たがために鐘は鳴る
——移送された者は《選別》されて左右の列に分けられる。
「B地区の患者たちは、移送されるまでもない。即時《処理》の対象だ」
ザフィールが突きつけた残酷な事実。
その残忍さとは裏腹に、彼はゆっくりと屈み、スレヴの落としたカミソリを取り上げます。
「気の毒だが」
そして丁寧に、剃り刃の方を自分へ、持ち手をスレヴへ向けて、差し出しました。
それは今彼に出来る、最大限の譲歩。
「スレヴ。お前が望むなら、せめて死の恐怖を和らげることはできる」
「そ、それは、つまり」
「苦しまずに済む薬を手配しよう」
スレヴは押し黙っています。
ザフィールの手から唯一の武器を受け取ることもせず。
その代わりに瞬きをしました。
新月の夜にちいさく光る一等星のようなきらめきは、ひとつぶ、スレヴの頬を撫でてゆきました。
「……ひ、人並みの別れも、できないのか」
私はレネの言葉を思い出しました。
——私たちは彼らにとって、家畜以下の存在だから……
人並みではない。埋葬もない。
別れの言葉さえ許されない。
「ハ……《人並み》だと?」
ザフィールがスレヴの脚を弾き、大きな上背がぬかるみに転がりました。
「スレヴ!」
「黙れ、ヴィーシャ。騒ぐと人が来るぞ」
まだかすかではありますが、野太く笑い声が聞こえてきます。酔い覚ましに歩いている賓客たちでしょうか。それとも、コニャックをくすねた将校らでしょうか。
「身のほどを知れ」
汚泥のはねたスレヴの頭を、ザフィールの靴底が押さえます。
「俺は充分に情けをかけている。お前たちがコソコソやり取りしていることを、俺が知らないとでも思ったか?」
わざと見逃してやっているんだ、とザフィは冷酷に言いました。
「ヴィーシャ。俺の銃を拾って拭け」
私は慌てて銃を拾いました。
幸い、ぬかるみに落ちてはいなかったので、なんとか拭うだけで済みました。
「スレヴ」
蒼玉の瞳が、まるで雷のように青く光って、スレヴを見下ろしました。
「俺に忠誠を誓え。この泥にまみれた靴を舐めろ」
「そんな——!」
叫んだ私に、スレヴは「静かに」と制止しました。
「お、大声を出せば、君が、危ない」
私は両手で口を押さえました。
この窮状をどうともできず、ただ眺めることしかできません。
「さぁ、どうだ。せめて《人並み》程度の懇願をしてみるんだな」
(人並み? どこが!)
スレヴは震えながら、奴隷のようにこうべを垂れて、ザフィールの靴の爪先に顔を寄せました。
ブーツからボタボタと泥が滴り、ぬかるみに落ちてゆきます。
スレヴの両手は、革靴の底を繊細な手つきで支え、まるでそれが修理すべき美しい細工物であるかのように包み込みました。
スレヴのくちびるが革靴にふれます。
まるで口づけのような優しさで。
そこには尊厳も侮辱もない。
どこかで見た宗教画のように、その光景は月明かりに照らされて、厳粛な雰囲気を持っていました。
スレヴはゆっくりと、革靴を舐め上げます。
縫い合わせられた切替に沿って、味わうように辿ってゆく、スレヴの横顔。
それはまるで……恋人を慈しむような……
(まさか)
ここに来て初めての夜、スレヴが言ったことを思い出します。
——僕は同性愛者です。
(どうして、気づかなかったの)
——僕を拯う神はいませんが。
それは一体いつから、彼の心に巣食う後ろめたさだったのでしょう。
ザフィがナチスに入党してから?
戦争が始まってから?
いいえ、もっと前から、彼はきっと。
——ヴィーシャは、ざ、ザフィの、こ、ことが、好きなの?
