表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第三章 死を待つ収容所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/16

別れ

 収容所と隣り合う場所で、私はずっと考えてきました。

 友情と愛について。

 それは果たして、自分の命を守るための、どんな(よすが)になるというのでしょう。

 友情だって裏切られる。

 愛だって永続とは限らない。

 そんな不確かなものより、一切れのパンのほうが、命をつなぐ糧になる。


(……だけど、パンのために生きている訳じゃないわ)


 私はザフィールのひたいの汗を拭きながら、自問自答していました。


(食べて生きて死ぬだけなら家畜と変わらない)

(人として生きることには、もっと他の、なにか特別な意味があるはず)

(——変なの。今までこんなこと、考えもしなかったのに)


 占領民として見下され、敵の世話をさせられて……憎いその相貌は、皮肉なことに、愛する友人の顔をしている。

 憎んでいる。だけど愛している。

 こんな矛盾を抱えながら、生きている。


「……なんのために生きているのかしらね」


 私はひとりごとを呟いて、ザフィールのひたいの汗を拭いました。

 ふと、その下の金のまつげがまたたいて、青い瞳が鈍くひらかれました。


「……ヴィーシャ……?」

「お目覚めですか。ナチスの少尉さま」


 私はホッとした気持ち半分、それから呆れ半分で、軽口を返しました。


「気分はどう?」

「……夢を見ていた」


 ザフィールはまだ夢うつつの表情で、ぼんやりと言いました。


「いつだっか……一緒にクリスマスを過ごしたろう」

「そういえば、そんなこともあったわね」


 私は懐かしい気持ちで、思い出をひとつひとつ言葉に並べました。


「スレヴのお父さまとお母さまが、テーブルに乗り切らないくらい料理を並べて……あの頃は、私のお父さまが町工場を経営していた頃だわ。いろんな缶詰を持ってきてくれた」


 ザフィールの母親が喜んでいたチェリー缶。甘いシロップ漬けの実を並べた、ドイツ風のケーキ。


「あなたのお母さんの作ったケーキ、とても美味しかった」


 ザフィールのかすれた声が「義理の母だよ」と答えます。


「血は繋がってなかった」


 私は驚いて、クリスマスの夜を思い返しました。

 つたないポーランド語の《きよしこの夜》を歌うザフィール、その姿を見つめる母親の、愛情深そうな表情……記憶が美化されているにしても、血が繋がっていないようには思えませんでした。


「あなたも慕っているように見えたわ」

「俺も知らなかったんだ。士官学校に入るときの書類で、初めて知った」


 産みのお母さまはどこに、と訊くことはできませんでした。

 彼の家庭は複雑で、父親への憎しみと、血統への執着、お兄さんへの憧憬、そんな感情が渦巻いて、矛盾をはらみつつ共存しています。

 気軽にふれられるものではありません。


「兄さんも、ベルリンから異動になった」


 ザフィールは目を閉じました。


「先週、辞令を知らせる手紙が来た。行き先は東部だ……事実上の左遷(させん)だよ」


 東部と聞いて、スレヴとの会話を思い出しました。まだゲットーが閉鎖される前、数ヶ月しか経っていないのに、もうずっと昔のことのようです。


 ——スターリングラード?

 ——ドイツ軍が降伏したらしい。


 のちに激戦区だったと聞きました。

 市街地で両軍が銃を撃ち合い、双方の被害は幾万とも言われています。


「あの辺りはどこも泥沼だ……東部だけじゃない。エジプトやイタリアも……連合軍がどんどん迫ってきてる……」


 ザフィールは表情を隠そうとして、腕に挿し木を添えられていることに気づいたようでした。


「おまえが手当てをしてくれたのか?」

「止血だけね。ちゃんと手術をしてくださったのは、軍医さまよ。明日も様子を見に来てくださるって」


 ザフィールは皮肉混じりの声で「寝首をかく機会を逃したな」と言いました。


「冗談言わないで。死にたがり」

「ふ」


 ザフィールのくちびるから、ちいさく「ダンケ(ありがとう)」と聞こえました。


「おまえは……情が深いな……」


 吐く息にこもって「むかしから……」と聞こえました。

 ザフィールは話し疲れたのか、再びぐったりとうなだれ、頬をクッションに預けています。

 汗に濡れた前髪をよけて、私はじっと、ザフィールの寝顔を見つめていました。


(まるで、《ナチス》という仮面が、もろく剥がれてゆくみたい)


