鳴りつづける汽笛
どこか遠くで、無骨な貨車の走る音が聞こえます。
ときどき空を裂くような汽笛に、間近でシュンシュンとお湯の沸く音が重なって、私はハッとしました。
ザフィールの私邸です。
その彼は青ざめた顔で、暖炉の向かい、ベッド代わりのカウチに力なく横たわっていました。
慌ただしく出入りしていた兵たちはいなくなり、白衣を着た壮年の男性が、ザフィールのひたいに手を当てています。
口髭を生やした軍医は、振り返って私に言いました。
「お湯は沸いたかな?」
「あっ、はい、ただいま」
暖炉の火のうえにヤカンを乗せたまま、私はぼうっとしていたのでした。
膝もとに置いてあったホウロウの盥に少しずつ湯を注ぎ、ぬるま湯を作ります。
軍医はその盥のなかで、手についた血を溶かしながら言いました。
「縫合は終えたが、これから患部が腫れて、熱も上がってくるだろう。氷嚢を作っておくように」
「はい、軍医さま」
「きみは現場にいたと聞いているが、何が起こったのか知っているかな」
「それが……肝心なことは、何も」
私は軍医に手拭いを渡しながら言いました。
「私は壁の外側で、目録の処理をしておりました。気づいたときには、血まみれの少尉さまが担がれて来て……」
軍医はため息をついて、首を振りました。
「まだ定かではないが、彼には、任務不履行の疑いがかけられている」
「えっ?」
「B地区の病院で、あるユダヤ人の命乞いをしたそうだ。利用価値がある、と訴えて」
(——まさか、スレヴのお父さま……?)
ザフィールはあの夜、言っていました。
死の苦痛を和らげることはできる、と。
まさかそれに止まらず、ただの老いて病んだ彫金細工師の——命を、助けようとしたのでしょうか。
私は動揺を必死に抑えながら、軍医から受け取った手拭いを絞りました。
軍医が医療器具を片づけながら、話を続けます。
「何か手違いがあったようだ。彼が確認のため医者と話している間に、処理班の兵たちが病室へ入り、患者たちに機銃掃射をしたと聞いているが……なにしろ、兵らの説明も要領を得ない」
私はうなずきました。
ザフィールが血まみれで担架に乗せられたときもそうでした。
皆が口々に叫び、混乱した状態においては、それぞれの訛りもある中、ことの時系列を理解するのはかなり難しいことでした。
「とにかく、《即時処理》に巻き込まれてしまったと聞いている。創傷だけでなく骨も折れているが……神経は切れていない。不幸中の幸いだった」
軍医は懐中時計を取り出して、小声でつぶやきました。
「そろそろ貨車が着く頃だ。今日の《選別》はそうとう時間がかかりそうだよ」
軍医は疲れた口もとに笑みを浮かべて言いました。まるで今日の庭の手入れでもするような口調で。
ドキッとしましたが、それをどうこう言えるほど、すでに他人事ではありません。
私にとって、この収容所に隣り合う生活が当たり前になっているように、この医者にとっても、ユダヤ人を選別することが日常になっているのでしょう。
なんとも思わない。
命令された通りにやっている。
もはや、誰もが共犯者でした。
「では後を頼むよ。また様子を見に来る」
軍医は帰って行きました。
見送りに出ると、外はすでに暗く、労働隊の点呼も終わったはずなのに、銃声の音が鳴りやみません。
軍用車やトラックがエンジンを吹かして、行ったり来たりしています。
(こんなに不気味な夜は、久しぶりだわ)
私は寒気を覚えて、両腕をぎゅっと抱えました。
そのとき、室内からうめき声が聞こえました。
「う……」
ザフィールは苦しいのか、ひたいに脂汗を浮かべ、荒く呼吸をしています。
その汗を拭いながら、彼の傷を受けた部分に目をやりました。
