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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第三章 死を待つ収容所
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鳴りつづける汽笛

 どこか遠くで、無骨な貨車の走る音が聞こえます。

 ときどき空を裂くような汽笛に、間近でシュンシュンとお湯の沸く音が重なって、私はハッとしました。

 ザフィールの私邸です。

 その彼は青ざめた顔で、暖炉の向かい、ベッド代わりのカウチに力なく横たわっていました。

 慌ただしく出入りしていた兵たちはいなくなり、白衣を着た壮年の男性が、ザフィールのひたいに手を当てています。

 口髭を生やした軍医は、振り返って私に言いました。


「お湯は沸いたかな?」

「あっ、はい、ただいま」


 暖炉の火のうえにヤカンを乗せたまま、私はぼうっとしていたのでした。

 膝もとに置いてあったホウロウの(たらい)に少しずつ湯を注ぎ、ぬるま湯を作ります。

 軍医はその盥のなかで、手についた血を溶かしながら言いました。


縫合(ほうごう)は終えたが、これから患部が腫れて、熱も上がってくるだろう。氷嚢(ひょうのう)を作っておくように」

「はい、軍医さま」

「きみは現場にいたと聞いているが、何が起こったのか知っているかな」

「それが……肝心なことは、何も」


 私は軍医に手拭いを渡しながら言いました。


「私は壁の外側で、目録の処理をしておりました。気づいたときには、血まみれの少尉さまが担がれて来て……」


 軍医はため息をついて、首を振りました。


「まだ定かではないが、彼には、任務不履行の疑いがかけられている」

「えっ?」

「B地区の病院で、あるユダヤ人の命乞いをしたそうだ。利用価値がある、と訴えて」


(——まさか、スレヴのお父さま……?)


 ザフィールはあの夜、言っていました。

 死の苦痛を和らげることはできる、と。

 まさかそれに止まらず、ただの老いて病んだ彫金細工師の——命を、助けようとしたのでしょうか。

 私は動揺を必死に抑えながら、軍医から受け取った手拭いを絞りました。

 軍医が医療器具を片づけながら、話を続けます。


「何か手違いがあったようだ。彼が確認のため医者と話している間に、処理班の兵たちが病室へ入り、患者たちに機銃掃射をしたと聞いているが……なにしろ、兵らの説明も要領を得ない」


 私はうなずきました。

 ザフィールが血まみれで担架に乗せられたときもそうでした。

 皆が口々に叫び、混乱した状態においては、それぞれの(なま)りもある中、ことの時系列を理解するのはかなり難しいことでした。


「とにかく、《即時処理》に巻き込まれてしまったと聞いている。創傷だけでなく骨も折れているが……神経は切れていない。不幸中の幸いだった」


 軍医は懐中時計を取り出して、小声でつぶやきました。


「そろそろ貨車が着く頃だ。今日の《選別》はそうとう時間がかかりそうだよ」


 軍医は疲れた口もとに笑みを浮かべて言いました。まるで今日の庭の手入れでもするような口調で。

 ドキッとしましたが、それをどうこう言えるほど、すでに他人事ではありません。

 私にとって、この収容所に隣り合う生活が当たり前になっているように、この医者にとっても、ユダヤ人を選別することが日常になっているのでしょう。

 なんとも思わない。

 命令された通りにやっている。

 もはや、誰もが共犯者でした。


「では後を頼むよ。また様子を見に来る」


 軍医は帰って行きました。

 見送りに出ると、外はすでに暗く、労働隊の点呼も終わったはずなのに、銃声の音が鳴りやみません。

 軍用車やトラックがエンジンを吹かして、行ったり来たりしています。


(こんなに不気味な夜は、久しぶりだわ)


