別れ
収容所と隣り合う場所で、私はずっと考えてきました。
友情と愛について。
それは果たして、自分の命を守るための、どんな縁になるというのでしょう。
友情だって裏切られる。
愛だって永続とは限らない。
そんな不確かなものより、一切れのパンのほうが、命をつなぐ糧になる。
(……だけど、パンのために生きている訳じゃないわ)
私はザフィールのひたいの汗を拭きながら、自問自答していました。
(食べて生きて死ぬだけなら家畜と変わらない)
(人として生きることには、もっと他の、なにか特別な意味があるはず)
(——変なの。今までこんなこと、考えもしなかったのに)
占領民として見下され、敵の世話をさせられて……憎いその相貌は、皮肉なことに、愛する友人の顔をしている。
憎んでいる。だけど愛している。
こんな矛盾を抱えながら、生きている。
「……なんのために生きているのかしらね」
私はひとりごとを呟いて、ザフィールのひたいの汗を拭いました。
ふと、その下の金のまつげがまたたいて、青い瞳が鈍くひらかれました。
「……ヴィーシャ……?」
「お目覚めですか。ナチスの少尉さま」
私はホッとした気持ち半分、それから呆れ半分で、軽口を返しました。
「気分はどう?」
「……夢を見ていた」
ザフィールはまだ夢うつつの表情で、ぼんやりと言いました。
「いつだっか……一緒にクリスマスを過ごしたろう」
「そういえば、そんなこともあったわね」
私は懐かしい気持ちで、思い出をひとつひとつ言葉に並べました。
「スレヴのお父さまとお母さまが、テーブルに乗り切らないくらい料理を並べて……あの頃は、私のお父さまが町工場を経営していた頃だわ。いろんな缶詰を持ってきてくれた」
ザフィールの母親が喜んでいたチェリー缶。甘いシロップ漬けの実を並べた、ドイツ風のケーキ。
「あなたのお母さんの作ったケーキ、とても美味しかった」
ザフィールのかすれた声が「義理の母だよ」と答えます。
「血は繋がってなかった」
私は驚いて、クリスマスの夜を思い返しました。
つたないポーランド語の《きよしこの夜》を歌うザフィール、その姿を見つめる母親の、愛情深そうな表情……記憶が美化されているにしても、血が繋がっていないようには思えませんでした。
「あなたも慕っているように見えたわ」
「俺も知らなかったんだ。士官学校に入るときの書類で、初めて知った」
産みのお母さまはどこに、と訊くことはできませんでした。
彼の家庭は複雑で、父親への憎しみと、血統への執着、お兄さんへの憧憬、そんな感情が渦巻いて、矛盾をはらみつつ共存しています。
気軽にふれられるものではありません。
「兄さんも、ベルリンから異動になった」
ザフィールは目を閉じました。
「先週、辞令を知らせる手紙が来た。行き先は東部だ……事実上の左遷だよ」
東部と聞いて、スレヴとの会話を思い出しました。まだゲットーが閉鎖される前、数ヶ月しか経っていないのに、もうずっと昔のことのようです。
——スターリングラード?
——ドイツ軍が降伏したらしい。
のちに激戦区だったと聞きました。
市街地で両軍が銃を撃ち合い、双方の被害は幾万とも言われています。
「あの辺りはどこも泥沼だ……東部だけじゃない。エジプトやイタリアも……連合軍がどんどん迫ってきてる……」
ザフィールは表情を隠そうとして、腕に挿し木を添えられていることに気づいたようでした。
「おまえが手当てをしてくれたのか?」
「止血だけね。ちゃんと手術をしてくださったのは、軍医さまよ。明日も様子を見に来てくださるって」
ザフィールは皮肉混じりの声で「寝首をかく機会を逃したな」と言いました。
「冗談言わないで。死にたがり」
「ふ」
ザフィールのくちびるから、ちいさく「ダンケ」と聞こえました。
「おまえは……情が深いな……」
吐く息にこもって「むかしから……」と聞こえました。
ザフィールは話し疲れたのか、再びぐったりとうなだれ、頬をクッションに預けています。
汗に濡れた前髪をよけて、私はじっと、ザフィールの寝顔を見つめていました。
(まるで、《ナチス》という仮面が、もろく剥がれてゆくみたい)
みんな仮面をかぶっているのかもしれません。
ファシズム、共産主義、カトリック、ユダヤ……それらは正義という名目で武器を手にして、簡単に人々の命を奪います。
その仮面がもろく崩れ去ったとき、人の内側には一体なにが残るのでしょう。
(かざしていた正義の刃が、幻だったと気づいたとき)
その瞬間を想像し、私はなぜか身震いして、自分の考えを打ち消しました。
仕方がありません。
ぶ厚い仮面をつけなければ、生きていけない。
それが戦争なのです。
やがて夕陽が差しこむ頃、玄関が静かにノックされました。
てっきり軍医が早めに来たのかと、慌てて出迎えた私に相対したのは、レネの心配そうな表情でした。
「ヴィーシャ、大丈夫?」
レネがドアの隙間から滑るように入って来て、私を階段裏に引き込みます。
「所長からあなたの話を聞いたの。ケガはない?」
「私は大丈夫」
レネは私をつむじのてっぺんからつま先までしっかりと見て、ようやく安心したようでした。
外に向かって合図をしたらしく、引きずるような足音がいくつか聞こえました。
縞模様の収容服に、六芒星の腕章をつけた男が二、三人、荷物を担いで廊下を通ります。
「ヴィーシャ、これ」
無造作に渡された紙袋の中身は、私にとって今いちばん欲しかったものでした。下着や布巾、特に石けん!