あのクラクフの広場で、痩せっぽっちの少年が「お前たちのせいだ」と泣いたとき、それを優しく抱きしめたスレヴの姿を思い出します。
——ザフィは、き、きれい、だから……
整った顔立ち。白い肌。
細くやわらかな金髪。
残酷な、蒼い瞳。
それらはすべて、スレヴが魅入られる宝石や彫金細工のように。
(同じなんだわ)
大切に扱うべき愛おしい存在。
こんな残酷な世界のただ中でも、その無垢な気持ちが変わらない。
変えられない。
(どうして、よりにもよって……)
——母親としては、心配でもあるの。
脳裏の奥でやさしい声が響き返します。
——誰かのために、平気で自分を犠牲にするようなところがあるでしょう。
スレヴのお母さんが、こっそりと教えてくれた内緒話。
歳の差はあっても打ち明けてくれた、女同士の信頼関係。
——ヴィーシャ、お願いよ。スレヴをどうか守ってね……
「やめて!」
私は無意識に、スレヴの背中に覆い被さっていました。
「おまえたちが、そんなだから……!」
ザフィールの喉から、吸った息が吐けないような、苦しげな音が聞こえました。
そして私を睨みつけます。
「恨むぞ、ヴィーシャ」
ザフィールは……唇を噛み締めて。
「おまえが引き合わせたんだ、この」
口調とは裏腹に、蒼い瞳の目尻は赤く、悔しそうに歪められて。
「——」
そこで突然、ザフィールの足元がぐらつきます。私は慌てて支えました。
荒い呼気にアルコールの匂いを感じます。
そうだ。今夜はパーティーで、彼はさっきまでお酒を飲んでいたのです。
「ヴィーシャ、人が、来る」
背後から革靴がぬかるみを踏む音が聞こえます。
スレヴは「ザフィを頼む」と言い残して木陰の向こうに消えました。
(頼むなんて言われても!)
スレヴをなじりたいような気持ちで、私はザフィールを支えたまま、すべる泥の上を必死に踏みしめました。
「誰だ!」
手持ちの電灯が向けられて、影が長く伸びます。
驚いて固まってしまった私の代わりに、ザフィールが弱々しい声で応えました。
「邪魔を……するな」
その一言で、逢引きと勘違いしたのでしょう。男たちは冷やかしに口笛を吹いて、去って行きました。
(危なかった……)
月明かりの下、枝葉のざわめき。
吹き寄せる夜風は冷たく、頬をなでていきます。
私たちは二人で、その場に立ち尽くしていました。
「ヴィーシャ」
かすかな声が、私を呼びます。
「お前たちへの未練は、寮学校で断ったつもりだった」
「……そうでしょうね」
手紙の来なくなったポスト。
毎日待ち続けていたザフィールからの返事。
「ナチスの将校になったことも後悔していない」
「ええ、知ってるわ」
クラクフ駅で再会したときの、堂々たる振る舞い。その横顔には誇りさえ感じられて。
「ポーランド侵攻や収容所の必要性だって、頭では何度もなぞって、理解しているんだ」
「——貴方たちは、どうしてそう、ぶ厚い面の皮で……」
ザフィールの独白を聞きながら、私はフツフツと腹が立ってくるのを感じました。
「私やスレヴや家族たちの、小さな日々の営みや幸せなんて、どうでも良かったんでしょう?」
ザフィールは苦しそうにうつむき、握りしめていた拳をひたいに押しつけました。
「分かりきっていたことじゃないか。《民族浄化》は党の正義だし、昔も今も俺はユダヤ嫌いで、アイツはユダヤ人だ」
「たったそれだけの理由で私たちの大切な広場を血で汚して、美しい川に油を撒き散らしたわ」
「それだけの理由なんかじゃない!」
「じゃあどんな大義があるの。スレヴと家族をゲットーに閉じ込めて、ユダヤの人々を病と飢えに追い込んで——」
私は息を吸って、吐き出しました。
「そんな真似をして、どんな幸せが得られるっていうの?」
「——例外は、許されない……」
「そうね。片っ端からネズミ駆除でもしているみたいよ。移送されてくるユダヤの人々から、義肢や義眼まで剥ぎ取って——」
「そこまで知っているなら……っ」
言葉が弱々しく震えました。
「どうしてさっき、俺を撃たなかったんだ」
ザフィールの腕が私の肩に縋りつきます。
その重みに耐えられず、二人してぬかるみに膝をつきました。
「俺は——初めての友だちを、その家族を散々、殺めて、きたのに」
それなのに、と震える声。
「お前たち、どうして変わらずにいられるんだ。俺はこんなに変わってしまったのに……!」
浅い呼吸は、少しずつ、啜り泣きのように、水を含んで。
「どうして、憎ませて、くれないんだ」
私は愕然としました。
とっくに憎まれていると思っていたからです。少なくとも、利用価値があるから生かされているのだとばかり。
どうして、と問いたいのはこちらの方です。
友だちなんて薄っぺらな単語を吐いてまで、だけどそれは確かに、彼の本心からの言葉で……
(……あなたはいつも、天邪鬼なのよ)
初めて出会った日もそうでした。
——この、金の亡者が……!
