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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第三章 死を待つ収容所
12/15

所長あらわる

 以来、スレヴは収容所に入って、金属細工の専門技師となりました。

 技術のある収容者は、軍需工場や士官の下働きとして重宝されます。スレヴもその一人でした。

 顔を合わせる機会が格段に多くなったことは嬉しい反面、私の胸のうちでは、不安もさらに大きくなっていました。

 なぜなら——


 たとえば銃を乱れ打つ音、

 深夜に響くかすかな叫び声、

 兵士たちの噂話のあいだに。


 ——《収容所》の影はうっすらと、日常に忍び込むように見え隠れしていました。


(ゲットーにいたままの方が、安全だったのではないかしら)


 スレヴの父親には、もう長いこと会えていません。生きているのかそうでないのか……訊ねる勇気さえありませんでした。


 ある日、階段を箒で掃きながら降りてゆくと、スレヴが絵画の額縁を取り付けているところに出くわしました。

 髭はきちんと剃られ、年末に会ったときより少し身綺麗になってはいましたが、頬骨の突っ張った顔には疲労が色濃く(にじ)んでいます。


「スレヴ、これ」


 エプロンの内ポケットを裏返し、黒パンのスライスを渡しました。


「ありがとう」


 スレヴは絵画の裏からそれを受け取り、代わりにメモを渡してきました。

 必要な日用品や食糧、嗜好品を書き連ねたメモです。それはスレヴだけのものではなく、収容所内で暮らすユダヤの人々にとって、日々をしのぐための大切なリストでした。


(こんな環境にあっても、スレヴは人のために動いてばっかり)


 そんな彼が愛おしくもあり、切なくもあります。


「スレヴ、貴方の欲しいものは何かない?」

「僕は大丈夫」


 即答されて、私は言葉に詰まってしまいました。

 訊ねたいことは山のようにあるのです。


(お父さまはご無事なの?)

(食糧は足りている?)

(病気にはなっていない?)

(棟長はどんな人? 理不尽に暴力を振るったりしない?)


 だけど、そのどれもが自分のエゴを満たす質問のように思えて、口に出すことは(はばか)られました。


「……大丈夫なのね」


 なんとかその返事だけを喉の奥から絞り出すと、スレヴは私を見上げ、優しく目を細めました。


「か、顔に、書いてある」

「えっ?」

「心配で、た、たまらないって」


 本心を見通された羞恥に、私は首から頬が熱くなるのを感じました。


「本当に、大丈夫。労働隊といっても色々あって、僕はその中でも生き延びやすい方だから」

「それは……」

「ヴィーシャのくれる食糧がお金代わりになって、食事係もスープを底から(すく)ってくれる。君がくれる上等な煙草だって、この労働隊(コマンド)のカポに流せば優遇してくれる」


 私はうつむきながら聞いていました。

 スレヴは隠している。何かを私に知られないように。

 でも、きっとスープや煙草の話も、嘘ではないのでしょう。


「少しでも役に立てているなら、良かった」


 私は袖の内側に隠していた煙草を数本、スレヴの足元に落としました。

 ふ、とスレヴが笑いに似た声を洩らしました。


「君、て、手品師みたいだ」


 場違いな娯楽の言葉に、私も少し気持ちがほぐれました。


「そうよ。もっと上達するから、見ていてね」


 私たちは、時間を選び人目を忍び、互いだけに伝わる合図を考えて、食べ物やメモをやり取りしました。

 そうして定期的に情報交換ができるようになる頃には、もう年も明けて、東部での戦況が聞こえるほどになっていました。


「スターリングラード?」


 私は階段の手すり磨きに使うワックス缶を取り落としそうになり、慌てて両手で持ち直しました。


「もうそんなところまでソ連軍が来ているの?」


 迂闊(うかつ)にも聞き返した私に対して、スレヴは表情を変えず、ドアの蝶番(ちょうつがい)を調整しています。


「ドイツ軍が降伏したらしい」

「じゃあ、戦争はもうすぐ終わるの!?」

「シッ」


 スレヴは警告するように、息を滑らせました。


「米英軍はまだアフリカだし、移送の貨車も増えている。油断しないで」


 移送の貨車。

 それは、逮捕され収容される人が増えているということです。

 私はせめてもという気持ちで、ワックス缶のフタ裏に隠したマーガリンのかけらを渡しました。


(こんな物しか、渡せないなんて)


 ユダヤ人に対する見張りはさらに厳しくなり、労働隊(コマンド)での団体行動が徹底される中で物をやり取りするのは至難の業でした。


「ヴィーシャ、む、無理しないで。会うたびに渡してくれなくてもいいのに」

「言ったでしょ。上達してるのよ」


 自分の衣類や持ち物の中にタバコ一本やハム一枚、少しずつ色んなところに隠して、いつスレヴとすれ違っても何かを渡せるよう、手段を凝らしていました。

 なにしろ、見つかれば私もどうなるか分からないのです。


(ザフィールだって、いつ気が変わるか分からない)


 あの夜、私たちを助けてくれたことが、彼の気まぐれでない保証はどこにもありませんでした。


(最近は避けられているわ。明らかに)