 私は寒気を覚えて、両腕をぎゅっと抱えました。

 そのとき、室内からうめき声が聞こえました。


「う……」


 ザフィールは苦しいのか、ひたいに脂汗を浮かべ、荒く呼吸をしています。

 その汗を拭いながら、彼の傷を受けた部分に目をやりました。

 日中は血のこびりついた軍服に包まれていたのが、今は挿し木を添えられ、清潔な包帯が巻かれています。

 それでも腕全体は腫れ上がり、まだらな紫色の模様になっている様は、見るだに痛々しいものでした。


「どうして、こんなことに……」


 ——あるユダヤ人の命乞いをしたそうだ。


 軍医の言葉を思い出して、私の胸はつぶれそうに苦しくなりました。


(ねえ、ザフィール。天邪鬼(あまのじゃく)にもほどがあるわ)


 敵でありながら、手を貸してくれる。

 それなのにスレヴを口汚く罵って、足蹴にしようとする。

 また一方では、みっともなく泣いてすがって、どうして撃ってくれないんだ、憎ませてくれないんだと、少年のように駄々をこねる。


(なんて面倒くさい人なの)


 だけどそれが嫌ではない。

 嫌悪にはならない。

 疎ましく思いながら、愛しささえ感じてしまう。

 そんな自分の感情を持て余しながら、ずっとザフィールのそばについて、私はいつの間にかカウチの横で眠ってしまっていました。


 ドンドンドン、とノックが聞こえて、私は慌てて目を覚ましました。

 まだ寝ぼけてはいましたが、数時間ほど経ったのでしょう。

 窓から見える空は白んで、明け方を告げています。


「はい、ただいま!」


 私が目をこすりながら返事をすると、ドアがガチャリと開けられ、現れたのはアーモン・ゲート大尉でした。


「フラウ・ニヴィンスカ。君も寝不足のようだね」

「も、申し訳ございません」


 軍帽を脱ぐ大尉に応じようと、私は慌てて身なりを整えながら答えました。


「昨夜に軍医どのから報告を受けたんだが、ザフィールの具合はどうかな」

「はい、大尉さま。お医者さまが鎮痛剤を注射してくださったので、よくお休みになっています」

「軍医どのが君を誉めていたぞ。適切な応急処置がなされていたと。しかもそこらにあった有り合わせの物で」


 大尉はザフィールのベッドに近づいて、様子を伺うように覗き込みました。


「ずいぶんと酷い傷だな……無駄にユダヤの奴らに構うから、こんなことになる」


 呆れたように言って、私を見下ろします。


「私が知る限り、この男の仕事ぶりは慎重で思慮深い。少なくとも、ルブリンで私の片腕として働いていた頃はそうだった。味方の銃撃に巻き込まれるなどと、そんな粗忽(そこつ)をやらかすはずはなかったのだが」


 大尉が何を言いたいのか分からず、私はうつむいて黙っていました。


「ザフィールは君と再会してから、どうもおかしい……まるで、精密機械が狂ったようだ」


 いきなり、あごを掴まれ、無理やり上向けられます。

 間近に迫る暴力の匂いに、ぞっとして吐き気がしました。


「この男はベルリンの寮学校時代から、熱心なヒトラー・ユーゲントだった。完全な民族主義者だ。ルブリンでは私とともに、いかに効率よくユダヤ人を処理するか論じ合ったものだ」


 大尉の声が、陶酔するように上ずりました。


「美しくたくましいゲルマン民族が世界を統べる。そして、鉤十字(ハーケンクロイツ)の旗のもとに優秀な民族が調和し、人類は繁栄する。どうだ、理想的だろう」

「……っ、はい、大尉さま」


 私は震える声を必死に制しながら答えました。

 レネから聞いていたのです。大尉の前で無駄なことはしゃべるな、と。


 ——何が逆鱗にふれて、暴力を振るわれるか分からないの。さっきまで笑っていたかと思うと、急に私を殴り始めるのよ。


(何も考えない、考えない。心を殺して)


 私は自分に言い聞かせました。

 大尉は私を捕まえたまま、今からさばく獲物を検分するように、じっと見つめています。


「愛や情なんてものは、人類の繁栄からすれば瑣末なことだ。結婚も子育ても、すべては優等遺伝子を残すための営みだ。君は、ザフィールの血統について聞いたことがあるかな」

