生死を分かつ指
「レネ!」
所長に呼ばれるたび震えて「はい、所長さま」と応える彼女は、童話によく見かける薄幸な少女のようでした。
しかし怯えに負けまいと唇を噛む強気な姿がまた、所長の歓心をそそるのでしょう。
同性の私でさえ、守りたくなってしまうような、からかいたくなるような……不思議な魅力を持つ女性でした。
だけどすぐに、そんな悠長なことは言っていられなくなりました。
所長の用を終えた後のレネの腕や頬に、しばしば、青あざができるようになったからです。
「あの男、嗜虐趣味よ」
私が水で冷やした布を渡すと、彼女はそれを頬に当てながら言いました。
「私だけじゃない。収容所のユダヤ人を、好き勝手に撃っているのも見かけたわ」
「そんな恐ろしいこと——何かの処刑ではなく?」
「処刑どころか遊びよ。まるで貴族の鷹狩りみたいに」
「イイ趣味してるわ」
私は皮肉を込めて言いました。
レネと私は邸の半地下で共同生活をしていました。この時期に、私たちは互いの言語や文化を多く交換したと思います。
ユダヤ教の祈りの言葉はこの頃に覚えました。レネの家庭が熱心な教徒であったことに比べて、スレヴの一家はそれほどでもなかったのだ、ということにも気づきました。
「あの人、収容所でも有名よ」
「スレヴが?」
「スパイなのかってくらい、食べ物や情報を多く持ってる。どこから仕入れて来るのかって、みんな怪しんでいたけれど……」
レネは少しいたずらっぽく笑って言いました。
「こんな可愛い恋人がいたなんてね」
「もう、またその話?」
「いいじゃない、教えてよ。私は言いふらさないから」
「何度も違うって言ってるでしょ。私が一方的に想っていただけ。ちゃんと失恋する前に戦争になっちゃったわ」
「それなら、あの将校さんは?」
「将校?」
「貴方を所長に紹介したっていう、あの怖いほど美形な少尉さん」
私は慌てて両手を振りました。
「それこそ違うわよ! ただの幼なじみ!」
「つまらないの。ヴィーシャを巡って三角関係かと思ったのに」
「そんな全方向から撃たれそうな三角関係、まっぴらごめんよ」
レネは「たしかに」と笑いました。
「でも、貴方にその気持ちはなくても、少尉さんはどうか分からないわ。もしプロポーズされたらどうするの?」
「プロポーズぅ……?」
私は顔をしかめて、ザフィールのあの怜悧な表情から一体どんな甘い言葉が出てくるのか、がんばって思い浮かべてみました。
「……『俺と一緒にアーリア民族を増やしませんか』とか」
レネがけらけらと笑ったので、私はホッとしました。
この頃、状況がどんどん悪くなっていくなかで、ユーモアはひとつの生きる糧でした。
笑えば息ができる。
表情が動く。
相手と声が響き合う。
どんなに絶望的なことが起こっても、身近な矛盾や滑稽さから小さな笑いを見つけることが、私たちに残されたわずかな尊厳でした。
しかし歴史の残忍さは、そのわずかな尊厳すら奪っていくのでした。
ある日、いつものようにスレヴとメモをやり取りしたとき、彼は目配せをして、小声で「すぐに返事をくれ」と呟きました。
こんなことは初めてです。
私は地下倉庫に行く振りをして、その片隅でメモを開きました。
『来週、ゲットーの解体が始まる』
スレヴには珍しい、荒れた走り書きの一文で始まっています。
『僕の父さんを助けたい。ザフィールの力が必要だ。会える機会を作ってくれ』
私は読み終えて、メモを胸に押し当て、天を仰ぎました。
ゲットーの《解体》とは、その区域からユダヤ人を一掃することを意味しています。
労働できる者は収容所へ、できない者には——死の怪物が嬉々として口をひらき待ち受けているのです。
「ザフィールと……」
一体どうやって連絡をつけたら良いのか。
ましてやユダヤ人との秘密の会合など。
いきなりの無理難題に、私はこめかみが痛むのを感じました。
(たしか、あの夜は……私が気絶して、ザフィールが介抱してくれたのだわ。だけどそんな都合のいいこと、また起こるとは考えられない。スレヴだって、たまたま連れて来られただけで——)
金時計。
それがふと頭に浮かびました。
ザフィールが大切にしているあの金時計が、スレヴと、彼のお父さんを繋ぐたった一つの縁のように思えます。
だけど——
それが分かっても、どうしろと言うのでしょう?
