品だと(あざけ)っていた、貧しい暮らしの男の子。


 ——ヒトラーを応援する青年団だよ!


 憧れる英雄のようになりたいと、頬を紅潮させて語った男の子。


 ——見てろ、俺もそのうち入ってやるから。


 何も持たなかった少年が、寮学校という閉鎖的な環境で、自分の血筋や生い立ちを知ったとき、それはどんなに誇らしかったことでしょう。


(だけど、それでも)


「あんな言い方、ないわ」


 私はわざと金時計をさえぎるようにして、ベッドに腰掛けました。


「スレヴがせっかく作ってくれたのに、ろくに食べもしないで」

「食えるか、あんなもの」

「空きっ腹で薬を飲むのは良くないって、軍医さまも仰っていたでしょう」

「裏切り者の血が感染(うつ)る。お前が作れ」


 理不尽な物言いに、私はぴしゃりと「八つ当たりしないで」と返しました。


「あなたがイライラしてるのは、きっと痛み止めが切れているからよ」


 サイドテーブルから薬と水差しを取り、ザフィールをせっつきます。


「ほら、薬。あなたの胃袋はびっくりするかもしれないけど、痛みで寝られないよりマシでしょう」


 ザフィールがのらりくらりと身体を起こしたので、今度は傷の手当てにかかります。


「さっさと飲んで。包帯を替えないと、私が軍医さまに罰を受けるわ」

「うるさいヤツ」

「あなたこそ、どうせなら口も縫ってもらえば良かったのよ」


 汚れた包帯をほどき、私は傷口を確かめました。

 幸い(と言うには抵抗がありましたが)、傷は開いたのではなく、かさぶたが破けただけのようでした。

 先日、(うみ)を出して縫われた患部は、鬱血してぱんぱんに腫れ上がり、赤黒くなっています。


「……痛々しいわ」

「間抜けをやらかした代償だ」

「そうね。あなたの嫌いなユダヤを(かば)ったばかりに」


 あの混乱と、飛び交う怒声のなかで、古い友人の父親を守ろうと動いた腕。

 間抜けと言うならば、そうなのかもしれません。


(そういえば、所長さまが言っていたわね)

(愛や情なんてものは、人類の繁栄からすれば何とかかんとか、って)


 私の存在は、ザフィールにとって、精密機械を狂わせるサビのようなものだと。


(サビ上等よ)


 狂えばいい。

 あるいは、もう狂っている。

 激しい自己矛盾を抱えるザフィールとスレヴ、それから私。

 味方か敵か、善か悪か。

 倫理や道徳という、平和な世界の贅沢な秩序。

 ナチスの将校とユダヤの幼なじみに挟まれて、私の価値観はすべてひっくり返ってしまいました。


「ナチスとしては間抜けでも……スレヴの家族を守ろうとした傷でしょ」


 出来ることは一つだけ。

 どちらにも、ひとりの人間として接すること。


「友だちとしては、わるくないと思うわ」


 私にはまだ腹立ちが残っていましたが、ザフィールはぎこちなく、そして気まずそうに言いました。


「手当て、ありがとう」





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