日中は血のこびりついた軍服に包まれていたのが、今は挿し木を添えられ、清潔な包帯が巻かれています。
それでも腕全体は腫れ上がり、まだらな紫色の模様になっている様は、見るだに痛々しいものでした。
「どうして、こんなことに……」
——あるユダヤ人の命乞いをしたそうだ。
軍医の言葉を思い出して、私の胸はつぶれそうに苦しくなりました。
(ねえ、ザフィール。天邪鬼にもほどがあるわ)
敵でありながら、手を貸してくれる。
それなのにスレヴを口汚く罵って、足蹴にしようとする。
また一方では、みっともなく泣いてすがって、どうして撃ってくれないんだ、憎ませてくれないんだと、少年のように駄々をこねる。
(なんて面倒くさい人なの)
だけどそれが嫌ではない。
嫌悪にはならない。
疎ましく思いながら、愛しささえ感じてしまう。
そんな自分の感情を持て余しながら、ずっとザフィールのそばについて、私はいつの間にかカウチの横で眠ってしまっていました。
ドンドンドン、とノックが聞こえて、私は慌てて目を覚ましました。
まだ寝ぼけてはいましたが、数時間ほど経ったのでしょう。
窓から見える空は白んで、明け方を告げています。
「はい、ただいま!」
私が目をこすりながら返事をすると、ドアがガチャリと開けられ、現れたのはアーモン・ゲート大尉でした。
「フラウ・ニヴィンスカ。君も寝不足のようだね」
「も、申し訳ございません」
軍帽を脱ぐ大尉に応じようと、私は慌てて身なりを整えながら答えました。
「昨夜に軍医どのから報告を受けたんだが、ザフィールの具合はどうかな」
「はい、大尉さま。お医者さまが鎮痛剤を注射してくださったので、よくお休みになっています」
「軍医どのが君を誉めていたぞ。適切な応急処置がなされていたと。しかもそこらにあった有り合わせの物で」
大尉はザフィールのベッドに近づいて、様子を伺うように覗き込みました。
「ずいぶんと酷い傷だな……無駄にユダヤの奴らに構うから、こんなことになる」
呆れたように言って、私を見下ろします。
「私が知る限り、この男の仕事ぶりは慎重で思慮深い。少なくとも、ルブリンで私の片腕として働いていた頃はそうだった。味方の銃撃に巻き込まれるなどと、そんな粗忽をやらかすはずはなかったのだが」
大尉が何を言いたいのか分からず、私はうつむいて黙っていました。
「ザフィールは君と再会してから、どうもおかしい……まるで、精密機械が狂ったようだ」
いきなり、あごを掴まれ、無理やり上向けられます。
間近に迫る暴力の匂いに、ぞっとして吐き気がしました。
「この男はベルリンの寮学校時代から、熱心なヒトラー・ユーゲントだった。完全な民族主義者だ。ルブリンでは私とともに、いかに効率よくユダヤ人を処理するか論じ合ったものだ」
大尉の声が、陶酔するように上ずりました。
「美しくたくましいゲルマン民族が世界を統べる。そして、鉤十字の旗のもとに優秀な民族が調和し、人類は繁栄する。どうだ、理想的だろう」
「……っ、はい、大尉さま」
私は震える声を必死に制しながら答えました。
レネから聞いていたのです。大尉の前で無駄なことはしゃべるな、と。
——何が逆鱗にふれて、暴力を振るわれるか分からないの。さっきまで笑っていたかと思うと、急に私を殴り始めるのよ。
(何も考えない、考えない。心を殺して)
私は自分に言い聞かせました。
大尉は私を捕まえたまま、今からさばく獲物を検分するように、じっと見つめています。
「愛や情なんてものは、人類の繁栄からすれば瑣末なことだ。結婚も子育ても、すべては優等遺伝子を残すための営みだ。君は、ザフィールの血統について聞いたことがあるかな」
「す、少し、だけ……」
「なんと言っていた?」
「高貴な家の末裔だ、と……」
