ザ・リビング・デッド・オブ・キンギョ(完全版)
初めは一匹の黒出目金の死だった。
ある日、気づけば黒出目金のキンタが天井でプカプカと浮いていた。水槽内のムードメーカーだった。俺もよく一緒に遊んだものだった。
よく泳ぎ競べを挑んできたものだ。和金の俺のほうが泳ぎが速いのは目に見えているのに、あいつは懲りずに何度も仕掛けてきた。
ずんぐりむっくりした体を懸命に左右に動かして、邪魔そうな長いヒレを無理やり速くなびかせて、出っ張ったおおきな目でまっすぐ見つめながら追いかけてきた。
きっと単に俺と遊びたかったのだろう。いいやつだった。楽しいやつだった。
みんな同じようにキンタが好きだった。誰もが、寂しそうな目で、弱々しく天井を仰いでいた。
「このまま……オレたちもキンタと同じようになるのかな」
赤出目金のジャスティンが呟いた。
「……そうだな。キンタの死を悼んでる場合じゃないかもな」
みんな黙っているので、俺が答えた。
「このままじゃ全滅だ。しかし、どうすることもできない。飼い主が帰ってきてくれるのを祈るだけだ」
水槽の外に広がる部屋の景色はずっと暗いままだ。飼い主が帰ってこなくなって何日になるのか、数えていないのでわからないが、相当だった。
俺たちは放ったらかしにされていた。餌もずっと貰っていない。俺たち金魚は何でも食う。水草や藻を食って耐え凌いでいたが、もう限界だ。
なんだかよくわからない小さな貝が大量発生し、凄まじい勢いで俺たちの食えるものを横から奪いやがった。やつらが食えればよかったのだが、固い殻に守られていて、砂利の一粒みたいなもんだ。口に入れてみたがとても飲み込めず、プッと吐き出すしかなかった。
水槽内の温度もだんだんとだが下がっている。熱帯魚と違って俺たちは冷たい水でも生きられるが、あまりに冷たくなると冬眠状態になる。
……冬眠したほうがいいのかもしれない。そのほうが何も食わずにやり過ごせる。しかし無情にも水温は、俺たちを眠らせないギリギリのところで嘲笑うようにとどまっているのだった。
濾過器はブンブン音を立てて動いている。しかし水はだんだんと見たこともない色に染まっていた。
まるで水槽内に何か悪いものが広がっているようだ。白点病が魚にではなく水に取り憑いたように、悪いものが水を侵している気配がする。
「あ!」
ブリストル朱文金のマイケルが天井を見上げながら、唐突に声をあげた。
「キンタが動いたよ!」
みんな一斉に上を見た。
キンタは死んでいる。背中をこちらに向けて、ただプカプカと漂っていた。
「遂に幻覚見るようになっちまったか?」
みんながマイケルにツッコんだ。
「死んだ魚が動くわけないでしょ」
「腹が減りすぎておかしくなっちゃったのか?」
「本当に……! 本当にさっき、ピクンって動いたんだ! 見たんだよ、ボク!」
そう言い張るマイケルをみんなで無視した。体力をそんなことに使ってはいられない。
一匹だけ、マイケルのことを信じるようにキンタの死体から目を離さずにじっと見つめていたやつがいた。ランチュウのレイラだ。彼女は変わり者で、お人好しなので、無邪気にもキンタが生き返るなんてことを信じたのだろう。
「泳ぎだした!」
そのレイラが声をあげた。
「キンタが泳ぎだしたわ!」
何をバカなことを……と、みんな取り合わなかったが、赤琉金のリサがつられて上を見た。そして美しい声で驚きの声をあげた。
「本当だわ! キンタが……泳いでる!」