「ああ——嬉しい、ありがとう!」
レネは続けて言いました。
「あとは当面の食糧ね。麻の袋にはジャガイモ、豆、黒パン。それから……」
レネは戸口を振り返りました。
先ほど廊下を歩いていた収容者の一人が、こちらを見つめ返します。
その相貌は、まちがいなく——
「あたしは止めたのよ。危険だって」
レネが気を利かせて後ずさり、入れ替わるように、スレヴが近づいてきました。
「き、きみのことが、し、心配で……」
私はスレヴの両頬に手を添えました。
ざらざらに荒れた肌。
落ち窪んだ目。
だけど、生きている。
「スレヴ……!」
私たちは抱きしめ合って、互いの無事を喜びました。
凄惨だった日の終わり、ようやく得た人間らしい温もりは、ハチミツ入りのホットミルクのように、私の心を落ち着かせてくれました。
何も言わないスレヴの代わりに、レネが口をひらきます。
「この人、ゲットーからの貨車が着くなり、私に連絡してきたの。いきなりメモを押しつけてきて、正直言って怖かったわ」
だけど、とレネは苦笑しながら言葉を継ぎました。
「言っていることはまともだった。収容所で心の狂ったような人たちとは違って」
「そうよ。スレヴは昔から、いちばん賢かった」
「愛してるのね。思想も宗教もちがう貴方たちを」
私は、レネが熱心なユダヤ教徒だったことを思い出しました。スレヴのことを冗談まじりに「スパイじゃないか」と揶揄していたことも。
レネにとってスレヴは、手放しで味方だと信じられる相手ではありません。
(そんな相手を)
(こんな非常時の中で)
密かにここまで連れてくることは、どんなにか心細かったことでしょう。
「レネ、ありがとう。ほんとうに……でも、こんなこと——大丈夫なの?」
あの残虐な所長から、また折檻を受けるのではないか。
そんな不安がよぎって、私はスレヴから身体を離します。
レネは静かに首を左右に振りました。
「いいの。あなたは私をいつも助けてくれた」
レネの双眸には、月の光を映したかのような涙が、水の膜を張っていました。
「ポーランド人の中で、私とふつうに会話をしてくれたのは、ヴィーシャ、あなただけだった。ユダヤ人なんて、石を投げられても泥をかけられても当たり前なの。人権はない。でもあなただけは、私をかばってくれた。ひとりの人間として接してくれた」
レネは両手で、私の手を取りました。
「ありがとう。あなたがくれたものは、私がこれまで生きてきて、一度も経験しなかったことだった」
「そんな、おおげさな……」
「プワシュフ収容所では、今でも選別がされている。私もいつ所長のご機嫌を損ねてガス室送りになるか分からない。だから言っておきたかったの」
「……また来てくれるわよね? ザフィールの怪我が治ったら、私もお邸に戻るから、そうしたら」
「ダメよ。ヴィーシャはここにいて。できるだけ長く少尉さんの看病をしていたほうがいいわ。食糧はちゃんと届けるから」
「どうして……」
「その人を匿うためよ」
レネの言葉に応えるように、スレヴがうつむきました。
「その人はね、今日ここに来るために、かなりの無茶をしたの。だから収容棟に彼の帰る場所はないわ。死んだのよ」
「えっ?」
「もう《身代わり》を用意してあるの。死んだはずの人間が、バラックに帰ってきたら変でしょう」
「それって、つまり——」
「所長が撃った死体よ。荷車に一緒に乗せてきたから」
誰かの命を助けるために、誰かの命が踏みにじられる。
そんな出来事には慣れていたはずなのに。
一番ショックだったのは、レネが何事でもないように、さらりと言ったことかもしれません。
「あいつは撃った人間の顔なんて覚えちゃいないわ。いい? スレヴはここで死んだのよ。見張りに撃たれて軍用犬に荒らされた。そういう筋書き。一応、覚えておいて」
残酷な言葉とは裏腹に、彼女の美しい面立ちが、やわらかくほほ笑みました。
「あなたに、どうか神のご加護がありますように」
思想も宗教もちがう。
だけど「きっと無事に」と互いを祈ることは、どんな神でも裁けないはず。
「ありがとう。レネこそ、きっと無事でいてね」
私たちはもう一度、しっかりと抱き合いました。
生きたいと思う心はみんな同じ。
レネの後ろにいた労働隊の人たちも、スレヴに向かってうなずきました。
これが今生の別れかもしれないと、その場の皆が分かっていました。
胸がぎゅうと痛みます。
レネと交わした会話の数々が、こんなときに限って、どうして浮かんでくるのでしょう。
こんなに簡単に引き離される。
(せっかく仲良くなれたのに)
(一緒に笑った日々は遠くて)
(寂しい)
こうして別れを惜しむことができるなら、私たちが家畜でなく、人間であることの証左でしょう。
そして、再会を喜ぶことも。
人々が去ってから、私はスレヴを見上げました。
さっきは気づきませんでしたが、頬と目もとに青くアザがありました。そっとふれると、スレヴは痛そうに目を細めました。
「……ずいぶん、無理をしたのね」
冷やすための水を汲もうと、ドアを開けたとき、スレヴがそっと扉を押さえて、私を閉じ込めました。
「ほ、ほんとは、もう、会わないでおこうと、思ってたんだ」
「何それ。さんざん私のことを利用しといて」
「——き、きっと」
上から降ってくるスレヴの声が、吃りながら、ゆっくりと思いを紡ぎます。
私はそのひとかけらでも取りこぼさないように、耳を澄ませました。
「き、君は、やさしいから……な、泣かせてしまうと、お、思った」
その声は、心もとなく震えていて、答える私のくちびるも、フルフルとわななきました。
「当たり前よ……」
「だ、だけど」
——会いたかったんだ。
ようやく聞けたスレヴの本音に、私は涙をこぼしました。