 しかし、その読みが覆される時が来ました。思い返せばその日の朝から、所長の邸は異様な雰囲気に包まれていました。

 ザフィールもどこか緊張した面持ちで、私の名を呼びました。


「ヴィーシャ、来い」


 士官たちが邸じゅうを見回っています。いつもやってくるユダヤ人の労働隊はいません。確認や叱責の言葉が、あちこちで飛び交います。

 まるで、何かを恐れるように。

 それが《何か》ではなく《誰か》のことだと分かったのは、ザフィールの後から応接間に入った時のことでした。


「大尉、ご足労さまです」


 ザフィールが革靴を鳴らし、敬礼しました。

 その先で肘掛け椅子にゆったりと掛けている将校が、片手を挙げて微笑みました。


「気が早いよ。私はまだ君と同じ少尉相当官だ」

「すでに特進は決まっているとお聞きしました」

「相変わらずの遠耳だね」


 ザフィールのことを褒めながらも、彼の声には虚栄の色がありました。


「ルブリンでも君の情報通ぶりにはよく助けられた」

「そう評価して頂けて光栄です」

「さて、それで——君の言っていたメイドとやらが、そちらの可愛らしいお嬢さん(フロイライン)かな?」

「はい。ヴィーシャ、ご挨拶を」


 私は戸惑いました。

 挨拶といっても、ナチス式の敬礼かメイドとしてのお辞儀か、どちらが相応しいのか迷ったからです。

 一瞬のち、私はフランス式に脚を屈めて言いました。


ご機嫌よう、わが君ハイル・マイン・フューラー


 室内に沈黙が下りました。

 不興を買うか。

 そう思った瞬間、大きく笑い声が響きました。


「素晴らしい! 君、こんな女性をよく見つけたものだ」

「恐縮です、大尉」


 ザフィールの声も、どこかホッとしたように感じられました。


「ヤドヴィガ・ニヴィンスカと申す者です。フランス語にも覚えがあるので、使い勝手が良いかと思いまして」

「そうなのかね?」

はい、旦那さま(ウィ・ムシュウ)


 私が再び脚を屈めると、上官は満足げに手を叩きました。


「よし。じつに礼儀を(わきま)えている」

「お気に召して何よりです」

「いやいや、午前中はゲットーの視察でウンザリしていたが——おかげでようやく息がつけたよ」


 ザフィールがすかさず「紅茶の用意を」と言ったので、退室の合図だと分かりました。

 部屋を出た瞬間、嫌な汗がぶわっと噴き出したように感じました。


(なんなの? あの……言葉にできないけれど、優しそうに見えてそうじゃない、品がありそうでなさそうな……)


 キッチンへ向かうと、見慣れない女性が寒さに震えてか、青ざめた顔で立ちすくんでいました。

 腕章にはダビデの星。

 私と目が合うと、女性は唇をわななかせ、息を止めたように見えました。

 白い頬は大理石の彫刻のようにつややかで、豊かなブルネットの巻き毛が額からふわりと落ちていました。

 同性ながらに見惚れるほど美しい女性です。

 そんな人が怯えきっていることに哀れを覚えて、私はエプロンの隠しポケットを手で探りました。

 ちょうどスレヴに渡し損ねたジャムの包みを見つけて、女性に差し出しました。


「あの……どうぞ」


 彼女は驚いた様子で、黙ったまま、包みを受け取りました。


「——ありがとう」


 かすかに聞こえた声に、私が精いっぱいの笑顔を返すと、女性も安心したのか、ぎこちなくほほ笑んでくれました。


「そこは冷えるでしょ。湯を沸かすから、こっちに来たらいいわ」

「い、いえ——」

「遠慮しないで」


 なおも椅子を勧める私に、女性は困ったように答えました。


「——座っているところを、あの、見られたら……」


 言い淀む姿に、私は遅れて気がつきました。

 彼女はユダヤ人です。

 もし将校の邸のキッチンで寛ぐ様子など見られれば——どんな目に遭うか、答えは簡単でした。


「じゃあ、名前を教えてほしいわ」

「え?」

「さすがにナチスだって、名前を教えたくらいで撃ったりはしないでしょう」


 女性は少し頬をゆるめ、笑ったように見えました。しかし、出てきた言葉は予想外のものでした。


「撃たれるわ」


 どうして、と応えた声がかすれました。


「私たちは彼らにとって、家畜以下の存在だからよ。屠殺(とさつ)する豚に名前なんていらないもの」


 そうして湯を沸かしているあいだに、彼女は小声で低く、今の生活ぶりを話してくれました。


「クラクフ・ゲットーはもう限界。どの道路にも生き絶えた人が転がって、野放しにされている」

「東部でソ連が勝ったのはいいけれど、その代わり、行き場をなくしたユダヤ人が大勢、移送されているわ」

「家畜用列車にぎゅう詰めにされて、何十両も連なって、それが日に何本も、同じ線路を一方通行で——この意味が分かる?」


 彼女が淡々と語ることは、にわかには信じ難いことでした。


「プワシュフ収容所を建設するために、ゲットーからたくさんの労働隊が来ているわ。道路を作る資材に、ユダヤ人の墓石が掘り起こされているとも聞いたけれど……ね、胸の悪くなる話でしょ……最初は信じられなかったの。ガス・トラックのことも、アウシュヴィッツのことも。だけど、もう何を言われても驚かない」


 驚かない、と決意を込めた声は、語尾に嗚咽(おえつ)を含んでいました。


「私がここへ来るとき——あの偉そうな将校が、ユダヤ人女性を撃つよう命じるのを、この目で見たわ」


 長いまつ毛のあいだに、見る間に雫が溜まって、あふれました。


「さっきまで生きて、現場監督として役割を果たしていたのよ。何が気にさわったのか分からない。だけど——彼女は死んで、私は生きてる」

「どうしてここへ連れて来られたの?」

「この邸のメイドになるよう言われたの……怖い、怖くてたまらない。目立たないようにしていたつもりなのに」


 古代ギリシャの女神を思わせるような美しいユダヤ人女性。

 彼女は、プワシュフ収容所の所長——アーモン・ゲートの命令で、この邸に連れて来られたのでした。





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