水槽内のアイドルであるリサがそう言えば、みんな振り向かざるを得ない。だるい体を反転させて、俺も水槽の一番上を見つめた。
逆さまになって水面に浮いていたキンタが、その身をゆっくりと起こし、ユラユラと、尾ビレと胸ビレを動かしはじめていた。
濾過器の水流で動いているだけだと初めは思ったが、そうではなかった。キンタは出っ張ったその白く濁った目をギョロリと動かして、俺たちのほうを見下ろした。口もゆっくりと動いている。
「キンタ! アンタ……生き返ったのね!?」
みんな固唾を飲んで見守っている中から、変わり者のレイラは嬉しそうに近寄っていった。
「おい……、レイラ!」
黒琉金のボブがレイラを呼び止める。
「やめろ! 近づくな! なんだか様子がおかしいぞ!」
しかしお人好しのレイラは何も疑わずに、キンタのすぐ前まで近づいてしまった。
嬉し涙を浮かべる勢いでキンタと顔を突き合わせ、喜びの声をしきりにあげた。
「嬉しいわ、キンタ! あたし、アンタのこと好きだったもの! また一緒に並んで優雅に泳ごうねぇ」
レイラの顔を焦点の合わない目で見ていたキンタが、ゆっくりと口を動かし、そして、勢いよく、おおきくその口を開けた。
アイツの口はただの、かわいい金魚の口だったはずだ。パクパクといつも小さく動き、歯は、喉に生えているだけで、外からは見えないはずだ。
おおきく開いたキンタの口の中には、まるで前に飼い主の観ているテレビに映っていたサメのように、鋭い牙がびっしりと並んでいた。
肉を食いちぎる音が、水槽内の水を揺らした。
レイラは頭に噛みつかれ、あっという間に命を失った。
「おい……?」
ボブが震える声で、尾ビレをゆらゆらと揺らした。
「なんだ……、ありゃ?」
レイラの脳を食べると、キンタは俺たちをギョロリと見下ろした。
「なんだかわからんが……」
俺はみんなに言った。
「逃げよう!」
キンタが天井から降りてくる。しかし幸い、あいつの動きは遅い。死んでいるのでさらに鈍くなっている。捕まるのはレイラのようなお人好しだけだと思えた。
しかし水槽の中に逃げ場はなかった。俺たちには体力も残り少ない。
「待ってよ!」
ブリストル朱文金のマイケルが逃げ遅れた。
「待ってよ! ボク、泳ぎが遅いんだから!」
その後ろから黒い悪魔のような魚が襲いかかるのが見えた。
水槽内の水が揺れた。
マイケルは後ろから頭を噛みつかれ、あっという間に死んだ魚の目になると、騒いでいた口を止めてしまった。
水槽の中をぐるぐると、俺たちは逃げ続けるしかなかった。
隠れる場所もない。コメットのハリーは濾過器とガラスの間に身を挟んで、隠れているつもりのようだったが、すぐにキンタに発見され、長い尾ビレを噛まれ、引きずり出されて、その頭を食われた。金魚の色は派手で、目立つのだ。
赤出目金のジャスティンが食われるのを遠くに見ながら、俺はリサの胸ビレを引いて逃げた。
「どうなっちゃうの……? あたしたち」
リサが泣きそうな顔で俺に聞く。
「これは何なの? 何が起こっちゃったの?」
「推測するしか出来んが……」
俺は彼女を安心させるようなことを言いたかったが、無理だった。
「死んだ金魚をモンスター化させるウィルスか何かが水槽内に蔓延しているようだ」
「くそっ……! 飼い主のやつ、何をしてやがる!」
並んで泳ぐ黒琉金のボブが舌打ちした。
「このままじゃ水槽内の金魚、全滅だぞ!」
