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第九話 HowとWhyの対決 7

 麗明の声である。

 相当に焦っている。


 月牙は慌てて扉へ向かって閂式の鍵を開けた。

「どうした麗明、何が起こったんだ?」



「――二人とも落ち着け。妓官らしく振る舞え」

 

 厳しく低い叱責とともに室内に入ってきたのは、鷹のように鋭い目つきをした中背の内宮妓官だった。

 月牙はぎょっとした。

「ひ、飛燕様!?」

「落ち着けというに」

 新来の内宮妓官は――橘庭の次官の安飛燕は、常に変わらぬ平静さで、うろたえる月牙を嗜めると、マドモアゼルに向けて深々と頭をさげた。

「紅花殿の員外判官どの、お住まいをお騒がせいたす。それから、紅梅殿の判官どの?」と、眉を吊り上げて雪衣を見やる。「いかに務めの退けた後とはいえ、このご時世に気ままな一人歩きは感心致しませんな?」

「橘庭の次官よ、案じるな。柘榴庭が常に傍におったゆえ」

「あまりこれを過信なさらぬよう。まだまだ若輩者です」と、前の柘榴庭たる飛燕は、遠慮容赦なく月牙の側頭部を――だいぶ手を伸ばして小突いてから――改めて向き直った。

「柘榴庭、この件は仕舞だ。すべて決着がついた。あとの調べは橘庭に任せるようにと督が仰せだ」

「次官、それはどういうことだ?」と、雪衣が鋭く訊ねる。



 飛燕は口ごもり、驚愕に目を見開いたままの瑞宝を見やった。

「そなた左京兆府の?」

「あ、ああ」と、瑞宝が頷く。「火長の郭瑞宝だ。あなた様は、よもや、かの先代の柘榴庭どのか?」

「いかにも。今は橘庭の次官を拝命しておる。郭というとゲレルトか。橘庭(うち)の秀凰とは縁続きか?」

「は。遠縁ながら同族でございます」

 瑞宝がピシッと背筋を正して答える。

「そうか――」

 飛燕は短く考え込んでから、瑞宝と月牙と麗明を順番に眺めまわした。

「ゲレルトにアガールにサルヒ、か。いい塩梅だ。――いいか月牙、よく聞け。一度しか言わんからな」

 月牙はそのとき初めて、飛燕が「月牙」と呼んでいることに気付いた。

 つまり、これは私的な会話だ。


「紅花殿の督が書置きを残して自ら服毒なされた」

「……書置きとは、罪の告白の?」

「そうだ。秀凰の報せで橘庭(われわれ)が各殿から一度煙草を押収すると決定した直後だった。踏み込むまで秘めているつもりだったが、今の杏樹庭どのが、会う者ごとに悉く、検めの結果を吹聴していたらしい」

「あの小娘……」

 雪衣が苦々しく呟いてから、ハッとしたように訊ねた。

「それで、紅花殿さまのご容体は?」

 飛燕は表情を曇らせ、すっと目を逸らしながら応じた。

「即死だそうだ」

 秋栄がヒッと喉を鳴らしてよろめいた。

「秋栄さん、しっかりして!」

 小蓮が慌てて支える。

 飛燕が秋栄に目を向け、思いもかけないほど優しい口調で訊ねた。

「そなたが魯秋栄か?」

「は、はい次官さま」

「そなたについて紅花殿さまが書き残している。すべてはこの督の命じたこと。名もなき針女に罪はないゆえ、決して罪には問うなと。――もし、このたびのことで旧・芭蕉庭から暇を出され、生家(さと)にも帰れなくなった場合は、どこぞの道院に入るだけの金子を遺産から分け与えるようにと」


「督が、そんなことを?」

 秋栄が口元を抑えて肩を戦慄かせた。

「外宮の針女のことなんか、内宮の方々は、ただの道具と思っていらっしゃるとばかり――……逆らったらきっと追い出されると、このメゾンでお針の修行ができなくなってしまうと、私は、てっきりそう思って……」

 雪衣が歩み寄り、親しい姉みたいな手つきでその肩を抱き寄せた。

「秋栄、秋栄、内宮女官は鬼でも蛇でもないよ。きっと仕方がなかったんだ。あの方にも、きっとよんどころない事情があったんだ」



 よんどころない事情――



 それが何であるのかは、月牙にももうおぼろげには分かっていた。

 紅花殿の督はすべての黒幕などではない。


 反リュザンベール組織の後援者となるのに、自由な動きが殆どとれない後宮典衣所の督はあまりにも不向きすぎる。

 それに何より煙草だ。

 後宮から外出せず、リュザンベール人の正后が住まう西院と近しいわけでもない紅花殿の督が、いち早く煙草の毒性を知っていたとしたら、誰かが毒殺に用いさせる意図をもって教えたとしか思われない。

 

 ――産着や布の玩具に毒針を仕込むのは、昔から御子の殺害の常道とされる手段だ。西院には今まさに赤子の御子がいらせられる。半ばリュザンベールの血を引く御子、赤心党が最も忌避する「蛮夷」の血を引く御子が。


 その御子を殺させるために、誰かが典衣所に煙草を与えた――誰か――……


 それが誰であるのかを、月牙はもう分かっていた。

 分かっていても決して口にしてはいけない誰かだ。


 今の橘庭の監督たる宋金蝉の気質を、月牙はよく知っている。

 鷹揚で情に篤く、非道を好んで見過ごすことはない。

 その金蝉が敢えてこれ以上の検めをするなと命じるのであれば、赤心党の背景にあったものは、二つのうちのどちらかでしかありえない。



 当代の王太后たる東院桃果殿さま。

 あるいは、東崗の蘭渓道院に住まいする太上王后さまだ。



「……新北宮で小耳に挟んだのだが」

 雪衣が独り言のように呟いた。


「先だって、東崗(とうこう)の御方が、踊りの稽古に連なるマダムがたに煙草を下賜されたとか」

「東崗の御方というと」

 と、瑞宝が目を瞠る。

 雪衣が横目で見て頷く。

「ああ。つまり――」


 東崗の蘭渓道院に住まいする貴女。

 すなわち、先代の王太后たる太上王后様だ。


「――判官どの!」

 飛燕が鋭く呼ばわった。

「それ以上は口になさるな。すべてをおのれ一人の命で収めようとなさった紅花殿さまのお心を無になさるおつもりか?」


 鋭い視線に射すくめられて、雪衣は口をつぐんだ。

 飛燕がその腕をそっとつかんで促した。

「さあ、お戻りになられよ。案じなさるな。この上の事件が生じないよう、橘庭はできるかぎりのことをする故」

「……――真実を隠したまま?」

「時にはそのほうが多くの者が救われる――こともある。そう思っていないと、この役どころはやっていられん」

 飛燕が沈鬱な声で言い、自嘲するように喉を鳴らした。

「なあ月牙」

「何でしょう」

「このたびの結末、尚書省にはそのまま報せるのか? この私が黙っていろと命じても?」

 月牙は一瞬考えてから、挑むような気持で応えた。


「当然です。わたくしども、尚書省の直属ですから」


 たった今まで足元に絡みついていた慕わしくも煩わしいしがらみを断ち切るような心地で告げると、飛燕は目を瞠り、嬉しげに破顔した。

「左府の忠義な犬めが!」

 その罵りには限りない愛情が籠っている気がした。


                                             了


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