ナチスの正義
ここで一旦、言葉の定義をしておかなければなりません。
それは《強制収容所》に二種類あったということです。
当時の私たちには思いも至りませんでしたが、ナチスは収容所を丁寧に使い分けていました。
労働収容所——この中には、国際世論をごまかすための施設も含まれます。ユダヤ人だけでなく、捕虜や政治犯も収容されました。
そして絶滅収容所は、《収容所》とは名ばかりの殺戮施設でした。ガス室と焼却炉をいくつも並べ、労働力にならない人々を処理する場所です。
二種類の収容所は、場所によって離れていることもあれば、併設されていることもありました。
後世に悪名高いアウシュヴィッツ・ビルケナウは、この併設型です。
対して私が働くことになった《プワシュフ収容所》は、労働収容所でした。
だからと言って延命を約束された訳ではありません。ガスでなくとも飢えや病気、処刑など、命を失われる素因は多くありました。
そういう意味では、すべての収容所が広義において、絶滅収容所だったと言うことも可能でしょう。
話を戻します。
1942年の末、私はザフィールの後ろに従って、邸宅の中を歩きました。
「ここは春から収容所長の住まいになる。それまでに暮らしやすいよう整えておきたい」
「はい、少尉さま」
ザフィールは振り返り、懐から満足そうに金時計を取り出しました。ネジを巻く私の日課はなくなったのです。
「これに免じて、今後も便宜を図ろう。二人きりのときは昔のように話せばいい」
「恐れ多いことです」
「遠慮するな。俺も気安く話せる相手がいた方が息抜きになる」
「不敬罪には当たりませんか、ザフィ?」
ザフィールはニヤッと笑って「そのふてぶてしさが懐かしい」と言いました。
「ひとつ質問しても?」
「なんだ」
「どうして私をハウスメイドに選んだの」
それは封書が来たときから疑問に思っていたことでした。メイドとしての経験もなく、占領民である自分をどうして登用するのか。それは今後働く上でも知っておきたいことでした。
「ヴィーシャは語学に堪能だろう」
「私が?」
「そうさ。収容所長のハウスメイドは、貴賓をもてなすこともあれば、ユダヤ人労働者に指示しなければならないこともある。ドイツ語、ポーランド語はもちろん、フランスやロシア、イディッシュ語も飛び交うこの場所で、おまえなら相応の働きが出来ると思った」
あとは見た目だな、とザフィールは、私を上から下まで品定めしながら言いました。
「前から思っていたが、おまえの父親はアーリア系だろう。容姿が不快じゃない」
「まぁあ、身に余る褒め言葉をどうも」
「うん。だが、綺麗になったよ」
ザフィールが昔と同じ傲慢さで言うので、私もつい、気が緩んでしまいました。それを察したのか、彼は将校の顔つきになって、私に近づきました。
「いいか。ヴィーシャならある程度は庇い立てできるが、ユダヤ人の安全は確保できない」
「なんの話?」
「しらばっくれるな。おまえが贔屓している親子のことだ」
私がじっと黙っていると、ザフィールはふいと目をそらしました。
「ここで見聞きしたことは他言するな。それを破れば、おまえも有刺鉄線の向こう側に行くことになる」
ありきたりな脅しに、私は微笑みを返しました。
「心得ております、少尉さま」
やがて、家具の積み運びや清掃のために、ゲットーからユダヤ人がやって来ました。みんな一様に痩せこけ、細い身体に灰色の服を身につけています。
(さて、どうしたものかしら)
ザフィールの脅しに負けるつもりはさらさらなく、なんとかスレヴに連絡をつけようと思案しました。
(私がここで仕事を得たことは、父から知らせが行っているはず)
問題は、ゲットーからスレヴを来させ、さらにザフィールの監視を逃れて接触することでした。
しかしそれは、他でもないザフィールが機会を与えてくれました。
「この柱時計を直すのに、アイツを呼ぼうと思う」
数人で応接間の掃除をしていたとき、作業を監督していたザフィールが言いました。きっと私はずいぶん驚いた顔をしていたのでしょう。ちょっと居心地悪そうに、彼は付け足しました。
「所長に失礼があってはならないからな。人種がどうでも、技術は使える」
私は黙って頷きましたが、内心は大喜びに飛び跳ねていました。
(食べ物を渡せる!)
実際、ここには食べ物がそろっていました。
パンやワインはもちろん、干した果実やナッツ、さまざまな肉や魚の缶詰、それから上等のコニャックまで!
ゲットーの外でさえお目にかかれないものがたくさんありました。
(物はある。あとは、いつ渡すか)
まさかザフィールの目の前で、こっそり着服したものを「はいどうぞ」と差し出す訳にはいきません。
そう考えてクスッと笑えた私は、たぶん浮かれていたのでしょう。
久しぶりの再会が、どうなるのかも知らずに。
翌日、男性の労働隊がやって来ました。
(あの中にスレヴがいるはず!)
