交錯する想い
久々にスレヴの無事を確認できた喜び、しかしその姿の衰えぶりに、私は身動きできなくなってしまいました。
「どうして、ここに……」
「俺が呼んだ」
ザフィールは私の肩を抱えて立たせ、スレヴからよく見える位置に押し出しました。
「金時計を直した褒美に、感動の対面でもどうかと思ったが——その髭では」
ザフィールは明らかにスレヴを辱めようとする口調で言いました。
「再会のキスをしようにも、毛ジラミが移りそうじゃないか。なぁ、ヴィーシャ?」
彼は私の髪をひと筋すくって引っ張りました。まるで飼い犬に縄をかけるように。
「お前たちはもう寝たのか?」
「何をバカなこと——!」
「ヴィーシャ、これは尋問だ」
ザフィールの瞳が、逆手に持っているカットナイフの刃と同じに、鋭く光りました。
「ユダヤ人と通じた者は姦通罪にあたる。それにもし、お前たちが深い仲なら、協力して地下組織の活動をすることも可能だろう」
(レジスタンス——聞いたことがある)
反ナチスを掲げて団結し、アメリカやイギリス、連合軍の協力をするための組織。
わななく私とは対照的に、スレヴは黙っています。
怒るでも悲しむでもなく、真っ黒な瞳はランプの灯りを映して、ゆらめいていました。
「どうだ、汚い狼?」
そのとき、初めてスレヴが感情を見せました。
「ふ……」
「何がおかしい」
「い、いや……無駄な手間を、か、かけたものだな、と」
吃音で不気味に笑うスレヴが、私には、数ヶ月前までと同じ人物とは信じられませんでした。
「無駄と言ったか?」
訝しげに問い返すザフィールも、スレヴを警戒しているようです。
「その意味を答えてみろ」
少しでもつっかえたら撃たせる、とザフィが顎をしゃくった方向、スレヴに拳銃を突きつけている下士官は、無言のまま指だけで、カチリと撃鉄を上げました。
スレヴは動じるどころか、この状況を愉しんでいるようにも見えます。
「はい、少尉。お答えします」
流れるようなドイツ語で、スレヴは返事をしました。
「無駄な手間、と申しましたのは、僕にとって彼女はそういう対象ではないからです」
「嘘をつけ。ゲットーのカポから、お前たちは恋人同士だという情報を得た」
(うそ——ああ、でも)
私は悔しくて、唇を噛みしめました。
(そうだわ、聞いたことがある。まだ、お父さまの工場の事務をしていた頃のこと)
ゲットー内の人々に恋人同士だなんて噂されて、舞い上がっていたことが、今はもう幼く感じられます。
(あの頃が今と比べて、どんなに平和だったか)
同時に、所長の邸へ配属されたときの、ザフィールの忠告も思い出しました。
——ヴィーシャならある程度は庇い立てできるが、ユダヤ人の安全は確保できない。
——しらばっくれるな。
(きっとあのときには、この情報を知っていたのね)
だからこそ、たかだか柱時計の修理にスレヴを呼んだのでしょう。
——おまえを嬲ったら、アイツはどんな顔をするかな。
(あれは、ぜんぶ)
(私をスレヴの恋人だと思っていたから)
むしろ本当にそうだったら、と幾夜の星にか、成就を願いつづけてきた恋。
(だけど、スレヴにとっての私は《家族》でしかなかった)
それを恨めしく思ったこともあったけれど、今はもう、そんなことは言っていられません。
恋だの愛だの、
友情や団結——そんな、
「とっくに奪い尽くされてるのよ、ザフィ。そんな贅沢な感情は……!」
「ハッ、贅沢だと? 雌雄で番うくらい、畜生でもしていることだ」
「私たちは家畜じゃないッ!」
「ヴィーシャ、黙っていろ」
私の首すじに、ザフィールがナイフを突きつけます。
「正直に答えろ、スレヴ。この女を守りたければ、神に誓って真実を言え」
スレヴはうつむき、乱れた黒髪のあいだから虚ろな瞳を向けました。
「……きっと少尉のご気分を害することになりますが、よろしいですか」
「煩い、言え」
スレヴが、すうっと息を吐き切って、言いました。
「僕は同性愛者です。したがって、彼女と恋人になったことはありません。もちろん、他の女性とも」
私の呼吸が止まりました。
ザフィールもそうだったに違いありません。
「は——?」
「ですから、姦通罪や反逆の協力など、そういったご心配には及びません」
「お前……何を言って……」
「神に誓って真実です。もっとも、僕を拯う神はいませんが」
スレヴは皮肉混じりに口の端を引き上げました。
「こういう《病気》の者は収容されると聞いています。それとも、ここで処刑なさいますか」
スレヴの答えは澱みなく、銃を突きつけていた下士官は、ガタガタと震え始めました。
怪物を見るような目つきで——ナチスにとってのホモセクシュアルは劣等遺伝子で、結核とおなじ隔離されるべき存在でした——そして、口から泡を飛ばして叫びました。
「この悪魔がぁッ!」
一発、二発、続いて響く銃声。
火薬のにおい。
薬莢の落ちる音。
スレヴは目を閉じています。
その頬に横切った傷から血がひと筋、流れていました。
「スレヴ!」
どうやら致命傷は無さそうです。
見ると、下士官の銃口はガタガタと震えていました。まともに狙えなかったに違いありません。