「す、少し、だけ……」

「なんと言っていた?」

「高貴な家の末裔だ、と……」


 大尉は何がおかしいのか、低く笑ってテーブルに目を留めました。

 血のついた金時計が置かれています。


「あの時計に描かれている紋章は、ハプスブルク家のものだ——もっとも、本物かどうかは知らないが」


 私から言わせれば、と大尉の語気が荒くなる。


「あの家系こそ、劣等遺伝子に負けて滅びた典型だ。最後の当主は同性愛者だったと噂されている。そんな異常者の気まぐれな火遊びから生まれた庶子の曾孫が、ザフィールだ——ははっ、滑稽だろう?」


 大尉の意図が掴めないまま、私は呼吸もまともにできません。


「この男は、そんな古びた血統を憎悪しながらも、長年続く貴族の家系であることを誇りに思っている。そうだ、矛盾している! だが、それがこいつの最後の矜持なのだ。だから無慈悲に命令を遂行できる。だから、この若さで少尉という地位を得ている! 私の部下の中でも、こいつは狂ってはならぬ歯車だ!」


 私の顎を捕まえていた手が、いつのまにか首もとに迫っています。


「愛や友情といった不確かなものは、言うなれば機械のサビだ。そんな浅ましい情に溺れて任務を遂行できない者は、民族の恥となる。フラウ・ニヴィンスカ、おまえは占領民だ。その命は我らに委ねられている」


 大尉の無骨な親指が、私ののど、息を通す管を圧迫します。

 苦しさに思わず顔をゆがめました。


「もしおまえが、私の大切な機械を狂わせるサビならば、それは排除せねばならん。わかったか?」

「——は、い、大尉さま」

「ならば、よろしい」


 大尉は凄んだ顔に笑みを貼りつけて、私の首から手を離しました。

 私は、全身から汗がぶわっと吹き出たのを感じました。

 大尉は軍帽をかぶり、ふたたびザフィールに視線を戻します。


「では、ここに住み込みで介助を頼む。入り用の物があれば、従卒(じゅうそつ)に言いつけていい」


 私は震えながら膝を折り、礼をしました。


はい、大尉さま。アンダシュタム・フューラー身に余るご厚意、感謝いたします」

「なに、大したことではないよ」


 最後は紳士のようにほほ笑み、私の肩を軽く叩いていきました。

 その瞬間の鳥肌たるや、生涯忘れられません。


(あの人、の、あれが、本性……)


 ドアが閉まり、靴音が遠ざかるのを聞いて、ようやく胸を撫で下ろします。

 心臓の音が、まだドクドクと鳴り響いていました。

 緊張から解放されたせいか、涙がじわりと溢れます。は、は、と息は荒く、私は膝をつきました。


 怖かった。

 あの血走った目。

 恫喝(どうかつ)する低い声。

 どこも殴られてはいないのに、胸部をスコップで(えぐ)られるような痛みがありました。

 ガンガンと痛む頭の中で、レネの声が響きます。


 ——私たちは彼らにとって、家畜以下の存在だからよ。


 その意味を今やっと、理解しました。

 彼にとっては大切な部下でさえ、人間ではなく機械なのです。

 占領民は、せいぜい機械を動かすためのオイル……むしろ、(じつ)のある牛馬のほうが大切にされているでしょう。


(それなら、ユダヤ人なんて、ネズミや虫と一緒……)


 害獣、そのもの。

 だからあんなに簡単に、家の手入れをするように、人種の《駆除》ができる。


 手の震えが止まらない私に、蒸気の吹く音が聞こえます。それはヤカンではなく、遠く線路を走る貨車の汽笛でした。

 その貨車の中を、したくはないのに想像してしまいます。

 牛馬よりも粗雑な扱いで詰め込まれた人々。

 クラクフ・ゲットーを追われ、プワシュフ収容所にも居残れない、《選別》に洩れた女性や子ども、老人たち。弱った男性、痩せこけている灰色の顔の数々。

 彼らを乗せた貨車は、西へ。

 何十両も連なって、絶え間なく西へ向かうのです。

 のちに《絶滅収容所》と呼ばれるアウシュヴィッツへの線路を、ガス室へ真っ直ぐに進む一途を、刻々とたどっているのです。

 鳴りやまぬ汽笛とともに。





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