水槽内の水が、やはり変だった。白点病に侵されたような、まだらな色をしている。
遠くから、キンタが俺たち三匹を見つけた。追ってくる。もう、生き残っている金魚は俺たちだけのようだ。
ボブが恐怖にとち狂ったのか、泳ぐヒレを止めた。向かってくるキンタを振り返り、フレンドリーに話しかけはじめる。
「キンタ! オレだよ、ボブだ! 覚えてないのか? 友達だろう?」
ボブが食われる断末魔を背後に聞きながら、俺はリサの胸ビレを引いて逃げ続けた。
リサだけは助けたかった。
俺は彼女のことを愛しているのだ。もちろん、水槽内のみんなと同じようにだが。
リサはアイドルだ。みんなの心を明るくしてくれる。
飼い主の放置が始まってからも、みんなに生きる力を与えてくれていたのは、リサだった。
「もう……無理だよぉ」
リサの泳ぐ力がだんだんと弱々しくなっていく。
「もう……泳げないよ、フナッシー……」
リサが俺の名前を呼んでくれた。
それだけで俺は力が湧いてくるのを感じた。
「諦めるな、リサ! キンタの動きはゆっくりだ! こちらもゆっくり逃げ続けていればいいだけだ!」
「でも……キンタ……、疲れが見えないよ?」
ぐすんと可愛く鼻を鳴らしながら、リサが言う。
「あたしたち……お腹ペコペコなのに、キンタはさっきから……」
お腹いっぱいに食べている、と動こうとしたリサの唇を、俺はキスで止めた。
「リサは俺が守る」
熱く見つめ合った。
「俺を信じて」
その時だった。
天井からとぷん、とぷんと、何かが水槽内に飛び込んでくるような二つの水音がした。
見上げて、俺は思わず歓喜の笑いを浮かべる。
彼らのことは知っていた。
救助隊のハリエットとジュリアンだ。以前、寄生虫に襲われかけた時に助けてもらったことがあった。
「助けに来たわ! フナッシー! リサも!」
救いの神を見たような気持ちだった。
俺と同じ和金の彼らは動きが素速く、何より救助のプロだ。知識に長け、さまざまな災害における適切な対処法を熟知している。
「ハリエット! ……助かった」
俺は彼女を信頼するあまり、もう既に救われた気分だった。
「ジュリアンも……ありがとう!」
ジュリアンは何もいわずにただにっこりと笑った。彼は物静かだが、その腕前を俺はよく知っていた。
「ゾンビ・ウィルスが水槽内に蔓延しているわ」
ハリエットがそう教えてくれた。
「死んだ魚を動かして、生きた魚の脳を食べる怪物に変えてしまう恐ろしいウィルスよ」
横で聞きながらリサが卒倒しそうになっている。彼女を抱きかかえながら、俺はハリエットに聞いた。
「それで……どうやったらキンタを倒せる? 何か特効薬のようなものでも持って来てくれたのか?」
「火が一番よく効くんだけれど……」
ハリエットは答えた。
「残念ながら水の中でそれは使えない。私たちは金魚だから銃火器を使うことも出来ないわ」
「じゃあ……?」
「安心して、フナッシー!」
力強い声でハリエットが言った。
「あたしとジュリアンの強さは知ってるでしょう? 徒手空拳で、あのゾンビをバラバラにしてみせるわ」
ユラユラと、むこうからキンタが俺たちを見つけて迫って来るのが見えた。
「行くわよ、ジュリアン」
勢いよく、救助隊の二匹がスマートな体を踊るようによじらせて、飛ぶように泳ぎだした。
「連携攻撃その4、『シザーズ』よ!」
俺たちは祈った。胸ビレを合わせて神に祈った。どうかハリエットとジュリアンに勝利を──!