対してスレヴは両手を上げ、なんの抵抗の意思もないことを示しています。
そして髪の毛も髭も伸びた哀れな姿のまま、その奥の表情が、ふとやわらかく緩みました。
「だ、黙っていて、ごめん、ヴィーシャ」
声色の変わった、スレヴの本音。
その優しく深い響きは、私たちを一瞬で、十余年前のクラクフの広場へと揺り戻しました。
三人で食べた熱々のピロシキ。
駆けて過ぎた夕暮れの屋台の灯火。
一緒に眺めた地球儀が、くるくる回って煌めきを返した日。
(もしかして)
(『君には分からないよ』と、言われたのは)
私と距離を置こうとした言葉。
あれはクリスタル・ナハトの起こった日。
——ヴィーシャ。ぼ、僕の、可愛い妹。
知っていたはずなのに。
スレヴの吃音は、本音を語ってくれる証。
「ザ、ザフィール、撃ってくれ」
(ああ、だから)
私はザフィールの拘束から逃れ、
「ヴィーシャ、待て!」
つまずきながらも走り、
(貴方がいつも、どこか遠くを見つめていたのは)
スレヴを抱きしめました。
軽く痩せ細った身体。
泥混じりでザラザラの衣服。
カサついて不潔な肌。
(自分は拯われない人間だと、知っていたから)
だから彼は言うのです。
自分は異端だから死なせてくれ、と。
(言わせた世の中が悪いのか、言わせなかった私たちが悪いのか)
私はスレヴを庇うように抱きしめたまま、ザフィールに告げました。
「一緒に撃って」
「何?」
「スレヴの神がいないなら」
ユダヤ教にもキリスト教にも、彼を憐れむ神がいないなら。
「私の世界にも神はいない」
誰が善人で、誰が悪人なのか。
それを神が決めるというのなら。
私たちがこんなに必死に生きているのに、それでも、その運命は神に委ねられているというのなら——
「そんな場所で生きていたくなんかないッ!」
「ヴィーシャ! 離れろ、当たるぞ!」
「上等よ、いっそ一思いに狙って!」
「な、なんで」
ここに来て初めて、慌てるスレヴの声色。
「ヴィーシャは、か、関係ない!」
「関係あるわ! 私はスレヴの妹なんでしょ?」
「ザ、ザフィール、み、見逃して——ヴィーシャだけ、は」
互いに前に立とうと揉み合う私たちを、ザフィールは呆けて見つめていました。それが腹立たしくて、私は半ば八つ当たりで、言葉を投げつけます。
「戦争なんてクソ食らえ! 貴方たちのせいで、私の大切な人が皆いなくなる!」
それは敵を蔑む刃の言葉でした。だけどその刃は、私自身をも深く傷つけます。
悔しくて、
やり切れなくて、
血かと思うほど熱い、
熱い涙がほとばしります。
(ザフィとスレヴが敵味方になるなんて、考えたくもなかった)
私はすでに感情の幅を振り切って、荒く息を吐いていました。
ザフィールは青い瞳を細めました。
今見ているものを、確かめようとするかのように。
「……初めて出会ったときとは、正反対だな」
なんのこと、と言いかけて思い出しました。
私たち三人が出会った日のこと、ザフィールの悲痛な声を。
——おまえたちのせいで、俺の弟はミルクも飲めない!
立場が逆転しているのです。
あのとき……痩せて飢えたちっぽけな少年は、今や立派な身なりで命令をくだす立場にある。
一方で、私は少尉の気まぐれ一つで命を奪われかねないポーランド女。
スレヴに至っては財産どころか母親も失って——きっと秘めておきたかったであろう、心の奥底まで踏み荒らされてしまった被収容者。
「皮肉なものだ」
ザフィールはくちびるを歪めました。
「通訳と彫金の技術は代え難い」
少尉どの、と下士官が悲鳴に似た声を上げました。まるで今にも感染症がうつると言わんばかりに。
それを手のひらで制して、ザフィールは続けました。
「君はこのまま戻っていい。コイツらの処遇は私が決める」
ガウンのポケットから取り出した札束と、葉巻の残りをケースごと部下の手に握らせています。
「不快な事情で親衛隊の耳を煩わせることもないだろう。特に《所長どの》には」
低く付け加えた言葉を聞いて、さっと顔色を失った下士官は、すぐさま敬礼して踵を返しました。
カツカツと遠ざかる軍靴。
ザフィールは振り返り、苦々しく嘆息しました。
「今夜だけは、聞かなかったことにしてやる」
スレヴが意外そうに目を見ひらき、私の肩を掴んでいた手のひらが緩みました。
その瞬間、私は緊張がほどけて、その場に崩折れました。酸っぱいにおいの汗がドッと出ます。
「ヴィーシャ? どうした」
「気が、抜けて……」
「おい」
ザフィールは髪をくしゃっと掻き上げて、愉快そうに笑いました。
「ついさっきの勇姿はどこにやった」
「うるさいわ、こっちは死ぬかと思ったのよ」
「口ばかり達者なのは相変わらずか」
「貴方こそ皮肉ばっかり!」
ふいに、私たちの後ろから低く声が聞こえました。
「二人の口ゲンカも変わらないな」
スレヴの黒真珠のような瞳が、ゆるく波打って垂れた髪の隙間から、やさしくほほ笑んでいました。
さっきまで互いの命を競り合っていたのに、ふとしたときに、笑顔を交わし合う。
そんなグロテスクな矛盾が当たり前に共存する場所——
詰まるところ戦争とは、そういうものなのかもしれません。