 みんな仮面をかぶっているのかもしれません。

 ファシズム、共産主義、カトリック、ユダヤ……それらは正義という名目で武器を手にして、簡単に人々の命を奪います。

 その仮面がもろく崩れ去ったとき、人の内側には一体なにが残るのでしょう。


(かざしていた正義の刃が、幻だったと気づいたとき)


 その瞬間を想像し、私はなぜか身震いして、自分の考えを打ち消しました。

 仕方がありません。

 ぶ厚い仮面をつけなければ、生きていけない。

 それが戦争なのです。


 やがて夕陽が差しこむ頃、玄関が静かにノックされました。

 てっきり軍医が早めに来たのかと、慌てて出迎えた私に相対したのは、レネの心配そうな表情でした。


「ヴィーシャ、大丈夫?」


 レネがドアの隙間から滑るように入って来て、私を階段裏に引き込みます。


「所長からあなたの話を聞いたの。ケガはない?」

「私は大丈夫」


 レネは私をつむじのてっぺんからつま先までしっかりと見て、ようやく安心したようでした。

 外に向かって合図をしたらしく、引きずるような足音がいくつか聞こえました。

 縞模様の収容服に、六芒星の腕章をつけた男が二、三人、荷物を担いで廊下を通ります。


「ヴィーシャ、これ」


 無造作に渡された紙袋の中身は、私にとって今いちばん欲しかったものでした。下着や布巾、特に石けん!


「ああ——嬉しい、ありがとう!」


 レネは続けて言いました。


「あとは当面の食糧ね。麻の袋にはジャガイモ、豆、黒パン。それから……」


 レネは戸口を振り返りました。

 先ほど廊下を歩いていた収容者の一人が、こちらを見つめ返します。

 その相貌は、まちがいなく——


「あたしは止めたのよ。危険だって」


 レネが気を利かせて後ずさり、入れ替わるように、スレヴが近づいてきました。


「き、きみのことが、し、心配で……」


 私はスレヴの両頬に手を添えました。

 ざらざらに荒れた肌。

 落ち窪んだ目。

 だけど、生きている。


「スレヴ……!」


 私たちは抱きしめ合って、互いの無事を喜びました。

 凄惨だった日の終わり、ようやく得た人間らしい温もりは、ハチミツ入りのホットミルクのように、私の心を落ち着かせてくれました。

 何も言わないスレヴの代わりに、レネが口をひらきます。


「この人、ゲットーからの貨車が着くなり、私に連絡してきたの。いきなりメモを押しつけてきて、正直言って怖かったわ」


 だけど、とレネは苦笑しながら言葉を継ぎました。


「言っていることはまともだった。収容所で心の狂ったような人たちとは違って」

「そうよ。スレヴは昔から、いちばん賢かった」

「愛してるのね。思想も宗教もちがう貴方たちを」


 私は、レネが熱心なユダヤ教徒だったことを思い出しました。スレヴのことを冗談まじりに「スパイじゃないか」と揶揄(やゆ)していたことも。

 レネにとってスレヴは、手放しで味方だと信じられる相手ではありません。


(そんな相手を)

(こんな非常時の中で)


 密かにここまで連れてくることは、どんなにか心細かったことでしょう。


「レネ、ありがとう。ほんとうに……でも、こんなこと——大丈夫なの?」


 あの残虐な所長から、また折檻(せっかん)を受けるのではないか。

 そんな不安がよぎって、私はスレヴから身体を離します。

 レネは静かに首を左右に振りました。


「いいの。あなたは私をいつも助けてくれた」


 レネの双眸(そうぼう)には、月の光を映したかのような涙が、水の膜を張っていました。


「ポーランド人の中で、私とふつうに会話をしてくれたのは、ヴィーシャ、あなただけだった。ユダヤ人(わたしたち)なんて、石を投げられても泥をかけられても当たり前なの。人権はない。でもあなただけは、私をかばってくれた。ひとりの人間として接してくれた」