のろのろとした動きで襲いかかるキンタの目前で二匹は左右に分かれ、それぞれの方向からキンタの太い胴体にアタックを食らわせた。鋭いハサミがゾンビの体を両断すべく、突き刺さった。
「やった……!」
俺とリサは胸ビレを取り合って喜んだ。
「命中したわ!」
しかし効いてはいなかった。キンタは白く濁った目をギョロリとジュリアンのほうへ動かすと、一噛みでその頭を食いちぎった。
「ジュリアン!」
驚きと悲しみに動きの止まったハリエットも、すぐにその頭を食われ、命を失った。
「もう……、ダメよ」
泳ぎながら、リサが諦めたような声を出す。
「あんな強いひとたちが敵わなかったんだもの……。あたしもフナッシーも……」
「諦めるな、リサ!」
俺は彼女の胸ビレを引いて泳ぎ続けながら、励ました。
「希望をもつんだ! 諦めたら絶望しかない!」
ユラユラと、遅い動きながら、キンタはずっと俺たちを追ってきていた。逃げるのは簡単だ。しかし逃げ続けるのが難しい。
不可能だとさえ思えた。いずれ俺たちは体力が尽きる。キンタには疲れのようなものが一切見えない。水槽内をぐるぐると逃げ回っているうちに、だんだんとキンタを引き離せる距離が縮まってきていた。
戦おうかとは考えた。リサを守るためなら限界を超えて力を出せるかもしれない。
しかし、あのプロのハリエットとジュリアンがやられるところを見てしまったのだ。素人の俺に勝てるわけがないと思い知った。
死んでしまえば楽だ、とも思ってしまった。
しかし俺は諦めない。リサを救いたい気持ちが俺を諦めさせなかった。
「大丈夫だ、リサ!」
俺は彼女を励まし続けた。
「俺を信じてくれ!」
希望はないが、あると信じた。それだけが俺のヒレを動かし続けた。
おかしなものを目にした。
ブリストル朱文金のマイケルが、前から泳いできたのだ。
「ま……マイケル? おまえ……死んだはずじゃ……」
頭の肉が欠けていた。白、黒、赤の入り混じったその体に、青黒いなんだかぶよぶよとしたものが纏わりついている。その目はキンタと同じく、白く濁っていた。
マイケルがおおきく口を開けた。サメのような牙が生え揃っていた。
悲鳴をあげるリサを引っ張って、後ろへ逃げようとすると、キンタがすぐそこまで迫ってきている。俺は上へ逃げた。
水面付近に一匹の金魚がユラユラと泳いでいるのを見た。ランチュウだった。レイラだ。
脳みそのないレイラは、俺たちを見下ろすと、千切れた尾ビレを動かし、狂ったようなスピードで急降下してきた。
俺は諦めずに逃げた。逃げた先には赤出目金のジャスティンと黒琉金のボブが待ち構えていた。焦点の合わない目で俺たちを捕らえると、ボロボロに崩れた口をおおきく開いて、鋭く生え揃った牙を見せつけてきた。遠くからはコメットのハリーが、半分だけの体をくねらせてやってくるのが見える。
俺はリサの胸ビレを強く握り、逃げた。
しかしその手は離れてしまった。
「フナッシー!」
絶叫をあげるリサが離れていく。
ゾンビ化したかつてのリサ・ファンたちが、彼女をみんなで取り囲んで、嬉しそうにその口をおおきく開けているのを見たのが最期だった。
もう……希望もなくなった。
リサだけは守ろうと思っていたのに。
俺はその手を離してしまった。
彼女は脳みそにとどまらず、全身をゾンビたちに食われてしまった。
もう……俺も死のう。
「殺してくれ……キンタ」
目の前のキンタに俺は懇願した。
キンタは俺を水槽の角に追い詰めると、既に取れて落ちかかっている目で俺をまっすぐ捕らえ、その口を開いていた。
後ろでは他のゾンビたちがゆっくりと近づいてきている。リサだけが、いない。こんな世界に俺はもう未練がなかった。
水槽内の水が突然、青く染まった。
この色は知っている。白点病の特効薬メチレンブルーだ。
キンタがのろのろとした動きで苦しみはじめる。
他のゾンビたちも、その後ろで、緩慢な動きで呻き声をあげはじめた。
俺は振り返った。水槽の外から、陰鬱な人間の顔が俺を見ていた。
「遅いよ……このクソ飼い主!」
俺は怨嗟の罵りをあらん限りにぶつけるしか出来なかった。
「何してやがった! 俺たちを……こんな目に遭わせやがって……!」
救われたなどと、とても思えなかった。もう、俺には生きる気力などとうに失われてしまっていた。飼い主は呑気に部屋のエアコンをつけ、コーヒーを飲みはじめたが、俺は既に生ける屍だった。