第九話 HowとWhyの対決 4
「え?」
月牙は戸惑った。
雪衣の口調は完全に私的なものだった。
つまり、これは雑談だ。
秀凰もその匙加減は分かっているらしく、敢えてこちらに視線はむけず、ただ耳だけを傾けている。
「ええと――」
なんでそう思うの?
そう応じようとしたとき、
「へええ、じゃ、判官様は私と真逆の御意見なんだぁ?」
それまでじっと黙りこくっていた迦葉がニヤニヤ嗤いながら口を挟んできた。
雪衣が柳眉をあげる。
「黙っておれ杏樹庭。そなたとは話しておらん」
うわ、やっちゃったよ、と月牙は額を抑えたくなった。
わずかに顎を上げ、瞼を半ば下ろし、冷ややかそのものの視線で小柄な迦葉を見下ろす雪衣は、先ほど茜雪が言った通り、ものすごく底意地が悪そうに見えた。
華やかな美貌が最悪の効果を生んでしまっている。
迦葉が大仰に怯えた表情を浮かべると、もともと迦葉贔屓の秀凰はもちろん、それまでうんざりしているようだった瑞宝までが気の毒そうな顔をするのが分かった。
「は、判官さまは何故そう思われるのだ?」
秀凰が恐る恐る訊ねる。
「そりゃ、内部の者じゃなきゃ、この衣装が私のものだとは分からなかったはずだからですよ」
雪衣は当たり前のように応えた。
途端に沈黙が落ちた。
重い沈黙を破ったのは迦葉のくすくす嗤いだった。
「判官様、それわざわざ言いに来たの? 衣裳なんか一目瞭然じゃん。紅梅殿の官服と完全に同じ色なんだからさ」
一同の目が雪衣の官服と切り裂かれた衣装を見比べる。
薄紅色のふわりとした裳の色合いは寸分たがわない。
並べてみると、袖の広い上衣に用いられている白絹と同じ織の布で胸元のリボンと袖の折り返しがつくられているのも分かった。
「そこまでぴったり同じなんだからさあ、一目見れば誰にだって分かるよ! ね、みんな分かるよね?」
迦葉が薄笑いを浮かべて一同を見回す。
すると、瑞宝がゆっくりと首を横に振った。
「いや、それがしには分かりませんな。在京二十余年を数える衛士ながら、判官様がお召しのその花のようなお衣装がよもや官服であろうとは夢にも思わなんだ」
「この老いぼれも同じくでござります」と、牢医師が言い添える。
「でしょう?」と、雪衣が嬉しそうに笑った。「私も愕いたんだけど、春に踊りの稽古があったとき、衣装には興味がありそうな大家のお若い姨太太がたも、後宮領から召されているはずの洛東巡邏隊の隊士たちも、誰一人、私の装束が紅梅殿の官服だって分からなかったんだ。これだけずらっと並んでいる似たような衣裳の中から紅梅殿の衣装を選び出すのは外の者には無理だよ。紅梅の色からして紅色系統ってところまでは推測できる――かもしれないけど、芍薬殿の衣装なんか色目だけなら相当似ているし」
「だから、後宮内の者が関わっていると?」
秀凰がかすれた声で訊ねる。
雪衣は頷いた。
「うん。まず間違いないと思うよ」
「――でも、それなら毒物は?」と、迦葉が刺々しい声で口を挟んできた。「牢屋敷の囚人は鳥兜で死んだんだよ? あっちの事件とこっちの事件は何の関係もないっていうの?」
迦葉がそこで言葉を切り、にたりと嫌な嗤いを浮かべた。
「それともなに、判官さまさあ、内宮妓官が無能だから宮の内に毒物が持ち込まれているのを見逃したって、まさかそう言いたいわけ?」
迦葉がちらっと秀凰を見てから言う。
秀凰は怒りとも哀しみともつかない表情で雪衣を凝視していた。
「判官様―-」
やがて掠れきった声で呼ぶ。
「そのご見解は紅梅殿の総意か? われら橘庭が、よもや今この時期、宮の内に毒物があるのを見逃していた、と?」
「ええ秀凰どの、そう言っています。私個人の見解ですけれどね」
雪衣が淡々と答える。
秀凰の浅黒く彫りの深い貌にカッと血の色が昇った。同族の瑞宝が慌てた様子で腕をつかむ。
「秀凰さま、お気を鎮められよ。――紅梅殿の判官様、今のお言葉御正気か? もし根も葉もない中傷でわが一族の妓官を侮るというなら、この郭瑞宝、いつでも御身の選んだ相手と刀を交えましょうぞ?」と、なぜか月牙を睨みつけて言う。
カジャール氏族には代理決闘の風習もあるのだ。
月牙は慌てて止めた。
「瑞宝どの、あなたこそ落ち着かれよ! 雪、もう少し詳しく話してよ。橘庭の師姉がたが鳥兜を見逃していたって、本気でそう思っているの?」
「まさかそんなことは思っていないよ!」と、雪衣は心外そうに応じた。「月は内宮の陰湿さを知らないね? 橘庭の警備を心底信じていなけりゃ、十年間枕を高くして安心してご飯なんか食べていられないよ!」
「そうそう。嫌がらせ激しんですから」と、茜雪が口を挟み、もののついでとばかりに迦葉を睨みつける。
本物の十五の娘に睨まれて、小娘もどきはたじろいだ。
「へ、へえ。じゃ、何? 辻芝居? で有名な謎解き名人判官様は、毒物は鳥兜じゃなかったって言いたいの? 薬師の見立てよりご自身の素人判断が正しいと?」
「いいや、そんなことは思っていないよ」と、雪衣が静かな怒りを押し殺した声で応じる。
「ただ、小蓮にこのメゾンでの事件のあらましを聞いて、犯人は後宮内部の者だろうと予想した時点で、かなり珍しい毒なんだろうとは思っていたね。だから、鳥兜と聞いて愕いたんだ」
「じゃ、他に何だと思ったのさ?」
「知らないよ。私は薬師じゃないもの。でも、柘榴庭の話では、鳥兜だと断定したのは杏樹庭一人で、他の二人は何だか分からなかったのでしょう?」
「そうだよ。分からなかったんだ。全く何にもね!」
迦葉が勝ち誇ったように言い、うなだれる牢医師を一瞥して嗤った。
雪衣がそちらへ目を向ける。
「そのほうは、左京兆府の牢医師か?」
「は、はい、いかにも。判官様」
「そう畏まるな。名は?」
「黄と申します」
「そうか。老黄、何歳から今の仕事を?」
「――十四から見習いを始めて、今年でちょうど五十年になりまする」
「五十年か! 長いな。そのあいだ、鳥兜で死んだ躯は見たか?」
「数例は見ました」
「実例を見ているのだな。そのそなたが、このたびの躯は鳥兜ではないと思ったと」
「――はい判官様。わたくしはそのように」
「そうか」
雪衣は短く答えると、今度は意外にも迦葉に命じた。
「杏樹庭、鳥兜の効用を説明してくれ」