私はその場にしゃがみ込み、うつむきました。
「どうしたの?」
いつの間にか、レネが階段を降りてきていました。
「ワインを取りに行ったまま帰って来ないって聞いたから……具合でも悪いの?」
「レネ……」
「顔が真っ青よ。本当につらそう」
私はレネの顔を見つめました。
きっと彼女にも家族がいて、その人々はゲットーにいるかもしれなくて……
スレヴの情報が事実かどうかも分からないのに、いたずらに不安を煽るようなことはしたくありません。
だけど、もし、もし——力になってくれるなら、こんなに心強いことはありません。
レネは私の顔と、私が握りしめているメモとを、何度か見比べました。
そして何かを察したように、「わかった」と小さく呟きました。
「言わなくていいわ。ただ私の質問に、首を振るか頷くかだけ、してほしい」
私は頷きました。
「そのメモは、例の人から……何か、情報をもらったの?」
頷きました。
レネは思慮深く言葉を選びながら、質問を続けます。
「ユダヤ人の、命に関わる頼まれごと?」
私は、三度目の頷きを返しました。
「それは《彼》と食糧をやり取りするよりも、難しいこと?」
今度は私が首を縦に振る間もなく、レネは理解したようでした。
「うん、なんとなく分かったわ。物の受け渡しより難しいことなんて、一つしかない」
レネはさらに声を低くして、私の耳もとに口を寄せました。ブルネットの巻き毛が、私の頬をくすぐります。
「一度しか言わないから良く聞いて。土曜の夜、所長の就任パーティーが開かれるそうなの。気に入りのワインやコニャックを、兵士たちと一緒にたくさん飲むはずよ。そしてこれが、一番大事なところ……労働隊はね、行き帰りの点呼さえ数が合っていれば良いの」
すぐに意味を汲み取れない私に、レネは「ユダヤ人なら分かるはず」と言いました。
「もう戻らなきゃ。取りに来たワイン、確かこれよね。代わりに持って行っておくわ」
私は一瞬呆気に取られたあと、ハッと気がついて手近な紙を引っ張り出し、今聞いたことを書き付けました。
短い鉛筆を機械的に動かしながら、私の脳裏には、クラクフの小さな家で、虫眼鏡を覗きながら時計を修理している、スレヴのお父さんの姿が浮かびました。
同時に、チフスで亡くなったお母さんも、今は連絡の取れない自分の父親も、他にも幼い頃から優しくしてくれた大人たちの面影が、次から次へと現れては消えていきます。
(こんなちっぽけなことしか、できない)
やがて私とスレヴは何往復かのやり取りを経て、日時と方法を共有しました。
所長の就任を祝う夜会のさなか、時計の針が日付けをまたぐ頃、私はザフィールに耳打ちしました。
「あの、少し、話してもいいかしら?」
「ははっ、なんだ? 改まって」
ワインで酔っているザフィールは、陽気に応じました。
「あのね、金時計に関わることなの」
私がひっそりと、しかしハッキリと発音した言葉に、ザフィールは顔色を変えました。私の手首を掴み、宴席の会場から連れ出します。
通りすがりに心配そうなレネとすれ違い、私は大丈夫という合図代わりにほほ笑んでうなずきました。
いえ、上手に笑えていたかは分かりません。
(油断すると、手が震える)
ひと気のない廊下を過ぎ、裏口から外に出ました。
夜空に春の星座が見えていましたが、凍土はまだ冷たく、息を吐くと白くなる寒さでした。
「ここまで来れば、木々のざわめきで声も隠れるだろう」
ザフィールはタバコに火を付けて、ふうと煙を吐きました。
「そうね、ザフィ。私もそう思うわ」
私は懐から、シルク布の包みを取り出しました。
「これを貴方に渡したくて……」
ザフィールが中身を確認しようとした背後から、黒い影が現れ、少尉の両腕を絡め取りました。