大尉は何がおかしいのか、低く笑ってテーブルに目を留めました。
血のついた金時計が置かれています。
「あの時計に描かれている紋章は、ハプスブルク家のものだ——もっとも、本物かどうかは知らないが」
私から言わせれば、と大尉の語気が荒くなる。
「あの家系こそ、劣等遺伝子に負けて滅びた典型だ。最後の当主は同性愛者だったと噂されている。そんな異常者の気まぐれな火遊びから生まれた庶子の曾孫が、ザフィールだ——ははっ、滑稽だろう?」
大尉の意図が掴めないまま、私は呼吸もまともにできません。
「この男は、そんな古びた血統を憎悪しながらも、長年続く貴族の家系であることを誇りに思っている。そうだ、矛盾している! だが、それがこいつの最後の矜持なのだ。だから無慈悲に命令を遂行できる。だから、この若さで少尉という地位を得ている! 私の部下の中でも、こいつは狂ってはならぬ歯車だ!」
私の顎を捕まえていた手が、いつのまにか首もとに迫っています。
「愛や友情といった不確かなものは、言うなれば機械のサビだ。そんな浅ましい情に溺れて任務を遂行できない者は、民族の恥となる。フラウ・ニヴィンスカ、おまえは占領民だ。その命は我らに委ねられている」
大尉の無骨な親指が、私ののど、息を通す管を圧迫します。
苦しさに思わず顔をゆがめました。
「もしおまえが、私の大切な機械を狂わせるサビならば、それは排除せねばならん。わかったか?」
「——は、い、大尉さま」
「ならば、よろしい」
大尉は凄んだ顔に笑みを貼りつけて、私の首から手を離しました。
私は、全身から汗がぶわっと吹き出たのを感じました。
大尉は軍帽をかぶり、ふたたびザフィールに視線を戻します。
「では、ここに住み込みで介助を頼む。入り用の物があれば、従卒に言いつけていい」
私は震えながら膝を折り、礼をしました。
「はい、大尉さま。身に余るご厚意、感謝いたします」
「なに、大したことではないよ」
最後は紳士のようにほほ笑み、私の肩を軽く叩いていきました。
その瞬間の鳥肌たるや、生涯忘れられません。
(あの人、の、あれが、本性……)
ドアが閉まり、靴音が遠ざかるのを聞いて、ようやく胸を撫で下ろします。
心臓の音が、まだドクドクと鳴り響いていました。
緊張から解放されたせいか、涙がじわりと溢れます。は、は、と息は荒く、私は膝をつきました。
怖かった。
あの血走った目。
恫喝する低い声。
どこも殴られてはいないのに、胸部をスコップで抉られるような痛みがありました。
ガンガンと痛む頭の中で、レネの声が響きます。
——私たちは彼らにとって、家畜以下の存在だからよ。
その意味を今やっと、理解しました。
彼にとっては大切な部下でさえ、人間ではなく機械なのです。
占領民は、せいぜい機械を動かすためのオイル……むしろ、実のある牛馬のほうが大切にされているでしょう。
(それなら、ユダヤ人なんて、ネズミや虫と一緒……)
害獣、そのもの。
だからあんなに簡単に、家の手入れをするように、人種の《駆除》ができる。
手の震えが止まらない私に、蒸気の吹く音が聞こえます。それはヤカンではなく、遠く線路を走る貨車の汽笛でした。
その貨車の中を、したくはないのに想像してしまいます。
牛馬よりも粗雑な扱いで詰め込まれた人々。
クラクフ・ゲットーを追われ、プワシュフ収容所にも居残れない、《選別》に洩れた女性や子ども、老人たち。弱った男性、痩せこけている灰色の顔の数々。
彼らを乗せた貨車は、西へ。
何十両も連なって、絶え間なく西へ向かうのです。
のちに《絶滅収容所》と呼ばれるアウシュヴィッツへの線路を、ガス室へ真っ直ぐに進む一途を、刻々とたどっているのです。
鳴りやまぬ汽笛とともに。