 レネは両手で、私の手を取りました。


「ありがとう。あなたがくれたものは、私がこれまで生きてきて、一度も経験しなかったことだった」

「そんな、おおげさな……」

「プワシュフ収容所では、今でも選別がされている。私もいつ所長のご機嫌を損ねてガス室送りになるか分からない。だから言っておきたかったの」

「……また来てくれるわよね? ザフィールの怪我が治ったら、私もお邸に戻るから、そうしたら」

「ダメよ。ヴィーシャはここにいて。できるだけ長く少尉さんの看病をしていたほうがいいわ。食糧はちゃんと届けるから」

「どうして……」

「その人を(かくま)うためよ」


 レネの言葉に応えるように、スレヴがうつむきました。


「その人はね、今日ここに来るために、かなりの無茶をしたの。だから収容棟に彼の帰る場所はないわ。死んだのよ」

「えっ?」

「もう《身代わり》を用意してあるの。死んだはずの人間が、バラックに帰ってきたら変でしょう」

「それって、つまり——」

「所長が撃った死体よ。荷車に一緒に乗せてきたから」


 誰かの命を助けるために、誰かの命が踏みにじられる。

 そんな出来事には慣れていたはずなのに。

 一番ショックだったのは、レネが何事でもないように、さらりと言ったことかもしれません。


「あいつは撃った人間の顔なんて覚えちゃいないわ。いい? スレヴはここで死んだのよ。見張りに撃たれて軍用犬に荒らされた。そういう筋書き。一応、覚えておいて」


 残酷な言葉とは裏腹に、彼女の美しい面立ちが、やわらかくほほ笑みました。


「あなたに、どうか(ヤハウェ)のご加護がありますように」


 思想も宗教もちがう。

 だけど「きっと無事に」と互いを祈ることは、どんな神でも裁けないはず。


「ありがとう。レネこそ、きっと無事でいてね」


 私たちはもう一度、しっかりと抱き合いました。

 生きたいと思う心はみんな同じ。

 レネの後ろにいた労働隊(コマンド)の人たちも、スレヴに向かってうなずきました。

 これが今生の別れかもしれないと、その場の皆が分かっていました。

 胸がぎゅうと痛みます。

 レネと交わした会話の数々が、こんなときに限って、どうして浮かんでくるのでしょう。

 こんなに簡単に引き離される。


(せっかく仲良くなれたのに)

(一緒に笑った日々は遠くて)

(寂しい)


 こうして別れを惜しむことができるなら、私たちが家畜でなく、人間であることの証左でしょう。


 そして、再会を喜ぶことも。


 人々が去ってから、私はスレヴを見上げました。

 さっきは気づきませんでしたが、頬と目もとに青くアザがありました。そっとふれると、スレヴは痛そうに目を細めました。


「……ずいぶん、無理をしたのね」


 冷やすための水を汲もうと、ドアを開けたとき、スレヴがそっと扉を押さえて、私を閉じ込めました。


「ほ、ほんとは、もう、会わないでおこうと、思ってたんだ」

「何それ。さんざん私のことを利用しといて」

「——き、きっと」


 上から降ってくるスレヴの声が、(ども)りながら、ゆっくりと思いを紡ぎます。

 私はそのひとかけらでも取りこぼさないように、耳を澄ませました。


「き、君は、やさしいから……な、泣かせてしまうと、お、思った」


 その声は、心もとなく震えていて、答える私のくちびるも、フルフルとわななきました。


「当たり前よ……」

「だ、だけど」


 ——会いたかったんだ。


 ようやく聞けたスレヴの本音に、私は涙をこぼしました。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