シルク布と、黒く汚れた毛布が重なって落ちます。
私はザフィールのホルスターから銃を奪い、両腕を伸ばしました。
銃口の狙いは彼の額。
「……地下組織の真似事か? ヴィーシャ」
「ごめんなさい。こうでもしないと、話が出来ないと思って」
「話があるのは——垢じみた臭いの、この男のようだな。どうしてこんな時間に、こんな場所にいるんだ……スレヴ?」
「労働隊に身代わりを立てた」
スレヴはザフィールの首すじにカミソリを添えながら、「頼む」と言いました。
「こんな手荒をしたくはなかった。だけど時間がない。僕の父親を助けてくれ」
「お前の父親?」
「そうだ。今はゲットーに住んでいるが、かつてお前に食事を施し、その懐中時計を修理した男だ」
ザフィールは何かに気づき、私を見ました。
「嘘は言っていないでしょう? 《金時計に関わること》だもの」
「くそ、屁理屈屋め」
ザフィールは眉をひそめ、スレヴの拘束から逃れようと、ブーツで土を踏み締めました。
「お前の父親など知ったことか」
「嘘だな。僕は知っている。ザフィール、君は一度、父さんを庇ったことがあるだろう」
私は耳を疑いました。
「駅でユダヤ人の荷物から金目の物を回収していたとき、ある義眼を見て発狂したと聞いた」
ザフィールは黙っています。
「それは父さんの作った義眼で、知人の物だった、とも。それで抗議しかけた父さんを不問に付したのが君だ。そうだろ?」
「さあ、どうだったかな」
「教えてくれ……!」
スレヴの悲痛な叫びが、低く響きました。
「父さんは今、ゲットーの病院に——昔の、古傷から弱って——どうなる? 母さんと同じように、ガス・トラックに、お、押し込められるのか?」
ザフィールはしばらく黙ってから、深くため息をつきました。
「……小賢しいお前たちに、同じ手が二度通用するとは、上も思ってはいないさ」
「どういう——」
スレヴの問いをさえぎるように、ザフィールが言い放ちました。
「ゲットーは、ひと晩で撤去する」
夜風に乗って、タタタタ、と銃声が響きました。
それはどこか遠く霞みがかって、現実の音ではないように思えます。
「え……?」
私のかすれ声に、ザフィールは事務的に答えました。
「A地区はプワシュフへ移送、B地区は現場処理だ」
「げ、現場、処理って、つまり——」
私は銃を、スレヴはカミソリを、それぞれに取り落としました。
「抵抗する者はその場で《処理》する。移送された者は、収容所の医師たちによって《選別》されて左右の列に分けられる」
「それって、つまり——」
まだ話をよく飲み込めない私より、スレヴが先に理解したようでした。
「労働か、ガス室か。その一瞬で決まる」
「おい、ガス室なんてものはない。消毒用のシャワーをさせるだけだ」
ハハッ、とスレヴが初めて、嘲笑う声を上げました。
「それならなぜ、シャワー室から誰も出て来ない? 君は聞いてないから言えるんだ。あの、数百人が一度に上げる断末魔を——そしてそれが止んだときの、おぞましい静寂を……」
スレヴの表情は月に照らされて、まるで布を貼り付けた骸骨のように見えました。
ザフィールは押し黙っています。
私は混乱したまま、考えるよりも先に「そんなはずないわ」と否定していました。
「だって、そんなこと、あるはずないわ。そんな恐ろしいこと……ザフィ、貴方がもしそれを知って黙っているなら、それって」
犯罪者と同じ。
無差別にユダヤ人を撃つ所長と同じ。
「たった一人の判断で、そんな一瞬で、誰かの生死を決めるの? 右か、左か、指差しただけで?」
たとえ、それが良く知っている人であっても。
ユダヤの血が流れているという、
ただそれだけの理由で。