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第二話 奥方が多すぎる 一


「……――可愛い妹妹(いもうと)。元気にしていますか? (わたくし)が秦家のお屋敷に入ってはや半月、塩政さまが初夏の巡検のために嵐門港へ発ってしまわれましたから、奥方は長閑なものです。尊夫人(おくさま)はたいそうご親切で、新入りの妾によくお目をかけてくださり、他の姨太太(おめかけ)たちから虐められたらすぐ報せるようにと仰せです。だから、妾のことは何の心配もありません――」



 一息にそこまで口述して、学のある侍女に筆写させてから、蝶仙(ちょうせん)はフーッとため息をつくと、黒檀の卓子に支度されている卵の殻みたいに薄い白磁の椀をとり、温くなりかけた甘いクコ茶を啜った。



 この場所は厳密には洛外だが、殆ど洛中と呼んでいいほど繁華な南大橋のすぐ先の辻に面した屋敷だ。

 かしましい市街地のただ中にあるはずなのに、柱廊に囲まれた小さな坪庭はまるで郊外の山荘にでもいるように(しず)かだった。

一本だけ植わった百日紅の花の中で鶯が鳴いている。

 蝶仙のたおやかな腕を包むのはきめ細かい柔らかな白絹の袖だ。陶板を敷き詰めた地面に、明るい翡翠色(かわせみいろ)の裳裾が広がっている。


 大家の奥方は贅沢なものだ。

 京洛地方随一と言われた洛北「三軒楼」の売れっ子官妓の暮らしぶりだって相当に贅沢ではあったが、この閑けさ、この穏やかさはあちらにはなかったものだ。

 それに夜ごとに客に買われることもない。うっかり孕んでしまった児をまびく娼妓の誰もが背負う罪から、もう解き放たれたのだ。


 ――これでよかったんだ。


 蝶仙は自分に言い聞かせた。


 ――こうして大家に落籍されれば、あたしは齢をとったあとにも野垂れ死にだけはしなくて済む。妹妹によい旦那が見つからなかったら、侍女として引き取ってやれるかもしれない。あの人だって今のまま勉学に励めば、じきにこのお屋敷の老爺(だんなさま)みたいな大官になれるんだ。


 ――だから、これでよかったんだ。あたしはあの人と逃げたりしなくて、一番正しいことをしたんだ……


 うつむいた蝶仙の長い睫が頬に影を落とす。

 その先に涙のしずくがたまっていた。


 黙り込んでしまった若い妾に苛立つように、侍女が筆の尻でこつこつと卓を叩いた。

姨太太(おへやさま)、続きはどうなさいますの?」

「ああ、ごめんなさい。すぐに続けます」

 蝶仙はびくびくと謝ると、どうにか軽い声音を作って手紙の続きを口にした。



「――ところで、妹妹によい報せがあります。来月の朔日、妾もとうとう右京区の法狼機(フランキ)宮にあがって踊りの稽古をすると決まりました。塩政さまが数にもならぬこの妾を奥方にお迎えくださったのも、ひとえにこの踊りのためと思えば、卑しい女の身としてできる限りの務めを果たしたいと思っています。

 妹妹は法狼機服をとても見たがっていましたね? もし来られるなら朔日の朝、洛東の新租界へおいでなさいな。もったいなくも昔日(むかし)の芭蕉庭のお針女さまがたが、じきじきに法狼機服を着付けてくださるのです――

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