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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第二章 閉ざされた人々
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交錯する想い

 久々にスレヴの無事を確認できた喜び、しかしその姿の衰えぶりに、私は身動きできなくなってしまいました。


「どうして、ここに……」

「俺が呼んだ」


 ザフィールは私の肩を抱えて立たせ、スレヴからよく見える位置に押し出しました。


「金時計を直した褒美に、感動の対面でもどうかと思ったが——その髭では」


 ザフィールは明らかにスレヴを辱めようとする口調で言いました。


「再会のキスをしようにも、毛ジラミが移りそうじゃないか。なぁ、ヴィーシャ?」


 彼は私の髪をひと筋すくって引っ張りました。まるで飼い犬に縄をかけるように。


「お前たちはもう寝たのか?」

「何をバカなこと——!」

「ヴィーシャ、これは尋問だ」


 ザフィールの瞳が、逆手に持っているカットナイフの刃と同じに、鋭く光りました。


「ユダヤ人と通じた者は姦通罪(かんつうざい)にあたる。それにもし、お前たちが深い仲なら、協力して地下組織(レジスタンス)の活動をすることも可能だろう」


(レジスタンス——聞いたことがある)


 反ナチスを掲げて団結し、アメリカやイギリス、連合軍の協力をするための組織。

 わななく私とは対照的に、スレヴは黙っています。

 怒るでも悲しむでもなく、真っ黒な瞳はランプの灯りを映して、ゆらめいていました。


「どうだ、汚い(スレヴ)?」


 そのとき、初めてスレヴが感情を見せました。


「ふ……」

「何がおかしい」

「い、いや……無駄な手間を、か、かけたものだな、と」


 吃音(きつおん)で不気味に笑うスレヴが、私には、数ヶ月前までと同じ人物とは信じられませんでした。


「無駄と言ったか?」


 (いぶか)しげに問い返すザフィールも、スレヴを警戒しているようです。


「その意味を答えてみろ」


 少しでもつっかえたら撃たせる、とザフィが顎をしゃくった方向、スレヴに拳銃を突きつけている下士官は、無言のまま指だけで、カチリと撃鉄を上げました。

 スレヴは動じるどころか、この状況を愉しんでいるようにも見えます。


「はい、少尉。お答えします」


 流れるようなドイツ語で、スレヴは返事をしました。


「無駄な手間、と申しましたのは、僕にとって彼女はそういう対象ではないからです」

「嘘をつけ。ゲットーのカポから、お前たちは恋人同士だという情報を得た」


(うそ——ああ、でも)


 私は悔しくて、唇を噛みしめました。


(そうだわ、聞いたことがある。まだ、お父さまの工場の事務をしていた頃のこと)


 ゲットー内の人々に恋人同士だなんて噂されて、舞い上がっていたことが、今はもう幼く感じられます。


(あの頃が今と比べて、どんなに平和だったか)


 同時に、所長の邸へ配属されたときの、ザフィールの忠告も思い出しました。


 ——ヴィーシャならある程度は(かば)い立てできるが、ユダヤ人の安全は確保できない。

 ——しらばっくれるな。


(きっとあのときには、この情報を知っていたのね)


 だからこそ、たかだか柱時計の修理にスレヴを呼んだのでしょう。


 ——おまえを(なぶ)ったら、アイツはどんな顔をするかな。


(あれは、ぜんぶ)

(私をスレヴの恋人だと思っていたから)


 むしろ本当にそうだったら、と幾夜の星にか、成就を願いつづけてきた恋。


(だけど、スレヴにとっての私は《家族》でしかなかった)


 それを恨めしく思ったこともあったけれど、今はもう、そんなことは言っていられません。

 恋だの愛だの、

 友情や団結——そんな、


「とっくに奪い尽くされてるのよ、ザフィ。そんな贅沢な感情は……!」

「ハッ、贅沢だと? 雌雄(しゆう)(つが)うくらい、畜生でもしていることだ」

「私たちは家畜じゃないッ!」

「ヴィーシャ、黙っていろ」


 私の首すじに、ザフィールがナイフを突きつけます。


「正直に答えろ、スレヴ。この女を守りたければ、神に誓って真実を言え」


 スレヴはうつむき、乱れた黒髪のあいだから虚ろな瞳を向けました。


「……きっと少尉のご気分を害することになりますが、よろしいですか」

(うるさ)い、言え」


 スレヴが、すうっと息を吐き切って、言いました。


「僕は同性愛者です。したがって、彼女と恋人になったことはありません。もちろん、他の女性とも」


 私の呼吸が止まりました。

 ザフィールもそうだったに違いありません。


「は——?」

「ですから、姦通罪や反逆の協力など、そういったご心配には及びません」

「お前……何を言って……」

「神に誓って真実です。もっとも、僕を(すく)う神はいませんが」


 スレヴは皮肉混じりに口の端を引き上げました。


「こういう《病気》の者は収容されると聞いています。それとも、ここで処刑なさいますか」


 スレヴの答えは(よど)みなく、銃を突きつけていた下士官は、ガタガタと震え始めました。

 怪物を見るような目つきで——ナチスにとってのホモセクシュアルは劣等遺伝子で、結核とおなじ隔離されるべき存在でした——そして、口から泡を飛ばして叫びました。


「この悪魔がぁッ!」


 一発、二発、続いて響く銃声。

 火薬のにおい。

 薬莢(やっきょう)の落ちる音。

 スレヴは目を閉じています。

 その頬に横切った傷から血がひと筋、流れていました。


「スレヴ!」


 どうやら致命傷は無さそうです。

 見ると、下士官の銃口はガタガタと震えていました。まともに狙えなかったに違いありません。

 対してスレヴは両手を上げ、なんの抵抗の意思もないことを示しています。

 そして髪の毛も髭も伸びた哀れな姿のまま、その奥の表情が、ふとやわらかく緩みました。


「だ、黙っていて、ごめん、ヴィーシャ」


 声色の変わった、スレヴの本音。

 その優しく深い響きは、私たちを一瞬で、十余年前のクラクフの広場へと揺り戻しました。

 三人で食べた熱々のピロシキ。

 駆けて過ぎた夕暮れの屋台の灯火。

 一緒に眺めた地球儀が、くるくる回って煌めきを返した日。


(もしかして)