私には分からなかった、彼の苦しみや葛藤。彼を抱きしめることができたのは、優しいユダヤの少年だけでした。
今、苦しそうに喘ぎ泣くザフィの背をさすりながらも、私には彼の気持ちが分かりません。
(この人は、誰なの?)
ナチスの将校なのか。
幼なじみなのか。
水面に浮かぶ泡のように、表れては消える憎しみ、嫉妬、懐かしさ。
私たちの関係も、ねじれきって分からなくなってしまいました。
クラクフで心を温め合った友人たちなのか。三方の陣営に分かれる敵同士なのか。
ザフィールでさえ混乱して、分かっていないかもしれません。
戦争は、心を引き裂きます。
ひとりの人間を、敵と味方に。
あるいは生と死に。
心も身体も遠くかけ離れた場所に来て、自分の落ち着く場所を忘れてしまう。
貧しさに苦しみ、なんとか食べ物を得ようと、命を繋ごうとたどり着いた場所は、家畜の屠殺場よりも無慈悲なところ。
幼かったときの、あたたかい灯火に満ちた、石畳の敷き詰められた広場ではない。
(泥と垢にまみれ、硝煙の匂いがただよう場所)
そして決して与えられることのない、神の赦しを待っている。
それから数日後……早朝から雪の降る冷え込んだ3月の半ばのことでした。
ユダヤの人々の最後の頼りであった、プワシュフ・ゲットーは解体されました。
「並べ! 走れ!!」
ある少女は犬に追い立てられて、ある老爺は抵抗するまもなく、敬虔なラビは祈るいとまも与えられず。
日中ずっと、軍用犬の咆哮と銃声、ナチスの怒声が聞こえていました。
私がここまで詳細に書き記せるのは、ザフィールに付き従って、その解体の現場に居合わせたからです。
といっても、ゲートをくぐることは許されませんでした。私に与えられた役割は、皮肉にも、かつてクラクフ駅で行っていたことと同じ。
ユダヤの人々から没収した財産を書き出すことでした。
タイプキーを叩く私と、ひとつ壁の向こうで響く連射音。
用紙を機械に挟む私と、誰かが命を乞う声。
(私の心は、冷え切ってる)
目の前の出来事に残酷さ以上の、何かを感じて。
それは「自分が殺されるかもしれない」という恐怖。
目前の死と顔を突き合わせたとき、私はただの無慈悲な傍観者でした。
なんて薄情で、呆れるほどに無力。
もう涙も出ません。
心を殺すことでしか、自分の命は守れませんでした。
(私もまた、この殺戮に加担している歯車なのだわ)
そして、ようやく日も暮れようかという頃、にわかに辺りが騒然としました。
「少尉!」
ザフィールが下士官の肩を借りて、引きずられるように歩いてきます。
だらりと垂れ下がった肩から袖は、鮮血に染まって。
足跡につづき、点々と、雪道を彩る赤。
「ザフィール!」
息は荒く、私の呼びかけにも答えません。
どれだけ出血したのか、白い顔はさらに白く、静脈が透けて見えるほどでした。
「これは——いったい、どういうことなの」
私は目録を近くの側近に押し付けて、ザフィールの制服を脱がせました。どんどんと広がる血のシミ。
私はとっさに自分のバンダナを取り、鉛筆をひっかけて、ザフィールの二の腕を止血しました。
(早く、病院に)
【第3章・終】