私は接触を禁じられていましたが、二階のバルコニーから道を歩く隊列が見えただけで、嬉しくなりました。
だけどそれは一瞬だけでした。
隊列が近づくにつれて、男性たちの異様な顔つきに言葉を失いました。
疲れ果てたとか痩せこけたとか、そんな状態を通り越して、目に光はなく虚ろで、生きているのか死んでいるのかも分からないような様子です。
——そしてそれは、最悪の形で証明されました。
「あっ!」
隊列の後ろの方で、足並みが乱れました。誰かが躓いたのでしょう。
すかさず銃声が響きます。
血しぶきがパッと広がりました。
親衛隊が数匹の猟犬を放ち、冬の空気を劈くような吠え声が響きます。
隊は整然と歩き続けています。
遅れた仲間に駆け寄ることもなく、振り返りもしません。
無表情で歩き続けます。
まるで何もなかったかのように。
彼らは分かっているのです。
仲間を助けに駆け寄れば、自分も命を失うことになるのだ、と。
生きるためにはなりふり構っていられない。たとえそれが倫理や道徳に反することであっても。
そして、それは私も同じでした。
自分の友人を助けたいばかりに、人の家の食べ物を盗むなんて、戦前では考えもしなかったでしょう。
自分のために誰かを貶めることが、私たちにとって当たり前になっていました。
(もう食べ物どころの話じゃない)
もしスレヴに運良く渡すことが出来たとしても、それは他のユダヤ人に盗まれるかもしれません。
盗まれなかったとしても、食べる前に撃たれてしまえば口には入りません。
死者にパンは必要ない。
吐き気を感じて、私はしゃがみ込みました。
「うっ、ぇ……!」
綺麗ごとでは生き残れない。
(必要なのは——誰かを見捨てられる冷酷さ)
人権を根こそぎ奪われて、誰が善だの悪だの論じられるでしょうか。そんな段階はとっくに過ぎてしまったのです。
「おい、ヴィーシャ」
屈んだまま見上げると、ザフィが心配そうに覗き込んでいました。
「顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
私は戸惑いました。
口は悪くても、心根は優しいザフィール。
だけど着ている制服はナチスのもので、腰には銃が下がっている。
(その銃で、あなたはどれだけの人を傷つけたの?)
直接的に、あるいは間接的に。
頭がグラリと傾いて、自分の身体が倒れたことが分かりました。
意識が戻ったとき、すでに日は落ち、辺りは真っ暗になっていました。
かろうじて室内の様子が見えたのは、暖炉の上のランプのおかげでした。
「目が覚めたか」
ザフィールが一人掛けソファに座り、寛ぎながら葉巻を吸っていました。
「私は……?」
「いきなり倒れたので、下士官に運ばせた」
「スレヴは……」
ぼんやりと口に出してから、ハッとしました。それを見逃さず、ザフィールが口の端を意地悪そうに引き上げます。
「やっぱり、繋がっていたな」
ザフィールが立ち上がりました。
暖かそうなナイトガウンのポケットに手を突っ込み、煙を吐き出します。私は真正面から煙を吸い、ゴホゴホと咳き込みました。
「おまえは昔から、隠しごとが下手なんだよ」
カウチにぎしっと片膝を預けるザフィールは、私の知らない男性のように見えました。
「おまえを嬲ったら、アイツはどんな顔をするかな」
一瞬、ザフィールが何を言ったのか、理解できませんでした。
そして自分の状況に寒気が走り、身体のぜんぶ、脈や血圧、呼吸までも、警戒体勢に入ったことを感じました。
「そんなこと、意味ないわ」
震える声をどうにか制して、言葉で突き放します。
「私がどうなったところで、関心も持たれないでしょうね」
「なぜ言い切れる?」
「……ポーランド人を構うほどの余裕が、スレヴにあるとは思えない」
私の苦しい答えがどう聞こえたのか、ザフィールは皮肉な笑みを浮かべました。
「反ユダヤ的表現だ。ヴィーシャもいつの間にか立派な軍国淑女になったじゃないか」
「違う。私たちは無感情な奴隷になったのよ」
私が瞬きもせず見つめ返すと、ザフィールは興を削がれたように、目を逸らしました。
「奴隷とは聞こえが悪い。労働力だよ」
「労働者なら人権があるわ。人間としての尊厳も」
「いいか。ユダヤ人は拝金主義者だ。先にドイツ人から全てを奪ったのは——財産や、誇り、尊厳——簒奪者は奴らの方だよ。俺たちがやっていることは、ただの正当防衛だ」
私は目を見ひらきました。
(こんな、今起こっていることが正当防衛ですって?)
「……ベルリンの寮学校で、そう教えられたの?」
私はここでようやくナチスの思想に直面しました。
先に権利を侵したのはユダヤ人で、自分たちはそれに抗っているだけなのだと、信じ込んでいるのです。
ユダヤ人のいない世界を作ることが、彼らにとっての正義でした。
「……私、どうしてナチスがガス室まで作ってしまったのか、分からなかったの」
「おい、何の話をしている」
「だけど貴方たちにとっては、ネズミを駆除することと同じなのね」
私の心の底には、まだかすかな希みがありました。
将校としての姿は表向きだけで、その下には、まだ子どもの頃のザフィールがいるはずだ、と。
だけどもう、影も形もない。
「学校でユダヤは有害だと教わって、だから手紙も少なくなって——貴方のお父さまさえ、蔑ろにして——」
「勘違いするな」
青灰色の瞳が真冬の空のように、キンと冷えた眼差しで、私を睨みました。
「俺は父親が嫌いだったし、無力な自分が嫌いだった。だから力を手に入れた。これ以上うるさいことを言うなら、その口をきけなくしてやろうか」
ザフィールの手が、テーブルの上の果物ナイフに伸びました。
私が身構えた瞬間——
「少尉、入ります!」
ドアの向こうで青年の声が聞こえました。
「入れ」
「失礼します。お呼びの者を連れて参りました」
下士官らしき兵が、銃で人影を小突きます。
現れたのはボロボロの衣服を身にまとって、髪も髭も伸び放題の——
「スレヴ……!」