(『君には分からないよ』と、言われたのは)


 私と距離を置こうとした言葉。

 あれはクリスタル・ナハトの起こった日。


 ——ヴィーシャ。ぼ、僕の、可愛い妹。


 知っていたはずなのに。

 スレヴの吃音は、本音を語ってくれる証。


「ザ、ザフィール、撃ってくれ」


(ああ、だから)


 私はザフィールの拘束から逃れ、


「ヴィーシャ、待て!」


 つまずきながらも走り、


(貴方がいつも、どこか遠くを見つめていたのは)


 スレヴを抱きしめました。

 軽く痩せ細った身体。

 泥混じりでザラザラの衣服。

 カサついて不潔な肌。


(自分は(すく)われない人間だと、知っていたから)


 だから彼は言うのです。

 自分は異端だから死なせてくれ、と。


(言わせた世の中が悪いのか、言わせなかった私たちが悪いのか)


 私はスレヴを庇うように抱きしめたまま、ザフィールに告げました。


「一緒に撃って」

「何?」

「スレヴの神がいないなら」


 ユダヤ教にもキリスト教にも、彼を憐れむ神がいないなら。


「私の世界にも神はいない」


 誰が善人で、誰が悪人なのか。

 それを神が決めるというのなら。

 私たちがこんなに必死に生きているのに、それでも、その運命は神に委ねられているというのなら——


「そんな場所で生きていたくなんかないッ!」

「ヴィーシャ! 離れろ、当たるぞ!」

「上等よ、いっそ一思いに狙って!」

「な、なんで」


 ここに来て初めて、慌てるスレヴの声色。


「ヴィーシャは、か、関係ない!」

「関係あるわ! 私はスレヴの妹なんでしょ?」

「ザ、ザフィール、み、見逃して——ヴィーシャだけ、は」


 互いに前に立とうと揉み合う私たちを、ザフィールは呆けて見つめていました。それが腹立たしくて、私は半ば八つ当たりで、言葉を投げつけます。


「戦争なんてクソ食らえ! 貴方たちのせいで、私の大切な人が皆いなくなる!」


 それは敵を(さげす)む刃の言葉でした。だけどその刃は、私自身をも深く傷つけます。

 悔しくて、

 やり切れなくて、

 血かと思うほど熱い、

 熱い涙がほとばしります。


(ザフィとスレヴが敵味方になるなんて、考えたくもなかった)


 私はすでに感情の幅を振り切って、荒く息を吐いていました。

 ザフィールは青い瞳を細めました。

 今見ているものを、確かめようとするかのように。


「……初めて出会ったときとは、正反対だな」


 なんのこと、と言いかけて思い出しました。

 私たち三人が出会った日のこと、ザフィールの悲痛な声を。


 ——おまえたちのせいで、俺の弟はミルクも飲めない!


 立場が逆転しているのです。

 あのとき……痩せて飢えたちっぽけな少年は、今や立派な身なりで命令をくだす立場にある。

 一方で、私は少尉の気まぐれ一つで命を奪われかねないポーランド女。

 スレヴに至っては財産どころか母親も失って——きっと秘めておきたかったであろう、心の奥底まで踏み荒らされてしまった被収容者。


「皮肉なものだ」


 ザフィールはくちびるを歪めました。


「通訳と彫金の技術は代え難い」


 少尉どの、と下士官が悲鳴に似た声を上げました。まるで今にも感染症がうつると言わんばかりに。

 それを手のひらで制して、ザフィールは続けました。


「君はこのまま戻っていい。コイツらの処遇は私が決める」


 ガウンのポケットから取り出した札束と、葉巻の残りをケースごと部下の手に握らせています。


「不快な事情で親衛隊の耳を煩わせることもないだろう。特に《所長どの》には」


 低く付け加えた言葉を聞いて、さっと顔色を失った下士官は、すぐさま敬礼して(きびす)を返しました。

 カツカツと遠ざかる軍靴。

 ザフィールは振り返り、苦々しく嘆息しました。


「今夜だけは、聞かなかったことにしてやる」


 スレヴが意外そうに目を見ひらき、私の肩を掴んでいた手のひらが緩みました。

 その瞬間、私は緊張がほどけて、その場に崩折れました。酸っぱいにおいの汗がドッと出ます。


「ヴィーシャ? どうした」

「気が、抜けて……」

「おい」


 ザフィールは髪をくしゃっと掻き上げて、愉快そうに笑いました。


「ついさっきの勇姿はどこにやった」

「うるさいわ、こっちは死ぬかと思ったのよ」

「口ばかり達者なのは相変わらずか」

「貴方こそ皮肉ばっかり!」


 ふいに、私たちの後ろから低く声が聞こえました。


「二人の口ゲンカも変わらないな」


 スレヴの黒真珠のような瞳が、ゆるく波打って垂れた髪の隙間から、やさしくほほ笑んでいました。


 さっきまで互いの命を競り合っていたのに、ふとしたときに、笑顔を交わし合う。

 そんなグロテスクな矛盾が当たり前に共存する場所——

 詰まるところ戦争とは、そういうものなのかもしれません。





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